噴火まで十七年、ポンペイの水道技師に転生しました ~街は救えないので、逃げ道と習慣を作ります~ 作:ramunade
浴場の再開が、いつしか街じゅうの悲願になっている。
地震から二月、応急の水は、どうにか行き渡った。それでも、湯だけが、まだ戻らない。人というのは、案外、湯で正気を保っている。前の世でも、断水の復旧に出るたび、年寄りが最初に聞くのは、決まって「風呂はいつ出る」だった。腹の心配より先に、湯の心配をする。生きる、というのは、どうやら、そういうことらしい。俺は、その順番が嫌いではなかった。
俺は浴場に籠り、突貫の修理にかかる。床下の火道に厚く詰まった
「ネアポリスより、先に開けろ」浴場主のホルコニウスが、毎日のように口を出しに来る。
「開けますとも」俺は煤で真っ黒になった顔で、応じてやる。「ただし、割れない開け方でね。旦那の見栄は、長持ちさせましょう」
ホルコニウスは、口だけの男ではなかった。翌日には、伝手をたどって左官を五人も連れてきて、薪を裏庭に山と積ませる。見栄のためなら、この男の財布の紐は、驚くほど緩む。俺は遠慮なく、その見栄に働いてもらうことにした。虚栄も、向ける先さえ間違えなければ、街に湯を戻す立派な力になる。
火入れの三日は、退屈な仕事だ。ただ、石の温もりを掌で確かめ、火加減を少しずつ上げていくだけ。だが、この退屈こそが、いちばん大事な仕事でもある。急いては、必ず、どこかが割れる。俺は夜ごと、誰もいない浴場で、じわじわと温まっていく石に手を当てて過ごした。掌に伝わる熱が、朝より夜、夜より翌朝と、少しずつ確かに増していく。誰が見ていなくても、石の温もりは、嘘をつかない。水と、同じだ。手をかけただけ、正直に応えてくれる。この静かな手応えを、俺は好いている。
四日目、ようやく、湯が張られた。
白い湯気が、もうもうと立ち昇って、高い天井の暗がりへ吸い込まれていく。温めた石と、
俺は濡れた柱にもたれて、その湯気を、ぼんやりと眺めていた。
水と、湯。たったそれだけのもので、強張っていた街の顔が、ゆっくりとほどけていく。四十年、俺が守り続けてきたのは、蛇口の、ずっと向こうにある、こういう顔だったのだ。前の世では、その顔を見る機会が、ついぞなかった。ここでは、違う。湯気の向こうの、ほどけていく顔が、俺の仕事の行き着く先をはっきりと見せてくれる。
湯縁に腰かけた古老が、俺を手招きした。この街に六十年住んでいるが、水の止まった三日ほど、生きた心地のしない日はなかった、という。それが、今日はこうして、湯に肩まで浸かれる。ありがたや、水道屋さま、と皺だらけの手を合わせてくる。俺は、きまりが悪くなって、湯口のほうへ目を逃がした。拝まれるほどの、大それた仕事ではない。ただ、水を止めなかっただけだ。それでも、止めなかったことが、こうして、人の背中を湯で緩めている。
湯守が、湯口の詰まりを気にして俺を呼びに来た。俺は袖をまくり、湯口へ手を差し入れて、指先で細い管の通りを確かめる。詰まりは、ない。ただの気泡だ。手を引き抜くと、掌が、心地よく火照っていた。四十年、冷たい水にばかり触れてきた手だ。温い湯の感触は、なんだか、
「水道屋さん、いい湯だよう!」
湯の中から、誰かが、濡れた手を大きく振った。俺は、片手を上げて応える。喉の奥が、また、じんと熱くなる。声を掛けられ、顔を覚えられる。それが、こんなにも体を内側から温めるものだとは、前の世の俺は、とうとう知らずに終わってしまった。遅い。だが、遅くとも、知れてよかったと思う。
帰りぎわ、脱衣所の外の路地で、ふいに袖を掴まれた。振り向くと、パン屋のサルウィアが立っている。湯上がりらしく、頬がほんのり上気していた。
「あんたに、頼みがあってさ」彼女は、いつもの威勢を、少しだけ引っ込めて言う。「うちの竈、見ちゃくれないかい? 地震で割れて以来、火の回りが、どうにも悪いんだ。……銭は、ないよ。焼けたパンで、払うから」
俺は、湯気の匂いの残る髪を、掻いた。
「パンで、けっこうです」
彼女の頬が、ふ、と緩む。その緩み方が、さっき湯の中で見た、街の顔に、少しだけ似ていた。強張りが、内側からほどけていく、あの顔だ。