噴火まで十七年、ポンペイの水道技師に転生しました ~街は救えないので、逃げ道と習慣を作ります~ 作:ramunade
七八年の夏は、暑さより先に、足の裏が覚えている。
揺れるのだ。がたりと来る大揺れではない。器の水に輪が立つほどの細かいのが、夜昼かまわず、こつ、こつ、と床下から来る。この街の連中は揺れに慣れている。六二年をくぐった年寄りほど、この程度、と笑って動じない。慣れは、頼もしくて――良くない。
月の終わり、工房の卓で、ケレルと蝋板を突き合わせた。
揺れの刻みは、五つひと組。その組が月の頁を埋め、余白へはみ出している。数えるまでもない。それでも二人で三度数え直して、俺は水帳の欄に数字を写す。平年の幅の、三倍である。
「揺れの目、幅の外です。……これは、戻りません」
「ああ。旗、三本目だ」
MONSの綴りの見返しに、三つ目の旗を刻んだ。決め事のとおり、措置を添える。観測を、全部の目で、毎日に。井戸八本、色、匂い、山の泉、獣、管の傷。今日から毎日、全部を見る。
「毎日、ですね。……かえって、気が楽です」と、ケレルは言う。「三日おきの晩は、井戸の夢を見るんです。毎日なら、夢に見る前に、本物を見られます」
「おまえの夢の井戸は、濁ってるのか?」
「……だいたい、濁ってます」
「本物は、まだ澄んでる。夢より本物を信じろ」
冬が過ぎ、七九年の春が来る。
春の異変は、耳から来た。犬である。夜歩きのたび、路地の犬が、月もない空へ向かって遠吠えをする。一匹ではない。あちらで一匹が始めると、川向こうまで順に繋がっていく。それから、鼠だ。夜明け前の川端で、俺は見てしまった。石垣の際を、鼠の群れが列をなして川下へ下っていく。急がず、迷わず、引っ越しの荷車みたいに、粛々とである。
獣の目、幅の外――旗、四本目。
四本目に、決めてある措置はない。三本で毎日。五本で道駅の総点検。六本で、街を軽くする。四本は、決め事の白い場所だ。
だからここから先は、決め事の外を、俺の銭で歩くことにした。
水袋。替えの履物。松明。油。革紐。買う店を替え、日を替え、少しずつ買っては道駅の蔵へ運び込む。一度に買えば、目立つ。目立てば、問われる。問われれば、俺は嘘が下手だ。夜の街道を荷を負って歩きながら、自分に言い聞かせる。外れてもいい。外れれば、祭りの市で売れる品ばかりだ。……そう思わないと、銭の減りの速さに、手が止まりそうになる。
市場では、帝が代わったらしい、と噂がひとつ流れていった。新しい帝は気前がいいそうだ、と誰かが言い、話はすぐ粉の値に戻る。都は遠い。この街の暮らしは、今日も水と粉で回っている。
その夜である。
夕餉が済み、娘が寝て、俺が工房へ立とうとしたとき――サルウィアが竈の脇から銭函を提げてきて、卓の上に、ことりと置いた。パン屋の銭函だ。留め金に、粉が白く残っている。
「足りるのかい、それで?」
「……何の話です?」
「工房の蓄えが、春から目減りしてる。あんたは道楽をしない。酒は山の一杯きり。なら、何か買い込んでるんだ。……あたしに言えない何かをさ」
この女の勘定の速さを、十六年も見てきて、隠れられると思っていた俺が愚かである。そして――言う、と決めていた夜が、向こうから来たのだとも思う。いつか、必ず、あなたには全部。八年前の約束の、いつかは、たぶん今夜だ。
「サルウィア。長い話に、なります」
「パン種なら、もう寝かせたよ」
妻は椅子を引き、竈の残り火に薪を一本足して、向かいに座る。
俺は、全部話した。
前の生の続きから。北のあの山が、火の山であること。いつか火を噴き、この街が灰と軽石の下に埋まること。逃げた者は助かり、遅れた者から死ぬこと。俺が知っているのは結末だけで、仕組みは何ひとつ知らないこと。十七年の道と祭りと水甕が、何のための道楽だったのか。ヌケリアの杯の、あの妙な一条が、何のための一条か。それから――日付。俺の覚えでは、この夏の、八月二十四日。
サルウィアは、最後までひと言も挟まなかった。
話が終わっても、すぐには口を開かない。竈の残り火を、長いこと見ている。火の粉がひとつ爆ぜて、消える。妻はやがて、息をひとつ吐いて、言う。
「……指折りは、あたしの前でおやり」
「……え?」
「十六年、隠れてやってた指折りだよ。あれを見るたび、あたしは、あんたがいつか遠くへ帰っちまう日を数えてるんじゃないかと思ってたんだ。……違うと分かって、せいせいしたよ。数えるなら、あたしの前でおやり。隠れてやられるほうが、よっぽど怖いんだ」
埋まる街のことも、日付のことも、その晩、妻は何ひとつ問い返さなかった。問い返さないことが、どれほどの力業か。竈の火に照る横顔を見ながら、俺はただ、頭を下げるしかない。
「で――そのパンの注文ってのは、うちの店じゃ焼き切れない量なんだろ?」
「ええ。桁が、違います」
「なら、その銭は道具にお使い。パン屋の女房の見立てを言やあね、水袋より先に、袋の紐の替えを買いな。紐ってのは、いちばん働く日に、いちばん先に切れるんだ」
俺は銭函を受け取る代わりに、卓の上で、指を折ってみせた。初めて、見せるために折る指である。年では、もう数えない。月を数える。七月、八月――指は、ふたつで止まってしまう。
十七から数え始めた指折りが、いまは、ふたつで終いだ。
その晩、工房の灯りの下で、俺はMONSの綴りの奥に、新しい頁をひとつ設けた。水帳の年次の頁ではない。観測も措置も書かない、俺ひとりのための頁である。窓の外から、辻の噴水の水音が、いつもの調子で聞こえている。
この国の帳面は、執政官の名で年を数える。だが、この年だけは、俺の覚えの数え方で書いておきたかった。鉄筆で、ローマの数字を静かに並べる。――LXXIX。七十九年。十七年、胸の中でだけ数えてきた年号が、ただの頁の表題になって、そこに載る。
書き終えても、手の震えは、しばらく止まらなかった。