巨石の神殿を建てたいと言うあなたに、私はパンを焼き、酒を醸す ~紀元前1万年。人類最古の神殿の、いちばん最初の恋~ 作:ramunade
麦がふたたび金いろに実り、鶴が空を渡り、私たちのひと群れはあの丘へ帰ってくる。
こんどこそは、とひそかに意気ごんでいた。長い冬の、退屈でひもじい夜のあいだ、私は幾度もあの水を試しつづけたのだ。凍える手で生焼けのパンをちぎっては水に沈め、朝、饐えた匂いに肩を落とす。かびさせては捨て、腐らせては捨て、それでも諦めきれなかった。死ぬなよと言ったあの人に、あの笑う水をもういちど飲ませてやりたかったから。
指がかじかんで椀を落としたことも、一度や二度ではない。手の甲はあかぎれで、いくつも裂けていた。それでも朝が来るたびに、私はまた新しいパンを焼く。パンは食べれば消えても、この手が覚えたこつは、ちゃんと私のなかに残る。そう気づいたのは、いちばん寒い夜のことだ。
その夜のことは、今でもよく覚えている。凍える指に息を吹きかけながら、私はひとりで笑っていたのだ。きっとうまくいく、と。
そうして幾晩もしくじったすえに、とうとう私はこつを掴んだ。わざと焼きを甘くして、生のままのパンを水に浸す。冷たい場所ではだめだ。人の肌くらいにぬくい窪みへ、そっと寝かせてやる。すると三日で、水は機嫌よく笑いだすのだ。
「できた……できたよ、婆さま!」
泡立つ椀を高く掲げると、丘に着いたばかりの皆がわあっと沸いた。噂はひと冬のうちに野から野へ渡っていたらしい。「パンが息をする丘」だと。おかげで、前の祭りよりずっと多くのひと群れが麦を背負って集まっている。見たこともない顔が、いくつも、いくつも。前の祭りの倍は、いるだろうか。あの笑う水ひとつでこんなにも人が集まるのかと、私は自分の焼くものが少しだけ誇らしい。
「おねえちゃ~ん!」
人ごみのなかから、聞き覚えのある声が飛んでくる。あの少女だ。また背が伸びて、髪に赤い実の飾りをつけている。その後ろには、はにかんだ顔の若い男の子がひとり。
「へえ?」
私がにんまりと眉を上げてみせると、少女は首まで真っ赤になって、男の子の陰に隠れてしまった。ふふ、隠れたって遅いよ。……いいなあ、と。ほんのちょっとだけ思ってしまったのは、内緒だ。
◇
けれど人の輪をかき分けて、私が真っ先に探したのは、そんな大勢ではない。あのしくじりの窪みだった。
ひさしぶりに目にしたその場所で、私は思わず息をのむ。
雨水を溜めるあの石の窪み。そのまわりが、ぐるりと一周、こぶしほどの石ころで囲われていた。人の足に踏まれないように。土に埋もれないように。ひとつひとつどこかから拾ってきて積んだのだと、ひと目でわかる不揃いな石で。
私はそばに膝をついて、その石をそっと指でなぞった。片手の指ではとても数えきれない。両手を足しても、まだ足りない。それだけの石を、いったい何度腰をかがめて拾い集めたのだろう。石はどれもひんやりと冷たい。けれどその冷たさの下に、この人のひと冬ぶんの時間が、しんと積もっている気がした。囲いの石をひとつ手に取ると、じんわりと掌に馴染む。まるで、ずっと前からそこにあったみたいに。この石ころのひとつひとつに、あの人の指が触れたのだと思うと、胸がいっぱいになる。
囲いの内の水面に、ゆらりと私の顔が映っていた。ひどい顔だ。笑っているのに、今にも泣きだしそうな。
「ウネ……」
声のしたほうを振り返ると、そこにあの男が立っている。
ひと冬をこえて、見ちがえるほど痩せていた。頬はげっそりとこけ、両の手のひらは石の粉で白く荒れている。それでも、目のなかの光だけは前より強い。
「守っておいた」と、イシュはこともなげに言う。「あれは、いると言ったろう」
言ったろう、じゃないでしょう。喉の奥がきゅっと詰まって、怒ったような泣きたいような、うまく名前のつけられない気持ちがこみあげてくる。
その荒れた手に、思わず自分の手が伸びかけた。触れる寸前で、ぐっと引っこめる。かわりに出てきたのは、精いっぱいの憎まれ口だ。
「……ひと冬、なにを食べてたの?」
「木の実と、草の根。あとは、お前の置いていった干し肉を、少しずつ」
「……そう」
それだけのやり取りが、なぜだか胸の奥に沁みて、私はまたうつむいてしまう。私の置いていったひと包みが、この人のひと冬を、ほんの少しでも温めていたのだと思うと。
この人は、凍える丘でたったひとり石を起こそうとしながら、そのかたわらで、私のしくじりが生まれたこの窪みを守りつづけてくれたのだ。誰に頼まれたわけでもないのに。
胸の奥がじんと熱くなる。ちょうど、あの泡立つ水を何椀も飲んで、じわりと温もりが回りだしたときのように。
消えてなくなるものばかりを、私は作っている。夜が明ければ忘れられてしまうものばかりを。その私を、この人だけはちゃんと覚えていてくれたのだ。
◇
けれど、そのじんとした熱を、ふいの声が断ち切った。
「ほう、これはこれは。噂に聞いた笑う水の娘というのは、あんたかい」
振り向くと、見たこともない大柄な男が立っている。でっぷりと
ダグは背に負った獲物を惜しげもなく皆にふるまい、渇いた喉に水を配ってやる。たちまち人が彼のまわりに集まって、笑いさざめきはじめた。困っている者には、当たり前のように手を貸す。なるほど、皆がこの男を頼るわけだと私も思う。
「いい匂いだ。この手ひとつでこれだけの人を呼ぶとは、たいした娘だな」
褒められて、悪い気はしない。おおらかで、頼りがいのある人なのだろう。この人の言葉は蜜みたいに甘い。甘いのに、なぜだろう。私と椀と群れとを順になでていく目の奥に、ほんの少しだけ、値踏みするような光が過ぎった気がして。私は知らず、椀を抱える手にそっと力をこめていた。