噴火まで十七年、ポンペイの水道技師に転生しました ~街は救えないので、逃げ道と習慣を作ります~ 作:ramunade
春の初め、街の外れの牧で、羊が三百頭、ひと晩のうちに死んだ。
窪地に群れごと寝かせておいたのが、朝には一頭残らず、動かなくなっていたという。羊飼いの親子が、土気色の顔で工房へ駆け込んできて、これは神の罰だ、と繰り返す。話を聞きつけたイシスの神殿の若い神官までやって来て、供物が足りぬのだ、と重々しく言い添えた。
俺は、現場を見に行くことにする。水道屋の仕事では、ない。だが、水の匂う低い土地には、行かずにいられない性分である。四十年、そうやって、低い場所ばかりを歩いてきた男だ。溝の底、桝の底、井戸の底。水の落ちていく先には、いつも、人の見落とすものが沈んでいる。
窪地は、大きなすり鉢の底のような形をしていた。朝の光が斜めに差し込んで、
炎が、す、と細く痩せて、ふつりと消える。
「――息の、重い場所だな」
膝より低いところに、目に見えない悪い空気が、
立ち上がって、俺は窪の縁をぐるりと歩いてみた。息の重い場所は、地面の色が、わずかに違う。草の生え方も、まばらだ。水の落ちる先を四十年読んできた目には、空気の澱む窪も、涸れた桝と同じに見える。低い所に、悪いものが溜まる。それは、水も、毒の息も、変わらない。
「柵を作れ」俺は羊飼いの親子に、ゆっくりと言い聞かせた。「この窪で、寝るな。子供を、近づけるな。松明の火が消える高さより、下に入るな。それだけ守れば、羊は死なずに済む」
若い神官が、不服そうに俺を見る。では、祠はどうする、と。俺は、祠を窪の縁の、火の消えない高さへ移すよう勧めた。信心と、命の安全は、喧嘩させないほうがいい。どちらも、人には要るものだ。神官は、しばらく渋っていたものの、やがて硬い顔のまま、しぶしぶうなずいてくれる。
羊飼いの親子は、まだ半信半疑の顔をしていた。それでも、俺の言うとおりに、窪の縁へ杭を打ち始める。父親のほうが、ぽつりと言った。神の罰でなくて、地面の息だと言うのなら、その息は、いつか止むのか、と。
俺は、答えに詰まった。止むかどうかは、俺にもわからない。地面の底のことは、水道屋の手には余る。俺にわかるのは、この窪の息が、今、重いということだけだ。だが、重い場所を避ける手順なら、渡せる。俺は、杭の一本を代わりに打ちながら、こう言うにとどめた。「息の出る場所を、覚えておけばいい。覚えておけば、恐れずに済む」。父親は、腑に落ちない顔のまま、それでも、うなずいてくれた。恐れの代わりに、手順を渡す。今の俺にできるのは、それだけだ。
その足で、俺は参事会の議場へ寄る。窪地の一件を、届け出るためだ。用件を終え、石の階段を降りかけて――ふと、足が止まった。
この街の地面が、なぜ、時おり息を吐くのか。その仕組みは、水道屋の俺には、わからない。だが、この先に何が起きるのかだけは、知っている。理屈で読んだのではない。前の世の記憶が、結末だけを、俺に見せている。あの山が、いつか。
「――山が」
口が、勝手に動いていた。数人の議員が、怪訝そうに振り返る。俺は、その先の言葉を、喉の奥へぐっと押し戻す。舌の上まで来ていた「火を噴く」の四文字を、唾と一緒に、飲み下した。
「……いえ。山手の、水の話です。
言えるものか。根拠は、俺の頭の中に、映像の記憶としてしかない。山が火を噴くと叫んだ瞬間、俺はただの狂人になる。水道屋の信用は音を立てて崩れ、弁のひとつも、触らせてもらえなくなるだろう。そうなれば、この街に逃げ道を敷く手立ても、根こそぎ消える。だから、言わない。言わないことが、いちばん重い仕事になる。
街は、救えない。俺の手に届くのは、習慣だけだ。
工房へ戻り、水帳の新しい頁を起こした。表題に、鉄筆で、こう刻みつける。
――山の息。
その夜、また地面が、ことりと小さく揺れた。俺は寝床で、暗がりの
いつか、この重さが、眠る人の上に落ちる。
俺は生まれて初めて、頑丈な屋根というものを、心の底から憎いと思った。守ってくれるはずのものが、いちばん先に、牙を剥く。その日まで、俺はこの憎しみを、誰にも打ち明けられずに抱えていくことになる。