噴火まで十七年、ポンペイの水道技師に転生しました ~街は救えないので、逃げ道と習慣を作ります~   作:ramunade

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24. 断水のお知らせ

 夜通し鳴り続けた地の底が、二十二日の明け方、ひときわ太く唸った。

 

 俺は夜明けを待たずに、分配槽へ走る。ケレルが、先に着いていた。灯りを掲げて、槽の縁から底を覗き込んでいる。振り向いた顔で、分かる。

 

「目地です。北側が――割れました」

 

 髪の毛ほどの裂なら、十七年で幾度も見ている。これは、違う。指の先が、入る。水は割れ目へ音もなく吸い込まれ、石の外の土を黒く湿らせ始めていた。六二年の春、先代の亡骸のそばで俺が継ぎ直した、あの目地である。十七年保った仕事が、昨夜来の揺れに、こじ開けられたのだ。

 

「管の傷の目、幅の外です。……親方、旗――」

 

「六本目だ」

 

 声は、思ったより平らに出た。六本。決め事の言葉が、水帳の余白から、まっすぐ俺を見上げてくる。六本は――街を、軽くする。

 

 俺はその足で、参事会の館へ向かった。

 

 朝の議場で、卓に置いたのは、割れた目地の欠片と、水帳である。

 

「分配槽の目地が割れました。放っておけば、水は街へ届く前に、土に呑まれます。補修には、水を抜くほかありません。――三日。三日の断水を、お許し願いたい」

 

 議場が、ざわりと揺れた。十七年、水を止めなかった男の口から、断水の二文字が出たのだ。誰かが、代わりの手はないのか、と言いかけ、ポピディウスが手を挙げて黙らせる。五十七になった実力者は、欠片をひとつ摘まみ上げ、割れ口を検めてから、短く言った。

 

「十七年、嘘のなかった男の三日だ。……安い賭けだよ。通す」

 

 布告の触れは、その日の夕方には、辻という辻に立った。明朝より浴場と引き込みを止める。明後日の朝には、辻の噴水も止める。三日ののち、水は戻る。――水の出ない間は、湯治と里帰りに、良い頃合いです。

 

 最後の一行は、俺が書き足した。嘘は、ひとつもない。

 

        ◇

 

 効き目は、朝から出た。二十三日、東の門から、荷車が列をなして出ていく。湯治に行くなら今だ、と浴場の常連が発ち、婆さまを預けるなら水のあるうちだ、と世話役組が路地を回る。年老いた者、病んだ者、その付き添い――およそ二千が、明るいうちに街道を東へ発っていった。荷車も、この日のうちに出尽くす。明日から先は、祭りの作法だ。東の門を、車輪は通らない。

 

 家では、ひと悶着あった。

 

 俺はユスタに、先発の荷車へ乗れ、と言ったのだ。娘は、繕い物の手を止めもしない。

 

「あたしは綱持ちです。受け持ちがあります」

 

「……ユスタ」

 

「受け持ちは、点呼が済むまで外れない。お父さんの祭りが、そう決めたんでしょ? 綱持ちが先に発ったら、あたしの綱の十人は、誰が数えるの?」

 

 ぐうの音も、出なかった。家族だから先に逃がす、をやった途端、十七年の作法は、ただの見世物になる。分かっていて言い、言って、娘に突き返される。呑み込んだ言葉は、苦くて、それでいて、どこか誇らしい味がした。サルウィアは、脇で聞きながら、素知らぬ顔で壁の袋の紐を締め直している。あとで妻が言うには――あの子はあんたに、いちばん似ちゃいけないところが似たんだそうだ。

 

       ◇

 

 その夜、俺は工房で、書き付けを前に座り込んでいる。

 

 ヌケリアへの、二度目の注文である。筆は、手の中で乾いていく。八月の三千が納屋で硬くなっていく匂いが、まだ鼻の奥にある。今度は、三千では利かない。焼けるだけ、と書くつもりでいる。組合中の竈に火が入り、蔵の粉が空く。外れれば、今度こそ、払いきれるかどうか――。

 

 背中に、足音が来た。サルウィアが、湯気の立つ椀を、書き付けの横に置く。白湯である。

 

「……旗は、いくつなんだい?」

 

「六本。……決め事なら、動く数です。動く数ですが、俺の覚えた日付は、二月も前に外れて――」

 

「あんたの水が嘘をついたことは、十七年で、一度もないだろう」

 

 妻は、俺の手から筆を取り上げ、墨を含ませて、握らせ直す。

 

「日付は、あんたの覚え違いだった。それだけの話さ。水帳は、あんたの覚えじゃない。あんたが毎日測った、ほんとうの数だ。……その数が六つ揃って動けと言ってるんなら、パン屋の女房は、竈の掃除をして待つだけだよ」

 

 夜のうちに、早馬が発つ。書き付けは、一行きりである。

 

 ――パンを。焼けるだけ、全部。

 

       ◇

 

 二十四日の、朝が来る。

 

 分配槽の底で最後の点検をしていたケレルが、階段を駆け上がってきた。手にした灯りが、揺れている。汲んできた手桶の水を、俺は朝の光に透かす。

 

 白い。乳を割ったような白さが、ゆらりと渦を巻いている。山手の井戸は、今朝、三本とも死んでいた。水の色の目――幅の外。

 

「……七本目、です」ケレルの声が、掠れる。「七つの目が、全部――」

 

「ああ。……全部だ」

 

 俺は手桶を静かに置いて、辻へ下りる。

 

 朝の辻に、人影はまばらである。触れのとおり、今日から噴水も止まる。皆、昨日のうちに甕へ汲み置いた。俺は噴水の裏の堰板に手を掛け、十七年前と逆の向きへ、ゆっくりと落としていく。吐き口の水が、細り、糸になり、朝日を絡めて一度きらりと光って――切れた。

 

 水音が、消える。

 

 十七年、この街のどこかで途切れなかった音が、俺の手の中で、消えた。

 

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