三千万人の夜を背負った少女   作:日向夏 

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朝食は五人分

 パンは、食べる人数を間違えない。

 

 粉を五人分こねれば五人分。六人目が来たからって、焼き上がった生地が気を利かせて膨らんでくれたりはしない。残念だけど、酵母は人間ほどお人好しじゃないのだ。

 

 だから私は、毎朝きちんと人数を数える。

 

「親方の分、レオンの分、バルトさんとイネスさんの分、それから配達のペト。はい、五人」

 

 黒麦の丸パンを作業台へ並べると、背後で粉袋がどさりと鳴った。

 

「お前の分は」

 

 振り向かなくても分かる。マルタ親方は、朝から声が太い。うちの石窯より先に町を起こせそうで、たいへん便利である。

 

「端が余ったら食べます」

「余らせないのがお前だろう」

「褒められました?」

「呆れてるんだよ」

 

 それなら問題ない。呆れられるくらいは、いつものことだ。

 

 親方――マルタ・アルノは、私を五年前からこの店へ置いてくれている。肩幅が広くて、白い前掛けがよく似合う四十六歳。生地の機嫌と嘘をつく子どもの顔は、見ただけで分かるらしい。

 

 後者については、少し割り引いて聞いたほうがいい。私の嘘は、だいたい三回に一回くらい見逃してくれるから。

 

「配達から戻ったら食べますよ。朝の市場は早い者勝ちです」

「朝飯まで勝ち負けにするな。そこへ座れ」

「もう鐘が鳴りますって」

 

 答えを待たず、焼きたての籠を抱えた。勝手口へ向かう途中、端の焦げた一つを見つける。

 

 これは売れない。売れないものなら食べても勘定は狂わないのだけれど、表面を指で押すと、炭みたいにぱりっと割れた。ちょっと焦げすぎだ。歯を犠牲にしてまで朝食へ参加する必要はない。

 

 布で包み、赤い配達鞄の底へ入れる。

 

「それをどうする」

「午後のおやつです」

「鳩でも怒るよ」

 

 親方は棚から蜂蜜パンを一つ取り、こちらの籠へ放った。売り物だ。しかも今朝いちばん形のいいやつ。

 

「これは注文にありません」

「私からの注文だ。食べな」

「代金は」

「給金から引く」

 

 それなら受け取れる。あとで帳簿につけておこう。

 

 借りは、数字にすれば返せる。親切のままだと、どこから返せばいいのか分からないから困るのだ。

 

 表の戸が開き、石臼係のバルトさんと窯係のイネスさんが入ってきた。二人は夫婦で、毎朝どちらが先に挨拶するか競っている。今日はイネスさんの勝ち。バルトさんが負けを認めないうちに、配達のペトまで裏口から顔を出した。

 

 長卓へ丸パンを一つずつ置く。バルトさんには端が固いやつ。噛む回数が増えて目が覚めるらしい。イネスさんには焼き色の薄いもの。ペトには、走りながら食べないよう半分に切らず丸ごと。

 

 最後にレオンの分を布へ包む。朝の巡回中に寄るので、冷めにくいよう二重だ。

 

「ミナ、あんたも座りな」

 

 イネスさんが長椅子をずらした。

 

「配達一番を取ってきます」

「毎日一番じゃなくても店は潰れないよ」

「でも一番なら、親方が私を置いてる理由が一つ増えるでしょう?」

 

 皆が黙った。

 

 しまった。冗談の焼き加減を間違えたらしい。

 

「売上の話ですって。朝からそんな顔をしたら、しわが増えますよ」

 

 ペトの頭を軽く撫で、空いた長椅子へ配達籠を置いた。これなら誰も座れと言えない。なかなか賢い解決だと思う。

 

 親方だけは、私ではなく長椅子を睨んでいた。

 

 外へ出ると、春の終わりの空は薄い青だった。

 

 麦環市の朝は早い。粉挽き小屋の水車が回り、市場の天幕が次々に開く。荷車の車輪、呼び込み、鶏の抗議。パンの匂いに混じって、川魚と革と濡れた藁の匂いが流れてくる。

 

 町の中心には、石造りの鐘楼がある。

 

 暁鐘。長い夜を追い払って、毎朝を連れてくる大きな銀色の鐘だ。町の人はそう教わるし、実際、あれが鳴らない朝には夜喰いが出る。

 

 理屈はよく知らない。パン屋に必要なのは、鐘の構造より鳴る時刻だ。鐘が一つ鳴れば生地を休ませ、二つで窯へ入れ、三つで最初の配達へ出る。

 

 便利でしょう? 町の守りもパンの焼き加減も、同じ鐘が面倒を見てくれる。

 

 今朝は、その三つ目が少し遅れた。

 

 ゴォン。

 

 音の尻尾が、途中で細くなる。いつもなら胸の奥まで響くのに、今日は薄い鍋を叩いたみたいだった。

 

「寝坊ですかね」

 

 鐘楼へ声をかけても、もちろん返事はない。

 

 市場の人たちも一度は上を見た。でも野菜は並べなきゃしおれるし、魚は待ってくれない。異変が一拍遅れただけなら、人間は自分の仕事へ戻る。なかなか強い生き物だと思う。

 

 私は注文どおりパンを配った。

 

 花屋のエダさんには胡桃パン二つ。肉屋には塩気の強い平焼きが四枚。靴屋のご主人は朝から奥さんと喧嘩をしていたので、注文の一つを半分に切って渡した。二人で分けるか、一人で全部食べてさらに揉めるかは、ご家庭の自由である。

 

「ミナ」

 

 最後の籠が軽くなったところで、背中から呼ばれた。

 

 レオン・ヴァレは、市警の灰色外套を着ている。十八歳なのに、黙って立っていると三十歳くらいの気難しさがある。焦げ茶の髪は短く、腰には剣。今朝も外套の留め紐が左右ぴったり同じ長さだった。

 

「おはよう。今朝は紐がきれいだね」

「毎朝同じだ」

「じゃあ毎朝きれい」

「飯は」

 

 挨拶の次がそれ。親方から何か吹き込まれているに違いない。

 

「鞄に入ってる」

「見せろ」

「私の鞄を見たがるなんて、仕事熱心だねえ」

「ミナ」

 

 仕方なく蜂蜜パンを取り出した。レオンの眉間が少しだけ平らになる。分かりやすい。笑わないぶん、眉間がよく働く人なのだ。

 

「食え」

「配達が終わってから」

「終わっただろ」

「鞄を店へ返すまでが配達です」

 

 レオンが何か言う前に、市場の北側で木箱が倒れた。

 

 乾いた音が三つ続く。

 

 誰かが怒鳴り、次に悲鳴。天幕の隙間から黒い煙のようなものが立ち上がった。

 

 煙なら風へ流れる。でも、それは人の足元へ流れた。

 

「夜滓だ。下がれ!」

 

 レオンの声が市場を切った。

 

 黒いものへ触れた魚屋の男が膝をつく。手首から肘へ、墨を流したようなひびが走った。影熱。放っておけば熱が上がり、影から夜喰いが生まれる。

 

 詳しいでしょう?

 

 できれば知らずに済ませたかったのだけれど、世の中は欲しい知識だけ配達してくれない。

 

「全員、鐘楼と反対へ! 走るな、転ぶ!」

 

 レオンが人の流れを作る。大声で脅すだけではなく、荷車を横へ倒して道を一本に絞った。うん、上手だ。怖がっている人へ選択肢をたくさん渡すと、かえって動けなくなる。出口は一つのほうがいい。

 

 私は魚屋へ駆け寄った。

 

「触るな!」

「触りません。ちょっと持つだけ」

「同じだ!」

 

 厳密には違うと思う。今は説明している場合じゃないけれど。

 

 男の腕へ布を巻き、黒いひびが皮膚から広がらないよう押さえる。夜滓が布越しに指先へ寄ってきた。冷たい。冬の井戸へ手を入れたまま、内側だけ火傷するような感じ。

 

「ミナ、離せ」

「この人を運んで。まだ移してないから」

 

 まだ、が余計だったらしい。

 

 レオンの口が固く閉じる。彼は怒ると声より先に顎が動かなくなる。観察している場合でもないので、私は魚屋を荷車の陰へ押し出した。

 

 市場の中央で、黒い煙が持ち上がる。

 

 四本足。曲がった背。頭の代わりに鐘のような穴があり、中で小さな歯がいくつも鳴っている。夜喰いだ。

 

 あれが誰かの怖いものに似ているのかは知らない。私には、焼き型を落として足が生えたように見えた。

 

 あまりおいしそうではない。

 

 夜喰いが跳ぶ。

 

 レオンの剣が横から入り、前脚を弾いた。刃の触れた場所から黒い粉が散る。倒し切れない。暁鐘の光が弱いせいだ。

 

「南へ抜けろ!」

 

 市場の反対側から、別の男の声が飛んだ。

 

 濃紺の外套を着た大柄な人が、長い杖を石畳へ打ち込む。杖の先から青い線が走り、夜喰いの周囲を四角く囲んだ。

 

「セラ、発生時刻。ティア、負傷者。ノルは鐘具を下げろ」

 

 短い指示が三つ。迷いがない。

 

 銀縁眼鏡の女性が魚屋へ走り、革鞄を開く。もう一人、淡い茶色の髪を結んだ女性は、声の主を見ながら手元の板へ何か書いた。

 

「隊長、北の杭が足りません!」

 

 鐘楼前で少年が叫んだ。たぶん十二歳くらい。自分の背丈ほどある金属の輪を引きずっている。

 

「三本で固定しろ。無理なら捨てろ」

「捨てたら鐘が――」

「お前より鐘を選ぶな」

 

 いい隊長だ。

 

 命令を聞かない子どもに、理由まで短く添えられる。忙しいときほど、こういう一言は難しい。

 

 少年――ノルが輪を放そうとした。

 

 その足元で、魚屋からこぼれた夜滓が膨らんだ。

 

 黒い手が石畳から伸びる。

 

「ノル!」

 

 銀縁眼鏡の女性が振り返る。遠い。

 

 レオンは夜喰いを押さえている。隊長の杖も結界から外せない。

 

 なら、空いているのは私だ。

 

 考えるより先に駆けた。金属の輪を蹴り飛ばし、ノルの襟をつかんで引く。

 

 黒い手が、少年の足首へ入った。

 

 間に合わなかった。

 

「う、あ……!」

 

 ノルが倒れる。靴下の下から黒いひびが上がった。

 

「見て。私の顔、分かる?」

 

 頬を両手で挟む。焦点の合わない茶色の目が、こちらへ向いた。

 

「パン屋、の……」

「正解。記憶は百点。次は息。私と同じにして」

 

 大きく吸って、ゆっくり吐く。少年の呼吸が一度つかえ、二度目でついてきた。

 

 上手だ。できる子で助かる。

 

「ミナ、待て!」

 

 レオンが私の意図に気づいた。

 

 待つ理由は分かる。影熱は薬で薄められるし、専門の人もいる。私が触れば、そのぶん患者が一人増える。

 

 でも薬師は魚屋を診ている。夜喰いはまだ動く。ノルのひびはもう膝へ届く。

 

 順番の問題だ。

 

 いちばん手早い方法を、使える人がやればいい。

 

「ちょっと冷たいよ」

 

 ノルの足首を握った。

 

 夜滓を呼ぶ。

 

 黒いひびが、少年の皮膚から私の指へ移った。爪の裏へ針を差し、一本ずつ腕の中へ押し込む。そんな痛みが続く。

 

 痛いけれど、知っている痛みだ。

 

 知らない痛みより扱いやすい。パンだって初めての窯より、癖の分かる焦げた窯のほうがましでしょう。

 

「やめろ!」

 

 レオンの声が近づく。

 

 最後の黒い線を引き抜いた。ノルの足からひびが消える。私の袖の下には、手首から肘へ細い線が三本増えた。

 

 うん。三人分くらいなら、まだ軽い。

 

「ほら、戻った」

 

 ノルの肩を叩く。少年は自分の足を見て、それから私の手首を見た。

 

「お姉さん、腕……」

「これはもともとの模様」

「今、増えた」

 

 よく見ている。修理屋には大事な才能だ。

 

「じゃあ、成長する模様」

 

 笑ってみせたが、ノルは笑わなかった。

 

 子どもに冗談が通じない日は、少しへこむ。

 

 銀縁眼鏡の女性――ティアが駆けつけ、ノルを抱き寄せる。少年の瞳、息、足首を順に確認し、次に私の腕へ視線を止めた。

 

「あなた、何をしたの」

「応急処置です」

「名前を聞いているんじゃない。方法を聞いてる」

 

 なるほど。言葉の無駄を許さない人らしい。

 

「移しました。私へ」

「そんなことが――」

 

 夜喰いが結界へ体当たりし、会話が切れた。

 

 隊長の杖が軋む。青い四角の一辺が消えかけている。

 

「ノル。動けるか」

「はい!」

「返事は短くていい。北の杭を」

 

 ノルは立ち上がった。まだ足が震えている。それでも金属輪へ走り、外れた杭を穴へ差し込む。

 

 私も押さえようとすると、ティアに肩をつかまれた。

 

「あなたは動かない」

「でも、人手が」

「一人増やしたのはあなたでしょう」

 

 痛いところを突く。

 

 ごもっともなので、別の役目を探した。

 

「レオン、右へ三歩! そこの天幕、支柱が鉄!」

 

 レオンが夜喰いの突進をかわし、剣の柄で支柱を叩き折る。落ちた鉄棒を隊長が杖で拾い、消えかけた結界線へ突き立てた。

 

 青い光が戻る。

 

「暁鐘、臨時接続!」

 

 ノルが金属輪を閉じた。

 

 鐘楼の上で、銀の鐘が鳴る。

 

 今度の音は太い。光が石畳を走り、夜喰いの身体を下から照らした。黒い四本足がほどけ、煙になり、最後に小さな歯の音だけが残る。

 

 市場へ静けさが落ちた。

 

 次の瞬間、鶏が鳴いた。

 

 さっきまで籠の下へ隠れていたくせに、全部自分が追い払ったような声だ。市場の誰かが笑い、張りつめていた空気が少し緩んだ。

 

 私は鶏を高く評価した。仕事の最後を締めるのは大事である。

 

「腕を出して」

 

 ティアは緩まなかった。

 

「まず魚屋さんを」

「もう診た。軽症。薬で戻せる」

「ノルは」

「今診ている」

「隊長さんは」

「あなたの質問へ全部答えたら、腕を出す?」

 

 出さないとは言いにくい聞き方だ。

 

 袖口を押さえたまま一歩下がる。背中が誰かへ当たった。

 

 レオンだった。

 

 逃げ道を塞ぐのが上手い。さっき褒めたところだけど、今は少しだけ評価を下げたい。

 

「見せろ」

「二人とも大げさだよ。これくらい――」

 

 言い終える前に、手首を取られた。

 

 レオンの指は強い。でも黒い線へ触れないよう、皮膚の白い場所だけを選んでいる。怒っているのに雑にならない。そこはレオンのいいところだ。

 

「冷たい」

「朝だから」

「春だ」

「春の朝は冷えるでしょう?」

 

 袖をめくられた。

 

 手首から肘へ、六本の黒い線が伸びている。

 

 あれ。

 

 三本だと思っていた。

 

 魚屋から布越しに少し移っていたらしい。こういう数え間違いは困る。パンなら三個不足だ。店だったら親方に頭をはたかれる。

 

「何人目」

 

 濃紺の外套の男が、結界杖を肩へ担いで立っていた。近くで見ると三十歳くらい。眉の上に古い火傷があり、こちらではなく黒い線を見ている。

 

「何がです?」

「今朝だけの線じゃない。影請けだな」

 

 市場のざわめきが遠くなる。

 

 その呼び名を、私は知っていた。

 

 白い廊下。白い値札。扉の前で、いい子から名前を呼ばれた朝。

 

 思い出す必要はない。

 

 今ここで役に立つ記憶ではないから。

 

「ロウ・ガルド。暁鐘修繕隊の隊長だ」

 

 男は名乗り、私の返事を待たずに問い直した。

 

「その黒い線は、何人分だ」

 

 六本ある。

 

 でも、一本が一人とは限らない。魚屋の分は薬で戻せたらしいし、ノルは立っている。だったら結果として問題はない。

 

 私は一番相手が安心しそうな答えを選んだ。

 

「たいした人数じゃありませんよ」

 

 誰も安心した顔をしなかった。

 

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