殺されるたび、殺した奴に成り代わる ~過労死した俺、貧民の子から災いの龍・勇者を経て、気づいたら玉座に!?~ 作:DeDee
ゴブリンの身体は、燃えの悪い竈に似ている。
少し食えばすぐ動けるが、すぐに冷える。ひと晩飢えれば、朝には指が震えて木の実ひとつ掴めない。俺は、俺を殺した奴の身体で、俺のいちばんよく知る飢えの中に戻っていた。
壁の破れを抜けると、この身体の足は、勝手に森への帰り道を辿り始める。夜の森は、匂いでできていた。濡れた土、獣の通った跡、腐った実の甘い臭い。人間だった頃には黒一色だった闇が、この目には濃淡を持って見える。
群れの
隅のほうで、あばらの浮いた仔が力なく鳴いている。母親らしいのが、何も出ない乳を吸わせている。……見覚えのある景色だ。灰溜まりと、何ひとつ変わらない。
人間の敵であるはずのゴブリンだったが――こう見たら〈
人の言葉は、この喉では作れない。代わりに、身体が群れの言葉を覚えている。鳴きの高さ、耳の倒し方、地面の叩き方。意味の通る音は、ちゃんとある。
さて……どうするか――――?
人間の敵であるこんな醜悪なゴブリンなど滅べばいいと思うところもあるが――――自分はもうその醜悪なゴブリンなのだ。
人間に殺してもらって、その人間に乗り移ればまた人生をリセットできるのかもしれないが――俺は首を振った。
そんなことして他人の人生を奪っていいとも思えないし、この乗り移りスキルが一回限定だとしたら死んで終わりなのだ。そんな危ない橋は渡れない。
ふぅ……。
俺は大きく息をついた。
やはりゴブリンで生きていくしかない。
……と、頭では決めた。頭では、だ。
最初の晩、俺は生の川魚に齧りついて、そのまま動けなくなった。うまい、とこの身体が言う。ぞっとする、と俺の中の残りが言う。噛むほどに、人間だった何かが一枚ずつ剥がれていく気がして――それでも、腹は減る。生きるというのは、こんなにも問答無用である。
なら、やることは決まっている。回らない現場を、回るようにする。それだけは、どこの世界でも同じだ。
まず、川だ。沢の浅瀬に石を並べ、水の道を狭める。水は夏でも骨を噛むほど冷たいが、この身体は文句を言わない。追い込まれた魚が、石の袋小路で銀色に跳ねる。素手で追い回すより、十倍は獲れる。灰溜まりで蹴り崩されたのと同じ石積みを、ここでは誰も崩しに来ない。それだけのことが、妙に嬉しい。
次に、分け方を変える。獲物は焚き火の前にすべて集め、頭数に切り分ける。いちばん大きいのが総取りしようと唸ったから、俺は魚の山を指し、明日はもっと増えると身振りで示した。腹の読める群れは、裏切らない。
最後に、見張りを立てた。洞穴の上の岩に一匹、日が回るごとに交替させる。当番という考え方は、どうやらこの森には、まだ生まれていなかったらしい。
ひと月で、群れから餓死が消える。夜の洞穴に、満ちた腹を叩く音と、間の抜けた寝息が並ぶ。あの隅の仔も、近頃は乳の代わりに魚の尾をしゃぶっている。
前の世で俺の作った当番表は、誰にも守られなかった。破られるために刷る紙だ。それがここでは、鳴きと身振りだけの決め事が、仔ゴブリンの命を守っている。妙に、報われる話である。
醜悪なゴブリンたちも、慣れてきたらそれなりに愛嬌のある造形に見えてくるから不思議だ。ゴブリンの残留思念に影響されているのかもしれないが。
◇
片耳の裂けた仔が、いた。
身体が小さく、狩りに付いていけず、分け前の列ではいつも押し出される。群れが移るたび、置いていかれかける類いの仔だ。ただ――目と耳だけは、誰よりも利く。
初めて気づいたのは、分配の列でのことだ。押し出されたそいつに魚を一尾押し付けてやると、受け取っていいのか分からない顔で、俺と魚とを何度も見比べる。それから、ひどく大事そうに、両手で抱えて齧った。
俺はそいつを、岩の上の見張りに据える。
初めての当番の朝、そいつは裂けた耳をぴんと立て、鷹の影と兎の影を鳴き分けてみせた。群れが初めて、そいつの声で動く。夕方、岩を降りてきたそいつは、胸を反らして俺の前に立ち、短く二度鳴いた。役目、果たした、と。
俺は勝手に、グルドと呼ぶことにした。声には出せない、俺の頭の中だけの名だ。誰かに名前を付けるなんて、生まれて初めてのことだった。
夜になると、グルドは俺の隣で丸くなって眠る。裂けた耳が、寝息のたびにぴくぴく動く。守られている、と思っているらしい。守っているつもりなのかもしれない。どちらでも、かまわない。
そのうち、群れの鳴きの中に、俺を指す音が生まれる。低くひとつ、高くひとつ。
◇
群れは、目に見えて肥える。そしてそれが、間違いだった。
魚の匂いは沢を下り、貝殻と骨の山は
そいつは、月のない夜に来た。
地面が、規則正しく震える。眠りの中でそれを感じた刹那、岩の上のグルドが、裂けるような鳴きを三度、夜に放った。大きいの、来る、逃げろ。仕込んだとおりの警報だ。群れが洞穴を捨て、裏の沢へ流れ出していく。
俺は
木々の間を割って現れたのは、灰色の、山のような影。オーガだ。焚き火の火の粉を浴びて、濡れた岩みたいな肌が鈍く光る。狙いは群れの命じゃない。石で組んだ魚の
火のついた枝を投げ、石を投げ、俺は時間を稼いだ。群れが逃げ切るには、それで足りるはずなのだ。
なのに、グルドが戻ってきた。
岩を蹴り、オーガの顔めがけて、その小さな身体で飛びかかる。
太い腕が、一度だけ振れた。それで、終わりだ。小さな影が夜の向こうへ飛び、木の幹に当たり、落ちて、動かなくなる。
喉から出た音を、俺は覚えていない。そこから先の記憶は、細切れだ。俺はたぶん吠えて、跳びかかって、噛みついた。太い指が俺を掴み、地面が二度、俺を打つ。三度目は、なかった。
◇
目を開けると、世界が小さくなっている。
見下ろす先に、焚き火の残りが燻っている。散った干し魚。石の堰。俺の手は岩のように灰色で――その手の先に、片耳の裂けた小さな骸が転がっていた。
また――――乗り移ってしまったのだ。
流れ込んでくる。この身体の、灰色の日々が――――。
生まれてからずっと独りで、奪われる前に奪い、勝つことでしか食えなかった。負ければ飢える。飢えれば死ぬ。だから奪う。縄張り。蓄え。誰にも渡さない。守れ、守れ、守れ、と。
守れという、その声だけが、今は刃みたいに胸へ刺さる。
俺はグルドを守れなかった。グルドは、俺を守って死んだ。そして今の俺の腕は、ついさっき、グルドを叩き殺した腕そのものだ。
頭では、分かっている。悪いのはこの腕ではなく、あの夜の飢えと、奪り合いの理屈のほうだと。それでも喉の奥から吐き気に似たものがせり上がって、しばらく引かなかった。俺は、俺を憎むしかない身体で、グルドの骸の前に座っている。
守るには、強さが要る――のか?
巨きな指を、できるだけ静かに畳んで、俺は小さな骸を拾い上げた。掌の上のそれは、嘘みたいに軽い。ひと月かけて、やっと肥え始めたばかりだったのに。