噴火まで十七年、ポンペイの水道技師に転生しました ~街は救えないので、逃げ道と習慣を作ります~   作:ramunade

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28. 朝の黒い雲

 夜明け前、山の崩れる音がした。

 

 音、と呼んでいいのか、分からない。地の底と空の両方から来る、長い、重い、轟きである。広場で眠っていた者が起き、子が泣き、犬が吠えた。俺は妻と娘を連れて、街道の見える丘へ登る。ヌケリアの人々も、ポンペイの人々も、同じ丘に、黙って集まってくる。ケレルが、革袋を抱えて隣に立った。夜通し、これを枕にして眠らなかった顔である。

 

 北西の空が、白み始めている。

 

 夜通し空を焦がしていた火の柱が、白む空の中で、ふいに、頼りなく揺らいだ。

 

 ……そして、崩れる。

 

 頂に噴き出していた灰色の柱が、自分の重さに耐えかねたように、根元から折れて、山肌へ崩れ落ちたのである。崩れたものは、消えない。黒いものになって、坂を、流れ下る。

 

 雲、としか言いようがない。だが、雲は坂を下らない。それは黒く、腹の底だけが赤く照り、馬より速く、鳥より速く、裾野を駆け下りていく。行く手の並木が、触れられるより先に、松明のように燃え立った。燃えた、と見えたときには、もう呑まれている。白い館がひとつ、ふっと掻き消える。街道の並木が消える。俺たちの街のあった場所が――呑まれた。

 

「あぁぁぁ」「ひぃぃぃ」「がぁぁぁ!」

 

 集まった群衆に悲痛な叫びが走った。自分たちの街、人生をかけ、積み上げてきた物が一瞬にして吞まれたのだ――――。

 

 火砕流はなお走り、街道の二里塚のあたりを舐め、海へと抜けて行った。

 

 海では白い湯気の壁を、天へ噴き上げていく。

 

 皆、押し黙ったまま、ただその惨状を眺めるしかなかった。

 

 やがて、熱い風が、この丘まで来る。灰と、焦げた匂いと、名の付けようのない匂いを孕んだ、生温かい風である。丘のあちこちで悲鳴が上がり、誰かが膝から崩れ、誰かが神々の名を呼び、母親が子の頭を胸に抱え込む。音は、遅れて届いた。腹に響く、太い、一度きりの音である。それきり、世界が、静かになる。

 

 降るものが、灰だけになった。

 

 灰は、雪のように、音もなく落ちてくる。丘の上に立ち尽くす幾千の頭に、肩に、睫毛(まつげ)に、白いものが積もっていく。誰も、払わない。払う手が、動かないのである。

 

 目をこらしても、あの櫓は、もう見えない。分配槽も、浴場の湯気も、辻の並びも、灰色のひと色の下である。十七年、直し続けた目地のことを、ふと思う。あの割れを、俺はとうとう、埋め終えていない。埋め終えないまま、街ごと、灰が埋めていった。

 

 やがて、丘のあちこちで、ヌケリアの誰かが、ポンペイの誰かの肩に、黙って手を置いていった。置かれた男が、声を殺して泣く。同じ形の影が、明けていく空の下に、いくつも生まれていく。

 

 列の後ろのほうから、男がひとり、灰を蹴って俺の前へ来た。昨日、列の中で女房が毒のことを訊いた、あの男である。店に、商売道具を残してきた男だ。

 

「水道屋。……毒が抜けたら、報せてくれるんだよな? 帰れるんだよな? あんた、そう言ったよな?」

 

 男の目は、俺ではなく、灰色のひと色になった街の跡を見ている。見ながら、まだ、言葉のほうを信じようとしている。俺は、目を逸らさない。逸らさないことしか、できない。

 

「……ええ。……言いました」

 

 それだけを、言う。男の手が俺の袖を掴み、掴んだまま、ゆっくりと力を失っていく。抜けた手を、女房が両手で包んで、胸に抱えた。誰も、俺を責めない。……責めてくれたほうが、いくらか楽だったろう。

 

 触れに、嘘はなかった。湯治と里帰りの触れで、二千が先に発っている。嘘は、最後の朝の口上の、あの方便ひとつである。毒だと断じ、良くなったら報せると約束した――帰れる、という含みごと。……あの嘘がなければ、この丘に立つ頭は、いまよりずっと少ない。あの嘘を、俺は生涯、恥じない。恥じない、と決めることまでが、あの口上の代金である。それでも――袖に残った手の重さだけは、生涯、消えないのだろう。

 

 ユスタが、反対の袖を、そっと握った。握った手に、俺は自分の手を重ねる。それだけだ。それしか、してやれることがない。あの黒い雲の下に何があったか、娘はまだ、数字で知らない。俺は、知っている。知っていて、十七年、口を閉じてきた。閉じてきた口が、いま、何の役にも立たない。

 

 サルウィアは、少し離れて、両腕を組んで立っている。泣かない。竈の前では泣かない女の、あの顔である。あとで、ひとりのときに泣くのだろう。そういうことも、十七年で、俺は知っている。

 

 長い長い沈黙の中で、俺は革袋を開け、刻み棒を数え始めた。指が動いている間だけ、俺は俺でいられる気がしたからだ。ケレルが黙ってノケラ門の棒を差し出し、隣で名簿を繰る。十人で、ひと刻み。二本の棒と、先発の名簿と、世話役組の覚えと。数え、突き合わせ、また数える。

 

 門を出た者、一万七千三百と、いくらか。先発、およそ二千。

 

 ……残った者、およそ七百。

 

 七百の中に、俺は幾つもの顔を知っている。神々の家に残った神官。山は収まると笑った左官の親方。夜のうちに戻る、と言って戻らなかった誰か。名を知らない、もっと多くの誰か。俺は胸の中で、知っている名を、ひとつずつ読み上げた。墓碑は、当分、建たない。だから、せめて名だけでも、誰かが数えておかねばならない。数字は、嘘をつかない。だから数字は、時々、こんなにも重い。

 

 先発の二千の中には、湯治だ里帰りだと、浮かれ声で発った連中がいる。最後の昼に歩いた一万七千は、パンと水の算段で歩いた。恐れで走った者は、ひとりもいない。走らなかったから、誰も折り重ならず、誰も踏まれなかったのだ。……それだけが、俺の勘定の、たったひとつの自慢である。

 

 ムナティウスが丘を登ってきて、俺の隣に、黙って立った。しばらくして、仏頂面のまま、ぼそりと言う。

 

「朝飯の支度があるんでな。長居はしねえ。……客人ってのはな、水道屋。居てもらって、初めて客人だ。おまえら、当分帰れそうにねえのが、せめてもよ」

 

 口の悪い男の、それが精一杯の悔やみである。

 

 サルウィアが、隣に膝をついた。

 

 俺の手から、刻み棒をそっと外す。二本を革袋へ戻し、口の革紐を、きゅ、と縛る。それから、縛った袋を、俺の膝の上へ置き直した。……勘定は、ここまで。そういう手つきである。

 

「あんたの十七年はどうだったかい?」

 

 妻は、丘の下を見たまま言う。責める声では、ない。答えを知っていて、俺の口から出させるための問いである。この女は、いつも、そうだ。

 

「歩ける者は、歩いた。歩いた者は、生きて、隣の街の水を飲んでる。……それだけです。それだけを、してきました」

 

「上等じゃないか」

 

「でも……皆は、救えなかった。こうなることを……知ってたのに……」

 

 声が、掠れる。できることはすべてやった。史実よりかなり死者も減らせたはずだ。だが――人命は数字ではない。

 

「はっ! なんだい、あんたは神にでもなったつもりなのかい?」

 

「か、神……」

 

「水道屋がこれだけ救えたんだ。上の上だろ?」

 

 妻の手が、俺の背中を、ひとつ叩いた。竈の灰を払うときの、あの叩き方である。

 

 俺はキュッと口を結び――静かにうなずいた。

 

 一生十字架として彼らの命は背負っていくのだ。それ以外ない。

 

 妻は立ち上がると衣の裾の灰をぱんぱんと払い、いつもの声で言った。

 

「さ。竈が待ってる。二万人の朝飯だよ」

 

 そのときだ。丘の下の広場から、別の声が駆け上がってきた。

 

「水道屋! 水が足りねえ! 井戸端で列が割れちまう!」

 

 湯屋の常連の声である。振り向けば、広場の井戸に人が渦を巻き、桶が宙を飛び交っている。二万の朝の、二万の喉が、いっせいに渇き始めたのだ。

 

「なんだと!?」

 

 ……膝が、立つ。

 

 立った膝に、俺は少しだけ、驚く。昨夜あれほど笑っていた膝が、水の一声で、立つのだ。ケレルがすでに駆け出している。娘が袖を離し、涙を拭って、綱の束を担ぎ直す。

 

 仕事だ。

 

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