何も終わってなどいないから、できることはまだある。
※1年前に合同誌で出したお話です。
砂浜のような足取り、波のような陽炎、潮騒のような蝉時雨。
猛暑の長月、中旬。所謂、彼岸の事であった。
一人の少女が田舎道をゆっくりと歩いていた。
未だ残る残暑の熱に迫られて、一人疲弊し切った顔をした少女の名はマチカネフクキタル。トレセン学園に通うウマ娘である。
そんな彼女がわざわざ田舎道を一人歩く理由は至極単純で、身内の墓参りの為であった。
彼女には姉がいた。とうの昔に亡くした姉である。大層優秀で、将来を嘱望されていた人であった。フクキタルも彼女のことを慕っており、それ故にその死別は大きな意味を持った。
けれども、その意味にある種の決別を見たから、彼女は今日一人墓に来ている。例年ならば、家族と共に来て皆で参るはずであったが、わざわざ皆にことわってまで、一人で来たのである。
少し後悔したことがあるとすれば、この暑さはただの一人には耐えかねる代物であったことであった。
会話の一つでもできれば、幾分気も紛れようが、今日に限ってはその相手もいない。黙々と歩くばかりである。
早く暑さから逃れたいと歩みを速めれば、次第に身体に熱が籠る。かといって、牛歩の如き有り様では長々と天日に晒されるばかりである。畢竟、彼女は普段のトレーニングに用いるような忍耐を以て、それなりの歩みをする他ないのである。
「ほんとうに、あついですねぇ」
いよいよその後悔も強くなり、顰めっ面をしてしまいそうな頃のことであった。
鬱々と歩くものだから下がっていた視線を、風に揺れた麦わら帽子をおさえる際に上げた時、少し先に何か商店のようなものが見えた。
フクキタルは、その正体にはすぐに思い当たった。駄菓子屋である。普段は家族と車で来るものだから、通り過ぎてしまうのだが、そこに駄菓子屋があること自体は認識していた。
思わず、アイスキャンディーなどが彼女の脳裏を過った。
古めかしい駄菓子屋であるが、言ってしまえば田舎によくある程度で、営業に期待が持てた。買うならば、ソーダ味のアイスキャンディーか、バニラ味のアイスクリームか、それともバニラとチョコのミックスソフトクリームだろうか。フクキタルの心に軽やかな楽しさが宿った。
ほんの少しだけ歩幅を広げてまっすぐに向かい始める。向かう最中に、中から小学生と思わしき子供がビニール袋を持って出てきたから、どうやら絶賛営業中であるらしかった。
期待が確信となり、広がった歩幅はそのままに、小走りにも似て慌ただしくなる。
そして、遂に駄菓子屋の店内に足を踏み込んだ時、彼女の視界に真っ先に飛び込んできたものがあった。
「冷凍庫、故障中」
小さく、言葉がこぼれ落ちた。
あれほどに浮ついていると、期待の分だけ反動は大きいもので思わず膝をつきそうになるが、流石にそこまで自制心がないわけでもなかったから、代わりに呆然と立ち尽くした。
ただ、今日の占いの結果だけが脳裏を過っていた。
すると。
「故障中で、アイスクリームは食べられないんだってさ」
入り口の端、やけに暗い陰から声がした。
思わず視線を向けると、そこにはベンチに腰掛けた一人のウマ娘がいた。陰の奥にうっすらと見える顔つきからフクキタルと同年代らしく、その表情は穏やかなものだった。
綺麗な顔立ちで、思わず見惚れた。この夏にあって、氷のような静かさがあった。
少女は顔のそばで何か瓶を揺らしてみせた。カラカラとガラスのような音が響く。
「でも、冷蔵庫は生きてるから、ラムネは飲めるよ」
「あ、ありがとうございます。お店の方ですか?」
「いいや、私はただのお客さん。多分あなたと同じで、アイスクリームを期待したら無かった悲しい人一号」
「アハハ、同じですね。私は悲しい人二号です。私も、ラムネを飲もうと思います」
「店主のお婆ちゃんは丁度今引っ込んじゃった。そこのベルを鳴らせば来てくれると思うよ」
少女はそう言うと、まるでフクキタルに押すように促す言動であったにもかかわらず、不意に立ち上がってカウンターの前に立ってみせた。自分がベルを押すでもなく、ただフクキタルの方を見るのである。
その時になって、フクキタルは少女の顔をしっかりと見た。その顔つきは、どこか見覚えがあるもので、けれどもどこで会ったのか思い出せなかった。そもそも本当に会ったのかどうかすら怪しいもので、その曖昧さが少女への対応に迷いを生んだ。
おそらくは泳いでいた視線を追うようにして、少女の瞳が揺れていた。
「ん? どうしたのかな。ベルはここにあるよ。それとも、私の顔に何かついてる?」
「い、いいえ、会ったことがあったかなと」
「会ったこと、あったかな。あったような無かったような。私はあまり覚えがないけれど」
「じゃあ、ないんですかね」
フクキタルは少しだけ愛想笑いをして、彼女の奥のベルを鳴らした。
その時、手を伸ばした時に、彼女の首元から匂いがした。
夏の匂いが。
どんな匂いと聞かれても答えられない。なぜそう思ったかもわからない。ただ、夏の匂いがした、と思ったのである。
それがどんな意味を持つのか、そんなことは知らない。ただ、少し不思議に思って、少女の後ろ姿を見つめた。
「あら、いらっしゃい」
ぼんやりとしていたフクキタルを正気に戻したのは、店主の声だった。
深い皺が刻まれたお婆ちゃんは、少女の「この子もラムネ欲しいんだって」という言葉に、奥の冷蔵庫からラムネを取り出してフクキタルに手渡した。慌てて財布を取り出して、小銭を手渡すと、「ありがとうねぇ」とだけ言ってまた店主は店の奥に引っ込んでいく。
それを慌ただしさと共に見送って、ラムネを静かに握ったまま立ち尽くしていた。
「座ろうよ。飲む時くらいはゆっくりしたいでしょ」
「あ、はい。では、遠慮なく」
「長いベンチじゃないから、少し狭いけれど。まぁ、つめれば座れるかな」
少女は腰掛けると、気怠げに手招きをした。
さっきとは違ってベンチの隅で狭そうにしている姿は不思議な少女にいくらか人間味を感じさせた。
店の陰に潜むようにしている少女の横にフクキタルも腰掛けると、その足には日差しが微かに当たって、どこか心地よい熱があった。肩が触れるほど近いのに暑苦しく感じさせない少女とはある種対照的だった。
「こんな田舎に、何しに来たの」
フクキタルの方を向くこともなく、関心があるのかもわからない言い方だった。
だから、その答えは不意なものでするりとは出てこなかったのである。
「何しにって」
「何もないでしょ、この辺。少なくとも余程の用がないと私は来たくないよ」
「そ、そんなことないですよ。良いところじゃないですか」
「あ。やっぱりここらの子じゃなかった」
「え」
「最初からこの辺の子じゃないと思っていたんだよね。あ、別に他意はないよ。まんま聞くのも面白くないからさ」
少女はケラケラと笑うと、一息にラムネを飲み干した。そして、空の瓶を見せびらかすようにまたカラカラと揺らして見せた。
それを見ると、不思議とぼんやりと穏やかな気持ちになって、フクキタルは口にしていたラムネを少し多く飲んでしまって、案の定むせて思わず俯いた。
足元には蟻が一匹、行き先がわからないように進んでは止まっていた。
「そんなに慌てて飲まなくても。誰かが急かしているでもなし」
「アハハ、そうですよね」
「焦らなくてもいいんだからね、もう」
「はい、ゆっくり飲むことにします」
薄暗い駄菓子屋に、静寂が訪れた。
時折、フクキタルが仰ぎ飲むラムネのビー玉がカラリコロリと鳴るのが小さく染みるばかりで、蝉時雨さえも扉も隔てぬ陰に遮られて遠く聞こえた。
だから、話してしまったのかもしれない。
少なくとも初対面の者に話すべきではないであろう話を、陰に注ぎ込むかのように口にしてしまった。
「私には姉がいたんです」
「いた。過去形だね」
「はい、昔に私を置いて死んでしまったので」
「つまり、今日はお墓参りに来たわけだね」
少女はすぐに正解を出したにも関わらず、大して驚く様子もなかった。
最初からなんとなく知っていたからなのか、こういったことに気を遣う性分でなかったからか、理由はわからなかったが、存外にそれを怪訝に思うことはなく世間話のような感覚でいるのは不思議なことだった。
「色々と、落ち着いたので」
小さく呟いて、目を閉じた。微かな微睡ばかりが瞼に見えた。
その微睡が、眠らぬままに、醒めぬままに今日に至る全てを思い起こさせた。
「お姉ちゃんは凄いわね」
マチカネフクキタルというウマ娘は、きっとそのような言葉に縛られていた。
別に取り立てて比較されたわけではない。優秀な姉がいるからと軽んじられたわけではない。ただただ、素晴らしい姉の存在が太陽のように眩しくて、自身はどうしようもなく劣って感じられて、その思いから逃れられていないだけだった。
姉が夭折していなければ、フクキタルもその心に整理をつける機会があったのだろう。
素晴らしい姉が広い世界に出てみれば意外とそれなりの才能だったとか、どこか一癖も二癖もある人であったとか、苦手なものがいくつもあるだとか、別に大したことでなくていいから、何かがあればフクキタルは自身を無自覚に呪うこともなかった。
けれど、彼女は自身を納得させられるだけの姉の弱さを知ることなく別れを迎えた。或いは、その弱さを知っていたとして、それはあまりに幼く
姉が太陽であるならば、フクキタルは自身を月だと思っていた。
月は太陽がなくては輝けない。
あの光無くては月のその円を描くこともない。
新月の時は長かった。それは終生続く逃れ難き呪いですらあり得た。
自身には姉のような素晴らしさはなく、全ては幸運によるものだと思っていた。
幸いにも、今、彼女はもう呪われていない。
トレセン学園への入学とトレーナーとの出会い、そして、トゥインクル・シリーズへの挑戦が、彼女を変えた。そう、幸運にも。
姉への想いはまだフクキタルのうちにある。占いや幸運、神様に祈る心が人一倍強いことも変わっていない。
ただ、マチカネフクキタルというウマ娘を肯定できるようになっただけの話。
レースへの向き合い方を考える中で、自身を信じてみたくなった。
トレーナーやファンが自身を応援してくれていることを感じた中で、その期待に応えたくなった。
そういう当たり前のことから呪いは霧散していった。
これはあくまで全てが終わった後の話だ。
もう、フクキタルは壁を乗り越えた。見るべき景色を見て、一つの区切りに立った。
だから、振り返る時間が必要だった。
彼女のこれまでの全てを、拾い上げるならば今だった。
全てを清算するために。
「マチカネフクキタルよ、走りなさい。さすれば、道は開かれる」
このお告げによって、フクキタルはトレセン学園にやってきた。
だから、シラオキ様に感謝している。
彼女はこれまで多くのことを感謝してきたけれど、このお告げだけは特別だった。
だって、これがなければトレーナーに出会うことも、友人達に出会うことも、自身と向き合うこともなかった。
今という幸福があるのは、そのお告げのお陰だった。結果的に、フクキタルが神社でお参りをすることが減ったのは皮肉なことだったが。
兎にも角にも、シラオキ様無くして今がないというのは事実のように思える。
だから、シラオキ様への想いを整理するのは簡単なことだった。
問題になったのは、亡くした姉への想い。
それがあったから今があるのか、無ければ今の幸せは無かったのか、無くとも幸せだったのか。何一つとしてはっきりしないから、清算しようもなく、ただ解放されただけで想いは胸の奥に潜み続けている。
フクキタルは、今の自分より小さくあの頃の自分より大きな姉の姿を見下ろすことに、あの頃見上げた姿をただの思い出にしてしまうことに幾許かの不安を抱いていた。
だから、今日、姉に会いに来たのだ。
「姉はすごい人だったんです」
「才能ある人って感じ?」
「はい。いつも褒められていて、自慢のお姉ちゃんでした」
「夭折して、残念だったね」
「そうなんです。もし生きていれば、私より凄いことをしたんだろうなぁ」
小さな吐露の後で、その思いを飲み込むようにラムネを一息に飲み干した。
すると、飲み終えたラムネのビー玉がからりと鳴るのを待つようにして、少女は言葉を返した。
「それはどうかな」
「え……」
数秒の沈黙が続いた。
ただ何も言わない方と、驚いて何も言えない方がいて、沈黙を破ったのはやはり意図して黙った者だった。
「別に才能が優れていたからって何かを成せるわけじゃない。才能がないからって何も成せないわけじゃない」
「で、でも」
「才能が優れている人の方が可能性がある?」
「っ……」
「そもそも、お姉さんの方が才能があったのか、あなたに姉ほどのものがなかったのか。それはわからないこと。誰も知らない、知ることもできない。それこそ、神のみぞ知る、というやつ」
「それは、そうですが」
「少なくとも、あなたは成し遂げたんでしょう? マチカネフクキタルのままに」
諭すような言葉が、心に染み込むように響いた。
それがわかっているかのように、少女はフクキタルの方を見ようともせず続けた。
「だから、あなたは誇るべきだよ」
「あ、ありがとうございます」
少女がニコリと笑うのが横目に見えた。
すると、少女はラムネをカウンターに置いてフクキタルの前に立った。
「私も一緒にいってもいいかな?」
「お墓参りに、ですか?」
「うん、ダメかな?」
普通に考えれば断るような話だった。
家族へも一人で行くとことわりを入れてまで、たった一人でやってきた墓参り、それに会ったばかりの少女がついてくるなんていうのは論理的に考えてもおかしなことで。
そんなマトモな考えが脳裏を一通り過ぎった後、自分の中に断る気持ちがないことに気づいた。
そして、その理由を考える前に口は言葉を綴っていた。
そうなるべきであったかのように。
「ダメ、じゃないです」
「ありがとう」
少女はこの時になってはじめて陽射しの下に姿を晒した。
その姿はやはりどこかで見たような気がして、何か親しんだものであるかのように感じられた。加えて言えば、どこか自分に似ているかのような気も。
そう思った時、フクキタルは一つ気づいたことがあった。
「あの、あなたの名前は?」
「名前?」
「はい、聞いていなかったなと思いまして。私はマチカネフクキタルと言います」
「よろしくね、フクキタル。私の名前はね……秘密!」
「はえ!? なんでですか!?」
「今日が終わって、次会う時に教えてあげるよ。ミステリアスに憧れてるんだ、私」
納得いかない顔をしながら、フクキタルはおもむろに立ち上がった。
なんとなくいくら聞いても答えてくれない気がしたから、少女と同じようにラムネを置いて彼女に並んで陽射しを浴びる。
「暑い、ですね」
「そうだね、早く行こうよ。ここからはそう遠くないんでしょう?」
「はい、あと10分も歩けば、着くと思います」
二人は横並びになって、また炎天下を歩き始めた。
「この先のお墓って神社のところだったと思うけど、神道なの?」
「はい、家が神社なので」
「へぇ。神様って信じてる?」
「はい。シラオキ様といいます」
「ふーん。やっぱり信じてるものなんだね。良い神様なの?」
「今の私があるのはシラオキ様のおかげだと思うくらいには」
「そりゃあ中々良い神様だ。よかったね」
「はい、とっても」
「私は誰かを信仰することはないけれど、そう幸せそうにされると羨ましいな」
「信じるものは、別に神様でなくともいいんだと思います」
「というと?」
「私はシラオキ様のお告げでトレセン学園というところに入学しました。でも、シラオキ様を信じていたとはいえ、私は心のどこかで何もない私をなぜその道に進ませたのだろう、私はお姉ちゃんみたいにすごくないのに希望を示すんだろう、と思ったんです」
「卑屈だね」
「はい。あの頃は自分の結果は全て幸運だと思ってましたから。今もまだ少し残っていますけどね」
「今は、前とは違うんだね」
「皆と会えましたから。トレーナーさんにも、友人達にも、ファンの皆さんにも」
「皆を信じてるんだね」
「皆と、皆が信じる私と、私を信じています」
「だから、今、お姉さんのお墓参りに来たんだね」
「はい、ここにやってきたんです」
問答のように話しながら歩いた二人は、やがて墓場の前に立っていた。
そう大きくない墓場の奥に、何度も来た墓石が見える。
ごくりと唾を飲み込んで、徐に足を踏み出した。歩くたびにじゃりと小石の音がして、それが足を取られたような気がして、目に見えるより墓が遠く思える。少女はそんなフクキタルの後ろについて、これまでのお喋りが嘘のように黙っていた。
その遅さはただ実時間に関係が無い体感的なものだったのか、それともフクキタルの無意識が誘発したものだったのか、どちらなのかはわからないが、どちらかを断定するには墓はやはり遠くなかった。
やがて、二人は一つの墓石の前に立っていた。
綺麗に墓石だった。定期的に清掃されていることがよくわかる、愛された者の墓石だった。
「ここに、お姉ちゃんが眠ってるんです」
「静かで、綺麗で。眠るには良いところだね」
「はい、春には桜がたくさん咲くんです。夏も、秋も、冬も綺麗で、どの季節に来ても、ここはお化けなんているはずがないって思えるくらい良いところなんです」
「うん、そうだね」
「こんな場所なら、お姉ちゃんも安らかに眠れると思うんです」
「そうかもしれない」
「だから、ここに来ても、私は姉に会えないんです」
「それは……どうかな」
優しく投げかけられた疑問。その先には、震える少女がいた。
「あなたはお姉さんに会いに来たんだよ。たとえ、その顔が見えずとも、その声が聞こえずとも」
「お姉ちゃんに、会いに?」
「あなたは、お姉さんが凄いって言われるのを聞いてきて、私はお姉さんよりって考えてしまう、ずっとそれに縛られてきた。けれど、どれほどそれが呪いのようであっても、根底にあるものは呪いなんかじゃない」
「じゃあ、なんですか」
「人の心にある、呪いにすらなり得る、目を逸らしたくなるようなもの。それを人は愛って呼ぶんだよ」
フクキタルが振り返ると、少女はこれまでのどこか怪しさを含む笑みでなく、底抜けに明るい笑顔で彼女を見ていた。
「ここに来た理由を色々考えたのかもしれないけれど、本当のところはたった一つだ」
「あ……」
「あなたはお姉さんが大好きだからここに来たんだ」
とても単純で、それでいて純粋で、何よりわかりやすい答えだった。
「あなたは誇るべきだよ。だって、お姉さんに頑張った自分を見せたくて、褒めて欲しくて、誇って欲しくて、わざわざたった一人でここに来たんだから」
その時、涙と共に、マチカネフクキタルの奥から、これまでその全てが堰き止められていたかのように感情が溢れ出した。
「お姉ちゃん、私頑張ったよ。お姉ちゃんみたいにずっと褒められてたわけじゃないけど、それでも頑張ったよ。怒られることもあったし、辛いこともあったし、自分に自信なんか全くなかったけど、皆に、トレーナーさんに支えられて、やったよ」
静かだった。蝉時雨も遠かった。
「お姉ちゃんが死んでからずっと寂しかったよ。私はお姉ちゃんみたいに褒められたいって思ってたけど、それよりお姉ちゃんに褒められたかったんだよ。自慢の妹だよって言ってほしかった。笑ってほしかった」
陽炎は彼方。空は入道雲などない快晴。
「お姉ちゃんと比べて何もできないと思ってたけど、お姉ちゃんが誇らしかったよ。勇気も、希望も、全部全部お姉ちゃんにもらった。色んなものがこの手をすり抜けていったけど、それでも諦めずに頑張ったよ」
炎天下も爽涼として。鈴の音がどこからか響く。
「お姉ちゃんならもっとすごかったのかな。しがみついてでも頑張る今の私を、今のお姉ちゃんが見たらなんて言うのかな。呆れるのかな、笑うのかな」
夏が過ぎる気配がした。
「教えてよ」
最後に絞り出すような声を出して、マチカネフクキタルはもう何も言えなくなって泣き出した。
彼女の大きな瞳から、大粒の涙が溢れて止まらなかった。
少女は後ろで何も言わずにただただ立っているだけで、穏やかな微笑みを浮かべるばかりだった。
そうして、ようやくフクキタルが泣き止んだ頃、墓石を見るフクキタルの背にようやく少女は声をかけた。
「満足した?」
「はい、なんだか、すっきりしました」
「それは良かった。これは一つの区切りになるだろう。あなたの人生はまだまだ続くからね」
「長生きします、お姉ちゃんの分まで」
「そうだ、二つ、聞いておきたいことがあるんだ」
「なんですか?」
フクキタルは振り返らぬまま、言葉を交わし続ける。
少女もまた、それを問題とせず、当たり前であるかのように続けた。
「その愛には、まだできることがあるかい?」
「はい、区切りかもしれませんが、お姉ちゃんが好きなのは変わりません。姉の為にも、皆の為にも、私は頑張ります」
「良い答えだね。素晴らしくて、眩しくて、本当に」
振り返らない理由はなかった。ただ、振り返る必要を感じなかった。
だから、奇妙なままに、もう一つの問いは投げかけられた。
「神様にできることはまだあるかい?」
「また、いつもの生活に帰ったら、きっと色んなことをお願いすると思います。でも」
「でも?」
「今はありません」
「そうか、そりゃあ良いことだね」
納得したように呟くと、少女は踵を返した。
「じゃあ、私は帰るよ。また会おうね、マチカネフクキタル」
去り行く少女を見送らず、フクキタルはただ墓石を見つめ続けた。
そして、やがて日が暮れ始め、世界が赤を帯び始めた頃になって空を見上げた。
その表情は晴れやかで、涙の後に笑顔が見えた。
姉の墓に改めて手を合わせ、彼女はただ一人で帰路につく。
夕陽が沈み、夜の闇が降りてみても、彼女の表情は少しも暗くはならなかった。
これはあくまで全てが終わった後の話だ。
もう、フクキタルは壁を乗り越えた。見るべき景色を見て、一つの区切りに立った。
そう、これはただの区切りだ。
どれほどここが大きな意味を持とうとも、人生はまだ長く、半分どころか終わりが見えぬほど遠い。
だから、彼女にできることは、まだ沢山ある。
『愛にできることはまだあるかい』