噴火まで十七年、ポンペイの水道技師に転生しました ~街は救えないので、逃げ道と習慣を作ります~ 作:ramunade
夏になると、いちばん大きな辻の噴水の水圧が、目に見えて落ちた。
分配槽は、健全である。俺が毎朝、水門の締まりを確かめている。山向こうの泉から来る水の量も、去年と、指一本ぶんも変わらない。それなのに、辻の口から出る水だけが、痩せている。どこかで、誰かが、途中で水を抜いている。盗み水だ。
夜、街が寝静まってから、俺は市中を歩いて回ることにした。仕事では、ない。ただ、水の音を聞く。昼のざわめきに紛れていた音が、夜には正直になるのだ。石畳は、月に冷えて、足の裏から夜気を吸い上げてくる。その静けさの底で、俺は耳を澄ませた。管の中を流れる水は、まっすぐな道では低く鳴り、細く絞られた口では甲高く歌い、盗まれた分岐では、くぐもった別の声を出す。四十年、俺は水の声を聞き分けてきた。前の世でも、この世でも、その耳だけは、変わらない。
夜の街を、俺はひとりで歩く。妻は、家で寝ている。この街の二万人も、みな、屋根の下で寝息を立てている。その屋根の一枚一枚が、いつか瓦礫に変わることを、俺だけが知っている。だから、盗み水を探して歩いているようでいて、俺はいつも、頭の隅で、別のものを数えていた。この家に、何人。あの角の長屋に、何人。灰の降る日、この細い路地を、何人が、転ばずに東へ歩けるか――水泥棒を追う足で、俺は毎晩、こっそりと、逃げ道の下ごしらえをしていたのだ。
誰にも、言えない。妻にすら、まだ、打ち明けていない。ひとりで抱えて歩く夜道は、月が出ていても、妙に暗い。それでも、と俺は思う。暗い夜道を、黙って先に歩いておくのが、水道屋の役目だ。朝が来て、人が起きてくるころには、水はもう、何食わぬ顔で辻に戻っている。誰も、夜のことなど知らないまま、桶を提げて、また一日を始める。それでいい。
三晩、歩いた。四つ辻の給水塔の水位が、隣の塔より、指一本ぶん低い。その塔から地を這う鉛管を、俺は月明かりの下でたどっていく。継ぎ目の一つに、真新しい
たどり着いたのは、市の東の、大きな屋敷の塀の下。契約の帳面にない分岐が、地面の浅いところを這って、塀の内へ潜り込んでいる。掘り返してみると、水栓の口径が、届け出の倍もあった。太い栓で、たっぷりと飲んでいる。庭の噴水にでも、贅沢に流しているのだろう。
翌朝、俺は職人を連れて、白昼堂々と付け替えに行った。無届けの分岐を切り、水栓を、契約どおりの細いものへ替える。
屋敷の家令が、血相を変えて飛んできた。手には、ずしりと重そうな、革の銭袋。
「これで、目をつぶってはくれんかね?……なに、街のためだ。噴水の水くらい、多少あってもなくても、誰も困りゃせん」
俺は、水栓を締める手を止めずに、答えた。
「水は、嘘をつきません。目方と、同じです」
家令が、きょとんとする。俺は、切り取った太い水栓を、掌に載せて見せてやった。
「この栓が、余分に飲んだ水の目方は、そっくりそのまま、どこかの辻から消えた水の目方です。ごまかしようが、ない。……水は、勘定を間違えないんですよ。人と、違ってね」
銭袋は、そろりと引っ込んだ。家令は、苦い顔で塀の内へ消えていく。恨みは、買わない程度に。盗んだ側が居直れないよう、証だけは、はっきり残す。だが、必要以上に責めもしない。それが、水を分ける者の作法だ。
盗み水を暴くのは、たやすい。証を突きつけ、罰金を取り、名を晒せば、街のいい見せしめになる。だが、俺は、そこまではしない。恨みを買った相手は、いつか、こちらの背中に石を投げる。十六年後、あの東門を、みんなで歩く日――その長い列に、俺を憎む顔が一つでも混じっていては、足並みが乱れる。だから、盗人にも、逃げ場だけは、残しておく。水を分ける仕事は、味方を増やす仕事であって、敵を作る仕事では、ないのだ。
その日の夕方には、いちばん大きな辻の噴水が、また、以前どおりの勢いで水を噴き上げていた。桶を提げた女たちが、戻った水量に、ほう、と声をあげる。子供が、噴き上がる飛沫に手をかざして、はしゃぐ。盗まれていた水が、辻に、還ってきたのだ。俺は、その光景を、少し離れた木陰から、黙って眺める。直った、という手応え。四十年、飽きもせず追いかけてきた、いちばん好きな瞬間だ。
帰り道、俺は山手の井戸を、いつもの癖で覗き込んだ。夏の井戸は、底の小石まで透けて見えるほど、澄んでいる。濁りは、どこにも、ない。
それでも、俺は腰の帳面を繰った。この春先――二月の頁に、俺自身の字で、こう書いてある。『山手ノ井戸、濁ル』。そして、その隣には、先代の、色あせた走り書き。
――山手ノ井戸、二月ニ濁ル。
俺の記録と、先代の記録が、ぴたりと重なる。毎年、二月に濁り、夏には澄む。これは、異常では、ない。この井戸の、決まりきった、平年の癖だ。
水帳の値打ちは、ここにある。一つの濁りに、いちいち肝を冷やしていては、身がもたない。毎年おきることと、今年だけおきることを、見分ける。そのための、物差し。まだ、たった一年ぶんしか目盛りのない、頼りない物差しだ。それでも、山の本番までに、十六年ぶんの目盛りを刻む。そうすれば、その日が来たとき、俺は――ほんとうの異常を、ひと目で読み取れる。
澄んだ水面から、そっと目を上げて、俺は歩き出した。癖と、異常。その二つを、静かに、根気よく分け続けること。それだけが、今の俺にできる、たった一つの、確かな備えだ。