憑依八神君がどうにか綾小路を退学にさせようと奮闘する話 作:pastel color
暗闇の底から少しずつ意識が浮上していくのと同時に、失われていた五感が緩やかに戻り始める。
背中に伝わるのは心地よく沈み込む適度な弾力と、肌触りの良いシーツの質感。頭下にある枕の感触から、自分が横たわっているのが地面でも床でもなく丁寧に整えられた寝具の上であることを綾小路はすぐに理解できた。
ゆっくりと瞼を開くと、視界に飛び込んできたのは船内の天井。
そしてかすかに鼻腔を突く消毒液特有のツンとした匂い。
「──病室か」
海へと投げ出された直後──綾小路は水中で八神、そして宝泉と揉み合いになった。呼吸を奪われ着水時の衝撃が身体に響いている状態での攻防によって急速に酸素を失い、意識が途絶えた瞬間の記憶が最後だ。
身体の各所に残る重い倦怠感と、喉の奥にこびりついた海水の微かな塩辛さ。少なくとも数時間──長くて半日近くは眠り続けていたのだという事実を身体の感覚から察する。
綾小路は静かに息を吐き出し、先程から感じていた違和感の正体を確かめるため左腕に目を向けた。
肘から手首にかけて頑丈なギプスで固められ、包帯が幾重にも巻き付けられている。
──気絶した後で折ったのか。
まるで他人事のように、綾小路は自身の損傷した左腕を観察する。海中で意識を失った自分に対し、確実に怪我によるリタイアを成立させるためのダメ押しだろう。
仮に今から八神達に襲われたと学校側に訴え出たところで、状況は好転しない。
彼らは自分達の腕時計をあらかじめ破壊しているはずであり、GPSによる位置情報の証明は期待できない。それどころか、八神が月城と事前に裏で接触していたことを考えれば根回しも既に完了していると見るべきだ。
唯一、八神があの場に居たことを証明できるタブレットは手元にない。こちらも既に証拠を消されていると考えられる。
──してやられたな。
無効のカードも退学を回避できるだけのポイントも無い。
この無人島試験で、綾小路が退学を回避できる方法は無数にあった。敗因は圧倒的な情報不足と、敵の動きや思考を読み違えたこと。
敵はホワイトルーム生だけであり、それを取るに足らない相手だと見誤ってしまったことが敗北に直結した。
今もなお、八神の策は全容が見えてこない。一年生の間で何が起こっていたのか、知る由もない。
「今からできることは……」
救済措置を期待したところで、この怪我では復帰も難しい。
綾小路が事件に巻き込まれた被害者であると証明できない以上、下位五組のペナルティを免除してもらうことも不可能。
──八神と宝泉だけでも、オレと一緒に落下したことを証明できればまだ起死回生のチャンスはあるか。
教職員でなくとも、医療班の証言を得られる可能性はある。
パートナー筆記試験の時のように、泥沼展開に持ち込めればまだ──そこまで考えた綾小路の中に浮かんだ最大の障害は月城の存在。
「……詰みだな」
──もはや為す術はない。下位五組が確定したオレは、ポイントを支払えるかどうかを確認された後で退学を言い渡されるだろう。
一先ず、身体の状況を確認するためにナースコールを押そうとした瞬間──ノックも無しに扉が開かれる。
そこで姿を見せたのは月城、そして後ろに控えている看護師と医師らしき人。
「おや、目が覚めましたか。ちょうど良かったです」
そのままメディカルチェックを受け、特に異常は見られないと伝えられる。海で溺れはしたが、意識もハッキリしていて後遺症はないと。
半日近く眠っていたが、それは意識不明だったわけではなく疲労が原因のようだ。
腕に関しては皮膚を傷つけていない単純骨折で、肘の部分が綺麗に折れているらしい。
綾小路の無事が確認できた月城は医師達を退室させた後、椅子に座って綾小路へ視線を向ける。
「──どうでしたか、あの子は」
あの子──それが誰を指した言葉なのかは明白だろう。
「想像の上をいかれましたね。本当に、八神はあの施設で育ったんですか?」
「勿論、あの子は紛れもなくホワイトルームで生まれ育った子です。能力的な意味の成功例である君とはまた違う意味で、あの子も他に類を見ない特別な子だ。先生もそう仰っていましたし、私も同じ考えです」
「能力に対する物差ししかないあの場所で、そんな評価を受けられる時点でオレより特別だと思いますよ」
生徒がどうであるかなど二の次なホワイトルームで、よりにもよってあの男に精神性を評価されるのは異常だと綾小路は考える。
「能力で劣っているのは事実ですからね。それはそれ、これはこれですよ。あの子が君に勝ったところで、あの子が新たな最高傑作になるわけでもありません。むしろあの施設の成功例とは何を指すのか、曖昧になってしまったくらいですよ」
実力で劣る八神が最高傑作である綾小路に勝ったということは、少なくとも個人の能力が突出していたところで環境次第では敗北しうることが証明されたということ。
その事実がどれだけホワイトルームの未来に響いてくるか、綾小路はまだ想像できない。
「雑談はこの辺にしておきましょうか。さて、綾小路君。クラスメイト達から非難される前に、自主退学を選んで一日でも早く施設に帰ってはどうですか?」
「一応、試験のペナルティで退学することにしますよ」
「クラスポイントを考慮しているのですか? どの道退学するというのに、殊勝なことですね」
罪悪感ではない。義理とも少し違う。自分が退学した後、Dクラス含めこの学校の生徒達がどうなったところで綾小路はどうでもいい。
だから、これはある種のマナーのようなもの。
単独参加を決めた時から、そこは一貫している。
「まあ……仮にも一年半過ごしたクラスですから」
「なら、君の判断を尊重しましょう。まだ特別試験の最中です、私も仕事に戻らないといけません。しばらく……と言っても試験終了まであと三日程ですが、その間はここで安静にしておくように」
医師の判断ですからね──そう付け足し、立ち上がって扉に手をかける。
「待ってください。八神は……どこにいますか?」
「八神君もリタイアしましたが、治療は終えていますからね。今は船内のどこかで、過ごしていると思われますよ」
──会いに行きたいが、探し回るのは難しいな。
「試験終了後、担任の先生方が事情聴取を行いに来るでしょうが──誰かに襲われた、などと根拠のない発言はしないように。君の退学は、もはや決定事項ですからね」
月城が退室し、再び静寂が医務室を包み込む。
綾小路は自らが辿る運命をまるで他人事のように想像しながら、目を伏せる。
彼の脳内では、八神と戦ってから海に落ちるまでの流れを繰り返しシミュレートしていた。
◇◇◇
約三日後──二週間にも及ぶ長い長い無人島試験がたった今終了した。
結果発表は船内で行われるが、下位五組の生徒達は事前に呼び出された後に退学を取り消せるだけのポイントを支払えるかどうか確認される。
ポイントを支払えた生徒は退学を防ぎ、そうでなかった者はその時点で退学が確定し荷物をまとめ小型船に乗り込むことになる。
綾小路も例に漏れず、担任である茶柱が病室にやってきて救済措置を取れるかどうかの確認をされた。
何故か隣にいる星乃宮を横目に、綾小路はポイントを所持していないと伝える。
「──何故、そんなことになった?」
茶柱は悲痛な表情を隠さずに綾小路へ問う。
担任である茶柱は、綾小路の救助に間に合わなかった。彼を救助したのは、一年Dクラスの生徒が溺れているとの通報があり偶然そこに向かっていた司馬だ。
茶柱と真嶋がG2に向かった時は既にもぬけの殻。
「……仮にオレが誰かに襲われてこうなったと証言したとして、それを証明してくれるんですか?」
「もし故意に負わされた怪我なのだとしたら、見過ごせないな。周りの情報と照らし合わせて、証言が一致すれば審議が行われる可能性もある」
「綾小路君はここで寝てたから知らないと思うけど、実は同じ日にAクラスとDクラスの生徒が怪我でリタイアしてるのよね。しかも二人とも、誰かに襲われたと証言してるの」
不自然な偶然が連続すれば、それは偶然ではない。他の生徒が犯人の顔を見ていない以上、嘘だと判断されても仕方ないが──綾小路から犯人の情報を聞ければ、その前提は覆るかもしれない。
──何故、茶柱達の到着が間に合わなかったのか……漸く合点がいった。
四月の筆記試験で、八神は綾小路の周りを潰しにいった。Dクラスでは綾小路と関係性が強く、戦力としても申し分ない生徒を狙い。
Aクラスでは綾小路の背景を知る坂柳の側近を狙い。
結果的に綾小路の足場を崩し、彼が他の生徒をこれ以上巻き込まないために単独で動くよう誘導した。
あとは教職員に潜む綾小路の協力者を探し、同時に足止めを行えばチェックメイト。
相手の駒を削ること、それが最も単純な攻略法だ。
「話す前に、一つ聞かせてください。十日目、一年生の八神拓也は試験に復帰していましたか?」
茶柱と星乃宮は首を横に振る。その瞬間、綾小路は溜息をつき。
「そうですか。オレから言えることは何もありません、大人しく退学を受け入れますよ」
リタイアはアリバイを作るためだったと理解する。坂柳が気づいていなかったということは、土壇場のアドリブではなく最初からそれが狙いだったのだろう。
綾小路は抵抗することなく荷物を手に取り立ち上がる。
綾小路にとって八神は自分と同じ施設で育っただけの、総合的な能力では自分に遠く及ばない少年に過ぎなかった。
警戒すべき対象ではあっても、対等に評価する必要はない。
──そう判断していたからこそオレは後手に回り続け、敗北した。
そして、その敗北を認められない限り次に進むこともできない。
惜しむらくは、最後に八神と話せなかったことか。
「もう……いいのか? 最後に誰かと話すくらいの時間なら、まだあるぞ」
「試験が終わって皆疲れ果ててるでしょう、オレの都合に付き合わせるのは悪いですよ」
「……そうか」
綾小路は病室を出て、茶柱の案内の元退学者を乗せる小型船へと向かう。二年生の均衡は崩れた。堀北クラスはもはや再起不能、坂柳クラスは深刻な戦力不足、龍園クラスは目立った被害はないが今や二年生共通の敵。
「……ふふっ」
一人、病室に残った星乃宮は我慢できず口角を吊り上げた。
◇◇◇
「一夏、いい加減離れてくれないか」
「無理」
試験を終えて船に戻ってきた天沢達はシャワーを浴びて身なりを整えたあと、特にすることもなく客室で穏やかな時間を過ごしていた。
ホワイトルームのことまで話さずとも、八神と天沢の関係をこれ以上隠す理由はない。仲の良い幼馴染、と在り来りな設定を宝泉には説明済みだ。
そして、秘密裏に行われた綾小路清隆退学試験の報酬は宝泉に支払われると先程通達があった。
とはいえ、協力してくれた椿達Cクラスにも要求されていた分け前を渡すべき──そう考えた七瀬が口を開く。
「宝泉君、椿さん達の取り分ですが──」
「あ? 奴らに渡すポイントなんざ一点もねえよ。2000万全額、天沢を引き抜くのに使うが……とりあえず移籍する前にAクラスのクラスポイントを0にして来い」
「うわっ、性格悪すぎでしょ〜ありとあらゆるところに喧嘩売るじゃん。良いよ、乗った」
天沢は宝泉のお眼鏡にかなったようだ。八神が何も言わずとも、彼は天沢を引き抜く判断をした。
それは即ち、彼がDクラスのリーダーとして上を目指す意志を見せたことに他ならない。
「良いんですか? 八神君」
「まあ……Dクラスを仕切ってるのは宝泉君だから。責任取ってくれるなら好きにさせていいんじゃないかな」
八神は楽観的な返答をする。彼にはクラス間闘争など微塵の興味もない。将来が不安定だったなら、コネクションを作る意味でも表に立って動くのは選択肢の一つだったが──もはやその心配もいらない。
綾小路をホワイトルームへ連れ戻した時点で、高育における八神の役目は終わりを迎えたのだから。
──もう、ここにいる理由もない。
「もうすぐ結果発表の時間ですね。そろそろ行きますか?」
「そうだな、行くか。楽しみにしとけよ八神、今からおもしれぇもんが見れるぜ」
「僕がいない間に何をしたのやら……」
四人は客室を後にする。
午後八時──二週間ぶりの豪勢な食事を楽しむ生徒達の前へ教員達が集まり、三年Aクラスの担任である佐々木が一歩前へ出てマイクのスイッチを入れた。
生徒達は食事、或いは友人との会話を中断し佐々木へ視線を向ける。
佐々木は生徒達に労いの言葉をかけた後、退学措置を受ける下位五組の名を上げていく。
「では、まず退学ペナルティを課された下位五グループの代表者名を読み上げます」
一年AクラスとBクラスで組まれた三人グループ。
一年AクラスとBクラスで組まれた二人グループ。
一年Bクラスのみで組まれた三人グループ。
一年Aクラスのみで組まれた三人グループ。
「そして二年Dクラス──綾小路清隆。合計十二名となります」
──なるほど、どうやら中々のパワープレイを決めたらしい。
佐々木の説明を聞いた八神は自分がいなくなった後、無人島の盤面がどんな風に動いたのかをシミュレートする。
導き出した結論は単純かつ悪辣。
「暗黙の了解を躊躇なく破ったのか、本当に最悪だな君」
「最高の間違いだろ。学年対抗戦なんざ表向きの形式、ここまで同学年から退学者を出すのに最適なルールもそうそう無いぜ。それに、これはお前のやり方だろ? 将棋と違って、現実は玉をとるだけが勝利じゃねえ」
「──そうだね。君は正しい」
もしも、八神と天沢が宝泉到着前に負けていたなら起こり得たかもしれない未来。宝泉は、そんな八神のプランBを応用したのだろう。
仮に綾小路が十日目以降残っていたとしても、退学は避けられなかったはずだと八神は考える。
下位五組の内四グループが一年生、しかも底辺であるCとDクラス以外が軒並み退学者を出しているという事実に多くの生徒がどよめきを起こす。
二年生から綾小路が退学したことに関して、騒いでいる生徒は見当たらない。
騒ぐほどの余裕すら湧かない──そう見受けられた。
巨大スクリーンに電源が入り、映像が映し出されたところで月城が佐々木に代わって進行を務める。
「ではこれから無人島特別試験の結果、上位三組の発表を行います。第三位──二年Aクラス坂柳有栖グループ」
二年生から龍園クラスを除いた三クラスの主戦力が集まった七人グループは、ここでランクイン。
そして第二位が発表される。全生徒が十二日終了時点でツートップだったグループを確認している。
つまり残った方が、一位となる。
「第二位──二年Dクラス高円寺六助」
「第一位──三年Aクラス南雲雅グループ。以上となります」
──やはりそうなるか。
僅差で一位を逃した高円寺は、やれやれといった風に肩をすくめて手に持ったグラスを傾けた。
一方、見事に一位を取り学年から退学者を一人も出さなかった南雲は自信たっぷりな表情で余裕を隠さず佇んでいる。
八神は上からそれを見下ろした後、興味を失ったように踵を返した。
「なんだよ、もう行くのか。これからお楽しみだぜ?」
「パス。ちょっと散歩してくる」
「つれねえな」
一難去ってまた一難、なんてことになる前に八神はその場を去る。
客室へ戻って眠ろうか、それとも娯楽施設に寄ってみようか──そんなことをぼんやりと考えながら人気のない通路を歩いていると、曲がり角の向こう側から生徒が近づいてくる。
「……八神か」
「あれ、てっきり試験の結果を聞いているものと思ってましたが……君は面倒事が嫌いなんでしたっけ」
「それが理由でここにいるとでも?」
「さあね。僕は君がどんな人か詳しく知っているわけじゃないし。何か思惑がある──と見せかけて、ただの迷子ですか?」
睨まれる──が、八神はそれを意に介さない。
「君のクラスから退学者が出たことは、とても残念に思ってるよ。でも僕にはどうすることもできなかった」
「確かに、お前はリタイアしていたから十日目以降は試験に関与していない。一年生に裏切り者がいても、お前だけは候補から外れる」
「どちらにせよ一年生が敗北することは避けられなかったと思います。裏切り者がいたんじゃなくて、三年生が一枚上手だっただけでは?」
「どんなに巧妙な罠を仕掛けても、それに引っかかった人間がいる以上痕跡は残る。四月の筆記試験、そして五月の特別試験、今回の無人島試験──いつか絶対にしっぺ返しをくらうぞ」
「忠告ありがとうございます。宝泉君にそう伝えておきますね」
目の前の相手から敵対の意思を感じ取る。それに対し、八神は何も思わず歩き始め──やがて通り過ぎる。彼の相手をするつもりなど毛頭ないのだから。
──花火の後片付けなんてしていられるかよ。
◇◇◇
二週間の無人島特別試験が幕を閉じ、生徒達には一週間の豪華客船による夏休みが与えられた。
多くの生徒が無人島から解放された反動で遊び尽くしている中、八神と天沢は客室で二人きりの時間を過ごしていた。
「それで、話って何〜?」
部屋に置かれた椅子に腰を下ろしている八神。対する天沢はシーツに顔を埋めるようにして、だらしなくベッドの上に寝転がっていた。
八神が意を決したように真剣な眼差しを天沢へと向けた。
「一夏はこの学校に残りたいよね?」
突然の問いかけに、天沢はベッドに寝そべったまま拍子抜けしたような声で即答する。
「は〜? 当たり前でしょ。あたし達は命令通り綾小路先輩を退学させたんだし、後はここで自由に高校生活を楽しめばいいじゃん……なんでそんなこと聞くの?」
命令を遂行すれば、高育で三年間過ごしていいことは伝えられている。恐らく綾小路の代わりとしてサンプル扱いするためだろうが、束の間の自由であることには変わりない。
少しだけ呆れたように笑い、寝返りをうって八神の表情を覗き込もうとした天沢。
彼の真意を確かめようとした瞬間、静まり返った客室にあまりにも淡々とした声が響く。
「僕はホワイトルームに戻る」
その言葉が鼓膜を叩いた瞬間、天沢の身体が弾かれたように起き上がる。
「──は?」
だらしなく乱れていた体勢を一瞬で崩し、天沢の顔から余裕の笑みが消え去る。見開かれた瞳と、絶句したまま固まる唇。
天沢にとって、それは想像の範疇を超えた完全に想定外の告白だった。
「なんでよ……もういいじゃん、もうあの場所に固執する理由なんてないじゃん──」
「昔言ったろ、綾小路清隆に勝つのは過程に過ぎないって。やっと中期目標を終えられたんだ、さっさと次に行かないとね」
綾小路清隆という絶対的な存在を葬り去り、今まで自分達を縛り付けていたものから解放されこの学校で三年間を自由に過ごす──そう信じて疑わなかった天沢に対し、八神の表情には自らの選択に対する一片の躊躇すら浮かんでいなかった。
「一夏がこの学校で過ごしている間に、僕はホワイトルームを内側から変えていく。一夏が卒業した後も、自由に生きられるような環境にしてみせるから──」
揺るぎない眼差しで語られるその言葉に、天沢は言葉を失う。いつもこうだ。彼は自分の中にある覚悟や信念を絶対に曲げない。
全てはただ一つの目的の為に、自分自身すら躊躇なく駒にしてしまう。
天沢は吸い寄せられるようにゆっくりとベッドから立ち上がると歩みを進め、椅子に腰掛けている八神の目の前で立ち止まる。
そのまま震える手を動かし、八神の胸ぐらを掴み上げた。体術を極めたはずのその手には、今や力など欠片も込められていない。
どうしてそこまで一人で抱え込もうとするのか。
どうして自分達を縛り付けてきたあの地獄へ、誰かのために自ら戻ろうだなんて身を滅ぼすような真似ができるのか。
問い詰めたい不満や怒りは、数え切れないほど胸の奥から溢れ出している。
けれど、天沢の口から零れ落ちたのは少女の切ない本音だった。
「あたしを一人ぼっちにする気……?」
消え入りそうな声と、涙で濡れた瞳。ホワイトルームにいた頃は、感情を殺すことなんて息をするのと同じくらい簡単だったというのに。
沢山の感情を教えてくれた相手には、どうにも我慢できなくなってしまう。
「一人ぼっちになんてならないよ。ここには七瀬さんや、宝泉もいる。それにDクラスの生徒達だって良い人ばかりだ。一夏が望めば、きっと温かい居場所ができるはずだよ」
胸ぐらを掴んでいた天沢の手を八神は包み込むように、そっと握りしめた。
天沢は八神の温もりに縋るように、握られたその手を痛いほどの力で強く握り返す。
彼女は倒れ込むように、座っている彼の膝の上に腰を下ろした。
「そんなの、なんの意味もない……っ!」
溢れ出す涙を止められず、天沢は弱々しく首を振った。積み重なる感情が溢れだし、胸の奥底にずっと仕舞い込んでいた本当の気持ちが声となって零れ落ちていく。
「拓也がいない世界なんて、あたしには何の意味もないの……っ! 離れるくらいなら居場所なんていらない。あたしは、ずっと拓也と一緒にいたいの……」
顔を上げ、八神の瞳を真正面から見つめながら天沢は絞り出すように──その言葉を口にした。
「あたしは……拓也のことが、好きだから……っ」
直後──天沢は八神が何かを口にするよりも早く、捲し立てるように言葉を重ねる。
「……分かってる。あたしがこんなこと言ったって、拓也が自分を曲げたりしないことくらい。痛いほど分かってる……っ!」
涙で濡れた顔を拭いもしないまま、天沢は八神の手を更に強く握りしめる。
「だから、拓也がホワイトルームに戻るならあたしも一緒に行く。二人で戻ろう? どうせ卒業したら戻るんだから、二人で協力した方がずっと──」
それが天沢の絞り出した、最後にして唯一の譲れない主張だった。
八神は寂しげに目を細めると天沢の頭の上に優しく手を乗せ、彼女の柔らかい髪を愛おしそうに撫でる。
「それはできない、施設に戻るのは僕だけだ。あの場所には、僕にしかできないことがある」
八神は撫でていた手を止め、天沢の涙で濡れた瞳をじっと見つめ返した。
「それに、一夏はずっと外の世界で自由に生きたがってたじゃないか。君が抱いたそのささやかな願いを、僕自身のエゴで阻むなんてことは……絶対に嫌なんだよ」
天沢の頭に置かれた掌から、暖かな温度が伝わってくる。
「僕はただ、自分の目的を最後までやり遂げたいだけだ。僕にとって、理想の未来を創るために──行かせてくれないか」
揺るぎない決意と、天沢への想い。
二つを両立させるために八神が選んだ答えは天沢をこの学校に残し、一度でいいから自分と離れる決断を天沢自身にさせること。
──これ以上、僕が一夏を縛り付けるわけにはいかない。
八神を従わせるために、大人は躊躇なく天沢を脅しの道具に使ってくる。だから彼は別れる選択をした。
自分のためにも、彼女のためにも。
勿論、それが根本的な解決にならないことは承知の上だ。結局のところ、自分一人で完結してしまった方が楽だという独善性からくるものでしかない。
「嘘ばっかり……いつだって自分のことなんか度外視で動くくせに」
「自分すら犠牲にしてでも、現状維持って言葉から逃げたいだけさ。僕の意思で道を選べない人生なんて、真っ平ごめんだからね」
天沢は何も言わず両腕を伸ばすと、八神の首の後ろへとしがみつくように手を回した。そのまま身体を預けるように、彼の胸元へと力一杯抱きしめる。
行かないで。あたしを置いて行かないでと、そう駄々をこねて引き留める言葉はいくらでも胸の奥に浮かんでは消えていく。
彼の覚悟を否定することだけはしたくない──それが天沢の判断だった。
「……なら、約束して。絶対に、絶対だよ」
八神の首に回した腕にギュッと力を込め、天沢は涙で濡れた顔を彼の胸元から上げた。赤く腫れた瞳で、縋るように八神の顔を覗き込む。
「あたしがこの学校を卒業したら、絶対に迎えに来て。あの施設を内側から変えるんでしょ? だったら、あたしが外に出る頃には二人の居場所ができてなきゃ嘘だからね」
「ああ、約束するよ」
「……あと、危険な真似はしすぎないこと。拓也が傷ついたら悲しむ人がいるってちゃんと理解して。あと──」
次から次へと溢れ出す確認の言葉。
八神が同じ未来を歩む気でいるのか、本当に自分のもとへ戻ってくる覚悟があるのか。天沢は彼の言葉を何度も何度も確かめずにはいられなかった。一つ一つ念を押し、すれ違いの余地すら残さないように誓いを求める。
八神は嫌な顔一つせず天沢の言葉を拾い上げ、噛み締めるように頷いた。
「卒業の日に必ず迎えに来るよ。僕達二人が自由に生きるための場所を用意して待ってるから」
「……うん。約束だからね、拓也」
交わされた言葉は、未来への小さく──それでいて途方もない約束。
必ず再会し、同じ未来を歩むこと──天沢は何度も確かめたその誓いを胸に深く刻み込み、八神の腕の中で静かに涙を拭った。
「あのさ、せめてこのクルージングが終わるまではあたしの側にいてよ。それくらいはいいでしょ?」
八神は目を細め、その頭を優しく撫でながら頷く。
「勿論だ。残された時間は、一夏のために使うよ。めいっぱい遊び尽くそう」
──たった半年の付き合いだし、打算の関係でしかなかったけど……一応、二人にも伝えておくか。
◇◇◇
そうして始まった一週間の夏休み。
ホワイトルームで育った八神にとって、最初で最後となる普通の高校生としての思い出作りが幕を開けた。
「オラァ!」
船内のアーケードコーナーに、野獣のような咆哮と爆音が響き渡った。
パンチングマシーンの打撃パッドが激しく跳ね、数値が勢いよくカウントアップしていく。叩き出された記録は現在のハイスコアを軽々と塗り替える。
「お前の番だぜ。楽しませてくれよ八神」
「期待されたからには応えないとね。良し──」
腕を組む宝泉に対し、八神は不敵な笑みを浮かべながらマシンへと近づいた。
グローブをはめて拳を握り込むと、インパクトの一瞬だけに力を集中させ。
「せーのッ!」
宝泉が本気で出したスコアは一瞬で無に帰し、唖然とした宝泉の顔を動画に収めていた天沢は一人でケラケラ笑っていた。
──他にも、宝泉グループの四人でダーツをしたり。
「いいか? 大事なのは立ち方と肘の位置だ。力はいらねえ」
「宝泉君が一番苦手なタイプのゲームか」
「ぶん殴るぞ」
得意気な顔で解説する宝泉の手ほどきを受けながら、八神は初めて握る矢の感触を確かめるように指先で転がした。
対するチームは、天沢と七瀬の女子ペア。
一戦目ではフォームが定まらない八神のミスもあり、天沢七瀬ペアが勝利を収める。
「ちょっと拓也~? 全然ダメじゃん、あたしがやり方教えてあげようか?」
「大丈夫です八神君、次頑張りましょう!」
天沢がニシシと悪戯っぽく笑う。だが、二戦目が始まった直後──宝泉と七瀬の目が見開かれた。
「……成長速度バグってんだろ」
たった一回ゲームを終えただけ。それだけで八神のフォームは一切のブレを失い、プロの教本から抜け出してきたかのような完璧な軌道を描いていた。
放たれた矢は吸い込まれるように中央へ突き刺さり、高得点を叩き出す。
一度見た動き、一度経験した動きを瞬時に脳内で最適化し完璧に再現する驚異的な学習能力を露わにする。
「もうお前この道で食っていけ」
「宝泉君の教え方が良かったからだよ」
呆れ果てる宝泉に対し涼しい顔で笑ってみせた。
──一夏と二人きりでビリヤードを楽しんだり。
緑のフェルトが敷かれた台を挟み、八神と天沢がキューを構える。
「手加減なしだからね、拓也」
「言われなくても。一夏こそ、負けても言い訳は受け付けないからね」
「あらら、言ってくれるぅ」
室内に乾いた音が響き、幾重もの球が複雑な軌道を描いてポケットへと吸い込まれていく。
球を弾く度に視線が交差し、互いの手の内を知り尽くした者同士だからこそできる高度な読み合いを──二人は心から楽しんでいた。
──生徒会主催の宝探しゲームに参加したり。
生徒会長の南雲が唐突に開催を宣言した宝探しゲーム、そのルールは至ってシンプルだ。船内に貼られた二次元コード付きのシールを見つけ出し、端末で読み込むことでランダムなプライベートポイントを獲得できるというもの。
シールの読み込みは生徒一人につき一度きり。どのシールに何ポイントが割り振られているかは完全な運次第であり、どれほど頭脳や身体能力に秀でていようと介入できる余地は存在しない。
八神は天沢とペアを組み、直感に頼ってラウンジを探索していた。
二人は手当り次第にシールを探す。天沢は床に膝をつき、ソファーの下を覗き込んでいた。
「あー……一夏? もう少し体勢に気を遣って欲しいんだけど」
気まずそうに視線を泳がせながら注意する八神の言葉を聞いた天沢は小さく笑うと、すっと立ち上がった。
埃を払う素振りをしながら八神の目の前まで歩み寄ると、首を少し傾げて上目遣いに覗き込んでくる。
そして悪戯っぽく笑いながら、両手でスカートの両端をそっとつまみ上げた。
太腿が露わになるギリギリの高さまでゆっくりと持ち上げ、八神の耳元へ顔を近づけて甘く囁く。
「なになに、見えそうだから注意してくれたの? それとも、あたしのせいでドギマギしちゃった?」
スカートの裾をつまんだまま、視線と仕草でじわじわと距離を詰めていく天沢。
「……ねえ、もっと近くで見てもいーよ」
明確な誘惑とからかいを込めて、八神の反応を楽しむように裾をほんの少しだけ高く持ち上げてみせる。
しかし八神は眉ひとつ動かさず、至極冷ややかな眼差しで天沢の額を人差し指で軽く突いて押し返した。
「バカなこと言ってないで裾を下ろしなよ。ほら、服にゴミがついてる」
「いたっ……もう、拓也ってば相変わらずガード固すぎ。ちょっとくらい動揺してくれたっていいじゃん!」
あっさりとあしらわれた天沢は額を押さえながら不満そうに口を尖らせ、つまんでいた裾を下ろした。その瞳にはどこか嬉しそうな、愛おしそうな色が浮かんでいる。
「ほら、さっさと探すよ。ここが気になるなら僕が確認するから──」
大人しく宝探しを再開しようと、八神が周囲の調度品に視線を向けかけたその時──不貞腐れた顔の天沢が、彼のすぐ隣でボソッと小さく呟いた。
「……あたしで初めて捨てたくせに」
「っ──!? 誰が来るかも分からないのにそういうことを言うんじゃない!」
八神は珍しく本気で狼狽しながら即座に声を上げる。周囲に他の生徒がいないか慌てて確認し、珍しく焦りを露わにする。
「捨てたことは否定しないんだ?」
「──いや捨ててないから!」
そんな八神の動揺ぶりを目にした天沢は、してやったりと言わんばかりの悪戯っぽい笑顔を浮かべた。
「あははっ! 拓也焦りすぎ! 冗談だってば~」
お腹を押さえてケラケラと笑う天沢。どんな事態にも冷静に対処してきた八神をここまで動揺させたことに大満足した様子で、楽しそうに宝探しを再開した。
──その直後、植木鉢の裏側に貼られていたシールを見つけ出して50万ポイントを引き当てることになるのは流石に予想できなかったけど……どれも僕にとって、かけがえのない思い出だ。
◇◇◇
静まり返った深夜二時のコンサートホール。
八神と月城は、チェス盤を間に挟んで向かい合っていた。
無人島試験の終結に伴い理事長代理の職を解任された月城から突如呼び出され、誘われるがままに始まったチェス。
特に何かを賭けるわけでもなく、互いの思惑を言葉にするわけでもない。ただ純粋に、盤上の駒を動かす音だけが交互に響く時間だった。
対局の結果は八神の勝ち越し。
何度かは明確に月城の手に詰まされたし、勝ち越した後半の局面に至っては勝利を掴み取ったという手応えすら感じなかった。
ホワイトルームで高度な戦術教育を叩き込まれた八神をして、月城という男は未だに底の知れない大人だ。
月城は膝の上で静かに手を組み、薄く笑みを浮かべながら八神に向かって口を開く。
「実に楽しい時間でした。是非ともまたお相手願いたいですね」
「もしも次があるなら、今度はもう少し明るいところでやりませんか」
「それもそうですね。そんな日が来ることを、私も切に願っています」
月城は満足げに目を細め、丁寧な口調で告げる。
穏やかな笑みを浮かべたまま、「君とこうして話すのも最後なので、遠慮なく言わせてもらいますが」──そう言葉を続け。
「君がこれから成し遂げようとしている理想は、失礼ながらただの絵空事ですよ。井の中の蛙、大海を知らずという一節の通り……ホワイトルームという閉ざされた世界しか知らない君があの組織を変えるなど、あまりにも青く……無謀だ」
現実主義の大人が語るからこそ説得力がある。そして組織の巨大さと闇深さを熟知しているからこその嘲笑、或いは警告。
しかし、八神の瞳から光が消えることはなかった。むしろその眼差しはより一層深く、力強い輝きを宿す。
「それでも──誰もが見上げるほど高い空にだって、手は届いたんですから」
八神は静かに立ち上がり、月城を見下ろした。
「どれほど抗いようのない現実に見えようと、これから僕の手で塗り替えてみせますよ」
誰に笑われたって構わない。世界の誰からも望まれていなくたって構わない。
彼女が何の脅威にも怯えず、心の底から笑って暮らせる自由な世界を作れるのなら──自分が足を止める理由なんて、どこにもないのだから。
──誰かのためという大義名分があれば、自分を犠牲にすることに躊躇いを生まなくて済む。今はそれでいい。
八神の揺るぎない眼差しを正面から受け止めた月城は、感嘆を隠しきれないように深い吐息を漏らした。
「実に面白い。ホワイトルームの最高傑作と呼ばれる綾小路君にはない、情動に根ざしたその執念……嫌いではありませんよ」
月城は拍手でも送るかのように、ゆっくりと両手を打ち鳴らした。
「前々から、一つ疑問がありましてね。君がそこまで天沢一夏という少女だけを特別扱いする理由は何です? 親愛、恋愛感情の類いでしょうか」
月城は顎に手を当て、試すような笑みを深めながら言葉を重ねる。
「或いは他の同期達が尽く君という存在に嫉妬し、嫌悪しているからでしょうか? それとも──」
一拍、意地の悪い間。月城は声を低め、八神の眉間に刻まれるシワを逃さぬようにじっと見つめた。
「天沢一夏が実験の一環として生み出された体外受精児であるという出生が、君の庇護欲をそこまで掻き立てるのですか?」
「……別に」
そう呟く八神の瞳は目の前の月城を通り抜け、はるか過去の記憶──あの白く冷たい部屋の情景へと向けられていた。
完璧であることを求められ続けた八神とて、その心が挫けそうになる瞬間が一度もなかったわけではない。
どんなに過酷な訓練にも耐え抜き、夢を諦めることはなかった。ホワイトルームの最高傑作という存在を知った時も、いつか必ず自分があの男を越えてみせるのだと心の中で固く誓っていた。
だが──もしもその努力が否定された時、自分の手元には何が残るのだろうか。
最高傑作に届き得なかった不良品として打ち捨てられ、空っぽになった自分に何が残るのかと幼き日の八神が暗闇の中で苦悩した時。
その傍らで静かに寄り添い続けてくれたのが、天沢一夏だった。
一日に何度か、他愛もない会話を交わす。
ホワイトルームの規律とはかけ離れたその時間が、八神にとってどれほど心地よかったことか。
そして何より──ほんのたまにだけ、彼女が見せてくれた無邪気で柔らかい笑顔。
八神拓也という少年は、ただそれだけに支えられてあの息の詰まる地獄を生き抜いてきたのだ。
ただ、それだけに。そしてこれからも、それだけのために。
「──理由なんてありません」
八神の断固とした返答に対し月城は深く追求することもなく、どこか清々しさすら感じさせる笑みを浮かべた。そして胸元に手を当てて優雅にお辞儀をしてみせる。
「無用な意地悪を言ったことを、素直にお詫びしましょう。君のことが色々知りたくなってしまったものでしてね」
謝罪を口にした月城はそれ以上その話題に触れることはせず、隣の椅子に置いていた革鞄へとゆっくり手を伸ばした。そこから一冊の薄いファイルを取り出すと、八神に向かって静かに差し出す。
「これは?」
八神は警戒を崩さぬまま、目の前に差し出されたファイルへと視線を落とした。
「見事に命令を遂行した君へのご褒美……或いは、君の将来に対する先行投資とでも言いましょうか」
「気味が悪いですね……」
隠しきれない不信感を露わにしながら八神は慎重にファイルを受け取り、捲って一ページ目に目を通す。
直後──彼の瞳が、驚愕によって大きく見開かれた。
そこに記載されていた文字列、そして並べられたデータ。これが事実だとすれば──そう息を呑まずにはいられない内容だ。
「……月城さん、これは一体──」
問い質そうと八神が顔を上げた瞬間。
月城は立ち上がり、彼に向かってすっと右手を差し出した。
「既に足跡は消しています。どうしようが君の自由ですが……君なら、それを上手く扱えると信じています」
八神は手の中のファイルを強く握りしめ、猜疑心を抱きながらも差し出されたその手を握り返した。
「期待していますよ。施設の次世代を担う──ホワイトルームの教育者、八神拓也君」
握り交わした手の温もりを残したまま、月城は背を向け静かな足取りで暗がりの中へと歩き出す。去り際の言葉を頭に残しながら、一つのファイルを手に八神もその場を去る。
先程目にした、その人物の名前と経歴──それらは紛れもなく、天沢一夏の遺伝子上の父親に関する資料だった。
◇◇◇
七日間のクルージングが終わり、生徒達は高度育成高等学校の敷地へと戻ってきた。八月の終わりまで続く夏休みを満喫しようと、どこもかしこも浮き足立った雰囲気に包まれている。
夜が明け──八神は少ない荷物を手元にまとめた後、半年間過ごした寮の部屋を去る。
人気のないロビーへ着くと、そこには宝泉の姿があった。八神の足音に気づいた宝泉はゆっくりと立ち上がり、正面まで歩み寄ってくる。
「自主退学のペナルティは決して軽くない。大きなハンデになるよ」
八神が問いかけると、宝泉は鬱陶しそうに鼻を鳴らした。
「しつけえな。七瀬もクラスの馬鹿共も納得してる。だからこれ以上四の五の言うのはやめろ」
「それもそうだね。僕は恵まれてるよ」
八神は自主退学という道を選んだ。そのことを事前に話した時、大して驚かれなかったのは記憶に新しい。
宝泉はこう見えて賢い人間だ、八神が綾小路と並々ならぬ因縁があることは何となく分かっていた。
「君は敵が多い……半分は僕のせいだけど。勝ち続けたいなら油断はするなよ。自分に自信があるやつほど足元が見えてないなんて、よくあることだから」
「別れ際に説教かよ」
「失礼な、激励だよ。君は強い、周りの生徒じゃ相手にならないほどね。だからこそ油断大敵ってこと。頑張れよ、宝泉」
たった半年。互いの利害が一致していただけの打算的な関係。それでも、同じ時間を駆け抜けた絆は確かに存在していた。
八神は最後に右手を差し出し、握手を求める。
「気色悪い奴だな。男同士の別れの挨拶なんざ、これでいいんだよ。覚えとけ」
宝泉はフッと息を吐くと、差し出された手を掴んで握り拳を作らせた。
そして自分の拳を突き出し、こつんとぶつける。
「……だね」
「お前は自分の心配だけしてればいいって前に言っただろ──くたばるんじゃねえぞ、八神」
「言われるまでもない」
互いに不器用な言葉を最後に交わすと、二人は振り返ることなく別々の方向へと歩き出した。
眩しい陽射しに目を細め、外へ踏み出す。少し歩いたところで、後ろから自分の名前を呼ぶ透き通った声が届いた。
「──八神君っ!」
足を止めた八神が振り向くと、息を切らした七瀬が駆け寄ってくるところだった。その瞳には隠しきれない寂しさと、それでも真っ直ぐな意志が宿っている。
「……七瀬さん」
「どうしても、最後に八神君と話したくて走ってきちゃいました」
汗を拭った七瀬は八神の前に立つと、揺るぎない眼差しで彼を見つめた。
「今まで、お互いに色々な思惑があった上で言わせてもらいます──これからも、私達は友達です」
あまりにも純粋で、眩しすぎる言葉。
そんな彼女に、知らず知らずの内に絆されていたのかもしれない。
「……人を人とも思ってないような、どうしようもない考え方が根っこにあるような僕を友達だと言ってくれるなら──僕もこれから、七瀬さんを通じて少しずつ知っていけたらなと思う」
八神の口から零れ落ちたのは自らの歪みを認めた上での、小さくも誠実な歩み寄りだった。
七瀬は溢れそうになる涙を堪え、弾けるような笑顔で大きく頷いた。
「はい……! はいっ、喜んで!」
静かな風が二人の間を吹き抜ける。八神は離れ際に、少しだけ視線を泳がせながら思い出したように口を開いた。
「それと……良ければ、一夏を気にかけてやって欲しい。彼女はああ見えて、結構寂しがり屋なところがあるから。七瀬さんが友達になってくれたら、僕も安心できる」
最後の最後まで自分ではなく天沢を気遣う言葉に、七瀬はクスッと可憐に笑う。
「勿論です、任せてください。ですが、天沢さんを幸せにするのは男の子の役目ですよ」
不意を突かれた八神はどこか照れくさそうに苦笑いを浮かべ、その問いには答えなかった。代わりに静かに右手を差し出す。
七瀬もまた、自分の右手をしっかりと重ね合わせ温かな握手を交わした。
言葉にせずとも伝わる想いを残し、二人は晴れやかな表情でそれぞれの歩むべき道へと歩き出す。
◇◇◇
校門の前──真夏の眩しい日差しが照りつける木陰に、天沢は一人で立っていた。
八神が歩み寄ると彼女は振り返り、涙の痕など微塵も感じさせない見慣れた悪戯っぽい笑顔を向ける。
その瞳の奥には隠しきれない切なさが滲んでいた。
「……遅いよ、拓也。待ちくたびれちゃったじゃん」
「ごめん、ちょっとだけ人と話しててさ」
「ふ~ん、まあいいけど。次はもっと早く来てよね」
天沢は八神の前まで歩み寄ると、彼の胸元に顔を埋める。お互いに交わした再会の約束、それを果たすための三年という短いようで長い時間。
言葉にしなくても、二人の間には同じ未来を歩もうとする意志が共有されていた。
「約束……破ったら許さないからね」
「分かってるよ、必ず迎えに来る。一夏こそ、無事に卒業してくれよ?」
「うん、待ってる。何ならAクラスで卒業して、あたしが拓也のこと養ってあげるから」
「想像した途端に情けなくなってくるからやめてくれ……」
二人の間に流れる空気は別れの寂しさを孕みながらも、澄み渡る空のように清々しかった。もう迷いも引き留める未練もない。
八神は静かに背を向け、校門の外へと一歩を踏み出す。
天沢はその背中を見つめ、眩しそうに目を細めながら小さく手を振った。
「またね、拓也」
さよならは言わない。
絶対に再会するという誓いを込めて、八神も振り返らずに小さく手を挙げた。
「──ああ、またね。一夏」
真夏の青空の下、二人の距離は少しずつ離れていく。
それでも──二人が歩く先には、同じ未来が待っている。
完結です。こんな話が読んでみたいな、と書き始めた作品が多くの人に楽しんでもらえてとても嬉しいです。
一年生達、特に八神君と天沢には原作でも幸せになって欲しいですね。
長い間、ありがとうございました。
◇◇◇
部屋の静寂を破るように、二人の男がテーブルを挟んで向かい合っていた。
ふと一人の男が視線を部屋の入口へと向け、低い声で扉の向こう側へ問いかける。
「……こそこそと盗み聞きか?」
重々しい音を立てて扉がゆっくりと開き、一人の少年が静かに姿を現す。
「君子危うきに近寄らず、という言葉をご存知ですか?」
彼は穏やかな笑みを浮かべながら、淡々と言葉を紡ぐ。
「談笑も結構ですが、これ以上先生の貴重なお時間を使うことは得策ではありません。まずは今までのことに一度目を瞑って、建設的な会話をするべきだと僕は思います」
そのままゆっくりと足を進め、椅子に座る男の目の前まで歩み寄る。
「今日からよろしくお願いします──綾小路先輩」