噴火まで十七年、ポンペイの水道技師に転生しました ~街は救えないので、逃げ道と習慣を作ります~ 作:ramunade
サルウィアの竈は、なるほど、ひどい割れ方をしていた。
地震で炉床の石板がずれ、煙道の途中に鳥の巣が詰まって、熱がまっすぐ抜けていかない。これでは、焼きむらが出て当たり前だ。俺はずれた石板を組み直し、煙道に手を突っ込んで古い巣をさらい、火の通る一本の道を、丁寧に作ってやる。石を積み直すたび、指先に、乾いた粘土の粉が、さらりと擦れる。
「火ってのはね、水と、よく似ているんです」俺は手を動かしながら、独り言のように言った。「行きたい道を作ってやれば、素直に、そこを通る。無理やり曲げようとすると、すねて、あらぬ方へ逃げていく」
「あんた、竈のことになると、急に口が回るね」サルウィアが、呆れたように笑う。
「水と、火と、道の話だけです。あとのことは、からきしで」
彼女が、声を上げて笑った。竈の残り火が、その横顔を、
直したばかりの竈で、サルウィアは一窯目のパンを焼いた。ふくらみ方が、まるで違う。狐色の、惚れ惚れするような焼き色である。俺は焼きたての一つを二つに割り、立ち昇る湯気ごと、頬張った。小麦の甘い匂いが、鼻の奥をふわりと抜けていく。
「……うまい」
「そりゃ、竈がいいからさ」
「竈と、腕でしょう」
「おや。世辞まで、言えるようになったのかい?」
それから、季節がひとつ、ふたつと巡る。
サルウィアは、約束どおり、焼けたパンで修理代を払い続けた。竈というのは、ひと月も焚けば、またどこかがすねる。俺は、そのたびに顔を出しては、煙道を掃除し、目地を打ち直す。彼女はそのあいだに、水汲みの列の仕切りを、すっかり板につかせていた。俺が辻の水を差配し、彼女が列を捌く。いつのまにか、この街の水は、二人の手で回るようになっていた。
寡婦の暮らしは、身軽だが、寒い。独り身の工房も、同じことだ。どちらからともなく、夕餉を一緒に摂るようになり、やがて、それが二人の当たり前になっていく。
地震から、一年あまりが過ぎた、翌年の春――。
俺は、直したばかりの竈の前で、柄にもなく口を開いた。
「所帯を、持ちませんか? あなたと」
われながら、色気のかけらもない言い方である。だが、竈のついで、ではない。この一年、彼女の手と、俺の手が、同じ街の水と火を回してきた。その手と、これから先も、同じ卓を囲みたい。それだけのことだ。サルウィアは、鉄板を拭く手を止めて、俺の顔を、まじまじと見つめた。それから、ふん、と鼻を鳴らして、また笑う。
「水と竈なら、うちは、街いちばんになるね。……いいよ。一年もかけて、やっと言うんだから、よっぽど考えたんだろう?」
「……考えました。柄にもなく」
婚礼は、辻の噴水の前で、ごく簡素に挙げた。
春の、うららかな昼下がりである。修理を終えた噴水は、以前より勢いよく水を吐き、日の光を受けて、細かな飛沫を虹に散らしている。近所の女房たちが花を持ち寄り、水汲みに来た者までが、足を止めて手を叩いてくれた。花婿に晴れ着はなく、俺はいつもの、石灰で汚れた仕事着のままだ。それでも、誰ひとり、笑いはしない。この街に水を戻した男の婚礼だと、皆が知っている。噴水の水音が、祝いの楽の代わりだ。前の世で見た、どんな豪勢な式より、この水の音のほうが、俺の胸には深く染みた。
花冠は、サルウィアが自分の手で編んだものを、爪先立ちで、俺の頭に載せてくれる。麦の穂と、道端の野の花で編んだ、少しばかり不格好な冠だ。それを載せながら、彼女は、こちらを見上げて言った。
「花冠くらい、いいだろう? あんた、こういうものを、もらったことのなさそうな顔をしてる」
図星である。前の世でも、この世でも、俺は冠を戴くような柄の男ではない。ただの、水を分ける番人だ。それでも、麦の穂の軽い重みが、頭のてっぺんで、くすぐったい。この重みを、覚えておこう、と思う。十七年の、いちばん先の日に、きっと要るものになる。
俺のほうからは、指輪を贈った。買ったものではない。古い青銅の水栓を、工房の炉で溶かし直し、細く叩いて、指の輪に仕上げたものだ。宝石も飾りもない、鈍い金色の、ただの輪である。渡すとき、俺は柄にもなく、言い訳をした。
「安物です。水栓の、なれの果てだ。……ですが、この青銅は、長いこと街に水を通してきた栓です。丈夫さだけは、請け合います」
サルウィアは、その不格好な輪を、日にかざして、しげしげと眺める。それから、左の薬指に、するりと通す。
「街に水を通してきた輪、ねえ」彼女は、目を細めて笑った。「いい
俺の胸の奥で、また、あの熱が動く。名を呼ばれたときの熱に、よく似ている。ただ、こちらのほうが、ずっと深いところで、静かに灯っていた。
婚礼の前夜、俺は彼女に、ひとつだけ、話をしている。何を話したのかは、今は、書かずにおく。それは、ずっと先の、別の夜に、もう一度、今度は彼女自身の口から、語り直されることになる。
祝いの膳を片づけ、サルウィアが規則正しい寝息を立て始めた、その隣で、俺はそっと、指を折った。
「……あと、十六年」
指折りは、もう、すっかり癖になっている。転生の夜に十七、そうして今日、また一つ減って十六。隣で眠る温もりが、その癖を、ほんの少しだけ、重くした。この胸に、守るものが、また一つ、増えたからだ。増えるほどに、指を折る手は、重くなっていくのだろう。
――消してしまうために、増やすのではない。根が、しっかり張るまで。ただ、続けるだけだ。