噴火まで十七年、ポンペイの水道技師に転生しました ~街は救えないので、逃げ道と習慣を作ります~   作:ramunade

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30. 山の頁

 報せの夜、俺は初めて、MONSの綴りを最初から最後まで、通しで読んだ。

 

 持ち出した壁の袋の底に、水帳と一緒に入れて歩いた綴りである。羊の谷の古い書き付け。山の泉の温み。旗の一本一本。……頁を繰りながら、俺は幾度も、あの半日の問答を思い出した。君は山を測っているのか、と訊いた人。俺の帳面の背骨に、半日で手を掛けた人。書き留めておこう、と言った人。

 

 炉の向かいに、サルウィアが座った。白湯の椀を二つ置き、それから、こともなげに言う。

 

「読み上げとくれよ。あたしにも」

 

「……字の並びだけです。面白いものじゃ、ありません」

 

「あんたが十七年つけてた帳面だ。字の並びってことが、あるもんかね」

 

 だから俺は、声に出して読んだ。羊の谷。山の息。井戸の癖。旗の一本目、娘の鼻。二本目、ケレルの掠れ声。妻は目を閉じて聞き、時折、ああ、あのときかい、と相槌を打つ。旗の五本目の頁で、その相槌が、一度だけ止まった。葡萄園の泉が死んだ日である。あんたあの晩、飯を二膳おかわりしたろ、と妻は言う。腹を決めた男の飯の量まで、この女は覚えているのだ。読み終える頃、炉の薪が一本、崩れて爆ぜた。……声に出して読むのは、供養に、少し似ている。

 

 読み終えた綴りを、妻はしばらく、膝の上で撫でていた。それから返してよこして、ひとこと。重かったろう、十七年、と。

 

 いいえ――と言いかけて、やめる。

 

 この人の前でだけは、正直でいると決めているのだ。

 

 ……ええ、重かった。もっとも、半分は、あなたが持ってくれていた気がします。

 

 ふと、提督のことが頭をよぎった。

 

 あの人は書き残す側の人で、俺は、書き残されては困る側の男である。それでも、写しを渡した。この帳面の、記録としての値打ちを、学問の言葉で分かってくれる人は、この世にあの人ひとりだったからだ。その写しは今ごろ、ミセヌムの書庫の、良い棚にあるはずである。書き残す人の棚に、俺の十七年が一部、残っている。いつか誰かがあの棚の埃を払い、頁を繰る。そのとき俺の水帳は、初めて、書き残される側に回るのだろう。……そう思うことにして、綴りを閉じた。閉じる手は、あの夜と同じに、少しだけ重かったが。

 

 冬の日々は、少しずつ、普通の顔を取り戻していく。

 

 広場の仮小屋が長屋に変わり、竈の数が増え、ポンペイの左官がヌケリアの壁を塗り、ヌケリアの大工がポンペイの寡婦の屋根を直す。市も立った。市の隅では、ポンペイ訛りとヌケリア訛りが、値切り合いながら同じ焼き栗の袋を突いている。訛りというのは喧嘩にも使えるが、笑い合うのにも使えるものである。夜には、長屋の窓にぽつぽつと灯がともる。灯の数を数える癖が、まだ抜けない。数えて、今夜も増えた、と思ってから寝る。俺は毎朝、新旧八本の井戸を見て回り、水位と匂いを書き付ける。新しい頁の観測は、まだ幅を持たない。物差しは、ここでも一年目からだ。

 

 昼の広場で、俺は妙な光景を見た。

 

 ムナティウスの弟である。片目の男が、ポンペイの子供を三人従えて、粉の袋を担がせ、担ぎ方が悪いと叱り、叱りながら、笑っている。子供らも、笑っている。……五九年の乱闘で目を失った男と、その乱闘を知らない子供らである。

 

 夕餉の席でその話をすると、サルウィアは杯を置いて、ぽつりと言った。

 

「二十年前の石は、どこへ行ったんだろうね」

 

「……石?」

 

「闘技場で、投げ合ったんだろ? 両方の街の男たちがさ。あんなに硬かった石が、いまじゃ、どこにも見当たらないじゃないか」

 

 灰の下だ、とは、言わなかった。石は灰の下、遺恨は竈の火の上で、どちらも、もう投げる者がいない。皇帝が救援の委員を寄こすらしい、という噂が市に流れて、すぐ粉の値の話に戻っていく。世の中は、遠くで動く。この街の暮らしは、今日も水と粉で回る。

 

        ◇

 

 年の暮れ、俺はポピディウスに呼ばれた。

 

 避難参事会、という長い名の寄り合いの席である。五十七の実力者は、灰をくぐっても実力者のままで、卓の向こうから、値踏みの目で俺を見た。あの春、三日だ、と言った目である。

 

「ヌケリアの参事会と、話がついた」ポピディウスは、卓に一枚の絵図を広げる。「この街の水は、井戸だけでは、もう保たん。山向こうの泉から、水道を引く。……おまえの受け持ちだ」

 

 絵図の上で、見慣れた線が、知らない街を横切っていた。水源、勾配、分配槽。俺が十七年、直し続けてきたものと、同じ形の線である。隅には、予算の書き込みまで、もう入っている。話がついた、どころではない。とうに通し終えてから、俺を呼んだのだ。この男の仕事は、いつも、そうである。

 

「言っておくが」と、実力者は指を一本立てた。「今度は、三日では済まんぞ」

 

「……ええ。何年でも」

 

 返事より先に、俺は絵図の上へ、身を乗り出している。

 

 乗り出した俺の顔を見て、ポピディウスが、初めて聞く声で、短く笑った。

 

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