噴火まで十七年、ポンペイの水道技師に転生しました ~街は救えないので、逃げ道と習慣を作ります~ 作:ramunade
石臼を回す水車を見てほしい、という話が、穀物を商う仲買人を通じて、隣街のヌケリアから舞い込んだ。仲買は、腕のいい水道屋、としか先方に伝えていなかったらしい。それが、ポンペイの人間だとは。
ヌケリアは、街道を東へ八里、歩いて半日の街だ。粉挽きが盛んで、水車の数も多い。その一つの、
この道を、俺は、初めて端から端まで歩き通した。サルノ門を出て、一里、二里。葡萄畑のあいだを抜け、緩い坂を上り下りする。日ざかりには喉が渇き、木陰では汗が冷える。八里は、荷を背負った身には、たっぷり半日の道のりだ。歩きながら、俺は、道の勾配と、日の当たり方と、水を汲める場所を、体に刻んでいった。いつか、大勢が、この道を歩く。そのとき、どこで喉が渇き、どこで足がもつれるか。自分の脚で歩いておかなければ、分からない。逃げ道は、地図の上ではなく、脚の裏で覚えるものだ。
だが、ヌケリアの門をくぐった途端、街の空気が、霜のように冷たいのに気づく。
俺がポンペイの人間だと知れると、道行く人々の顔が、あからさまに曇っていった。それも、無理はない。数年前、ポンペイの円形闘技場で、両街の見物客が大乱闘になった。石が飛び、刃が抜かれ、ヌケリア側に、大勢の死人と怪我人が出たのだ。以来、両街の仲は、氷のまま、溶けずにいる。
宿を頼んでも、一軒、また一軒と、断られた。井戸の水を汲もうとすれば、女たちが、露骨に桶を引っ込める。ポンペイの水道屋の手からは、水一杯、受けたくもない、というわけだ。俺は、腹も立てなかった。傷跡が痛々しい身内の顔を、身体を、毎日間近で見て暮らす街である。恨むな、というほうが、どだい無理な話だろう。俺は井戸の縁に腰かけて、持参の水筒の水を、黙って飲んだ。よその街で飲む水は、なぜだか、いつもより、味が薄い。
水車の持ち主、粉屋のムナティウスは、仏頂面の男だった。
「あんた、どこの水道屋だ」軸を挟んで、男が、初めて俺の目を見る。
「ポンペイの、アッティウスと申します」
その名を聞いた途端、男の顔が、露骨に強張った。手にした水車の部品を、ことん、と台に置く。それきり、ぶっきらぼうな用件のやり取りだけが、しばらく続いた。
「弟がな」帰りぎわ、ムナティウスが、ぽつりとこぼす。「あの乱闘で、片目をやられた。ポンペイの石で、な。……あんた個人を恨む筋合いは、ねえ。だが、好きにも、なれん。悪いな」
「いえ」俺は、深く頭を下げた。「石は、いくら謝っても、目には戻りません。恨まれて、当然です」
肝心の軸受けの仕事は、俺がポンペイの水道屋だと分かった時点で、別の職人へ回ることになった。無理もない。仲買が繋いだ縁も、顔を合わせれば、それまでだ。片目の恨みは、油では、落ちない。
それでも、帰りぎわ、俺は庭先を通りかかって、足を止めた。別の水車の軸受けが、きゅう、きゅう、と、耳障りな音で鳴いている。油が切れて、木と木が擦れている音だ。放っておけば、じきに焼き付いて、水車は止まる。
俺は、黙って、道具袋から油壺を取り出した。軸を外し、擦り減った当て木を削り直し、たっぷりと油をさして、また組み直す。ものの、四半刻だ。誰にも、断らなかった。職人が、鳴っている軸を黙って直すのは、言葉のいらない、挨拶みたいなものだ。それだけして、俺はヌケリアを後にする。
帰りの街道は、行きよりも、足が軽い。仕事は流れ、銭にもならなかった。それでも、鳴いていた軸が、一つ、静かになる。ただ、それだけのことで、俺の胸は、妙に満ちていた。人の街の、人の水車の、たった一つの軋みを取る。そんな、なんの得にもならないことを、俺は、ヌケリアへ通うたびに、この先も、こつこつと続けるだろう。凍りついた仲を溶かすには、油の一差しを、根気よく、何百回でも重ねるしかない。急いで溶かせる氷なら、そもそも、これほど厚くは張っていない。
十日後。ポンペイの工房に、ヌケリアから、使いの者が来た。鉛の注文である。書き付けの端に、ムナティウスの、たどたどしい字が、一行だけ、添えてある。
窓から差す午後の光が、その不格好な字を、金色に照らしている。仏頂面のあの男が、たった一行を書くのに、いったい、どれだけ迷ったろう。そう思うと、その字の無骨さが、やけに、あたたかく見えてくる。俺は、注文の鉛を量りながら、何度も、その一行へ目を落とした。
――軸は、もう鳴かない。