ヘルタなんて大嫌い。 作:認めない勇気
目を開けた瞬間、自分が何故眠りから引き戻されたのか分からなかった。照明を落とした部屋には非常灯の淡い青だけが残り、壁際の医療端末が一定の間隔で小さな光を瞬かせている。
今は夜らしく、ベッドフレームに置かれたデジタル時計が2時45分を示していた。どうしたってこんな時間に起きてしまったんだろう。確かに眠りは浅い方だけど、今までこんな半端な時間に起きた事はないのに。
身体を動かそうとして、そこでようやく胸元に僅かな重量が掛かっている事へ気付いた。
重苦しいほどではない。薄い毛布を一枚余計に掛けられた程度の、柔らかな圧迫感だった。けれど呼吸に合わせてそこだけ温度が揺れ、規則正しく触れてくる何かがある。ふと視線を落とすと、暗がりの中で見慣れた薄茶色の髪が流れた。
「……?」
一瞬、自分の髪が胸元へ零れているのだと思った。
照明に青く染められた色合いや細い毛先が緩やかに広がる様子も鏡越しに何度も見てきたものとよく似ている。けれど私の髪は胸元へ垂れるほど長くはない。では胸の上へ伏せられているこれは何なのだろう。
眠気に霞む目を凝らして、ようやく輪郭を捉える。
その正体とは、寝台の傍へ椅子を寄せその上に座ったまま上半身だけをこちらへ預けているヘルタだった。片腕は枕元へ投げ出され、もう片方の手は私の脇腹近くでシーツを掴んでいた。私の胸元へ耳を押し当てるような姿勢で俯き、髪を無防備に広げて眠っている。普段なら一分の乱れも許さない白衣は肩から僅かにずれ、頬の半分が毛布へ沈んでいた。
あまりにも似合わない姿だった。
研究室の机へ伏したまま眠っているならまだ想像できる。けれど私の胸へ耳を当てて眠るヘルタなんて、以前の記憶をどれほど掘り返しても見つからなかった。
否が応にも胸の奥が妙に騒がしくなっていく。胸が上下する度にヘルタの頭がほんの僅かに揺れる。起こしてしまうかとも思ったが、意外に瞼は閉じられたままだった。長い睫毛が頬へ影を落とし、ただ深い眠りについているその瞬間だけは何だか好きになれそうだった。
「……」
起きない。
安堵したような、少し残念なような。苦いが飲み干せない程でもない、よく分からない感情が喉元へ沈んでいく。
「……」
少し前のことだ。電源が切れて消灯し黒く染まった端末を見た瞬間、自分の輪郭がほどけていく感覚に呑まれていった記憶が朧げに思い起こされた。
その際、面前には戸愚呂を巻いた様な星がぐるぐると渦巻いていた。実体の掴めないそれへ触れようとした瞬間、ヘルタが私の腕を掴んで、何かを仕切りに叫んでいた。
その後すぐに意識を失ったからその後の事は分からないけれど、目を覚ました時には私は医療区画の治療ポットに寝かされていた。神経質なほど多くの機器へ繋がれていて、側で立っていたヘルタが溜息と共にいつも通りの顔で「寝てて」とだけ言い残し、しばらくしてから部屋から出ていった。
それが凡そ2時間前の出来事だ。眩しくない様に僅かに落とされた控えめな照明を眺めながら、私も力尽きた様に寝てしまった。それがどうしてここに居るのだろう。
問い掛けようとして、やめた。
聞けばきっと、脈拍を直接確認していただけだと言うのだろうか。あるいは端末の数値が信用出来なかった、機器の誤差を検証していた、もしくは偶然眠っただけだと、聞いてもいない理屈を幾つも並べるに違いない。その全てが嘘ではなく、きっと本当でもない。ヘルタはそういう人間だと、私は知っているから。
シーツを掴んでいる指先へ視線を向ける。
力は抜けきっていなかった。眠っているのに、指だけが薄い布地を縋るように握っている。僅かな皺が掌の周囲へ集まり、私がここから消えないよう留めているみたいだった。
「……」
胸の奥へ痛みに似た熱が広がった。この人は私より遥かに強く、残酷で、同情など必要としていない。だから手を伸ばす理由が見つからないまま、私はただ天井を見つめるしかない。
やがてゆったりとした争い難い眠気が戻ってくる。
深い水の底から柔らかな闇が再び身体を包み始める。いつも意識が遠のく感覚には底知れない恐怖があった。次に目を開けられる保証などないし、眠りへ落ちる度に自分が少しずつ消えていくのが何よりも恐ろしかった筈なのに、どうしてか今は酷く些細な事の様に思えるんだろう。
胸元に重さの所為だろうか。鼓動の傍らへ押し当てられた耳と、シーツを掴む指。規則正しい呼吸が衣服越しに触れ、その温度だけが私を現実へと繋いでいるようだった。
眠りへ沈む直前に、胸元に垂れた髪へそっと指で触れようとしてやめた。ヘルタが私の命を盗み聞きしている事も、その音を確かめながら眠っている事も、全て夢だった事にしてしまおうと。きっとその方がお互いに楽だから。
意識がゆっくりと遠ざかる。
今度の眠りは、何もない場所へ落ちていくものではなかった。胸の上に残る小さな重さを抱いたまま、私はもう一度、静かな夜の底へ沈んでいった。
大喧嘩の翌日も何事もなかったかのように一日が始まった。宇宙ステーションは規則正しい呼吸の真っ最中で、その均質な朝の中でほんの僅かに歪んでいるのは自分の内側だけだと遅れて気付かされた。
「……」
よく寝られたかと問われれば首を振るしかない。それでも胸の奥に沈んでいた重たい塊はどこかへ流れ去ったように軽くなっていた。吐き出した言葉が澱を押し流したのだろうか。心なしか体の調子も随分と楽だ。
静まり返った部屋で身支度を整えながら、鏡に映る自分を見つめる。まだ頼りない輪郭をしているが、それでも昨日よりは幾分かマシの様に思えた。
リボンを結び直そうとした所で、扉が短く電子音を鳴らして開かれた。視線をそちらへ向けると、案の定そこにはヘルタが立っていた。白衣の裾を揺らしながら部屋を一瞥するその視線は相変わらず遠慮というものを知らない。
「まだ着替えてる途中なんだけど」
「リボンを結び直したら終わりでしょ?」
挨拶より先に差し出される言葉に眉を寄せる。
「……おはようくらい言えないの」
「はいはい、おはよう」
「……」
「なに? まだ不満?」
「別に」
「ふーん……というか、服くらいちゃんと着たら?」
言われて、鏡越しに見ると確かに左右の長さが微妙に違っていたのに気が付いた。もちろん結んだ時から気付いてはいたが、やり直すのが面倒でそのままにしていた。指摘されて直すのも癪だと考えていると、ヘルタは無言で私の前までくると手に持っていた器具を傍らの机に置いた。
「へたくそ」
「別にこれくらい――」
言い訳を続ける前に、有無を言わせずヘルタが一歩近付く。逃げる間もなく背後に立たれた。
「じっとして」
耳元でそう囁かれくすぐったさに眉を潜める私を無視してヘルタは鏡越しにリボンへと触れる。ほどく動きは無駄がなくするりと結び目が解け、その続きは委ねるしかないだろう。
「……別に、あのままでも良かったのに」
「やめて。見てるこっちが恥ずかしい」
「うざ……」
鏡越しに映る面倒臭そうな顔なのに、その手つきは驚くほど丁寧だった。髪を軽く整え、指で流れを揃える。引っ張られることもなく痛みもない。ただ触れられている感覚が妙に落ち着かない。リボンを通し、左右を揃え結び目を作る。そのまま形を整える指先は無駄がないのに、どこか慎重で、想定よりも少しだけ時間をかけているようにも見えた。
「……昔も、こうやってたっけ」
私がぽつりと零すと、ヘルタの手が一瞬だけ止まる。
「そうだっけ」
「……やっぱ今のなし。たぶんそんな事された覚えない。あり得ないし」
「そ」
自分だけが覚えているのがどうにも癪で、咄嗟に否定してしまう。ヘルタは言葉を発する声は平坦なままだったが、結び目を整える指先だけがわずかにゆっくりになる。最後に軽く形を整え、手が離れた。
「はい、終わり」
鏡を見る。左右がきちんと揃い、結び目も無駄なく整っている。
「……なんか、嫌にこなれててキモい」
「はぁ? 喧嘩売ってるの?」
ヘルタはもう興味を失ったように私から視線を逸らしていたのが何となく気に入らなくて、つい口に出してしまった。
「別に結んでほしいなんて言ってない」
「はいはい。ほら、私は忙しいんだから、さっさと終わらせるよ」
それだけ言って白衣の裾を翻した。
背を向けたままベッドに腰を下ろす。その背中を見送りながら、私は一瞬だけ鏡の中の自分を見つめた。指先でリボンに触れる。ほどけそうにない、しっかりとした結び目。
お礼、言った方がいいのかな。
喉元まで出かかった言葉は、結局そのまま沈む。必要ない、と自分に言い聞かせる。どうせヘルタはそんなものを求めていないし、私も私で、素直になれるほど昨日の事を許してもいない。
「ほら、腕出して」
「ん」
昨日までなら、この無遠慮さに苛立っていた筈なのに、変わらないままの人が、変わらないままここにいる。その事実が不自然な安堵と共に妙に腑に落ちてしまった。
手慣れた様子で注射の針が皮膚を貫く。ほんの一瞬の鋭さに、私も私でそうした痛みには慣れたものだった。
「はい、終わり。特に異常はないね。……ああ、そうだ。今日は外でも歩いてきなよ」
不意に投げられた言葉に顔を上げる。
「何その顔。今のあなたは以前よりは健康体なんだから、じっとしている必要はないでしょ」
「……一人で行っていいの?」
「誰か付けたら嫌がるでしょ」
「それは……そうだけど」
「それとも私が着いてってあげようか?」
「それは嫌」
「そ。じゃあ決まり。でも一応、あまり人気がない所は行かないように」
それだけ言うと、ヘルタの視線は再び端末へ沈み込んだ。いつもの様な興味を失ったような態度だ。それでも構わなかった。軽く息を吐き、医療区画を後にする。
廊下はどこまでも続いているように見えた。白く磨かれた壁が光を柔らかく返し、天井の照明が一定の間隔で並ぶ。そこへ足音が静かに響き、空間へと溶けていく。
最初の一歩は慎重だった。床の硬さを確かめるように重心を移す。もう一歩。さらに一歩。問題はない。身体はきちんと応えてくれる。それだけのことなのに胸の奥がじんわりと温かくなる。かつては歩くことすら許されなかった身体が、今は自由に前へと進む事を許してくれる。
曲がり角をいくつか抜け、見慣れない通路へ足を踏み入れる。案内表示は視界に入るが、偶然性を楽しみたくてあえて目を向けなかった。そうしてガラス張りの通路に出た瞬間、視界が一気に開けた。透明なガラス窓の向こう側では黒い宇宙が広がり、遠くの星々が瞬きながら静かに煌めいている。光は冷たく、けれどどこか柔らかく。触れれば指先が溶けてしまいそうだった。なんて。
「……綺麗」
無意識のように零れた。100年前の病室じゃきっとこんな景色は見られなかった。窓の外に広がる空はいつも同じ色で、限られた範囲しか見せてくれなかった。けれど今は違う。どこへでも行ける。なんだか胸の奥がそわそわと沸き立つ様だった。自由というものはこんなにも広くて、こんなにも不安になるんだ。私は再び歩き出す。
それからは医療区画から10分で辿り着くような場所を散歩する日々が続いた。
朝は検査を受け、昼には当てもなく歩き回る。夕方には疲れがじわりと身体に滲み、夜にはベッドへ沈み込む。
ヘルタは相変わらず忙しいらしく、研究と会議に追われているらしかった。時々ふらりと現れては無言でこちらを観察し、何も言わず去っていく事もある。その背中を見送りながら呆れたように息を吐き、また変わらないような一日が巡る。
変化のない日々。それなのにその単調さが妙に心地良かった。かつては明日が来る保証などなかったからだろうか。今日出来た事が明日出来るとも限らない、そんな不安定な時間の中に私はいた。けれど今は違うのだと、その当たり前を一つずつ確かめるように過ごせる平穏に祈る様なため息が漏れた。
ある日、いつもより遠くへ足を伸ばした。人影の少ない区画に入り、静かな通路を進む。ふと足が止まる。振り返っても同じような廊下が続くだけで目印になるものは見当たらない。
「これは、迷った……のかな」
小さく呟く。それでも焦りはなかった。むしろ少しだけ楽しいとさえ思ってしまう。来た道を戻る代わりに別の方向へと足を向ける。知らない場所をもう少しだけ見てみたい。その欲求を満たせるだけの体力が今の自分にはあったから。
通路の先に小さな実験室のような部屋があった。扉は半開きで、中からほんのり甘い匂いが漂ってくる。
「……?」
覗き込むと、机の上に奇妙なものが乗っていた。
丸くて、柔らかそうな外皮。特徴的な焼き色のついたそれは、どう見てもお菓子、あるいは饅頭か何かに見える。けれどその表面が僅かに呼吸するように上下していた。
「……いき、もの?」
思わず一歩引く。その瞬間、饅頭のようなものがぴくりと震え、ぐにゃりと弾むようにこちらへ振り向いた。外見だけで判断するなら、それは小さな猫……のような存在だろうか。
けれど毛並みはなく、つややかな餡のような質感をしている。まん丸い目がこちらを見上げ、みゃーうと小さく鳴いた。
「……なにこれ」
怖い、というより理解が追いつかない。
猫のような餡は、よろよろと外皮だと思われるものごと引き摺りながら机の上を歩き、私の足元までやって来た。
「……」
「……」
しばし見つめ合う。
逃げる様子もない。ただこちらを見て、また小さく鳴く。
「……えっと」
恐る恐る手を伸ばす。
指先が触れた瞬間、もっちりとした柔らかさが伝わってきた。次いでぷに、と沈む感触。
「やわらかい」
餡の猫は驚いたように一瞬固まったが、撫でる手付きにすぐに安心したのか、指に頬を擦りつけてくる。
あまりにも無防備で一瞬戸惑うもの、なんとも言えない心地になってしまう。やわらかい。くすぐったい。
「……かわいい」
思わず声が漏れる。
餡の猫はその言葉が分かったかのように、嬉しそうに尻尾のようなものを揺らした。
「君は、えっと……なんなの」
誰かのペットだろうか。こんな不思議な存在は今まで見た事も聞いた事もないけど。
餡の猫は、今度は私の膝に乗ろうとして、また少しよろける。
「ほら、こっち」
そっと支えてやると、今度は上手く乗った。膝に伝わる小さな温もりに少し落ち着かない。
ここ最近感じていた、焦燥感や恐怖心が少しだけ遠のいていくようだった。
「君はどうしてこんな所にいたの?」
「みゃぅ?」
餡の猫は不思議そうにくりくりの目で私を見つめ返しながら、暫くすると丸くなり、静かに目を細めた。
その姿を見ていると、胸の奥がじんわりと温かくなる。
思いがけないものに出会ったが、それは少しだけ不思議で、私に温度を与えた。
とても優しい時間だった、ような気がする。
「駄目」
「……どうして? きちんと世話もするし名前だってもう付けたのに」
「子供みたいなこと言わないで。それはルアン・メェイの作った小生命体で、許可なく持ち出していいものじゃないの」
「じゃあ許可を取ったらいいの?」
そう言い返すと、ヘルタは私と餡の猫の主と会合する光景を想像でもしたのか、本気で嫌そうに眉根を顰めた。
「絶対に駄目」
「なんで」
「あのさ、あなたの為を思って言ってるんだよ? 彼女は食べ物に薬を盛ってくるような危険人物だし、あなたは彼女に会うべきじゃない。少なくとも今はね」
ヘルタは腕に抱かれた餡の猫を見つめ不機嫌そうに溜息を吐いた。私は結局納得出来ないまま、餡の猫を元居た場所へと戻すのを余儀なくされた。
帰り道、私は一言も喋らなかった。
別に拗ねている訳ではない。そう自分へ言い聞かせながら歩いていたものの、傍から見ればどう考えても拗ねたように映っていたように思う。行きとは違って足取りは重く、時折振り返っては遠ざかっていく収容区画を未練がましく眺めてしまう。透明な隔壁の向こうでは先程まで腕の中に収まっていた餡の猫がこちらを追い掛けるように短い脚を動かし、けれど閉じた扉に阻まれてその場へ座り込んでいるようだった。最後に一度だけ聞こえた「きゅう」という鳴き声が、しつこく耳の奥へ残って離れない。
名前まで付けたのに。
ぽんず。
身体の色が何となくそれっぽかったから、という我ながら安直な由来ではあったが、呼べばちゃんと顔を上げてこちらを見てくれた。再度2回呼べば近くへ寄ってきたし、三回目には膝へ乗ってくれた。そこまでされたらもう半分くらい私の猫ではないだろうか。
「……ぽんず」
「まだ言ってるの」
数歩先を歩いていたヘルタが振り返りもせずに言った。
「独り言だよ。別にあなたには何も言ってない」
「聞かせる独り言は会話と変わらないって知らないの?」
「……うるさい」
「はいはい」
自分より一回りも大きい背中を睨んだ所で、こちらを見てもいない相手には通じない。白衣の裾を追いながら私はわざとらしく深い溜息を吐いた。
「……じゃあ、ルアン・メェイって人に通信だけするのは」
「駄目」
「会わないよ。通信だけ」
「駄目」
「私が話さなくてもいい。貴女が許可を取って」
「嫌」
「なんでそこまで頑なの」
そこでようやくヘルタが足を止めた。
勢い余って背中へぶつかりそうになり、寸前で身体を引く。振り返った顔には呆れと苛立ちが綺麗に半分ずつ浮かんでいた。けれどその奥にあるものは先程から妙だった。私が餡の猫を飼いたがっている事そのものより、その所有者へ近付こうとする事自体に露骨な拒絶を見せている様だった。
「さっき言ったでしょ。危険人物だから」
「貴女に危険人物って言われるの、相当じゃない?」
「はぁ? 喧嘩売ってる?」
「別に。ただの一般論」
「そんな一般論ないから」
ヘルタは再び歩き出した。私は半歩遅れてその隣へ並ぶ。
「でも、天才クラブの人なんでしょ?」
「そうだよ」
「貴女と同じ」
「だから何」
「友達とかじゃないの?」
「天才クラブを仲良し同好会か何かだと思ってる?」
心底馬鹿にしたような目を向けられた。
「同じ星神に一瞥された人間が勝手に番号を振られてるだけ。価値観も研究分野も倫理観も違う。そもそも顔を合わせた事すらない会員だって珍しくない」
「でもルアン・メェイとは知り合いなんでしょ。研究員が話していたよ」
「まぁ一応、一つのプロジェクトの共同開発者だからね」
ヘルタは端末から目を上げないまま言った。知り合いかと聞いただけなのに、随分と事務的な答えが返ってくる。
「仲良い?」
「普通」
「嫌い?」
「別に」
「苦手?」
そこでようやく、ヘルタの指が止まった。
「……さっきから何なの、その質問」
「気になっただけ」
「質問が鬱陶しい」
「じゃあ仲悪いんだ」
「そういう結論にしないで」
ようやくこちらを見たヘルタは、僅かに眉を寄せていた。
「仕事を任せる程度には信用してるし、話が通じない相手でもない。それ以上でも以下でもないよ。そもそも私が誰と仲良いかなんて、あなたに関係ある?」
「別に」
本当に、別に。
ただ、そこまで頑なに線を引かれると、その向こう側に何があるのか覗いてみたくなる。興味なんて案外そういうところから生まれるものだ。
私は少しだけ歩調を速め、半歩先を行くヘルタへ並んだ。そのまま横から顔を覗き込んでみる。
ヘルタは前だけを見ていた。
いつもの澄ました顔。何を聞かれても大抵は退屈そうに受け流す、見慣れた横顔だ。ただ、よく見ると口元が僅かに固い。ほんの少しだけ唇が薄く結ばれている。
「……何」
何処か不機嫌そうな視線だけがこちらへ流された。
「何でもないけど」
「だったら人の顔をじろじろ見ないで」
そう言ってヘルタが歩調を速める。
あ、逃げた。
私は口元に浮かびかけた笑みを噛み殺し、その背中を追いかけた。どうやら「それ以上でも以下でもない」の中には、もう少しくらい何かが入っているらしかった。
「食べ物に薬を盛るって、何を入れるの?」
「色々」
「毒?」
「死ぬようなものじゃないよ」
「じゃあ睡眠薬?」
「似たような事もする」
「なんの為に?」
「さぁ? 大方、観察とかじゃない?」
随分といい加減な返答だった。
ヘルタは心底どうでもよさそうに髪を耳へ掛ける。けれど、その横顔には呆れというより、何度か似たような事態を目にしてきた人間特有の諦観が滲んでいた。
「彼女は生命を研究してる。生き物がどう反応するか、どう変化するか、その結果に興味がある。目的のためなら自分自身さえ観察対象へ放り込める種類の人間だから、他人との境界線なんて期待しない方がいいよ」
「……それ、貴女が言うんだ」
「はぁ? 私は事前に説明するでしょ」
「昨日、説明なしで血を三本抜いたじゃん」
「毎朝やってる検査で今更説明が必要?」
「ほら」
「一緒にしないで」
すぐさま睨まれた。随分と心外らしい。
私はまだそのルアン・メェイという人に会った事がないし、顔すら知らない。知っているのはヘルタの口から聞かされた断片だけだ。
生命を研究していて、興味を持ったものへの遠慮が薄い。必要なら自分自身さえ実験台にし、他人との境界線にも頓着しない。
そこまで聞いて、最初に浮かんだ感想が「ヘルタと似ている」だったのだから仕方がないではないか。
「研究が好きで、興味を持ったら周りが見えなくなるんでしょ?」
「……全然違うから」
「人の都合より自分の興味を優先するところとか、自分の判断に自信があるところとか」
「それは正当な自己評価だよ」
「そういうところ」
「グレイス」
声が一段低くなった。これ以上続けると本気で機嫌を損ねそうなので流石に口を閉じる。別にヘルタの機嫌を損ねるなんて至極どうでも良い事だけど、反応を見るに悪戯に突き回して良い部分でもないのだろう。
もっとも、そうやって露骨に嫌がられると余計に気になってはしまうのだが。
ルアン・メェイ。まだ顔も知らない人。ヘルタがこれほど明確に何らかの線を引きたがる相手。
どんな人なのだろう。
少し前を歩くヘルタの背中を眺めながら、そんな事を考えた。
しばらく靴音だけが廊下へ響く。話は終わったものだと思っていた。ところが、少し歩いたところでヘルタが不意に口を開いた。
「……少なくとも、私はあなたに妙なものを食べさせたりしないでしょ」
こちらを振り返りもしない弁明の様なものが吐き出された。
「まだ言ってる」
「大事なところだけど」
私は首を傾げた。
ルアン・メェイという人が実際に何をするのか知らない以上、比較のしようもないのだけど、それでもヘルタの中ではどうやら決定的な違いらしい。
「疑うなら、今後お菓子あげないけど」
「……別に欲しいなんて言ってないじゃん」
「じゃあ要らないんだ」
「そうも言ってない」
「どっちなの」
呆れた声が返ってくる。
私は答えず、その背中を追いかけた。結局、ルアン・メェイという人物がどういう人なのかはよく分からなかった。
ただ一つ。ヘルタの説明を聞く限りではとても変わった研究者らしい。そんな相手との違いを説明する時、ヘルタが真っ先に持ち出した基準が「私に何をするか」だった事だけが妙に頭へ残ったけれど。
何だか形容しがたいどろりとした感情が醜悪な臭いを持って爛れた気がして、あぁ、と嫌になる。
半歩先を歩く姉には見られなかったのが幸いだった。
ルアン・メェイ。
生命を研究する天才。餡の猫を生み出した人。食べ物へ薬を混ぜてまで反応を観察するような危険人物。そして、ヘルタが私との接触を頑なに嫌がる相手。
会うなと言われれば、会いたくなるのが人間というものではないだろうか。
少なくとも私はそうだった。
「ねえ」
「今度は何」
「その人、今このステーションにいる?」
ヘルタの足が止まった。尋ね方を間違えた、と気付いた時にはもう遅かった。
ゆっくりとこちらを向いたヘルタの顔から先程まで残っていた呆れが綺麗さっぱり消えている。
「グレイス」
「なに」
「何を考えてるの」
妙に低い声だった。
私は答えず、ヘルタの顔を見つめ返す。先程まで面倒そうにしていた癖に、どこか今は違うようにも見える。例えば、こちらの表情を窺う目だけが露骨なくらい警戒していた。
その反応でふと気付く。もし件の彼女が既にステーションを離れているのならこんな顔をする必要なんてない。私が興味を持ったところで、会いようがないのだから。
「ふーん……このステーションに居るんだ」
ヘルタの眉が僅かに動いた。それだけで答え合わせには十分だった。
「……そういうところだけ妙に勘がいいね」
否定はしなかった。
ヘルタは昔から、私に嘘だけは言わない。言いたくない事なら黙り、誤魔化したければ話を逸らす。都合が悪くなればこちらが腹を立てるくらい露骨に口を閉ざすけれど、それでも嘘を吐いてまで私を欺く事だけはしなかった。
だから今の返事も肯定と同じだ。
途端にルアン・メェイという名前へ輪郭が生まれた。ついさっきまでヘルタの言葉の中にしか存在しなかった人。
生命を研究しており、目的のためなら自分自身すら観察対象へ放り込める。他人との境界線が少し怪しくて、時には食べ物へ妙なものまで混ぜる。顔も知らなければ声も知らない。どんなふうに笑うのかさえ想像出来ない、名前と説明だけの人物。
どう考えても近付きたい人物像ではない。
ないのだけれど、だからこそ少し見てみたい。
それが今、この宇宙ステーションのどこかに居る。そう考えるとそれまで他人事だった好奇心がぐっと手の届く距離まで近付いてきた。一体どんな顔をした人が、そんな事をするのだろう。
「……へえ」
思わず零れた声に、ヘルタの目が細くなる。
しまった、と思った時には遅かった。どうやら今の私は、相当分かりやすい顔をしていたらしい。
次の瞬間、ヘルタは私の手首を掴んだ。
「ちょっと、何」
「部屋まで送る」
「一人で帰れるけど」
「知ってる」
「じゃあ離して」
「あなたを一人にすると、数秒後にはルアン・メェイを探して収容区画を彷徨ってそうだから」
失礼な。
「そんな事しないよ」
「じゃあこっち見て言って」
視線を逸らす。
「ほら」
「……見るだけなら」
「駄目」
「遠くから」
「駄目」
「話さないから」
「駄目」
取り付く島もない。
「餡の猫の飼育許可だけ――」
「駄目って言ってるでしょ」
今度こそ本格的に腕を引かれた。
ヘルタは振り返りもしない。そのくせ手首を掴む指だけは妙にしっかりしていて、振り解こうとするとその分だけ力が強くなった。
「痛い」
「嘘。全然力入れてない」
適当に言ってみたものの、あまり効果はなかった。仕方なく大人しくついていく。
とはいえ、ヘルタと私では歩幅が違う。向こうはいつもの調子でさっさと進むものだから、こちらは半ば引き摺られるように足を動かす羽目になった。
「そんなに会わせたくない?」
「会わせたくないんじゃなくて、あなたが余計な事するのが目に見えてるだけ」
「私、そんなに信用ない?」
「好奇心に関しては皆無だね」
酷い評価だ。
「ねえ」
「何」
「もしかして、私とルアン・メェイが会ったら困る様な事でもあるわけ?」
ぴたり、と足が止まった。
あまりに唐突だった所為で、危うくその背中へぶつかりそうになる。寸前で踏み止まり、行き場を失った爪先が床を擦った。
ヘルタはすぐには振り返らなかった。
私の手首を掴んだまま、ほんの僅かな沈黙を貫いた。それから、何かを確かめるようにゆっくりとこちらを振り返る。
「なんでそんな話になるの」
「じゃあ――」
「困らないけど、会う必要もないよ」
「それはあなたが決める事じゃないでしょ」
「そうだね」
意外にも、そこはあっさり認めた。けれど手は離れない。それどころか、一度緩んだ指が改めて私の手首を包み直してしまう。
「だから、あなたが勝手に会うのを禁止するつもりはないよ」
「じゃあ、離してよ」
「今日は駄目」
「は、……何で?」
「私がいるから」
意味が分からない。
首を傾げる私を置いて、ヘルタは再び歩き出した。
「研究区画を案内してほしいなら私がすれば良い。珍しいものが見たいなら私が見せるし、暇なら少しくらいなら付き合ってあげても良い。だから、わざわざ今ルアン・メェイを探しに行く理由はないでしょ」
「……」
「何」
「いや」
思わず、掴まれたままの手首へ目を落とした。
さっきまで質問が鬱陶しいだの、ルアン・メェイとは仕事上の付き合いでしかないだのと言っていた人が、今度は私の好奇心の行き先まで決めようとしている。
本人はきっと、極めて合理的な提案をしているつもりなのだろうが、その割には私がルアン・メェイへ興味を持つ事そのものを気に入っていないようにも見えるけれど。
それは何だかなぁ、と。思ってしまうわけで。
「何笑ってるの」
「別に。笑ってない」
「笑ってるでしょ。何がそんなにおかしいの」
「気のせいだってば。しつこいなぁ」
「……はぁ」
呆れた溜息と一一緒に、また腕を引かれる。
私は今度こそ大人しくついていった。
もっとも、ルアン・メェイ。その名前はもうしっかり覚えてしまったけれど。
「天才クラブって皆こうなの?」
しばらくして遅れて抗議すると、ヘルタは前を向いたまま答えた。
「私を基準に他の会員を考えないで」
「でもルアン・メェイも似たような感じなんでしょ?」
「だから違うって言ってるでしょ。しつこいよ」
珍しく語気を強めたヘルタの横で、私はこっそり収容区画の方角を振り返った。
もう餡の猫の姿は見えない。無機質な白い通路が遠くまで延びているだけで、あの丸い影はとうに角の向こうへ消えていた。それでも掌にはまだ小さな身体を撫でた時の柔らかな感触が残っている。指先を僅かに曲げれば、ふわりと沈んだ毛並みまで蘇ってくるようだった。
いつか絶対に連れて帰ろう。全てをとは言わないが、せめてぽんずだけでも。
そう胸の内で固く決意した、その瞬間だった。
「今、碌でもない事考えたでしょ」
いつの間にかヘルタが振り返っていた。
「考えてない」
「顔に書いてある」
「人の顔を勝手に読まないで」
「100年以上見てるんだから分かるよ」
あまりにも何気なく投げられた言葉だった。だからこそ、すぐには返せなかった。
記録の上では理解している。私が眠っている間にそれだけの歳月が流れた。世界は変わり、知っていた人達はいなくなり、窓の外にはかつて想像する事しか出来なかった宇宙が広がっている。
けれど、私にとって100年は時間ではない。一度目を閉じて、次に開くまでの空白だ。
見慣れた病室で眠りに落ちた夜と、医療区画で目を覚ました朝。その間を切り取ってしまえば私の中には一日分の記憶さえ存在しない。
でも、ヘルタは違うのだろう。
私が眠った日も、その次の日も。季節が巡り年が変わり、10年が過ぎ、それがまた10回積み重なる間もヘルタだけは一日ずつ時間の中を歩いてきたのだろうか。
その年月のどこに私がいたのかは知らない。毎日思い出していたなんて、そんな綺麗な話ではないだろう。ヘルタには研究があって、仕事があって、私の知らない人達と出会い、私の知らない場所へ行き、私の知らない人生を生きてきた筈だから。
それでも、ずっと見ていたと、この人は当たり前のように言った。
私の知らない100年間にも、私を知っている人がいた。それだけの事が、妙に胸の奥を疼かせて堪らなくなるのは、私がまだ現実を受け入れられてないからだろうか。
弱いな、本当に。
「……何」
黙り込んだ私を訝しんだのか、ヘルタが横目でこちらを見ている。
「別に」
「そう」
それ以上は聞いてこなかった。ヘルタはまた前を向き、また何事もなかったように歩き始める。
いつの間にか、手首を掴む力がほんの少しだけ緩んでいた。
けれど逃がすつもりまではないらしい。指は離れないまま、先程までの乱暴さだけが消えている。掴んでいた手も僅かに下へズレて、親指が手首の内側へ触れていた。
そこはいつも検査で脈を取られる場所だった。
とく、とく、と。
薄い皮膚の下で、規則正しく血が巡っている。
偶然なのかもしれない。ずっと眠っていた妹の脈を確かめる癖がついた、なんて考えるのは、少し都合が良すぎる気もした。
それでも、指先の下で刻まれる鼓動を確かめるようなその手付きに、何となく「離して」とは言えなくなった。
私が今ここにいる事を確かめられているような気がしたから。だから、それらを指摘する代わりにもう一度だけ背後を振り返った。
白い通路がどこまでも真っ直ぐに延びている。
当然、そこにあの丸い姿はもうない。
「……ぽんず」
「いい加減に諦めなよ」
間髪入れずに返ってきた。
「名前を呼んだだけ」
「その名前も忘れて」
「それは絶対嫌」
「子供」
「仕方ないでしょ。精神年齢はまだ18歳のままなんだから」
「その理屈で子供を名乗るには無理があるでしょ」
「でも18歳だよ」
「実年齢の話をするなら118歳」
「今、精神年齢の話してるんだけど」
「じゃあ18歳なんだから、駄々捏ねないで」
「18歳に何を求めてるの」
「少なくとも、拾った生き物を勝手に持ち帰らない程度の理性」
「まだ持ち帰ってないじゃん」
「……はぁ」
隣から呆れ果てた溜息が聞こえてきた。
その響きがおかしくて、今度は堪えずに笑った。ヘルタはもう一度、今度は先程よりも深い溜息を吐く。
けれど、私の手首に触れた指は最後まで離れなかった。
私も、もう離せとは言わなかった。
難産でした。
如何に5000文字に収めようかなど抵抗も虚しく。読みづらかったらすみません。楽しんで頂けたら幸いです。