噴火まで十七年、ポンペイの水道技師に転生しました ~街は救えないので、逃げ道と習慣を作ります~ 作:ramunade
七八年の年明け、ミセヌムから、艦隊の早船が川港に着いた。
軍の早船が川港まで上がってくることなど、めったにない。荷役の男たちが手を止めて見守るなか、降りてきたのは、供を二人連れただけの、
「旱魃の年に水争いのなかった街、というのを見に来た。十六年分の水の帳面がある、と聞いてな。……見せてくれるかね?」
俺は、工房の卓に、水帳の綴りを積んだ。
提督は、半日、そこから動かなかった。頁を繰る手は速く、問いは矢のように飛んでくる。平年幅とは何か。なぜ井戸ごとに幅が違うのか。揺れの刻みはなぜ五つひと組か。二月の濁りはなぜ癖と言い切れるのか。答えるそばから次が来る。役人の検分とは、まるで別物だった。この男は、面白がっている。心の底から、水の帳面を面白がっている。
「羊の谷の頁が、いい」と、提督は古い頁を太い指で叩く。「低きに溜まる悪い息、か。わしも諸国の報せで似た話を集めておるが、柵と掟の作り方まで書き残した例は、初めて見る。誰の指図だね?」
「……先代からの、申し送りです」
「謙遜まで記録の癖か。まあ、いい」
「実に、いい」幾度目かに、提督は膝を打った。「役人は水を配る。学者は水を論じる。だが君は、水を聞いておる。十六年、毎日だ。……のう、水道屋。君は山を測っているのか?」
息が、止まりかける。
半日の問答で、この人は、帳面の背骨に手を掛けたのだ。山手の癖。山の泉の頁。羊の谷の古い書き付け。散らばった粒を、頭の中で線に結んだのだろう。炉の火が、ぱち、と爆ぜた。
「……いえ」俺は、静かに答える。「水を測っています。水は、山の腹から来ますので」
「ふむ。水は山の腹から来る、か」提督は、その言葉を舌の上で転がして、満足げにうなずいた。「よい言い方だ。書き留めておこう」
書き留めておこう。その一言が、俺の喉元で、あの続きを押し戻した。この人なら、分かる。この人にだけは、全部話してしまいたい――そう思いかけた分だけ、危うい。学者は、書き残す。書き残されれば、俺の言葉は、俺の手を離れて歩き出す。予言者の札を貼られた水道屋に、この街の弁は、二度と触らせてもらえまい。
言う代わりに、俺は年次写しの写しを一部、包んで差し出した。
「十六年分です。船の暇つぶしには、なるかと」
「暇つぶしどころか」提督は包みを、宝物のように抱える。「ミセヌムの書庫で、良い棚に置く。続きも、いつか読ませてくれ」
帰り際、山腹の畑の葡萄酒を、一杯だけ、うまそうに飲んでいった。山の腹の酒か、良い土だ、と目を細めて。……良い土です、と俺は答える。それ以上は、言わなかった。
早船が川を下っていくのを、俺は港で見送る。冬の川面は、光が硬い。
その夜のことである。
工房の戸が、乱暴に叩かれた。開けると、ケレルが立っている。松明の明かりの下で、その顔は、紙のように白かった。
「親方、旗、二本目です。……声が硬くてすみません。書いてる手が、勝手に硬くなるんです」
「どの目だ?」
「井戸の水位。山手の一番が――下がりました。この冬の高さから、指四本。十六年の帳面に、一度もない下がり方です」
工房に引き入れ、蝋板を検め、綴りを繰る。ケレルの言うとおりだった。十六年分の線が、揃って納まってきた幅を、山手の一番だけが、すとんと突き抜けている。書き間違いではない。三日分、測り直してある。この弟子は、そういう男だ。
俺はMONSの綴りの見返しに、二つ目の旗を刻んだ。日付。観測。措置――山手の三本を、今日から毎日見る。
鉄筆を置いて、俺は、しばらく動けなかった。
指を折ろうとして、途中でやめる。二年、と折るつもりだった指が、折れない。俺の覚えている日付まで、もう、二年もないのだ。年で数える段は、終わった。これからは、旗で数える。
窓の外、北西の闇に、山はいつもの形で横たわっている。星の抜けた、黒い、静かな塊。十六年、変わらなかった形だ。
――だが、水は、もう変わり始めている。
俺は帳面を閉じ、明日の見回りの支度を始める。旗は、まだ二本。三本立つまでは、いつもの夜だ。いつもの夜を、いつもの顔で締めくくる。……支度の手が、少しだけ、硬い。ケレルのことは、言えない。