窓の外では夜風が木々を優しく揺らし、淡い月明かりが部屋へと差し込んでいた。規則正しく刻まれる時計の針だけが、深夜であることを静かに告げている。その静寂の中、一人の青年がゆっくりと瞼を震わせた。
「……っ」
全身を駆け巡る鈍い痛みが襲い骨の軋み、裂けた筋肉、焼けるような肺とただ息を吸うだけで激痛が走るほど身体は悲鳴を上げていた。
レイは重い瞼を開き、ぼんやりと天井を見つめる。
見慣れた天井だった。ここはエデン連邦氷城…つまりは自分の寝室であった。
夢ではない。確かに生きている。ゆっくりと首だけを動かした時、その視界に映った光景に思わず息を呑む。
ベッドの傍では椅子へ腰掛けたまま眠っている二人の女性。
レイが命を賭しても護りたい二人が酷く疲れ果てた様子で、ベッドへ突っ伏すように眠っていた。
そして何より目を引いたのは――二人がそれぞれ、まるで離すまいと言わんばかりにレイの手を握っていたことだった。
白く細いハンコックの手…力強く、それでいて優しく包み込むヤマトの手。どちらも温く、そしてその寝顔にはまだ乾き切っていない涙の跡が残されていた。
「……」
レイは静かに二人を見つめる。どれだけ心配を掛けたのか。どれだけ泣かせてしまったのか。その答えは、この涙跡だけで十分過ぎるほど伝わってきた。
胸が締め付けられるが、その感情はすぐに別の感情へ飲み込まれた。
――思い出した。
世界最強の剣士。ジュラキュール・ミホーク。
最後の激突を限界を超えて振るった氷剣を
そして――自分の意識が、先に暗闇へ沈んだ瞬間を。
「……負けた…のか」
掠れた声が漏れる。誰に聞かせるでもない。自分自身へ突き付ける現実だった。最後まで立っていたかどうかは知らない。
だが、自分は先に気絶した。それだけで十分だった。
確かに鷹の目ミホークは世界最強な剣士である。実際に対峙してみても彼の強さは別格でありそれこそ四皇である白ひげやカイドウと比べても遜色ないほどであった。
しかし、レイ自身以前カイドウと死闘を演じた頃から成長し最早別人レベルに強くなっていたはずだ。そしてそれは自惚などではなく海軍大将の青キジや革命軍の未来・サボ相手に完封するなど確かな強さを身につけていた。
しかしそれでもーー
「……クソッ」
拳を握ろうとする。しかし力が入らない。情けないほど震えるだけだった。
「あと少しだった……いや…負けちゃあ意味ねぇか」
そうだ。それは言い訳に過ぎない…どれだけギリギリの接戦を演じようが負けたらそこでお終い。勝った方が勝者であり絶対の決定権を持ち敗者は喰われ呑み込まれるだけ…レイの根底にある価値観とは常に弱肉強食の強者だけが摂取し続ける世界。
…それを終わらせる為にレイは強くなった。もう誰にも負けない為に…奪われない為に
レイの頭の中では何度も何度も最後の戦いが繰り返される。あの一太刀あの一瞬僅かでも違えば届いていたのではないか。そんな”もしも”が、止め処なく溢れてくる。
「…また…かよ」
自嘲気味に笑う。その笑みは酷く弱々しかった。悔しいさ…悔しくてたまらない。己の未熟さがあと一歩届かなかった現実が。何より、自分が負けたという事実が胸の奥を焼き焦がす。
「……っ」
唇を強く噛む。血の味が口に広がる。
それでも込み上げる感情は止められなかった。
「くっ……!」
頬を熱い雫が伝う。声を殺して泣いた。子供のように嗚咽を漏らすことはない。ただ悔しさだけを噛み締め、静かに涙を流し続けた。
その時だった。
「……レイ?」
か細い声が耳を通す。涙で濡れた睫毛を震わせ、ハンコックがゆっくりと目を覚ます。視線が合い一瞬呆然としたその瞳は、すぐに安堵で潤んだ。
「……良かった。」
その一言だけで、再び涙が溢れる。
ヤマトもその気配に目を覚まし、レイが起きていることを確認すると、張り詰めていた糸が切れたように表情を緩めた。
「……おき…たの?」
普段なら豪快に笑う彼女も、今だけは震える声しか出なかった。二人は何も言わない。ただレイの手を、今まで以上に強く握り締める。その温もりだけが、この部屋に満ちていた。レイは二人を見つめながら、それでも涙を止められなかった。
「……悪い。」
その謝罪には、無事でいてくれたことへの感謝も、心配を掛けたことへの申し訳なさも、そして世界最強へ届かなかった自分自身への悔しさも、全てが込められていた。
「…それは…何に対しての謝罪なのじゃ」
「…全部さ…お前達を護ると誓っておきながらみっともなく負けちまった」
「みっともないってなにさ」
ヤマトの声は、責めるような響きを一切持っていなかった。
その言葉は、自分自身を裁く判決だった。レイは拳を震わせる。
「あと一歩だったなんて関係ねぇ。惜しかったなんて慰めにもならねぇ。勝たなきゃ意味がない。俺は……アイツに届かなかった」
静かな部屋に、苦しげな呼吸だけが響く。ハンコックは俯くレイをじっと見つめていた。そして、そっと握っていた手を両手で包み直す。
「妾は知っておる。お主が何のために強くなったのかを」
ハンコックの瞳は真っ直ぐだった。
「幼い頃、何も守れなかった自分を憎み、誰にも奪わせぬために剣を握った。泣きながら、血を流しながら、それでも立ち続けた」
その声は静かだった。だが、一言一言が胸へと深く突き刺さる。
「……そのお主が、今ここで自分を否定するというのなら」
ハンコックは微かに眉を寄せた。
「妾が愛した男は、一体どこへ行ってしまったのじゃ」
レイは何も言えなかった。
否定できない。何故なら、ハンコックの言葉は真実だったからだ。
確かに、この世界は残酷である。弱き者は奪われ、虐げられ、踏み躙られる。
誰かが都合よく救いの手を差し伸べてくれるほど、この海は優しくない。
強き者だけが生き残り、力なき者は全てを失う。それがレイの見てきた世界であり、骨の髄まで刻み込まれた現実だった。
だからこそレイは強くあろうとした。二度と誰にも奪わせないために。
誰にも泣かされないために。護りたい者を護れるだけの力を、この両手に掴むために。その考えは今も変わらない。世界は残酷だ。弱肉強食という理そのものを否定するつもりもない。
だが――。
「じゃからこそじゃ。」
ハンコックは静かに言葉を重ねる。
「その残酷な世界で、お主は何を選んだ?」
「……」
「弱きを踏み躙る側ではなかった。」
レイの瞳が僅かに揺れる。
「お主は強さを得ながらも、奪うためではなく護るために剣を振るってきた。誰も助けてくれぬ世界だからこそ、お主は誰かを助けられる強者になろうとした。」
その声は穏やかだった。だが、その言葉には揺るぎがない。
「妾も、ヤマトも、この国の民も……皆、お主の背中を見てきた。お主がどれほど血を流そうと、膝をつこうと、決して誰かを見捨てなかったことを知っておる。」
ハンコックはレイの手を優しく包み込む。
「ならば、一度敗れた程度で己の全てを否定するでない。世界は残酷じゃ。それは変えられぬ。じゃが、その残酷な世界で立ち上がり続ける者がおるから、人は希望を捨てずに済むのじゃ。」
レイは唇を噛み締めた。その言葉は、痛いほど胸に響く。
「レイ。」
ハンコックは静かに微笑む。
「妾がお主を愛した理由は、『最強』だったからではない。どれほど傷付き、どれほど打ちのめされようとも。涙を流しながらでも立ち上がり、己より他者の未来を守ろうとする。そんな愚かで、優しくて、誰よりも強い男だったからじゃ。」
部屋には再び静寂が訪れる。
その静寂の中で、レイの胸に燃え尽きかけていた火は、ゆっくりと、しかし確かに再び灯り始めていた。
ハンコックの言葉が静かに部屋へ溶けていく。
レイは俯いたまま動けなかった。
そんな彼を見つめていたヤマトが、小さく息を吸う。
「……次はボクが言うね。」
その声はいつものような豪快さはない。けれど、一言一言には真っ直ぐな想いが込められていた。
「ボクはさ……ハンコックとは少し違んだ」
レイがゆっくりと顔を向ける。ヤマトは照れくさそうに笑った。
「ボクは確かに、強いレイに惹かれた。」
その言葉にレイの表情が僅かに曇る。
「……だから今は幻滅したか?」
「違うよ」
即答だった。頬を膨らまねたヤマトに一切の迷いもない。
「レイ、勘違いしないでよ」
ヤマトはゆっくり首を横へ振る。
「ボクが惹かれた”強さ”っていうのは、カイドウみたいな怪物じみた力じゃない。」
「……」
「山を砕く力でも。海を割る覇気でも。世界最強と斬り結べる剣の腕でもない。」
ヤマトはレイの瞳を真っ直ぐ見つめる。
「ボクが好きになったのは――」
一瞬だけ言葉を区切った。
「自分より遥かに強くて、遥かに恐ろしい相手を前にしても。逃げずに誰かのために命を懸けられる。その”心”の強ささ。」
レイの瞳が揺れる。
「カイドウと戦った時もそう。今回だってそう。レイは勝てるかどうかで剣を抜いたんじゃない。護りたい人がいるから。その人たちが笑って生きられる未来が欲しいから。だから誰よりも前に出たんだと思う」
ヤマトは優しく笑う。
「そんな人、世界中探したってそうはいないよ。」
少しだけ目尻に涙を浮かべながら続ける。
「力がある人なんて、この世界にはたくさんいる。でも。その力を、自分じゃなく誰かのために使える人は、本当に少ないと思うんだ」
レイは何も言えなかった。胸が熱い。
「レイ。」
ヤマトはそっとレイの手を両手で包み込む。
「ボクはね。もしレイが今日、世界最強になって帰ってきても、もし今日みたいに負けて帰ってきても。きっと好きな理由は変わらない。」
その笑顔は、どこまでも優しかった。
「だって、レイは最後まで誰かを護ろうとしてた。そのためなら、自分が傷付くことも命を落とすことも怖がらなかった。そんな人を、どうやって嫌いになれるのさ。」
ヤマトは少し困ったように笑う。
「だからさ。一回負けたくらいで、自分を弱いなんて言わないで。ボクから見たレイは。」
その青い瞳は揺るがない。
「世界で一番、強くて優しい人だから。」
「それにさ――」
ヤマトはふっと微笑むと、不意に部屋の扉へ視線を向けた。
「そろそろ、本人に言ってもらった方が早いかな。」
「……?」
レイがゆっくりと顔を上げる。
その直後――コンコン、と静かに扉が叩かれた。
「入るぞ。」
低く、落ち着いた声が聞こえ、聞き覚えのあるその声に、レイの瞳が大きく見開かれる。
ゆっくりと扉が開く。そこに立っていたのは――世界最強の剣士、ジュラキュール・ミホーク。
しかし、その姿は普段の彼とはあまりにも違っていた。漆黒の外套は至る所が裂け、包帯は胸元や腕、肩に幾重にも巻かれている。
顔にはまだ癒えぬ斬創が残り、一歩踏み出す度に微かに眉を顰めるほど、その身体は深いダメージを負っていた。
まさしく満身創痍。
あの決闘が、どれほど壮絶であったかを物語る姿だった。
「……ミホーク。」
レイが呆然と呟く。
ミホークは静かに歩み寄ると、ベッドの傍で足を止めた。黄金の双眸がレイを真っ直ぐ見据える。
「勝手に敗者を名乗られるのは気分が悪い…」
その一言に部屋の空気が止まる。
「貴様は、自分が先に意識を失ったと思っている。」
「…ああ。 」
「だが、それは最後まで見届けた者の言葉ではない。」
ミホークは静かに続けた。
「あの最後の一撃。貴様の剣を受け切った瞬間、私の身体も既に限界だった。」
脳裏に、最後の激突が蘇る。世界を裂くほどの斬撃。全てを懸けた、最後の一太刀。
「あの数秒後。」
ミホークは僅かに目を伏せた。
「貴様が倒れたのを見届けた直後、私も同じように意識を失った。」
「……!」
レイの瞳が大きく揺れる。
「私が次に目を覚ました時には、医師どもに囲まれ、運び込まれた後だった。」
静かな口調だった。だからこそ、その言葉には重みがあった。
「つまり。」
ミホークはレイを見据える。
「まだ勝敗は決していない。」
部屋が静まり返る。
「俺は最後まで立っていた訳でもない。貴様も俺を斬り伏せた訳でもない。互いに全てを出し尽くし、互いに倒れた。」
黄金の瞳が僅かに細められる。
「ならば、あの勝負は――」
一拍置き、世界最強の剣士は静かに告げた。
「持ち越しだ」
その一言に、レイは言葉を失った。ずっと胸を締め付けていた敗北の事実が、音を立てて揺らぐ。
「……引き分け…か」
「ああ。」
ミホークは頷く。
「貴様は私に届かなかったと思っているようだが、それは違う。」その口元に、僅かな笑みが浮かぶ。
「レイ・ヴァルハート…貴様は既に、世界最強の剣士と対等に剣を交えられる場所まで辿り着いている。俺が生涯を懸けて積み上げた剣に、真正面から並び立ったのだ。」
ミホークは腕を組む。
「この海で、その領域に至った剣士は片手で数えられるほどしか存在しない。」
そして、静かに言い放つ。
「誇れ…貴様は強い」
「……っ」
「次に見合う時…再び決着をつけよう。」
その声音には、挑発も見下しもない。あるのはただ、一人の剣士としての最大限の敬意だった。
「ではさらばだ」
ミホークは言いたい事を言い切ったのか清々しい表情で部屋を後にする
鷹の目との死闘から半年が経過し、エデン連邦建国から幾年――。世界は以前よりも遥かに平和へ近づいていた。
だが、その平和は誰かが休むことで成り立つものではない。国を治める者がいるからこそ、人々は安心して眠ることができる。
その責務を、レイは誰よりも理解していた。夜明け前には執務室へ姿を現し、外交文書へ目を通す。昼になれば各都市の建設状況を視察し、騎士団の訓練にも顔を出す。
夜には各支部から届く報告書へ一つひとつ目を通し、問題があればその場で改善策を考える。
眠る頃には日付が変わっていることなど、もはや日常だった。
疲労は確実に蓄積している。それでも、誰にも弱音は吐かなかった。
国の代表とは、そういうものだと信じていたからだ。
――しかし
「レイ。」
静かな声が執務室へ響く。机へ突っ伏したまま眠ってしまった男の前に、一杯の紅茶が置かれる。
レイはゆっくり顔を上げた。そこには腕を組んだハンコックと、少し頬を膨らませたヤマトの姿があった。
「……あれ。」
「『あれ』ではない。」
ハンコックは呆れたようにため息をつく。
「ここ数日、お主とまともに話した記憶すらない。帰ってきたと思えば机で眠り、起きればまた仕事……。」
「レイ、鏡見た?」
ヤマトが机へ身を乗り出す。
「目の下、すっごい隈できてるよ。」
「そんなに酷いか?」
「酷い。」
二人の返事は一切の間もなく重なった。レイは苦笑するしかない。
「でも、まだ片付けなきゃいけない仕事が――」
「知らぬ。」
ハンコックがぴしゃりと言い切る。
「国が大事なのは分かる。じゃが、お主自身がおらぬ国など何の意味もない。」
「そうそう!」
ヤマトも勢いよく頷いた。
「倒れてからじゃ遅いんだよ!」
そのやり取りを、部屋の外から見守っていた騎士団長たちは思わず顔を見合わせる。誰もレイへここまで言えない。だからこそ、この二人の存在は国にとっても必要不可欠だった。しばらく沈黙が流れる。やがてレイは肩の力を抜き、小さく笑った。
「……参ったな。」
椅子にもたれながら天井を見上げる。
「じゃあさーー」
そういうヤマトから驚きの提案をされる。国を離れることに申し訳なさとやるせなさが現れるが有無を言わさない二人に頷くしかないレイ。
「やったねハンコック」
「あぁ。これで妾達もーー」
二人は静かに何かを企んでいる様子であった。二人の手には小さな雑誌が握りしめられている。
新世界――。
数え切れぬ島々を巡ってきたレイ達であっても、その景色に思わず目を奪われる島が存在する。
その名は、アルカディア島。
青く透き通る海は水平線の彼方まで輝き、真っ白な砂浜には色鮮やかな貝殻が散りばめられている。断崖には無数の花々が咲き誇り、潮風に乗って甘い香りが島中を包み込む。
港には穏やかな笑顔を浮かべる島民達が行き交い、子供達は裸足で浜辺を駆け回る。
新世界とは思えないほど、争いとは無縁の楽園だった。
「わぁ……綺麗。」
ヤマトは目を輝かせながら海岸へ駆け出す。
裸足で波打ち際へ飛び込み、子供のようにはしゃぐ姿に、ハンコックは呆れたように溜息を漏らした。
「まったく……少しは淑女らしくできぬのか。」
「いいじゃん! せっかく旅行なんだから!」
その様子を眺めながら、レイは小さく笑う。
「まあ、今日は仕事じゃない。どうせ訪れたならたまには羽を伸ばそう。」
今回の目的は視察でも外交でもない。エデン連邦建国以来、休むことなく働き続けてきたレイへ、二人が半ば強引に与えた休暇だった。次々と積み重なる責務から、ほんの数日だけ離れるための旅。
「ようこそ、お客様。」
三人へ歩み寄ってきたのは、白髪の老人だった。
深く頭を下げた老人は穏やかに笑う。
「この島へ来られた方の多くは、美しい海を見に来られます。しかし、それと同じくらい有名な場所がございます。」
「有名な場所?」
レイが首を傾げる。
老人は島の中央に聳える山を指差した。
山頂近くには、白い石で築かれた巨大な神殿が見える。
「あそこには、この島で千年以上信仰されている守神様がお祀りされております。」
「守神?」
レイが聞き返すと、老人はゆっくり頷いた。
「ええ。命を司る慈愛の神――そう語り継がれております。」
老人の表情は誇らしかった。
「古くから言われております。真に愛し合う男女があの神殿で祈りを捧げれば、守神様の祝福を受け、子宝に恵まれる……と。」
「へぇ」
「「…」」
老人の説明に興味を示すレイと何故か驚きもせずただ、その老人の説明に耳を傾けている二人。
だからこの島には、世界中から夫婦や恋人達が訪れるのです。」
老人は笑顔のまま続ける。
「子供を望む者。
家族の幸せを願う者。
未来を授かりたい者。
皆、この島で祈りを捧げ、幸せになって帰っていきます。」
島を見渡せば、確かに若い夫婦らしき旅行者の姿も多い。
子供を抱いた家族。手を繋いで歩く男女。神殿へ向かう人々の表情は、誰もが穏やかだった。
「へぇ……そんな言い伝えがあるんだ。」
レイは興味深そうに神殿を見上げる。その隣では、ハンコックとヤマトが互いの顔をちらりと見た。
「…………。」
「…………。」
お分かりだろうが二人がここを選んだのは決して偶然ではない。晴れて恋人に昇格して数年が経ったが未だが3人の間には子供は出来ていない。勿論忙しくてそういったことが出来ていない…そう考えることもできるかもしれない。…しかしレイの場合は違う。二人とはほとんど毎日のように肌を重ねているにも関わらず未だに子宝に恵まれないのだ。
レイとの結婚に家族を夢見た二人としては到底納得できる話ではなった。その中で見つけたのが先日から世界雑誌で話題となっていたこの島である。つまりはレイに休暇を取らせここを訪れるまでが完全に出来レースなのである。
「レイ! 折角だし行ってみようよ!」
「妾も賛成じゃ。」
二人の声が見事に重なった。老人は意味深に微笑みながら頷く。
「守神様も、きっと皆様を歓迎してくださるでしょう。」
その笑みは、どこか作り物めいていた。そして三人はまだ知らない。この島で”守神”と崇められている存在が、本当に人々へ祝福を与える神なのか。
それとも――千年もの間、神殿の最奥で眠り続ける、別の何かなのかを。
島の中央に聳え立つ神殿は、外から眺める以上に壮麗だった。
純白の大理石で築かれた巨大な回廊。天井を支える幾十本もの柱には精巧な彫刻が刻まれ、差し込む陽光が神々しい光景を生み出している。
神殿の中は観光客で賑わっていた。
幼い子を抱く夫婦。
手を繋いだ恋人達。
老夫婦までもが穏やかな笑みを浮かべながら奥へと進んでいく。
「結構人がいるんだね。」
ヤマトが辺りを見渡す。
「ああ。この島の名所なんだろう。」
レイも静かに周囲を観察する。
誰もが幸福そうな表情を浮かべ、神殿の最奥へと歩みを進めていた。やがて三人も祭壇へ辿り着く。そこには祭壇と呼ぶにはあまりにも巨大な、一枚岩のような黒い遺跡が鎮座していた。
高さは十数メートルを誇り漆黒の表面には金色の紋様が幾重にも刻まれ、まるで脈打つような妖しい輝きを放っている。
年若い神官が柔らかな笑みを浮かべ、一礼した。
「ようこそ守神様の祭壇へ。」
周囲の参拝客も順番に遺跡へ手を添えている。
「どうぞ、こちらへ。」
「触れるだけでいいのか?」
「はい。」
神官は優しく頷く。
「守神様へ祈りを捧げながら遺跡へ触れてください。幸福や健康、そして子宝など、それぞれの願いへ御利益があると古くから伝えられております。」
「へぇ。」
ヤマトは興味津々といった様子で前へ出る。ハンコックも静かに祭壇を見つめた。レイは一歩遅れて黒い遺跡へ右手を伸ばす。
遺跡は驚くほどに冷たい。まるで氷よりも冷たい石。
その瞬間だった。
「……っ!」
全身を得体の知れない悪寒が駆け抜けた。
違う…寒さではない。身体の奥底から血でも、覇気でもない。何かもっと根源的なものが――。
(なんだこの感覚……?)
心臓が大きく脈打つ。遺跡へ触れた掌から、自分の内側にある”何か”が細い糸となって引き抜かれていく。
ほんの一瞬だが、その感覚だけは異様なほど鮮明だった。
「レイ?」
ヤマトが不思議そうに振り返る。レイは反射的に手を離した。僅かに息を乱しながら掌を見つめる。
「……どうした?」
「いや……。」
汗が一筋、頬を伝う。
(何だ今の……。)
幻覚ではない。確かに感じた。生まれて初めて味わう違和感。すると横では、何も知らないハンコックとヤマトが遺跡へ手を伸ばそうとしていた。
「待て。」
レイは咄嗟に二人の手首を掴む。
「え?」
「どうしたのじゃ?」
二人が驚いたように見つめる。
「……いや。」
言葉が続かない。説明できるだけの根拠がない。吸われる感覚。そんな曖昧な話で二人を止めるべきなのか。
レイは再び遺跡を見る。変わらずただ静かに鎮座しているだけだ。
周囲の参拝客にも異変は見られない。皆、笑顔で祈りを捧げている。
「……気のせいかもしれない。」
「もう、驚かせないでよ。」
ヤマトは苦笑しながら遺跡へ触れる。ハンコックも続いた。二人には特に異変は起きない。表情一つ変わらず、祈りを終えて手を離した。
「何ともないよ?」
「ああ……そうみたい…だな」
結局、それ以上は何も起こらなかった。自分だけが感じた錯覚だったのか。あるいは疲労が原因か。確証を得られぬまま、その話は自然と流れていく。
しかし――神殿を後にしようとしたレイの足が、不意に止まった。
「……?」
視線の先には回廊の壁一面へ刻まれた巨大な壁画。参拝客は誰一人として気にも留めず通り過ぎていく。だが、レイだけはそこから目を離せなかった。
そこに描かれていたのは、慈愛の神ではない。巨大な六枚の翼を持つ、美しくも禍々しい存在。
頭上には砕けた光輪とその端正な顔には慈悲ではなく、底知れぬ傲慢と叡智が宿っている。白銀の翼は所々が黒く染まり、まるで天より堕ちたことを物語るようだった。
その足元には幾千もの人影が跪き、天へ向けて両手を掲げている。
そして壁画の最上部には、古代文字で一節だけ刻まれていた。
――“光を拒まれし晨星は、なお人の願いを喰らいて目覚める。”
神殿を吹き抜ける風が、不自然なほど冷たく感じられた。
神殿を出た一行はそのまま街をぶらりと観光する。
「すっごぉぉい!」
誰よりも早く飛び出したのはヤマトだった。目を輝かせながら屋台を見つけるたびに立ち止まり、焼き串を片手に果物を頬張り、そのまま隣の屋台で冷たいジュースを買う。
「レイ! 見て見て! この果物、甘っ!」
「まだ一軒目だぞ。」
「全部食べ歩くから大丈夫!」
「何が大丈夫なんだ……。」
苦笑するレイの隣では、ハンコックが静かに腕を組んでいた。
「まるで子供じゃな。」
そう言った本人も、宝石細工や装飾品を扱う店の前では足を止めてしまう。
南国特有の真珠。珊瑚を加工した髪飾り。貝殻を削って作られた首飾り。
どれも九蛇では見かけない意匠ばかりだった。
「綺麗だな」
レイが何気なく呟く。
「…そう…じゃな」
無心で見つめるハンコックを見たレイは
「すいません。コレとコレ…後これもください」
レイが選んだのは、それぞれ少しだけ形は違うものの、同じ青白い真珠と蒼珊瑚で作られたアクセサリーだった。
一つは首飾り。一つは腕輪。そしてもう一つは髪へ結べる飾り紐。どれも中央には、翼を広げた白い鳥を象った小さな銀細工が施されている。
「この島では”幸運を運ぶ海鳥”を模した細工でしてね。」
店主は優しく笑う。
「同じ職人が一組として作る品なんですよ。旅のお守りとして、ご家族や大切な方同士で身に着けられる方が多いですね。」
「へぇ。」
レイは頷き、代金を支払う。
「はい、どうぞ。」
店主から包みを受け取ると、レイは振り返った。
「ハンコック。」
「……?」
「ヤマトも。」
二人が近付いてくる。レイは包みを開き、それぞれへ差し出した。
「せっかく旅行に来たんだ。記念に。」
「え……。」
ヤマトが目を丸くする。
ハンコックも一瞬、言葉を失った。
「三人でお揃いのものは初めてだな」
レイは少し照れくさそうに笑う。
「これから先も色んな島へ行くだろ。思い出の一つくらい形に残してもいいかなって。」
ヤマトは受け取った腕輪を見つめ、ぱっと笑顔を咲かせた。
「いいの!? ありがとうレイ!」
その場で嬉しそうに腕へ着け、子供のように何度も眺める。
「似合う?」
「似合ってる。」
「えへへ。」
満面の笑みだった。一方のハンコックは、首飾りを両手でそっと包み込んだまま固まっている。
「……妾にも?」
「もちろん。」
「……。」
しばらく黙っていたハンコックは、ふっと微笑んだ。その笑みは、世界一の美女ではなく、一人の恋する女性のものだった。
「ありがとう……レイ。」
その声は、風に溶けてしまいそうなほど優しい。ハンコックはゆっくりと首飾りを身に着ける。白い肌の上で、蒼珊瑚と真珠が陽光を受けて美しく輝いた。
「うん。」
レイは満足そうに頷く。
「二人ともよく似合ってる。」
「レイも着けてよ!」
「ああ。」
レイも自分の髪飾りを身に着ける。三人は顔を見合わせる。それぞれ形は違うけれど同じ素材、同じ職人、同じ想いで作られた、お揃いのアクセサリー。
「ふふっ。」
「へへ。」
「……。」
三人の笑顔を見た店主は、どこか嬉しそうに目を細めた。
「きっと、そのアクセサリーは皆さんの旅を末永く見守ってくれますよ。」
潮風が優しく吹き抜ける。蒼い珊瑚と白真珠が揺れ、南国の陽射しを受けて、三人だけの旅の思い出を静かに彩っていた。
アクセサリー店を後にした三人は、そのまま島の中心街へと足を運んだ。
昼を過ぎても街の賑わいは衰えることなく、石畳の大通りには旅人や島民が行き交い、露店からは香ばしい匂いが絶えず漂っている。
「レイ! あれ食べよう!」
ヤマトが真っ先に駆け寄ったのは、大きな鉄板で焼かれる南国名物の魚料理だった。
香辛料をたっぷりとまぶした白身魚を豪快に焼き上げ、甘酸っぱい果実のソースを絡めた一品らしい。
「はい、お待ち!」
焼きたてを受け取ったヤマトは、一口頬張るなり目を輝かせた。
「おいしいっ!」
「そんなにか?」
「レイも食べてみなよ!」
串を差し出され、レイも一口だけ口にする。
「……確かに美味い。」
「でしょ!」
それを見ていたハンコックも、少しだけ興味を示した。
「妾も一口……。」
結局三人で一つの串を分け合い、気付けば追加でもう二本買ってしまう。
その後も南国ならではの果実を使った氷菓子や、香り高い紅茶、色鮮やかな焼き菓子を食べ歩きながら市場を巡った。
◇
午後になると、島では毎日開かれるという祭りが始まった。
広場では民族衣装を纏った踊り子達が軽快な音楽に合わせて舞い、楽団が陽気な旋律を奏でる。
子供達は花びらを空へ撒き、大人達は笑顔で手を叩きながら踊っていた。
「参加してみる?」
レイがそう言うと、ヤマトは待ってましたと言わんばかりに飛び出していく。
「もちろん!」
島民に混じって見よう見まねで踊り始めるヤマト。
最初はぎこちなかった動きも、持ち前の運動神経ですぐに様になり、周囲から拍手が沸き起こる。
「上手いね!」
「ありがとう!」
笑顔で応えるヤマトの姿に、祭りはさらに盛り上がっていく。
「……お主も行かぬのか?」
ハンコックが隣で尋ねる。
「俺は見てる方が好きかな。」
「そうか。」
そう言いながらも、ハンコックはどこか残念そうだった。
「じゃあ。」
レイは静かに立ち上がる。
「一曲だけ付き合うか。」
「……え?」
レイはハンコックへ手を差し伸べた。
一瞬だけ時が止まる。
「……妾が?」
「ああ。」
ハンコックは信じられないものを見るような表情を浮かべた後、小さく微笑む。
「仕方ないのう。」
その手を重ねる。
女帝としてではない。
一人の女性として。
二人は島民達の輪へ入り、穏やかな音楽に合わせて歩幅を合わせる。
決して激しい踊りではない。
ただ互いを見つめ、ゆっくりと歩くだけ。
それだけなのに、ハンコックの胸は高鳴り続けていた。
離れた場所ではヤマトが両手を振りながら笑っている。
「二人ともお似合いだよー!」
「からかうでない!」
珍しく頬を赤くしたハンコックに、周囲からも温かな笑い声が上がった。
◇
夕方になる頃、三人は海岸沿いを散歩していた。昼間とは違い、人影もまばらになった浜辺では、波が穏やかな音を立てながら砂浜を撫でている。
水平線へ沈んでいく夕陽は海を黄金色へ染め上げ、その光景はまるで絵画のようだった。三人は並んで腰を下ろし、ただ静かに夕焼けを眺める。
「綺麗だね。」
ヤマトがぽつりと呟く。
「ああ。」
レイも短く答える。
ハンコックは何も言わない。
ただ二人と同じ景色を見られることが、何より幸せだった。
◇
夜。島一番の高台には、この島で最も格式高い宿――蒼海宮殿ホテルが建っていた。
白亜の外壁は月明かりを浴びて幻想的に輝き、広大な庭園には南国の花々が咲き誇る。噴水の水音が静かに響き、エントランスへ続く赤い絨毯の両脇には、美しく刈り込まれた椰子の木が並んでいた。
「ようこそ、蒼海宮殿ホテルへ。」
正装した支配人が深々と一礼する。
案内された最上階の特別客室は、一室とは思えないほど広かった。床には磨き上げられた白い大理石。天井には豪華なシャンデリアが吊るされ、壁一面が大きなガラス窓になっている。
窓の向こうには、月光を映す紺碧の海がどこまでも広がっていた。
寝室だけでも三部屋。広々としたリビングには暖炉が備えられ、奥には露天風呂付きの浴室まで用意されている。
「……広っ!」
ヤマトは部屋を見渡しながら思わず声を上げた。
「城の一室みたい……。」
「流石は島一番の宿じゃな。」
ハンコックも感心したように窓辺へ歩み寄る。夜風が白いカーテンを優しく揺らし、遠くには波の音だけが静かに響いていた。
レイは窓から神殿のある山を見つめる。
夜闇の中でも、山頂の神殿だけは淡く白い光を放っていた。
「……明日、行ってみるか。」
何気ないその一言に、ヤマトは笑顔で頷く。
「うん!」
「妾も異論はない。」
宿で豪華な海鮮料理と鉄板料理を堪能した3人… 食後、レイは大浴場へ向かい、一日の疲れを湯へ溶かす。
露天風呂から見上げる夜空には満天の星々が瞬き、遠くからは静かな波音だけが聞こえていた。
十分ほど身体を温めた後、レイは客室へ戻る。寝室の扉を開けると、そこには既にハンコックとヤマトが待っていた。
ここから先は長く語る必要は無いだろう。だが普段よりも更に積極的で元気な二人を相手にレイは完全に搾り取られ休暇目的の筈が普段やり窶れたレイが目撃されることになる。
翌朝。南国の陽光が島を照らし、街は昨日と変わらぬ賑わいを見せていた。
市場には新鮮な魚介が並び、子供達が笑いながら浜辺を駆け回る。昨日と何一つ変わらない、平和そのものの景色にレイ達も朝食を終え、神殿へ向かう前に街を散策していた。
その時だった。
「……お願いです。」
少女の震える声が、人混みの中から聞こえてきた。
三人は足を止める。声の先には、神殿へ続く石段の入口。純白の法衣を纏った神官が数人立ち、その前で十歳ほどの少女が必死に頭を下げていた。
薄汚れたワンピース。泣き腫らした赤い瞳と小さな両手は強く握り締められている。
「お願い……お姉ちゃんを返してください……。」
神官は少女を見下ろしたまま、表情一つ変えない。
「娘よ」
穏やかな声だった。だが、その温度は氷のように冷たい。
「神へ選ばれた者は、神の御許へ召される。」
「でも……!」
少女は涙を零しながら叫ぶ。
「昨日まで一緒だったんです! 絶対帰ってくるって約束したんです!」
「神へ選ばれることは、この島最大の名誉。」
神官は淡々と告げる。
「二度とそのような不敬を口にするな。」
「そんなの違うよ!」
少女は嗚咽を漏らす。
「お姉ちゃんは神様のところへ行きたいなんて言ってない!帰ってくるって……笑って約束したの!だからお願い……返してよ……!」
神官の眉一つ動かない。
「っ……!」
少女は崩れるように膝をつく。
周囲には多くの島民がいた。しかし誰も近寄ろうとはしない。ただ目を伏せる者、胸の前で祈る者、何も見なかったように立ち去る者。
その様子を見たヤマトが眉をひそめる。
「……何あれ。」
レイも静かに少女を見つめていた。
「毎年一人。」
近くで露店を営む老人が、小さく呟く。
「え?」
ヤマトが聞き返す。老人は周囲を警戒しながら声を潜めた。
「この島では毎年、十八になった若者が一人だけ”神の祝福”を授かる者として選ばれる。選ばれた者は神殿へ入り、一晩祈りを捧げる。そして翌朝には……。」
老人はそこで言葉を切る。
「帰って……こないのか。」
レイが静かに続けた。
老人は苦しそうに頷く。
「神官様は皆、神の御許へ召されたと仰る。この島で絶対的な力を持つのは神官様だ。だから誰も逆らえない。それが何百年も続く島の掟じゃから……。」
ハンコックの表情が険しくなる。
「何百年……じゃと?」
「はい。」
老人は震える声で答えた。
「記録では三百年以上前から続いております。毎年一人だけ。誰かの息子が。誰かの娘が。神へ捧げられるのです。…ワシの娘も…」
老人は言いようのない悲しみの声を上げる。レイの瞳が細められる。昨日、神殿で感じた違和感。生命を吸われるような感覚。壁画に描かれた六枚の翼を持つ存在。そして、帰ってこない生贄。それらが一本の線となって繋がり始めていた。
その時少女が再び神官へ縋り付く。
「お願いします……!私の大好きなお姉ちゃんを返して!!返してよぉ!」
その腕を神官は冷たく払い除けた。
「神への冒涜は許されぬ。」
少女は石畳へ倒れる。その様子を見た瞬間だった。
「おい。」
低い声が響く。神官がゆっくり顔を上げる。そこにはレイが立っていた。静かな怒りを宿した瞳が、真っ直ぐ神官を射抜いている。
少女は涙で濡れた顔を上げ、その背中を呆然と見つめた。
「泣いてる子供にくらい優しくしても、その”神”とやらから罰は当たらねぇんじゃねぇのか?」
その一言に、辺りの空気がぴたりと止まる。神官達は一瞬だけ眉を動かしたものの、すぐに穏やかな笑みを作った。
「旅のお方ですかな?」
年長の神官が胸の前で手を組む。
「この娘は、大切な姉を失った悲しみから少々取り乱しているだけなのです。神へ選ばれた者は、神の御許へ迎えられる。それはこの島で最も名誉ある祝福。」
穏やかな口調とは裏腹に、その声には感情が一切感じられなかった。
「我々はその教えを説いていただけにございます。」
レイは無言のまま神官を見つめる。その視線に居心地の悪さを覚えたのか、神官は咳払いを一つした。
「お姉ちゃんは死んでなんかない!」
少女が涙を流しながら叫ぶ。
「絶対帰ってくるって約束したもん!」
「黙りなさい。」
神官が冷たく言い放つ。
「神の御心を疑うことは許されません。」
「違う!お姉ちゃんは――」
「もうよせ。コイツらに何を言ったところで"今は"無駄だ」
レイはしゃがみ込み、少女の肩へそっと手を置いた。少女は唇を噛み締めながら嗚咽を漏らす。その姿を見た神官は、どこか面倒そうに小さく溜息を吐いた。
「旅のお方も、この島の信仰へ口を挟むことはお控えください。神殿では本日も多くの参拝者がお待ちですので。」
それだけ言い残すと、神官達は法衣を翻し、石段を上って神殿へ戻ろうとする。
誰一人として少女を振り返ることはなかった。
その背中を見送りながら、ヤマトが小さく呟く。
「……なんか感じ悪いね。」
「何やらただならぬ予感がする」
ハンコックも細く目を細める。神官達の姿が石段の向こうへ消えると、辺りには重苦しい静寂だけが残った。
少女は俯いたまま、小さな拳を震わせている。レイはその前にしゃがみ込み、できるだけ穏やかな声で話しかけた。
「……君の名前は?」
少女は涙を拭いながら答える。
「……リリア。」
「俺はレイだ。こっちはハンコックとヤマト。」
ヤマトは屈んで笑顔を見せる。
「よろしくね、リリア。」
ハンコックも優しく微笑み、小さく頷いた。
「もう泣かずともよい。」
その言葉に、張り詰めていた糸が切れたのか、リリアは再び涙を零した。
「詳しい話を聞かせてくれないか。」
リリアは何度も頷いた。
「……うん。」
此処は街外れ。賑やかな中心街から離れた小高い丘の上に、小さな木造の家が建っていた。決して裕福とは言えないが、丁寧に手入れされた庭には色とりどりの花が咲いている。
「ここが私たちのお家なの……。」
リリアが扉を開ける。家の中は静まり返っていた。食卓には家族分の食器がそのまま残され、壁には仲睦まじく笑う姉妹の写真が飾られている。
写真の少女は、リリアより五、六歳ほど年上だろう。長い栗色の髪を揺らし、優しく妹の肩を抱いて笑っていた。ヤマトがその写真を見つめる。
「この人が……。」
リリアは小さく頷いた。
「お姉ちゃん……名前はエレナって言うの」
その声には、今にも消えてしまいそうな寂しさが滲んでいた。
四人は食卓へ腰を下ろす。しばらく沈黙が続いた後、レイが口を開く。
「リリア…さっき神官に言っていたことを最初から聞かせてくれ。」
リリアは写真を見つめながら語り始めた。
「うん…一週間前にね……いきなりお家に神殿の人が来たの。今年の”神の祝福”に選ばれましたって。島中のみんながお祝いしてくれた。」
しかし、その表情は次第に曇っていく。
「でも……お姉ちゃんは全然嬉しそうじゃなかった。」
震える声で話すリリア
「怖いって言ってた。帰ってこられるかなって……。」
部屋が静まり返る。
「神官は大丈夫だって。神様に愛された人だけが選ばれるって。だから安心して送り出してくださいって。」
リリアは拳を握り締めた。
「でも……。」
涙が一滴、木の床へ落ちる。
「やっぱり帰ってこなかった……。神殿へ行った次の日も。その次の日も…ずっと。リリアが待ってるのはお姉ちゃんは帰ってこない。」
レイは静かに尋ねる。
「…毎年なのか?」
リリアはゆっくり頷いた。
「うん……。毎年一人だけ。お父さんも、お母さんも言ってた。昔からずっと同じなんだって。神様のところへ行った人は、もう帰ってこないって。」
ハンコックが腕を組む。
「誰も疑わぬのか?」
リリアは首を横へ振った。
「みんな怖いの。神様を怒らせたら島に災いが起きるって。だから誰も何も言わない。」
その時だった。奥の部屋から一人の老人がゆっくりと姿を現した。
白髪交じりの髭を蓄えた老人は、リリアの祖父だった。
「…お爺ちゃん」
「……旅のお方。リリアを助けてくれてありがとうございます」
老人は深々と頭を下げる。
「孫がお世話になりました。」
「気になさらないでください。」
レイが答えると、老人は苦しげに笑った。
「リリアから話は聞きました。あなた方は……真実を知りたいのでしょう。」
その一言に、三人の表情が変わる。老人は棚の奥から、革で綴じられた古びた書物を取り出した。ページは黄ばみ、何百年も読み継がれてきたことが一目で分かる。
「これは代々、我が家に伝わる古文書です。」
老人は静かに頁を開いた。そこには現在神殿で語られている教えとは、まるで違う物語が記されていた。
「今からおよそ三百年前。この島は大飢饉に襲われ、多くの命が失われました。その時、一人の白衣の神官が現れたと言われています。神は島を救う代わりに、一つだけ望みを告げた。」
老人の声が低くなる。
「“毎年、最も生命力に満ちた若者を一人、神殿へ捧げよ。”」
ヤマトの眉がぴくりと動く。
「それって……。」
「当時の人々は島を救うため、その契約を受け入れました。すると不思議なことに飢饉は終わり、海には魚が戻り、畑には作物が実った。以来、人々は神へ感謝し、毎年若者を神殿へ送り続けるようになったのです。」
老人はゆっくりと本を閉じる。
「それが、この島で語り継がれている伝承です。」
レイは静かに呟く。
「……神との契約、か。」
老人は首を横へ振った。
「いいえ。」
その目には恐怖が宿っていた。
「私は違うと思っています。神とは、人を救うために命を要求する存在なのでしょうか。」
部屋に重い沈黙が落ちる。
「お願い!お姉ちゃんを助けて!」
そうしてレイの膝下に抱きつき、泣きじゃくりながら頼み込むリリア。
レイの脳裏に己の記憶が交叉する。幼少期のころ理不尽に愛する母を奪われ泣き叫ぶ己の記憶。
「…あぁ…俺の最善を尽くそう」
この男が泣いている者から目を背けられる筈がなかった
窓の外では、山頂に建つ神殿が昼の陽射しを浴びて静かに輝いていた。その神々しい姿とは裏腹に、そこへ続く道だけが、不気味なほど暗く見えた。
神殿――最奥。参拝客が祈りを捧げる祭壇より、更に地下深く。幾重にも張り巡らされた封印の扉を潜り抜けた先には、この島の誰一人として存在を知らぬ禁域が広がっていた。
岩肌を削り造られた地下通路には壁一面には古代文字が刻まれ、その隙間からは血のように赤黒い光が滲み出ている。
空気は淀み、息を吸うだけで胸の奥が重くなる。やがて神官達は巨大な扉の前で立ち止まった。
目の前には黒曜石にも似た漆黒の巨門。その表面には六枚の翼を持つ天使が堕ちる姿が精密に彫られている。
重々しい音を響かせながら門がゆっくりと開く。
その先は、神殿とは思えぬ異界だった。天井が見えないほど広大な空間が広がり地面には巨大な魔法陣が幾重にも重なり、赤黒い光が脈動するように明滅している。
数え切れぬほどの人骨が柱のように積み上げられ、その隙間から黒い靄が絶え間なく立ち昇っていた。
部屋の最奥…幾十もの階段の先には、一際巨大な玉座が鎮座している。
漆黒の鉱石から削り出された王座。そしてその背後には六枚の翼を模した巨大な彫刻。
しかし――そこには誰も座っていなかった。
それでも神官達は迷うことなく跪き、深々と頭を垂れる。
「我らが王。」
「本日も供物の選定は滞りなく進んでおります。」
ただただ沈黙が広がり空間には何の返答もない。
それでも神官達は顔を上げない。まるで”そこにいる”ことを知っているかのように。
「ですが……。」
年長の神官がゆっくりと言葉を続ける。
「本日、少々興味深い人間が神殿を訪れました。」
「黒髪の青年を筆頭に、三名。いずれも常人とは比較にならぬ生命力を有しております。…特にあの男。」
神官の表情に、初めて僅かな興奮が混じる。
「遺跡へ触れた瞬間、供物の器が反応いたしました。更に吸収を察知し、自ら手を離しております。」
「人間にしては実に優れた感覚。恐らく相応の実力者かと。」
その瞬間だった。
おざましい殺気が部屋中の空気が凍り付く。
神官達の身体が小刻みに震える。恐怖とも歓喜ともとれる支離滅裂な相対する表情を浮かべる神官たち。
本能が理解してしまった。
“あのお方”が目を覚ました、と。
次の瞬間誰も座っていないはずの玉座から、低く、重く、魂へ直接響く声が空間を満たした。
『…………ほう。』
男とも女とも判別できない異形のノイズ音。それは人という概念が生まれる以前から存在していたかのような響きだった。
『あの生命エネルギーを有した者か。』
神官達が一斉に頭をさらに深く下げる。
「はっ。」
『余の封印へ触れながら、喰われることへ気付いたか。』
僅かな愉悦。ただそれだけで空間全体が震える。
『実に興味深い。』
闇が蠢く。玉座の周囲に、黒い靄がゆっくりと渦を巻き始める。
『数百年ぶりだ。供物ではなく……余へ牙を向け得る可能性を秘めた人間は。』
神官達は顔を上げない。上げることなど許されない。
王の御前で視線を向ける資格など、自分達には存在しないのだから。
『よい。』
『泳がせよ。』
『余自ら、その魂と生命を喰らう。』
その言葉と同時に、玉座の背後で六枚の巨大な黒翼の影が一瞬だけ浮かび上がった。
それは実体ではない。封印の奥底で微睡む存在が漏らした、ほんの僅かな威圧に過ぎなかった。それでも神殿全体が軋み、島の地下深くまで低い振動が伝わっていく。
誰も知らない。この島で「守神」と崇められてきた存在の正体が、神ではなく―◾️◾️◾️◾️…であることを