噴火まで十七年、ポンペイの水道技師に転生しました ~街は救えないので、逃げ道と習慣を作ります~ 作:ramunade
最終列は、行列というより、拾い歩きである。
組の点呼から漏れた者、出そびれた者、いまさら戸口から転がり出てきた者。それを荷担ぎ組が拾い、背負い、戸板に載せて、門を出る。俺は最後尾に付いた。背には、隣家の婆がいる。膝の悪い、口の減らない婆である。
「あんたの背中も、ずいぶん、骨ばったねえ」
「……十七年前は、もう少し、肉がありました」
「亭主の墓を、置いてきちまったよ」
「墓石は、燃えません。灰の下で、待っていてくれます」
「……そうかい。なら、いいんだ」
背中の婆は、羽のように軽い。軽いことが、こんなに応えるとは思わなかった。人ひとりの一生分の目方が、この軽さであるはずが、ないのだ。
門を出て一里が、いちばん深い闇だった。
松明の火が、十歩先を照らさない。灰が火を食うのか、炎は痩せて、赤いだけの点になる。降る石はもう親指の太さで、時折、拳ほどのやつが交ざった。戸板に当たれば、ばん、と太鼓の音がする。荷担ぎの若い衆がひとり、肩に石を食らってよろけ、担いだ戸板を、隣の男が黙って支えた。担ぎ替えて、また歩く。誰も、石に文句を言わない。文句の届く相手が、あの空には、いないからだ。
軽石を踏む足の下で、じゃり、じゃり、と白い音が続く。地面は、絶え間なく震えている。背中では、街の壊れていく音がした。屋根の落ちる、めり、どう、という重い音は、初めのうちこそひとつずつ数えられ、やがて、数える間もなく重なっていく。一度ごとに、婆の手が、俺の肩の上で小さく縮む。
振り返れば、灰の幕の奥で、山の根だけが赤い。赤い柱の腹を、稲妻が上へ下へと這い回っている。世の終わり、という言葉が喉まで来て、俺はそれを、飲み下す。俺が数えていいのは、世の終わりではなく、あと七里、という道のりだけだ。
――前を見る。前だけを、見る。
一里塚の水甕に、火が入っていた。
松明壺の油に、先の組が火を移していってくれたのだ。里程標の白い石が炎の色に浮かび、その下で水甕が蓋を開けて待っている。婆に水を含ませ、俺もひと口含む。ぬるい、灰の匂いのする水である。うまい。生きて飲む水は、どれも、うまい。
列の中ほどで、子供がひとつ、泣きぐずり始めた。抱いた母親の足も、限界が近い。荷担ぎ組が戸板を寄せ、母子ごと載せて、縄を掛ける。飴だ、と誰かが言い、袂から出た飴玉が子の口に入って、泣き声が、ふつりと止んだ。サルウィアの店の飴である。祭りのたびに配ってきた、あの飴だ。こんな夜にまで効くとは、女房どのの仕込みは大したものである。
合流の塚で、ノケラ門の最終列が接いできた。先頭に、ケレルがいる。すすで汚れた顔の中で、目だけが、まっすぐである。
「ノケラ門、締めました。刻み、預かってます」
「よし。……おまえが後ろを見ろ。俺が前を見る」
二里塚の手前で、背中から来た熱い風が、列の松明をいっせいに煽った。振り向いた誰かが、短く悲鳴を上げる。街の方角の空が、割れた竈の中を覗いたときの色をしていた。あれは、と婆が背中で呟いたきり、黙る。……見るな、とは言わない。言う代わりに、俺は半歩、足を速める。最後尾の言葉は、背中の速さだけである。
二里塚を過ぎると、軽石が薄くなる。背中で婆が、囁いた。あんた、道がまっすぐだねえ。……ええ。十四年前に、敷き直しましたから。誰にともなく答えて、俺は敷石を踏みしめる。
三里塚で、降るものが灰だけになった。四里塚で、空に星が戻る。中日の泉に火が入り、水甕が待ち、子供綱が結い直される。婆が背中で、ほう、と息をつく。星なんぞ、見飽きるほど見てきたのにねえ、と笑う。……ええ。今夜のは、格別です。
五里塚、六里塚。里程標ごとに世話役の呼ばわりが立つ。あと二里。水あります、火あります。……十七年前、俺ひとりの頭の中にしかなかった夜道が、いま、人の声で出来ている。松明壺の火が、十七年の仕込みの順に、夜道を数珠つなぎに繋いでいく。俺は歩きながら、後ろに続く火を数えた。ひとつも、消えていない。誰も、離れていない。先の見えない夜道で、これほど頼もしい火を、俺は他に知らない。
七里塚の先に、灯りの帯が見えた。
ヌケリアの門である。門柱に松明が並び、その下に、人影がひとつ、腕を組んで立っている。仏頂面が、火に照らされて、揺れている。
「二度目の注文を、待ってた」ムナティウスは、列を順に門へ通しながら、俺の前でだけ足を止める。「……一度目を律儀に払う男の、二度目だ。焼かない理由が、ねえ」
「……三日で、とは言いましたが」
「うるせえ。全部の竈に、火が入ってる。行って、食え」
広場に入ると、湯気の匂いがする。
竈という竈にパンの列が並び、井戸端で女たちが桶を回し、祭りの市で毎年使ってきた広場が、今夜は二万人の受け皿になろうとしている。竈のひとつでは、あの片目の弟が、袖をまくって火の番をしている。竈の火の色の中に、俺は妻の顔を見つけた。中列の炊き出し頭は、腕まくりのまま、こちらに気づいて、片手を上げる。椀を持った手である。……約束どおり、俺の分の椀が、出ていた。粥は熱く、塩が利いて、灰の味のした喉に、染みるほどうまい。
ユスタは、広場の隅にいる。
綱の子らをひとりずつ、迎えの親の手へ渡している。名を呼び、木札を検め、手から手へ。最後のひとりを渡し終えて、娘は木札の束を胸に抱え、それから、こちらを見つける。見つけて――それで初めて、顔が、崩れた。
声は、上げない。唇を結んで、目だけがみるみる溢れて、綱を握り通した手の形のまま、拳が震えている。俺は歩み寄って、何も言わずに、その頭に手を置いた。受け持ちを果たし切ってから、泣く。……誰に似たのだか、考えるまでもない。
門柱まで戻って、俺は石に手をついた。
膝が、笑っている。八里を歩き切った四十七の膝が、いまごろになって、がくがくと笑っている。笑わせておく。今夜だけは、笑わせておく。
振り返れば――街の方角の空が、赤い。