五月一日。眩しい初夏の陽光とは裏腹に、いつものように登校した天那を出迎えたのは、Cクラスに充満するどこか異様な空気だった。肌にまとわりつくような、重苦しいザワつき。生徒たちの視線は一様に手元の携帯端末に注がれている。
「おはよー、澪」
天那の声に弾かれたように、伊吹がゆっくりと顔を上げた。その表情には隠しきれない困惑が浮かんでいる。
「おはよう、天那」
「なんかざわざわしてるけど、ポイントの話か?」
「うん……天那も減ってた?」
「おう。5万3000ポイントしか振り込まれてなかった」
「そっか、天那もか。やっぱ全員一緒なのかな。いや、でも他クラスには1ポイントも振り込まれてないって騒いでたやつもいたな……」
5万3000ポイント。それが今朝、Cクラスの生徒たちに振り込まれたポイントだった。
当然のように10万ポイントが支給されると思っていた彼らにとっては、まさに晴天の霹靂。あちこちから漏れる動揺の声を耳にしながら、天那もまた画面の無機質な数字を薄く目を細めて見つめる。
「(龍園の言ってたことって、これのことか?)」
天那は先日の龍園の言葉を思い出していた。当の龍園は教室の後方で静かに席に腰かけているだけだが、彼に屈したと思われる生徒たちは、時折気を揉むようにその様子を窺っている。
「これってどういうことだよ。10万ポイントが毎月支給されるって話だったはずだよな? まさか最初から嘘だったとか……」
「どうだろうなー。正直、俺はバカだからなんも分からん。とりあえず、坂上先生が来れば何か説明があるんじゃないか?」
「……そうだな。今は待つしかないか」
不安を押し殺すような会話が交わされる間も、教室内から不穏な熱が引く気配はなかった。その時、甲高い始業チャイムが校内に響き渡る。
普段ならチャイムが鳴り終えても席に着こうとしないCクラスの面々が、今日ばかりは弾かれたように一斉に着席した。静寂が教室を包み込む。
誰もが同じ疑問を胸に抱き、答えを求めている。チャイムの長い余韻が消え去るのと同時に、廊下から足音が近づき、教室のドアが素気なく開いた。
丸めたポスターを片手に現れたのは、担任の坂上だ。教壇に立つその表情はいつになく険しいものの、その口元は妙に上機嫌そうな歪みを帯びていた。
坂上は手にした丸めていた紙を教壇に置き、ゆっくりとクラス全体を見渡してから口を開く。
「おはようございます。早速ですが皆さん、今朝振り込まれたポイントは確認しましたね。5万3000ポイント――それが、今月あなた達に支給されたポイントです。これは決して、システムエラーや人為的ミスの類ではありません」
その一言が、静まり返っていた教室に波紋を広げる。多くの生徒は未だ状況を呑み込めず、互いに顔を見合わせるばかりだ。だが、その言葉の意味を即座に汲み取り、ある一つの仮説に辿り着いた者がいた。
「ポイントは、毎月変動する……?」
声を漏らしたのは、金田悟だった。決して大きな声ではない。独り言のように吐き出されたその一言は、静まり返った教室内へ鮮明に響き渡った。
「その通りです。支給されるポイントは、クラスごとの評価に応じて毎月変動します。その結果として、今月、Cクラスの皆さんには5万3000ポイントが支給されました」
坂上の淡々とした口調に、再び教室内がざわめく。言葉の意味は明白だったが、それを受け入れる心の準備ができている生徒など、ほぼ皆無だった。否、今朝の時点で薄々察してはいたものの、直視することを避けていただけなのだ。
冷静でいられるのはほんの数人。ちなみに、その中に天那は含まれていない。口をぽかんと開け、「マジかー……」と分かりやすく驚愕していた。
「ちょ、ちょっと待ってください……!」
ガタッと激しく椅子を鳴らして立ち上がったのは、前列の男子生徒だった。顔を赤らめ、隠しきれない動揺に肩を震わせている。
「先生、入学時に毎月10万ポイントが支給されるって言いましたよね!? それが嘘だったなら、僕たちは学校に騙されたってことですか!?」
「……いいえ。私は一度たりとも、『毎月10万ポイントが支給される』などとは言っていません」
静かでありながら、一切の反論を許さない揺るぎない語調で、坂上は話を続ける。
「入学日、私が皆さんに伝えたのは『10万ポイントが支給される』こと、そして『毎月一日にポイントが振り込まれる』ということだけです」
「そんな……騙す気満々じゃないですか………」
生徒たちの顔から、一斉に血の気が引いていく。足元の床が抜け落ちたかのような、底知れない不安が教室中に広がっていった。
その中で、椎名ひよりが静かに手を挙げた。その表情には動揺の色がなく、掴みどころがない。冷静なのか、あるいは単にマイペースなのか、真意を図りかねる様子だった。
「椎名さん、何か疑問でも?」
「坂上先生。先ほどポイントは変動するとおっしゃいましたが、具体的にどのような理由で今月のポイントは減少したのでしょうか?」
率直な問いに、坂上は満足そうに小さく頷く。
「いい質問です。ですが、その答えはすでに入学時にお伝えしたはずですよ」
坂上は前置きすると、教室全体に視線を這わせながら言葉を続けた。
「この学校は徹底した実力主義です。つまり、あなた方の今の実力が、そのままポイントという形で反映されたということです」
「今の、実力……」
「遅刻や欠席、授業中の私語や居眠り、小テストの成績――そうした日々の行動の積算が、今月のCクラスの評価……すなわち5万3000ポイントという結果に繋がりました」
「なるほど……」
椎名は一度静かに目を伏せると、納得したように小さくコクリと頷いた。 続いて、眼鏡のブリッジを押し上げながら金田悟が手を挙げる。
「金田君、どうぞ」
「……どの行動がどれだけポイントに影響を与えたのか、その詳細な内訳を教えていただけませんか?」
クラスの損失を分析しようとする、鋭い追及だった。だが、それに対する坂上の返答は、予想以上にあっさりとしたものだった。
「申し訳ありません。それはお答えできません。詳細な査定基準は、学校の規則により一切公表されていません。……ご理解ください」
無慈悲な言葉だった。ルールは明かされず、評価だけが下される――それがこの学校のルールだということが、徐々に露わになっていく。そして、坂上は話題を切り替えるように厚手の白い紙を取り出し、それを黒板に貼り付けた。
A 960
B 650
C 530
D 0
「――これは、各クラスの今月の成績です。正確にはクラスポイントと呼ばれるもので、その数値に100を掛けた金額が、生徒一人ひとりに支給される仕組みになっています」
坂上の説明に、またもや教室がざわめいた。生徒たちにとっては驚きの連続である。天那に至ってはすでにキャパシティを超えているのか、頭から煙を吹き出してショート寸前になっている。
周囲の反応も様々だった。Aクラスの圧倒的な成績に羨望の眼差しを向ける者。Dクラスの0という数字に目を剥く者。そして、自分たちCクラスの530という結果に不満を抱く者――。
そんな錯綜する空気の中、龍園が一言、空間を切り裂くように言い放った。
「クク……なぁ、坂上。随分と綺麗な並びじゃねぇか」
鋭く笑うその声に、呆然としていたクラスメイトたちが再び黒板に貼られた数字へと目を向けた。A、B、C、D。見事なまでに数字が降順に並んでいる。
「……教師を呼び捨てにするな、龍園」
坂上は軽く窘めると、静かに言葉を続けた。
「この学校では生徒の能力に応じて入学時のクラス分けがなされています。優秀な者ほどAクラスに、そうでない者はB、C、Dへと。つまり……この成績からわかるように、君たちはCクラス相応の人材であったというわけです」
坂上の語り口は淡々としていながら、容赦のない事実を突きつけていた。その一言で、教室の空気が冷たく張り詰める。
「は……?なにそれ……」
呟くような声があちこちから漏れ出す。やがて静かな不満は一気に膨れ上がり、怒号となって爆発した。
「どういうことだよそれ!」
「ふざけんなよ!」
自分たちが劣っていると突きつけられ、Cクラスの生徒たちは怒りを露わにする。憤怒、屈辱、混乱――教室内には荒々しい感情が渦巻いていた。
一方、キャパオーバーで完全に置いてけぼりを食らっていた天那は、とりあえず周囲に合わせて「そ、そうだそうだー!」とヤジを飛ばしている。あまりに緊張感のない隣のバカを見て、伊吹は逆にすっと頭が冷えていくのを感じていた。
「いくら怒ろうと、喚こうと、現実は変わりません。先ほど提示したクラスポイントですが、これは単に支給額に連動しているだけではないのです。このポイントこそが、そのままクラスのランクを示しています」
一瞬、意味を測りかねたような沈黙が教室を支配した。
「たとえば、Cクラスが来月650ポイントを上回れば、来月からCクラスはBクラスに、BクラスはCクラスになる。つまり、ポイントの変動によってクラスは入れ替わる仕組みです」
静まり返っていた教室の後方から、疑念の声が上がる。
「それって……アルファベットが変わるだけじゃないですか?大して意味ないと思うんですけど」
坂上はその質問を待っていたかのように、眼鏡の奥の瞳をわずかに細め、その場の空気を決定的に変える一言を口にした。
「この学校の最大の特徴――希望する進学先、就職先への100%の進路保障。その恩恵を受けられるのは、卒業時にAクラスへ在籍している者のみなのです」
刹那、教室の空気が凍りついた。
「このままじゃ……このままCクラスで卒業しても、意味ないのか……?」
その誰かの掠れた呟きを最後に、誰もが言葉を失う。教室には、ただ重苦しい沈黙だけが居座り続けていた。
「驚かせてしまったようで申し訳ありません。……ですが、まだ皆さんに伝えなければならない事実が、もうひとつあります」
坂上は事務的に頭を下げると、さらにもう一枚の紙を取り出し、黒板へと貼り付けた。 そこにはクラスメイト全員の名前と、その横に小さな数字が整然と並んでいた。
「これは、先日実施した小テストの結果です。この学校には、中間や期末テストで1科目でも赤点を取った場合、即退学となる厳格なルールが存在します。今回の小テストでペナルティはありませんが、これがもし正式なテストであったなら、34点未満が赤点扱いとなり……数名が退学処分となっていました」。
「た、たたたたた、退学……!? やべぇ、これマジでやべぇ!」
天那が頭を抱え、ガタガタと机を揺らし始める。顔からは一瞬で血の気が引いていた。
「天那、落ち着けって! えーっと、天那の小テストの点数は……」
伊吹は必死に黒板の紙に目を凝らし、天那の名前を探す。その横に刻まれた数字を確認した途端、言葉が詰まった。
「4、45点か……。あ、あれだろ? テストなんて面倒だから適当に流したんだろ?」
「全力だよ……! 俺は持てる全ての力を尽くして45点しか取れなかったんだ……!」
青ざめた顔で訴えかけてくる天那の視線に耐えかね、そっと目を逸らす。
「マ、マジか……。その、短い間だったけど、今までありがとな」
「縁起でもないこと言うなっ!」
天那と同じように教室のそこかしこで震えるような悲鳴や掠れた声が上がっていた。最初に襲ってきた驚愕が、今や明確な恐怖へと形を変えていく。
「中間テストまでは、あと三週間。私は皆さんが無事に赤点を回避し、テストを乗り切ることができると確信しています。……それでは、健闘を祈ります」
そう言って話を締め括ると、坂上は教室を後にした。扉が静かに閉まり、カチャリと重い音が響く。その直後、一人の生徒が音を立てて椅子を引き、ゆっくりと立ち上がった。