暗闇の中で、奏斗と遥斗は向かい合っていた。
そこは現実ではない。
DA本部の訓練ホールでもない。
白い床も、銃声も、千束の声も、遠くへ沈んでいる。
意識の奥。
奏斗の中にある、深い場所。
そこには何もなかった。
ただ暗闇だけが広がり、その中心に二人が立っている。
一人は押村奏斗。
もう一人は押村遥斗。
同じ顔ではない。
けれど、どこか似ていた。
兄弟だからではない。
同じ体の中で、同じ痛みを抱えてきたからだ。
遥斗は笑っていた。
挑発するように。
見下すように。
昔からそうだったのだろう、と奏斗は思った。
強い者が上。
恐れさせる者が支配する。
従わせることが生きること。
遥斗はずっと、そうやって自分を守ってきた。
「来いよ、兄貴」
遥斗が言った。
「俺を止めるんだろ?」
「止めます」
「殺せるのか?」
「……」
「俺を止めるってことは、そういうことだ」
遥斗の足元から、黒い霧のようなものが広がった。
それは恐怖だった。
形のないもの。
目に見えないはずの感情。
けれど、この場所ではそれが黒い波のように見えた。
奏斗の足元へ忍び寄り、まとわりつく。
冷たい。
重い。
息が詰まる。
自分が殺したわけではないはずのDA幹部の血。
奏斗の体で行われた殺人。
千束を傷つけたフードの刃。
千束の腕から流れた血。
蒼士の負傷。
リコリス同士の銃撃。
全部が奏斗の胸へ押し寄せる。
「見ろよ」
遥斗が笑う。
「お前が迷った結果だ」
暗闇の中に光景が浮かぶ。
フードの四人が片膝をつき、遥斗に従う姿。
DA幹部が倒れる姿。
反乱リコリスが銃を撃つ姿。
千束が左腕を押さえて膝をつく姿。
「俺がいなければ、お前は死んでいた」
「……はい」
「俺がいなければ、千束も守れなかった」
「違います」
「違わない」
遥斗が踏み込んだ。
速い。
現実の肉体ではなく、意識の中の戦い。
それでも、遥斗の動きは鋭かった。
拳が奏斗の腹へ入る。
「ぐっ……!」
痛みは現実ではない。
だが、痛い。
体ではなく、心に響く痛み。
「お前はいつも遅い」
遥斗がさらに蹴る。
奏斗は腕で受けるが、吹き飛ばされる。
「迷う。考える。傷つけたくない。殺したくない。嫌われたくない。失いたくない」
遥斗は倒れた奏斗へ歩み寄る。
「だから何も守れない」
奏斗は立ち上がろうとする。
膝が震える。
黒い霧が体へ絡む。
恐怖。
死への恐怖。
罪への恐怖。
千束に拒絶される恐怖。
戻っても居場所がないかもしれない恐怖。
すべてが重い。
「俺なら殺せる」
遥斗は言った。
「俺ならDAを壊せる。俺ならリコリスもリリベルも解放できる。兄貴、お前にできないことを俺はできる」
「それは」
奏斗は息を整える。
「あなたが、もう失うものがないと思っているからです」
遥斗の目が細くなる。
「何?」
「あなたは死んだと思っている。だから、自分を燃やし尽くすことを恐れない」
「事実だろ。俺は死んだ」
「違う」
奏斗は立ち上がった。
「あなたは、私の中で生きていました」
「だから計画を続ける」
「いいえ」
奏斗は一歩前へ出る。
「あなたは、止まれなかっただけです」
遥斗の表情が変わった。
「黙れ」
「DAに裏切られたと思った。計画に賛同した仲間を失った。自分も死んだ。けれど、私の中で目覚めた」
「黙れ」
「だから意味を探した。自分が生き残った意味を。DAを潰すことが、その意味だと思った」
「黙れ!」
遥斗の拳が飛ぶ。
奏斗は避けなかった。
頬へ衝撃。
視界が揺れる。
だが、倒れなかった。
「でも、それは違います」
「何が違う!」
「あなたが生き残った意味は、誰かを殺すことではない」
「綺麗事を言うな!」
遥斗の周囲の黒い霧が膨れ上がる。
「お前に何が分かる! 恐れられて、利用されて、処分されて! 俺を見ていたのは兄貴だけだった!」
「分かっています」
「分かってない!」
「分かっています!」
奏斗の声が、初めて強く響いた。
暗闇が震える。
遥斗が一瞬止まる。
「私は、あなたが嫌いでした」
奏斗は言った。
「横暴で、乱暴で、人を従わせようとして、私にもひどいことをした」
「……」
「怖かった。腹も立った。恨んだこともあります」
「なら殺せよ」
「でも」
奏斗は目を逸らさなかった。
「あなたは、私の弟でした」
遥斗の瞳が揺れた。
わずかに。
本当に小さく。
「あなたは私を助けた。訓練で私が危険になれば、必ず来た。弱いと罵りながら、見捨てなかった」
「それは」
「私の命を救った」
奏斗は胸へ手を当てる。
「あなたの臓器がなければ、私は死んでいました」
「だから何だ」
「あなたがいたから、私は生き残った」
奏斗の脳裏に千束の顔が浮かぶ。
初めてリコリコへ行った日の笑顔。
甘いものを出してきた時の明るい声。
変態とからかう顔。
手をつないだ時の照れた横顔。
戻ってこいと叫んだ声。
好きだと言ってくれた声。
帰ってきて、と送られたメッセージ。
「あなたがいなければ、私は千束に出会えませんでした」
遥斗の表情が凍った。
「何を……」
「あなたが私を生かしたから、私はリコリコへ行った。千束に出会った。好きになった。生きたいと思えた」
奏斗は黒い霧の中を歩く。
一歩。
また一歩。
恐怖は消えない。
でも、止まらない。
「私は死ねません」
奏斗は言った。
「千束に、帰ってきてと言われました」
「兄貴……」
「まだ謝っていません。まだ話していません。まだ一緒にいたい。まだ、あの人の隣にいたい」
黒い霧が薄れていく。
遥斗が後ずさる。
「そんな理由で」
「私には十分です」
「女一人のために?」
「はい」
奏斗は迷わず頷いた。
「私は、千束のために死ねない」
その瞬間、暗闇の奥から光が差した。
白い光ではない。
柔らかい、リコリコの店内のような光。
コーヒーの香り。
千束の笑い声。
ミズキのからかう声。
ミカの静かな声。
常連客の笑い声。
奏斗が、ようやく得た場所。
生きたいと思えた場所。
遥斗はその光を見て、顔を歪めた。
「俺には、そんなものなかった」
「はい」
「俺には、兄貴しかいなかった」
「はい」
「その兄貴が、俺を殺すのか」
遥斗は笑った。
ひどく疲れた笑みだった。
挑発でも、嘲笑でもない。
どこか、子どものような笑み。
「なら、殺せ」
遥斗は両手を下ろした。
「俺を殺さなきゃ、お前は戻れない」
「遥斗」
「迷うなよ。迷ったら、また俺が出る」
「……」
「兄貴は死ねないんだろ?」
遥斗は胸を指した。
「なら殺せ。俺を踏み越えろ」
奏斗は動けなかった。
殺す。
自分の中にいる弟を。
命を救ってくれた弟を。
何度も憎んだ。
何度も怖れた。
けれど、確かに弟だった存在を。
奏斗の手が震える。
遥斗は苦笑した。
「本当に最後まで甘いな」
「私は」
「それでいい」
遥斗は静かに言った。
「兄貴は、そういう奴だった」
奏斗の胸が詰まる。
「遥斗」
「早くしろ。千束が待ってる」
その名前が出た瞬間、奏斗の震えが止まった。
千束が待っている。
帰ってきて、と言った。
なら、帰らなければならない。
奏斗は遥斗へ近づいた。
遥斗は逃げなかった。
黒い霧は、もうほとんど消えていた。
「遥斗」
「何だよ」
「ありがとう」
遥斗の目がわずかに開く。
「あなたがいなければ、私は千束に出会えなかった」
「……馬鹿兄貴」
遥斗は小さく笑った。
「礼なんか言うなよ」
「それでも、言います」
奏斗は手を伸ばした。
遥斗の胸へ。
そこに刃があったわけではない。
銃があったわけでもない。
ただ、奏斗の意志があった。
自分の中にいる遥斗を終わらせるという意志。
「さようなら、遥斗」
「ああ」
遥斗は目を閉じた。
「千束を泣かせるなよ」
「はい」
「あと、蒼士に謝っとけ。あいつ、しぶといけど痛がりだからな」
「分かっています」
「……兄貴」
「はい」
「生きろよ」
奏斗は頷いた。
次の瞬間、遥斗の体が光の粒になって崩れた。
暗闇が裂ける。
黒い霧が消える。
遠くから声が聞こえた。
千束の声。
戻ってきて。
奏斗は、その声の方へ手を伸ばした。
◇
現実に戻った瞬間、奏斗は息を吸った。
喉が焼けるように痛い。
体中が重い。
床に膝をついている。
千束の手が、奏斗の服を掴んでいた。
「奏斗!」
その声が耳に飛び込む。
奏斗はゆっくり顔を上げた。
千束が目の前にいる。
左腕に包帯。
血が滲んでいる。
顔には不安と怒りと、泣きそうな色が混ざっていた。
「……千束」
「奏斗?」
「はい」
千束の目が大きく揺れる。
「本当に?」
「戻りました」
「遥斗は?」
奏斗はすぐには答えられなかった。
胸の奥へ意識を向ける。
いつもあった気配。
焦りや恐怖の奥から、こちらを覗くような存在。
それが、ない。
静かだった。
あまりにも静かだった。
「遥斗は」
奏斗は言った。
「もう、いません」
千束の表情が止まる。
「いない……?」
「はい」
「それって」
「私が、終わらせました」
奏斗の声はかすれていた。
でも、はっきりと言った。
「殺しました」
千束は息を呑んだ。
何か言おうとして、言葉が出ない。
奏斗はその顔を見るのが少し怖かった。
だが、逃げなかった。
「すみません」
「何で謝るの」
「遥斗を止めるために、それしかありませんでした」
「……奏斗」
「ありがとうと言いました」
奏斗は目を伏せる。
「あなたに出会えたのは、遥斗が私を生かしたからです。だから、最後に礼を言いました」
千束の目に涙が浮かぶ。
「奏斗、戻ってきたんだよね」
「はい」
「もう、いなくならない?」
「努力します」
「そこは、いなくならないって言ってよ」
「……いなくなりません」
「約束」
「約束します」
千束は奏斗へ手を伸ばそうとした。
だが、その前に銃声が響いた。
現実は、まだ終わっていなかった。
◇
DA本部の訓練ホール周辺では、反乱の鎮圧が進んでいた。
フードの四人は、遥斗の消失と同時に統制を失った。
それでも彼らは戦った。
遥斗様、と叫ぶ者。
計画を続けろ、と叫ぶ者。
DAを壊せ、と叫ぶ者。
しかし、リリベルとリコリスの混成部隊が本部へ突入していた。
蒼士を含むリリベル部隊。
楠木の指揮で動くリコリスたち。
反乱に加わらなかった本部所属リコリス。
それぞれが、混乱の中で銃を構えた。
あるフードは撃たれ、倒れた。
あるフードは拘束された。
反乱リコリスたちも同じだった。
殺される者。
武器を落として取り押さえられる者。
最後まで抵抗し、非致死弾で倒される者。
DA本部の廊下には、血と硝煙の匂いが残った。
千束はその光景を見て、唇を噛んだ。
誰も死なせたくなかった。
全部救いたかった。
けれど、現実はそうならなかった。
それでも、奏斗は戻った。
遥斗は消えた。
なら、今度は奏斗を守らなければならない。
そう思った瞬間。
複数の銃口が奏斗へ向いた。
「押村奏斗。武器を捨て、両手を上げろ」
DA職員の声。
リリベル隊員も銃を構えている。
奏斗はまだ武器を持っていなかった。
しかし、彼らにとってそれは関係ない。
奏斗の体でDA幹部が殺された。
奏斗の体でDA本部へ侵入した。
奏斗の体で反乱勢力を率いた。
中身が遥斗だったとしても、外から見れば押村奏斗だ。
「待って!」
千束が前に出ようとする。
奏斗がそれを止めた。
「千束」
「でも!」
「大丈夫です」
「大丈夫じゃない!」
奏斗は苦しそうに笑った。
「今回は、抵抗できません」
「奏斗は戻った!」
「はい」
「遥斗はもういない!」
「はい」
「だったら!」
「それを証明する必要があります」
奏斗の声は静かだった。
「そして、私の体で行われたことの責任も、調べられる必要があります」
「奏斗がやったんじゃない」
「それでも、逃げれば千束まで疑われます」
千束は言葉に詰まった。
奏斗はゆっくり立ち上がり、両手を上げた。
「押村奏斗、投降します」
その声に、隊員たちが動く。
蒼士が痛みに顔をしかめながら近づいてきた。
「奏斗……」
「蒼士」
「お前、戻ったんだな」
「はい」
「遥斗は?」
「もういません」
「そうか」
蒼士は一瞬だけ目を伏せた。
「……そうか」
その声には、複雑な感情が混じっていた。
安堵。
寂しさ。
怒り。
そして、昔を知る者だけが持つ痛み。
「すみません。怪我をさせました」
「ほんとだよ」
蒼士は苦笑した。
「あとで高いパフェ奢れ」
「分かりました」
「約束な」
「はい」
そのやり取りの直後、DAの拘束具が奏斗の手首へかけられた。
金属音が鳴る。
千束の胸が締めつけられる。
「やめて」
小さく漏れた声。
でも、誰も止まらない。
その時、楠木が姿を現した。
周囲の職員が道を開ける。
楠木は千束と奏斗を順に見た。
「押村奏斗は一時拘束する」
「楠木司令!」
千束が食ってかかる。
「奏斗は戻った!」
「見れば分かる」
「じゃあ何で!」
「DA幹部が殺された。反乱が起きた。本部が襲撃された。その中心にいたのは、押村奏斗の体だ」
「奏斗じゃない!」
「お前がそう叫んでも、事実確認は必要だ」
楠木の声は冷静だった。
冷たいとも言える。
だが、完全に敵意だけではなかった。
「ここで逃がせば、奏斗は本当に敵として扱われる」
「……」
「拘束は、処刑ではない。調査のためだ」
「信用できると思ってるの?」
「思わないなら、お前が見張れ」
千束が目を見開く。
楠木は続ける。
「錦木千束。お前は奏斗を敵にしたくないのだろう」
「当たり前でしょ」
「ならば、今ここで暴れるな」
楠木の声が少し強くなる。
「お前が暴れれば、押村奏斗を庇うためにDAへ反抗したと記録される。そうなれば、お前も奏斗も守れない」
千束は拳を握った。
悔しい。
叫びたい。
奏斗を連れて逃げたい。
でも、楠木の言っていることは分かった。
ここで千束が銃を向ければ、奏斗は完全に敵になる。
自分も同じだ。
そうなれば、助ける道が狭くなる。
「……奏斗」
千束は震える声で呼んだ。
奏斗は拘束されたまま、千束を見た。
「千束」
「行かないで」
本音が漏れた。
奏斗の表情が少しだけ揺れる。
「すみません」
「謝らないで」
「また会えます」
「本当?」
「はい」
「約束?」
「約束です」
千束は涙をこらえた。
「既読、つけなかったの怒ってるから」
「はい」
「勝手にいなくなったのも怒ってる」
「はい」
「帰ってきたのに、また連れていかれるのも怒ってる」
「……はい」
「だから、ちゃんと戻ってきて」
奏斗は小さく頷いた。
「必ず」
「絶対」
「絶対に」
隊員が奏斗を連れて歩き出す。
千束は追いかけそうになった。
でも、ミカの言葉を思い出す。
戻った奏斗を受け止めてやれ。
そのためには、今ここで壊してはいけない。
千束は足を止めた。
奏斗が一度だけ振り返る。
目が合う。
いつもの奏斗だった。
少し疲れていて、痛みを隠していて、それでも千束へ心配をかけまいとする顔。
「千束」
「何?」
「待っていてください」
千束は強く頷いた。
「待ってる」
奏斗は連行されていった。
廊下の奥へ。
DAの隊員たちに囲まれて。
手首を拘束されたまま。
千束はその背中が見えなくなるまで、ずっと見ていた。
奏斗は戻ってきた。
遥斗はいなくなった。
けれど、物語は終わらない。
DAの闇も。
反乱の傷も。
奏斗の罪として扱われるものも。
まだ、何も片づいていない。
それでも千束は、ゆっくり息を吸った。
「待ってるから」
誰に向けたのか分からないほど小さな声で、そう呟いた。
そして、もう一度強く思った。
奏斗は敵じゃない。
絶対に。
何があっても。