巨石の神殿を建てたいと言うあなたに、私はパンを焼き、酒を醸す ~紀元前1万年。人類最古の神殿の、いちばん最初の恋~ 作:ramunade
祭りが終わってしまえば、丘は嘘のように静かになる。
火を囲んでいた人たちも、ひとり、またひと群れと野へ散っていく。皆それぞれの、獣を追い木の実を拾う暮らしへもどっていくのだ。あちこちの焚火のあとから細い煙が立ちのぼっては、風にちぎれて消える。けれどこのたびの別れは、いつもと少し違っていた。どこでも皆の口が、あの泡立つ水の話でもちきりだったのだ。
「なあウネ、あれ、もういっぺん作れないのか。あの笑う水をさ」
作れるものなら、私だってもう一度あの喉のぬくもりを飲みたい。
だから椀の底の白い澱を宝物みたいにすくいとって、新しい水を足し、日のあたる岩に置いてみた。あの晩のように泡が立つのを、膝を抱えて待つ。
待って、待って、三日。
けれど椀の中身は、泡のかわりに青いかびを吹いていた。鼻を寄せると饐えた匂いが目の奥にしみて、涙がにじむ。笑うどころか、泣きたくなる匂いだ。
「……なんでよ。同じ水、同じ麦なのに」
場所を変え、水を変え、日向にも木かげにも置いてみる。それでもあの笑う水は二度と返ってこない。饐えるか、かびるか、そのどちらかだ。来る日も来る日も、私は椀とにらめっこした。焼きたてのパンを浮かべ、冷ましたパンを沈め、日向に置き、木かげに移し。思いつくことは、なんでも試した。それでも、答えはちっとも見えてこない。わからないから、よけいに悔しい。
「近ごろ、椀とばかりにらめっこだねえ。年頃の娘が」
「い、いいでしょ、別に」
サナ婆さまにからかわれて、私はぷいと横を向く。それでも椀を手放さない私に、婆さまはやれやれと首を振った。
◇
人が去り、丘に残るのが私たちともうふた群ればかりになっても、あの男はまだ土を掻いていた。
イシュだけは頑として腰をあげない。骨の箆ひとつで固い土をひとりで掘っては、掘ったそばからまた崩れて埋まって。石を起こすなんて、どう考えたってできっこない。それでも、その穴を覗きこむ彼の目は、いつも遠くの、私には見えない何かを、まっすぐに見つめていた。
「まったく、馬鹿な子だよ」
荷を背負った婆さまたちが、通りすがりに笑っていく。
「あの石を立てたご先祖さまだって、数えきれないほど大勢の手を借りたはずだよ。それをまあ、あの子ときたら、たったひとりでねえ」
その通りだと私も思う。思うのに、私の足はどういうわけか、あのかちり、かちりという音のするほうへ向いてしまう。
その日から、私は幾度も丘を登った。焼き損じのパンを手に握って、まるで獣に餌でもやるように、こっそりと。
登る前には、湧き水で顔を洗って、ほつれた三つ編みを編み直す。編みかけて、はたと手が止まった。……なんで私、身なりなんて整えてるんだろう? パンを届けるだけなのに。
近づくと、イシュは手をとめて私の持つパンを見る。それから、青かびの浮いた失敗の椀を指さした。
「それも、捨てるのか」
「……うん。また、かびちゃった」
「なら、それは捨てるといい。でも、あの窪みはそのままにしておけよ。あそこは『見ている者たち』にとっては神聖な場所に違いない」
「ねえ、イシュ」私はパンを差しだしながらたずねた。「あんた、どうしてそこまでするの。石なんか起こして、なんになるっていうの」
イシュはこたえず、パンをもそもそと噛んでいる。
「もう。ちゃんと噛んで食べてよ」
「……噛んでる」
子どもみたいな返事に、ふっと肩の力が抜けた。それから彼は、ぽつりと話しはじめる。
「夢を見たんだ。何度も、同じ夢を。丘のうえに、私の背より高い石が腕を組んで輪になって立っている。その上を鶴が渡っていく。渡りながら、逝った者をみんな背に乗せて運んでいくんだ」
だから、と彼は掘りかけの穴に目を落とす。
「『生きている水』を飲んで分かったんだ。あれのちゃんとした家を建ててやらないと。家がなければ、『見ている者たち』は降りてこられない。逝った者も、帰る道をなくしてしまう」
私は思わず夜空を見あげた。ちょうど、遅い鶴のひと群れが、月の前を横切っていくところだ。渡っていく鳥の影が、ほんとうに誰かを背に乗せているように思えて、ぞくりと鳥肌が立つ。私の焼いたパンひとつが、こんな途方もない話につながっていくなんて。
馬鹿げた話だと笑うべきだった。婆さまたちのように、けらけらと。なのに私は笑えなかった。饐えた水を「生きている」と言うこの男の声は、あんまり静かでまっすぐで、私のなかのどこか奥のほうをことりと揺らしてしまうのだ。
パンなんて、食べればすぐに消えてしまう。私の焼くものは、いつだって、誰の腹にも残らない。それなのに、この人ときたら。饐えて捨てるだけの水にまで名前をつけて、家を建ててやろうとしている。こういう人のそばにいると、なんだか私まで、消えないものになれる気がする。
気づけば、私はこくりとうなずいて、握っていたパンを彼の泥だらけの手に押しつけていた。
馬鹿な子だ、と婆さまは言う。そうかもしれない。それでも、私のしくじりを「天からの贈り物」と言ってくれた人は、後にも先にもこの痩せた男ただひとりきりだ。
「……ねえ。次の祭りにも、まだここにいる?」
思いきってそう聞くと、イシュはこちらを見もせずに、かちりと土を掻いてこたえた。
「いる。石が起きるまで、ずっとだ」
心の臓が、ひとつ大きく跳ねる。ずっとだ、なんて。そんな言い方をされたら、まるで、ここで待っていてくれる人がいるみたいだ。
――なら、私も来る。焼きたてのパンと、『生きている水』を持って。
声には出さず、私は胸のなかでそっと約束する。天の川が傾いても、丘を掻く音は、いっこうに鳴りやまなかった。