噴火まで十七年、ポンペイの水道技師に転生しました ~街は救えないので、逃げ道と習慣を作ります~   作:ramunade

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26. 灰の道

 昼下がりの空が、日暮れの色を通り越して、夜の色になっていく。

 

 軽石は、絶え間なく降り続いている。豆粒が親指の先ほどに育ち、屋根瓦を叩く音は、豆を煎る音から、槌で屋根を試す音に変わった。時折、瓦の割れる高い音が交ざる。人々は頭に板や籠をかぶり、道の左側を、列を保って歩いていく。誰かが咳をする。誰かが子の名を呼ぶ。それでも、列は列のままだ。走らない稽古を積んだ足は、こんな空の下でも、歩幅を守る。

 

 昼のうちから、松明が要った。

 

 太陽は、灰の幕の奥で血の色の小さな円になり、やがて、それも見えなくなる。真昼の闇である。闇の底で、山だけが、時折赤く明滅する。組頭たちの松明が列の背骨のように点々と灯り、火の輪の中でだけ、人の顔が生きている。

 

 ノケラ門から、使い走りの子が駆けてきた。ケレルの刻みの写しである。埃と灰で真っ白の顔に、目だけが黒い。俺は子に水甕の水を飲ませ、ひと息つかせてから、写しを受け取った。俺の棒と合わせると、二つの門を出た数は、もう万を越えている。街の半分が、この短い午後の間に、道の上の人になった勘定だ。

 

 ……勘定の続きは、あとだ。いまは、出し切る。

 

 組頭たちが、空き家になった戸を叩いて回っている。誰かいるか。いたら出ろ。水は、もうこの街にはないぞ。……声はもう、祭りの体裁を捨てている。それでいい。歩き出すまでが祭りで、歩き出してからは、命の勘定である。

 

 悲鳴は、市場の跡から上がった。

 

 空き店の(ひさし)が、積もった軽石の目方に負けて、落ちたのである。廂の下は、雨宿りに似た石宿りに見えたのだろう。出そびれた年寄りがひとり、下敷きになっていた。俺が駆けつけたときには、ニゲルの荷担ぎ組が、もう梁に肩を入れている。

 

「せえの――上げろ!」

 

 梁が浮き、戸板が差し込まれ、白い粉まみれの年寄りが引き出される。腕が、妙な向きに曲がっていた。それでも、生きている。ニゲルが年寄りを戸板ごと担ぎ上げ、がはは、と笑ってみせた。

 

「爺さん、運がいいぜ。今日はちょうど、担ぎ手が街じゅうにいる」

 

「屋根の下で、休ませるな」と、俺は組頭たちに言う。「石は、屋根に積もる。休むなら、道の真ん中だ」

 

 石の目方で家が潰れる――今朝までこの街の誰も、思いもしなかったことだ。俺とて、覚えていたから知っているだけである。屋根という屋根が太鼓のように鳴り続け、その音の間に、めり、と嫌な軋みが交ざり始めている。街が、目方で殺されていく音である。

 

 一里塚の方角では、水甕が働いているはずである。歩きながら柄杓で口を漱ぎ、水袋を注ぎ足し、また歩く。灰は、喉に来る。喉が渇けば、足が止まる。足を止めないための水甕を、俺は十六年、祭りの顔をして道端に据え続けてきた。据えた俺が言うのも妙だが――役に立つ日など、来なければよかったのだ。昼のうちに、触れもひとつ回してある。水甕に、酢をひと垂らし。灰の水は口が渋る。酢が入るだけで、ずいぶん飲めるようになるのだ。兵隊の知恵だそうで、教えてくれたのは古株の組頭である。

 

 列の中から、女房がひとり、俺の袖を引いた。

 

「水道屋さん。……毒は、いつ抜けるんだい? うちの人が、商売道具を店に残してきたって、そればっかりで」

 

「抜けたら、俺がいちばんに、報せに走ります。……いまは道具より、手です。手さえ向こうに着けば、道具は、あとからどうとでもなります」

 

 同じ嘘の、二度目である。一度目より、するりと出た。するりと出たことを、舌の根が、冷たく覚えている。……この勘定も、あとだ。いまは、歩かせる。

 

 門前で、揉め事がひとつ。

 

 富商の荷車である。絹だの銀器だの、蔵ひとつ分を山と積んで、歩きのみの門へ割り込もうとして、組頭たちと睨み合っていた。俺は間へ入る。

 

「車輪は、通せません。決まりです」

 

「わたしの荷が、いくらすると思っている?」

 

「存じません。ですが――荷は、明日も買えます。明日が、あるならば」

 

 富商は俺を睨み、空を見上げ、降ってくる白い石に頬を打たれて、それから何かを呑み込んだ顔になった。荷車を捨て、袋ひとつを掴んで、列に入る。あとには絹の山が、白い石をかぶって残された。組頭たちが目配せで笑い、すぐ真顔に戻って散る。笑いは、恐れの薬である。効いているうちに、列を進める。

 

「舟だ! 舟なら一息だ!」

 

 川のほうへ走る男の袖を、俺は掴む。

 

「浜で待つのは、船じゃありません」

 

 海は、軽石で塞がる。浮いた石が筏のように固まって、櫂も立たない。……と、俺が言うより先に、通りかかったニゲルが、がはがはと笑った。老いた婆をひとり、軽々と背負っている。

 

「川屋が言うんだ、間違いねえ。今日、水に浮かんでいいのは、軽石だけよ」

 

 男は、ニゲルの背の婆と、俺の顔とを見比べて、列に戻った。艀の親方は今日、舟を岸に縛り上げて、荷担ぎ組の頭に納まっている。動けない者を、背負う側である。動けない母を置けない、と泣いていた息子のところへも、この男が戸板と四人の肩を連れて回ってくれた。

 

 残る者も、いる。

 

 イシスの神殿の前で、あの若神官が――もう若くもない神官が、静かに首を横に振った。

 

「神々の家より安全な場所が、どこにあります」

 

 俺は、二度は勧めなかった。彼の持ち場は、彼が決める。それは、俺が十七年やってきたことと、同じ形をしている。形が同じで、向きが逆なだけだ。俺は担いでいた水袋をひとつ、神殿の階に置いた。神々の分と、あなたの分です、と言い添えて。灰の降りしきる階の上で、目礼を返す立ち姿だけが、妙にまっすぐである。俺は深く頭を下げて、歩き出す。水道屋にできる別れの挨拶は、それしかない。

 

 左官の親方の戸口にも、同じように、水袋と松明を置いていく。山は収まる、六二年もそうだった、と笑った声が、閉じた戸の奥で聞こえなくなるまで、少しだけ立っていた。

 

 軽石は、積もり続ける。甕をかぶった子供が足を取られて転び、泣きもせずに起き上がって、また歩く。強い子である。……強くさせてしまった街だ、とも思う。

 

 道の白さが増すたび、俺は自分の足元を見る。決めてあったのだ。……この石が(くるぶし)を越えたら、打ち切る。列を締め、残りは拾い歩きに切り替える。決めたのは俺で、守るのも俺だ。刻限に情けを混ぜれば、最終列ごと、夜の軽石に沈む。

 

 灰の闇の上へ、本物の夜が、重なってくる。

 

 俺は屈んで、道の石に指を沈めた。指の腹が、道の敷石に届かない。立ち上がって、足首を見る。白い石が、踝を、越えていた。

 

「もう、ですかい」と、組頭のひとりが俺の足元を見て、息を呑む。

 

「決めた高さです。……高さが決めるから、俺の情けが、口を挟めないんです」

 

 触れ役を二人、最後にもう一周。声の届く戸は、全部叩かせる。それが済むのを門柱の下で待って、刻み棒を革袋に落とし、袋の口を縛った。息を、ひとつ。門を、見上げる。

 

「――最終列。出します」

 

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