旅立ちの支度で大切なのは、持っていく物より、置いていく仕事だ。
小麦の注文先。酵母を起こす時間。窯の右奥だけ火が強いこと。肉屋は塩パンを一枚多く頼むが、一枚は犬の分なので代金を取らないこと。
全部、帳面へ書いた。
「犬の分は、なぜ無料なんだ」
横からレオンが読む。
「お客さんじゃないから」
「肉屋が食わせるなら、肉屋の注文だろ」
「でも犬は銅片を持ってないよ」
「飼い主が払う」
「レオン、市警より徴税官に向いてるかも」
褒めたのに、帳面を取り上げられた。
出発は明日の朝。
六十日以内に十二の暁鐘を調べ、夜滓の逆流を止める。最初の行き先は南東の雨樋町。麦環市から馬車で四日。第二鐘が川の増水と一緒に光量を落としている。
ロウさんは一日で出るつもりだった。でも医療品、工具、食料、通行証、鐘守庁を避ける経路をそろえるには二日かかる。
その二日で、私は店の仕事を全部引き渡す。
「仕込みはイネスさん。帳簿は親方。配達表はペト。粉屋との値段交渉はバルトさん」
「分かってる」
イネスさんが、生地を分けながら言う。
「三回目です」
「大事なので」
「四回目を言ったら、この生地を顔へつけるよ」
それは困る。明日の朝食ぶんだ。
私は口を閉じた。
代わりに棚の札を並べ直す。塩、酵母、蜂蜜、乾燥果実。誰が見ても分かるよう、文字を大きくした。
バルトさんが石臼小屋から、小麦の値段表を持ってくる。
「来週は北粉が上がる。先に二袋買う」
「湿気ます。春麦と一袋ずつのほうが」
「春麦は膨らみが弱い」
「蜂蜜パンへ回せば甘さで補えます」
「ならそうする」
相談はすぐ終わった。
バルトさんは私がいなくても決められる。イネスさんも、ペトも、親方も。
店は回る。
胸の中で、安心と何かが一緒に動いた。
何かのほうは、名前をつける前に帳簿へ押し込む。
「帰ってから、値段表が合ってるか見ますね」
言うと、バルトさんが手を止めた。
「帰るんだな」
「配達鞄を返さないと」
今、赤い鞄は旅用品を詰めるため二階にある。
「そんな物は送れる」
「送料がもったいないでしょう」
「帰る理由が、鞄でもいい」
バルトさんは値段表を畳んだ。
「忘れるなよ」
忘れるような大きさではない。赤くて、肩紐が太く、角に私が二度ぶつけた傷がある。
「大丈夫」
答える。
その言葉を使った途端、廊下を通ったティアさんが足を止めた。
「何が?」
「鞄を忘れない話です」
「なら、そう言って」
「鞄を忘れません」
「よろしい」
最近、言葉の検査まで増えた。
旅の医療契約も渡された。
一、毎朝と夕方に体温を測る。
二、黒線の位置を本人と薬師が確認する。
三、影請けは隊長と薬師の許可がある場合のみ。
四、痛み、眩暈、味覚、声、睡眠の変化を報告する。
五、違反時は能力任務から外す。
「五番、厳しくないですか」
「厳しくした」
「人手不足なのに」
「人を壊して補う人手不足は、計算に入れません」
ティアさんは二部の契約書へ署名した。一部を私、一部を自分が持つ。
「これ、仕事の契約?」
「治療の契約です」
「違いは」
「治療では、あなたも判断する側です。何をされるか、どこまで受けるか、拒否するかを決める」
「専門知識がないのに?」
「必要な事実は私が説明します。決めるのは身体を使う人」
面倒な仕組みだ。
薬師が決めてくれたほうが早い。私は必要な治療を受け、終わったら仕事へ戻る。それでいい。
でも、そう言うと契約が増えそうなので署名した。
字は少し崩れた。左手の冷えが残っている。
ティアさんは署名と指先を交互に見たが、何も言わず紙を受け取った。
次は、修繕隊の雇用書類。
こちらはセラさんが担当した。
「役割を確認します。現地連絡、経路選定、物資管理。影請けは補助能力として別記」
「能力が主な採用理由では?」
「ロウ隊長へ確認しました。あなたを同行させる理由は、鐘守庁から保護することと、麦環市で示した三つの技能です」
記録板へ並べる。
『土地の生活情報を修理手順へ接続する』
『住民へ仕事を分け、混乱を整える』
『限られた物資の損失順を判断する』
「長いですね。パン屋一つでよくない?」
「パン屋すべてが同じことをできるわけではありません」
セラさんは文字を消さなかった。
能力以外の役割が三つもある。
少し、座り心地が悪い。褒められすぎた椅子は、立ち上がるときに倒しそうで落ち着かない。
「給金は月に銀輪十二。危険手当は任務ごと。食費、宿泊費、治療費は隊の経費」
「食費は自分で」
「隊員全員、経費です」
「私は臨時でしょう?」
「臨時でも食べます」
反論が難しい。
「では給金から引いてください」
「引きません」
「そこ、融通が利かないですね」
「契約は、全員へ同じ条件を保証するためにあります」
家族という言葉より、契約のほうが分かりやすい。何をすれば、何を受け取るか書いてある。
最後に緊急連絡先。
「マルタ・アルノさんで?」
「店へ連絡が行くんですか」
「重傷、行方不明、契約解除の場合」
「ロウさんにしてください」
「ロウ隊長は同行者です」
「なら、レオン」
「同じく同行者」
「空欄」
セラさんの筆が止まった。
「なぜ店へ知らせたくないんです?」
「重傷と行方不明の連絡をもらっても、親方は仕事を止めるでしょう。遠くにいたら何もできないのに」
「帰ってくるよう求められるかもしれない」
「私一人のために?」
「家族なら」
また、その言葉だ。
「親方は店を空けません」
「本人へ確認します」
セラさんは紙を持ち、一階へ下りた。
すぐに戻ってくる。
「マルタさんから、『空欄にしたら書類ごと窯へ入れる』との回答です」
帳簿と同じ扱いだ。
親方の交渉は選択肢が少ない。
「分かりました。店で」
緊急連絡先へ、アルノパン店。
その下の続柄欄へ、セラさんが「養母」と書く。
「申請はまだ出してません」
「本人が家族として連絡を受けると回答しました。役所の身分欄ではなく、隊の連絡欄です」
線を引いて区別する。
書面の中に、親方との関係が一つ増えた。
消してほしいとは、言えなかった。
修繕隊の荷は、店の裏庭へ集められた。
結界杖。医療箱。記録箱。ノルの工具。携帯用火皿。五人分の寝具と食器。
「六人分です」
セラさんが訂正する。
「ロウ、ティア、セラ、ノル、私」
「レオンが加わります」
昨日出した転属願いが、その日のうちに通ったらしい。
「早いね」
「鐘事故の特例だ」
「市警、辞めなくて済んだ?」
「修繕隊護衛へ出向。籍は残る」
「よかった」
レオンは答えず、私の赤い鞄を荷の横へ置いた。
「まだ中が軽い」
「着替え三枚、前掛け二枚、毛布、食器、手帳。充分でしょう」
「六十日以上の旅だぞ」
「洗えば着られる」
「薬は」
「ティアさんが持つ」
「食べ物」
「親方が明日」
「自分の物は」
質問が曖昧だ。
持っていきたい物なら、赤い鞄。パン切りナイフ。店の配達表は置いていく。細工箱はノルが持つ。
部屋には衣装箱と机。冬服。欠けた名札。
「特にない」
答えると、レオンの眉間が狭くなった。
「五年住んで、それだけか」
「物が少ないと引っ越しが楽だよ」
「引っ越しじゃない。帰ってくる」
「そうだった」
言い直す。
「帰ってくるなら、置いていっても平気でしょう?」
今度はきれいな理屈だと思う。
レオンは鞄を開き、部屋へ上がった。
勝手に入るのはよくない。追いかけると、衣装箱から厚い外套を出している。
「南でも夜は冷える」
「荷物になる」
「着ればいい」
外套を私へ着せた。
まだ春の昼だ。暑い。
「今から?」
「荷物にはならない」
「頭いいねえ」
「脱ぐな」
無茶を言う。
袖が少し長い。親方が去年買ったものだ。冬の配達へ着たのは二回だけ。古い外套で足りると言ったのに、店の看板を背負う人間がみすぼらしい格好をするな、と押しつけられた。
外套にも、まだ代金を返し終えていない。
「これ、置いていこうかな」
「着ろ」
「汚したら困る」
「服は汚れる物だ」
「店のは商品みたいなものなの」
「お前のだ」
また値段の分からない言葉だ。
私は外套を脱がず、袖を折った。
夕方、セラさんが旅程表を持ってきた。
出発地、経由地、到着予定。各人の役割。緊急連絡先。最後に帰還予定欄がある。
「未定でいいですか」
「日付は未定です。ただし帰還先を書きます」
ロウさんは王都支部。ティアさんは白丘療養院。セラさんは記録院。ノルは修繕隊詰所。
レオンは麦環市市警。
「ミナはアルノパン店」
セラさんが書こうとする。
「待って。鐘守庁が店を監視するなら、私だけ別の場所へ戻ったほうが」
筆が止まる。
「帰還先を隠す欄ではありません」
「でも、私が店へ戻ると迷惑が」
「あなたが戻りたい場所を書く欄です」
「行ってから考えます」
「今は?」
店だ。
朝の窯。親方の声。長卓の六枚目の皿。ここへ戻りたい。
そう書いたら、鐘守庁へも読まれる。店が私の保護者だと認めたことになる。迷惑が増える。
「空欄で」
セラさんは、すぐには従わなかった。
「理由も記録します」
『本人希望により未定。鐘守庁の監視が店へ及ぶことを懸念』
「そこまで書く?」
「空欄と、帰る場所がないことは違います」
確かに違う。
でも、書面を遠くから見れば同じ白い枠だ。
夜、店の皆で夕食を食べた。
長卓には六人。親方、バルトさん、イネスさん、ペト、レオン、私。
六枚の皿が、やっと合った。
「明日、レオンは修繕隊と一緒に食べるんでしょう?」
「そうなる」
「じゃあ、また五枚ですね」
親方の匙が止まる。
「帰ってきたら六枚だ」
「レオンも毎朝来るの?」
「お前の皿を数えてる」
そういう意味か。
「食事代は」
「次に言ったら、匙ごと食わせるよ」
黙った。
親方の冗談は、たまに本気との境目が薄い。
食後、ペトが小さな紙袋をくれた。ルカと二人で集めた乾燥林檎。バルトさんは石臼用の油を小瓶へ詰めた。扉の蝶番にも使える。イネスさんは林檎酵母の種。
「旅先で焼きな」
「生き物だから、毎日面倒を見ないと死ぬよ」
「お前と同じだ」
全員がこちらを見る。
「私は一日くらい食べなくても死にません」
「そういうところも含めてだよ」
イネスさんは酵母瓶を赤い鞄へ入れた。
世話が必要な荷物が増えた。
でも、旅先でパンを焼ける。皆の食事へ使える。役に立つ物なので、受け取っていい。
翌朝。
暁鐘が三つ鳴る前に、修繕隊の馬車が店の前へ来た。
荷台は二台。一台に工具と医療箱、一台に寝具と食料。馬は四頭。ロウさんが車輪を確認し、ティアさんが薬品箱へ封をする。セラさんは出発時刻を記録。ノルは赤い糸のついた細工箱を、自分の膝から離さない。
レオンは修繕隊の濃紺外套ではなく、市警の灰色外套のままだ。胸へ臨時護衛の銀札が増えている。
私は赤い鞄を背負った。
親方が布袋を渡す。
「朝飯。昼まで開けるんじゃないよ」
「何個?」
「数えるな」
「荷物の確認です」
「馬車へ乗れ」
答えてくれない。
出発を見に、市場の人たちも集まった。花屋のエダさんが赤い花を一輪、鞄へ差す。魚屋は平焼きを一枚。靴屋夫婦は外套の留め紐を勝手に補強した。
「皆さん、私を何だと思ってます?」
「帰ってくる配達人」
エダさんが言う。
「南の町へ朝を届けておいで」
「パンは届けませんよ」
「分かってるさ」
分かっていない言い方だと思う。
馬車へ乗る。
親方は最後まで、帰ってこいと言わなかった。
代わりに、私の外套の襟を直した。
「食べる。寝る。痛ければ言う」
「ティアさんと同じですね」
「あの薬師とは話が合う」
困った。逃げ道が減る。
「分かりました」
「返事だけはいい」
親方の手が襟から離れる。
馬車が動いた。
店が少しずつ遠くなる。窓辺の私の部屋、二階の小さな窓、勝手口の傷。毎日見ていたものが、一つの建物へまとまっていく。
寂しい。
言葉が浮かんだので、別のことを考える。
南東街道は最初の橋が工事中。馬車は北門から迂回。昼までに林檎畑、夕方には宿場。仕事の順番は決まっている。
「昼食」
ティアさんが言った。
「まだ朝です」
「袋を確認します。マルタさんから、あなたが自分の分を人へ渡さないよう頼まれました」
信用がない。
布袋を開く。
丸パンが六個。
修繕隊は、ロウさん、ティアさん、セラさん、ノル、レオン、私。
六人。
ちょうどだ。
「今日は数え間違えてませんね」
「何の話です?」
ティアさんが聞く。
「親方、たまに一つ多く入れるから」
パンを配る。
ロウさん。ティアさん。セラさん。ノル。レオン。
最後に袋へ一つ残った。
蜂蜜パンだった。
親方が私へ入れたものだ。
「食べて」
ティアさんが見ている。
「昼に食べます」
「今、半分」
半分に割る。
蜂蜜の匂いがする。片方を口へ運び、噛む。
甘い。
残り半分は紙へ包み直した。
「なぜしまうの」
「昼の分」
「昼食は別にあります」
「おやつ」
ティアさんは納得していない。でも半分は食べたので、契約違反ではない。
午後、最初の橋で馬車が止まった。
工事は聞いていたより遅れ、仮橋を一台ずつ渡る。待ち時間に、レオンが外套の留め紐を直していた。
朝の予定どおりだ。
「はい」
紙包みを渡す。
「何だ」
「親方が一つ多く入れた分」
「六人で六個だった」
「私、朝は半分で足りるから。残り半分は余り」
レオンは受け取らない。
「食え」
「もう食べたよ」
「半分だ」
「人の食事量を細かく数えないで」
「お前が数えないからだ」
手を取って、紙包みを押しつけた。
「留め紐を直すの、手伝ってくれたでしょう。工賃」
「店の前で靴屋が直した」
知っていたらしい。
「じゃあ護衛料」
「給金が出る」
「幼なじみ割引の返礼」
「そんな割引はしてない」
面倒な人だ。
「数え間違いでいいでしょう」
最後にそう言った。
「親方が五人分のつもりで六個入れた。私は間違いを直してるだけ」
レオンは紙包みを見た。
受け取った。
よかった。これで袋は空だ。
「ミナ」
「何?」
「次は、最初から自分を数えろ」
「今日は数えたよ。半分」
「一人は半分じゃない」
橋の向こうで、出発の合図が鳴った。
返事をせず、馬車へ戻る。
六人を乗せた二台の馬車が、麦環市から南東へ進む。
帰還予定表の私の欄だけ、まだ空白だった。