噴火まで十七年、ポンペイの水道技師に転生しました ~街は救えないので、逃げ道と習慣を作ります~ 作:ramunade
水の止まった街は、嘘のように静かだった。
噴水の音がない。浴場の呼び込みがない。荷車の軋みも、昨日で終いだ。人々は汲み置きの甕で朝を済ませ、パン屋の竈の匂いだけが、いつもどおり路地を流れていく。静かで、軽い。二千人ぶん軽くなった街は、しかし、何のための軽さかを知らない。
ケレルは、朝のうちにノケラ門へ回した。組の札の建て付けと、道駅の最後の検分である。別れぎわ、弟子は妙に改まって、頭をひとつ下げていった。掃除は、済んでます、と。……ああ。おまえの掃除した道を、今日、街が歩くかもしれない。
昼、俺は分配槽の櫓の下で、目地の補修に掛かっていた。
嘘のない断水である。割れは、本当に埋めねばならない。石灰を練る手の下で、地の底が、ずっと唸っている。唸りは、朝から少しずつ、太くなっている。
――それは、突き上げから始まった。
膝が浮くほどの、一撃である。練り桶が跳ね、櫓の柱が鳴り、路地のどこかで甕の割れる音がした。よろけた体を柱で受け止めて、俺は顔を上げる。街の屋根の向こう。北西の空へ。
……立って、いた。
山の頂から、灰色の柱が、空へ向かってまっすぐに伸びていく。太く、速く、押し上げるように昇り、天の高みで横へ広がって、笠を開いた――一本の、松の形である。
音は、あとから来る。
空が裂ける音、としか言いようがない。腹の底を遠くから殴る轟きが街をひと撫でし、犬という犬が一斉に吠え、鳩の群れが屋根から黒い布のように舞い上がる。柱の腹では、稲妻が幾筋も、縦横に走っていた。昼の日が、見る間に色を失っていく。前の世の画面越しに幾度も見た形が、いま、生身の空を塞ごうとしている。画面は、この音を伝えなかった。世界の底板が抜けるような、この音を。
見たのは、それきりだ。
俺は目を空から引き剝がし、櫓の梯子を駆け上がった。青銅盤の前。
――ごお~ん、ごお~ん、ごお~ん。
低く、長く、三度。祭りの発列の合図が、揺れる街の空へ渡っていく。ひと呼吸おいて、東の辻で角笛が三度、応えた。南で三度。川端で三度。組頭たちが、持ち場で吹いている。俺は櫓の上から、真下の辻へ向かって、腹の底から言った。
「――祭りだ。歩け」
……街は、動かなかった。
いや、手は動いている。竈に灰をかぶせる女がいて、壁の袋を釘から外す音がして、辻には組の札が立ち始めている。習慣は、体を持ち場に着かせた。だが――足が、出ない。皆、持ち場に立ったまま、空を見上げているのである。
物見の顔である。屋根に上がって煙の柱を指さす男。戸口へ腰掛けを持ち出す隠居。子を肩車して見せてやる父親までいる。どこかで、笑い声さえした。
「豪気な煙だねえ。山の火消しも、水道屋の受け持ちかい?」
「六二年の揺れのときだって、じきに収まったんだ。今度も収まるさ」
「祭りって触れだがよ。あの煙の下を、家を空けて八里も歩けってのかい?」
もっともである。山は、遠い。火の粉ひとつ、まだこの街には落ちていない。腹に響く轟きも、恐れというより、見世物の太鼓に近い。人は、遠くの山からは逃げない。逃げる理由が、目の前の暮らしより軽いうちは。列は辻ごとに固まったまま伸びず、俺の刻み棒は、まだ一本も刻めていない。
恐れで急かせば、列は割れて、門で折り重なる。物見のままでは、誰も八里を歩かない。恐れでもなく、物見でもなく、人を歩かせるもの――その答えを、俺は十七年、貯めてきたのだ。
俺は手桶を提げて、櫓を下りた。
今朝、分配槽から汲んで、捨てずに取っておいた水である。辻の石段に立ち、桶を高く掲げ――ゆっくりと、傾ける。白い水が、とろりと石畳に落ちた。乳を割ったような白さは、黄ばみ始めた昼の光の中でも、はっきりと見える。ざわめきが、水の落ちる音に吸われて、静まっていく。
「――今朝の、分配槽の水です」
声は、張らない。張らないほうが、通る声もある。
「分配槽も、山手の井戸も、今朝からこの色です。……当分、この街の水は、飲めません」
「三日で戻るって触れだったろう、水道屋?」
「戻るはずの水が、やられました。……三日では、済みません」
ここまでは、ほんとうのことしか言っていない。乳色は今朝の実物で、この水を人に飲ませられないのも、ほんとうである。息を、ひとつ。ここから先が、十七年目の、俺の仕事だ。
「山の毒が、水に入ったんです。……ですから――しばらく、ヌケリアへ行っていてください。パンも水も、先方に頼んで、支度してもらってあります。焼きたてのパンと、澄んだ水が、八里の先で待っています。道は祭りの道順、作法は祭りの作法。……水が良くなったら、俺が報せます」
毒かどうかを、俺は知らない。乳色は、ほんとうの色だ。だが、確かめていないことを、俺は水について、初めて断じている。そのうえで、水が良くなったら報せる、と約束した。良くなる日も、報せる日も、来ないと知りながら、である。毒の断定と、帰れるという含み――二つでひとつの、俺の嘘だ。
水は、嘘をつきません――十七年、そう言い続けてきた。水は、今日も嘘をついていない。この乳色は、水の正直である。……嘘をついたのは、水道屋のほうだ。
効き目は、目に見えた。
山の煙は遠いが、水甕の底は近い。今晩の水、明日の水の目減りなら、どの女房の頭にも入っている。物見の顔が、みるみる算段の顔に変わっていく。折から風向きがひと巡りして、あの匂いが街に降りた。卵の腐ったような、あの匂いである。二年前に娘の鼻が旗を立てた匂いを、いまは街じゅうの鼻が嗅いでいる。毒、という俺のひと言に、皆の鼻が、勝手に肯いてしまうのだ。
「パンてのは、ほんとに向こうにあるんだろうね?」
「あります。昨夜のうちに、早馬で頼みました。いまごろヌケリアの粉組合が、竈という竈で焼いています」
これは、嘘ではない。パンと水の支度は、全部ほんとうにしてある。そのために、十七年掛けたのだ。
組頭たちが、いっせいに散っていく。山の灰で水がやられた、当分飲めねえ、ヌケリアにパンと水の支度がある、祭りの道で行くぞ――俺の言葉が、呼ばわりの声に乗って、路地から路地へ渡っていく。十七年掛けて張り巡らせた声の網が、最初で最後の嘘を、街の隅々へ運んでいく。
街が、動き出した。
女たちが竈に灰をかぶせ、火を落とす。釘から壁の袋を外し、肩に掛ける。路地の辻ごとに子供綱が張られ、木札の点呼が、かちり、かちりと鳴っていく。誰も、走らない。走らない稽古を、十六年してきた。恐れではなく、水の算段で立った足は、走らないのである。十六年、祭りがこの街に仕込んできた、たったひとつの財産だ。
泣き出した子の手を、綱の隣の子が引く。振り返りかけた女房の背を、組頭の女房が押す。恐れは、あちこちで顔を出す。顔を出すたび、隣の手が、それを列へ戻していく。
サルノ門の内側が、俺の持ち場だ。
数えは、刻み棒である。十人が門を抜けるたび、木の棒へ、小刀でひと刻み。第一の列が来る。先発の荷車に乗り切らなかった年寄り、まだ足の利く病人、身重、その付き添い。組の順は、祭りと同じ。列の中から、腰の曲がった婆さんがひとり、俺を見上げて、皺だらけの手を振った。六二年の春、いちばん最初に俺の名を呼んでくれた、あの婆さんである。昨日、世話役が荷車を勧めたら、歩けるうちは歩くね、と突っ撥ねたのだと聞いた。
「祭りにしちゃあ、賑やかすぎるねえ、水道屋さん」
「ええ。……いちばん遠くまで歩く、いちばん上等の祭りです」
あの春より皺の増えた分だけ、毎朝、辻の水を汲み続けてきた手である。その手が、いま、杖を握って歩いている。俺の十七年は、この手に水を運ぶための十七年で、この足を歩かせるための十七年だ。
中列が続く。サルウィアが、炊き出しの組を率いて通っていく。鍋と杓子と粉袋を担いだ女たちの先頭で、妻は、俺の前で一度だけ立ち止まった。
「先に行って、湯を沸かしとくよ。……あんたの分の椀も、出しとくからね」
「頼みます」
それだけである。十六年の夫婦の、それだけだ。妻の背中が門をくぐり、振り返らないまま遠ざかっていく。
子供綱の列が来た。ユスタは綱の真ん中で、十人の子供の手を確かめながら歩いている。綱の端で、いちばん小さいのがべそをかき、娘が腰をかがめて何か言うと、べそのまま、それでも小さな足が前へ出た。飴で釣ったな、と親には分かる。ユスタは、俺を見ない。子供らだけを見ている。それでいい。それが、綱持ちだ。すれ違いざま、娘の唇が動いた気がした。なんと言ったのかは、風と地鳴りにさらわれて、届かない。
届かないまま、俺は次の十人を刻む。
白いものが、頬を掠めた。
軽石である。豆粒ほどの白く軽い石が、ぱら、ぱらと屋根を叩き、乾いた噴水の鉢で小さく跳ねる。見上げれば、煙の柱はもう空の半分を食い、昼の光は、煮詰めた蜂蜜の色に淀んでいる。降ってきた石が、俺の嘘を、ほんとうの側から追い掛けてくる。歩き出していてよかった、と誰もが思う速さで、空は暗くなっていく。それでも列は、乱れない。パンがひと窯焼けるほどの間に、組の辻という辻から、全部の組が歩き出していた。門は、まだ長く人を吐き続ける。刻みは、増え続ける。数だけが、俺の受け持ちだ。
ふいに、列の脇で、若い組頭が棒立ちになった。
角笛を握ったまま、顎が上がり、目が空の柱に吸われて、足が止まっている。柱の腹を、稲妻がまた一本、縦に裂いた。組頭が止まれば、組が止まる。組が止まれば、後ろの千人が止まる。
俺は歩み寄り、その襟を掴んで、前を向かせた。
「空は見るな。前の背中を見ろ。……数えるのは、俺だ」