殺されるたび、殺した奴に成り代わる ~過労死した俺、貧民の子から災いの龍・勇者を経て、気づいたら玉座に!?~ 作:DeDee
その夜も、フロアの明かりは半分だけ点いていた。
二十三時を回ると、節電とやらで天井の灯が間引かれる。空調はとうに切れて、こもった熱気の底に、冷めたコーヒーの匂いだけが漂う。残った白い光の下、俺はひとりで、動かない画面を睨んでいた。納期は明日の朝。人手はとうに足りず、応援は来ない。
「おい、そこ。まだかかるのか?」
部長が島の向こうから声を投げる。そこ、と呼ばれたのは俺だ。この会社に二十年いて、俺はいまだに「おい」と「そこ」と「君」で呼ばれている。胸に名札は付いているのに、誰もそれを読み上げない。
宛名の字を間違えたまま届く社内の書類。歓送迎会の寄せ書きに、ひとつだけ空いたままの枠。俺の仕事は、穴の空いた工程表に人を差し込み、他人の尻拭いの段取りを組むことだ。段取りというのは、うまく回るほど、誰の目にも見えなくなる。二十年かけて俺は覚えた。この職場で、俺は頭数ですらない。回っている仕事だけが、俺のかたちをしている。
胸の奥で何かが
崩れ落ちた先の床が、頬に冷たい。倒れた俺の横を、誰かの革靴が行き過ぎる。遠くで声がする。救急車――ええと、なんて名前だっけ、この人。
最後に名前を呼ばれたのはいつだったか。思い出そうとして、思い出せないまま――誰だっけ、が、俺がこの世で最後に聞いた言葉になった。
◇
次に目を開けたとき、俺は煤けた路地で泣いていた。赤ん坊として、だ。
これが、頭ではどうにも呑み込めなかった。死んだはずの意識が、乳を欲しがって泣いている。泣くまい、と思うそばから、この小さな身体は勝手に泣くのだ。身体と心が別々の方を向く、あの据わりの悪さに慣れるまで、たっぷり三年はかかった。
剣と魔法の王国レーヴェン。その王都の外れ、ごみと人があわせて吹き溜まる貧民街――通り名を〈
俺はそこで名も知らぬ母の忘れ形見として拾われ、ミロという名をもらって、前世の記憶を抱えたまま十年を生きてきた。
十歳の俺が知っているのは、飢えの種類だ。朝の飢えは軽く、夜の飢えは重い。徴発のあった月の飢えが、いちばん深い。腹の減り方で暦が読めるようになれば、灰溜まりの子は一人前である。
「ミロ、こっち。半分こ」
セナが、固いパンを割って寄越す。そばかすだらけの幼なじみは、赤茶の髪を布で束ね、幼い弟を背負ったまま、自分の取り分を惜しげもなく半分にする。それがセナだ。
受け取ったパンは石みたいに固くて、噛むと、かすかに灰の味がする。それでも口の中に唾が湧いて、腹の底が勝手に鳴った。
「いいのか? 弟の分は」
「あの子、今朝からお腹を下してて。どうせ食べられないから」
背中の弟は頬が土気色で、ぐったりと首を垂れている。額だけが、嫌に熱い。また水だ、と思う。灰溜まりの井戸はひとつきりで、そのすぐ脇を、なめし革屋と便所の汚水が流れていく。雨が降るたび、溝の水は井戸に染みる。前の世界なら子どもでも知っている。飲む水と汚れた水は、分けなければいけない。
だから俺は、石を集めた。汚水の溝を井戸から遠ざけ、低いほうへ付け替える。膝まで泥に浸かれば、春先の水は骨まで冷えた。掌の皮がむけ、石の重みが指の付け根に食い込む。それでも三日目の夕方、汚れた水は井戸に背を向けて、低いほうへ流れ始める。誰に頼まれたわけでもないのに、俺は泥だらけのまま、しばらくその流れに見とれていた。
四日目に、自警団が来る。
「誰の許しで水をいじった?」
棒を持った男たちが、俺の積んだ石を蹴り崩していく。ごろり、ごろりと石の転がる鈍い音が、腹の底に響いた。水は上つ方の持ち物で、勝手な
「腹が減ってるのは、俺のせいじゃない。弟の腹が下るのも、あの子のせいじゃない。なのに、なんで全部、俺たちのせいになるんだ?」
「……ミロ、もういい。もういいから」
セナが俺の袖を引く。その目が言っている。逆らえば、配給の列からも外されるのだと。
灰溜まりの人間は、数えられない。徴税吏は俺たちの前で帳面を閉じ、疫病の触れは俺たちの路地を飛ばして貼られる。生きているのに、頭数に入らない。……前の世と、同じだ。名を呼ばれず、一人として数えられもしない。俺は二度目の生でも、まだ「いない」ままである。
その夕暮れに、あれが来た。
◇
西日が路地を
路地の口に、それは立っていた。子どもほどの背丈、緑がかった肌、あばらの浮いた腹。森の魔物――ゴブリンだ。外壁の破れから、迷い込んだのだろう。
黄色い目が、セナと、背中の弟に向いた。
「セナ、走れ!」
考えるより先に、身体が前に出ていた。手の中には、拾った棒きれが一本。雨を吸って、嫌に重い。膝が笑って、奥歯の根が合わない。勝ち目の当てなんか、どこにもない。それでも背中のほうで、セナの足音が遠ざかっていく。それでいい。
ゴブリンの手には、錆びた小刀があった。俺は棒を振り回し、一度だけ、その肩を打つ。二度目は、なかった。
腹の奥が、熱い。見下ろすと、粗末な
倒れた頬の先で、夕日が泥水の面に揺れている。きれいだな、と場違いなことを思った。
「ミロ! ミロ!」
遠くで、セナが泣きながら俺の名を呼んでいる。水の底で聞くみたいに、遠い。逃げろと言ったのに、馬鹿だな。……ああ、でも。
呼ばれた。最後に、名を。
前の世で死んだときより、ずっと上等だ――そう思いながら、俺の目は閉じた。
◇
次に開いた視界は、妙に低かった。
目の前に、痩せた子どもが倒れている。灰色の目を見開いたままの、見慣れた顔。……俺だ。ミロだ。
人の悲鳴が上がって、俺は自分の手を見た。緑色の、節くれだった指が、赤黒く濡れている。
――違う。俺の手は、こんな色じゃない。
振り払うように振っても、緑の指は付いてくる。誰かの悪い冗談みたいに、俺の思ったとおりに開いて、閉じる。心の臓だけが、別の生き物みたいに速い。落ち着け。落ち着けるわけがない。俺はさっき、そこで死んだはずで、そこに倒れているのが俺で――なら、ここで震えているこれは、誰だ?
流れ込んできたのは、飢えだった。まる三日、何も食えていない。胃の壁が擦れる感じも、木の根をかじって土を舐めた夜の味も、俺のもののように蘇る。森の実りは人足に荒らされ、群れは飢え、こいつは群れの分の食い物を探して、たったひとりで壁の内側に潜り込んだ。俺を殺したのは、悪意じゃない。俺のいちばんよく知っている、ただの飢えだ。
頭では、分かりはじめている。俺はこいつに殺されて、こいつになったのだと。だが心が、まるで追いつかない。喉の渇き方も、目に映る色も、匂いの刺さり方も、何もかもが他人のものだ。自分の悲鳴の出し方ひとつ、俺はまだ知らない。
路地の奥から、松明と怒声が近づいてくる。俺は慌てて闇の中へ走った。
ミロを葬る者のあてなど、あの路地にはない。たぶん、セナだけが泣いてくれる。それで十分すぎると思ってしまう自分が、少しだけ悲しい。
声に出したつもりの言葉は、ぎゃ、という濁った鳴きにしかならない。それでも胸の内で、俺ははっきりと思う。
俺は――俺を殺した奴に、なった。
自分を殺したこの身体に対して怒りが湧いてくるかとも思ったが――――この身体を乗っ取ったのが自分であるならば、むしろ勝ったのは俺の方ではないのだろうか? 転生した時に女神さまがくれた特別なスキルなのかもしれないが何の説明もなかった。もしかしたら、あったのかも知れないが覚えていないのだ。
俺は強烈な空腹にさいなまれながら必死に逃げていった。
人間をやめた最初の夜は、腹の虫の音ばかりが、妙に人間くさい。