三千万人の夜を背負った少女   作:日向夏 

10 / 11
帰りの日を書かない

 旅立ちの支度で大切なのは、持っていく物より、置いていく仕事だ。

 

 小麦の注文先。酵母を起こす時間。窯の右奥だけ火が強いこと。肉屋は塩パンを一枚多く頼むが、一枚は犬の分なので代金を取らないこと。

 

 全部、帳面へ書いた。

 

「犬の分は、なぜ無料なんだ」

 

 横からレオンが読む。

 

「お客さんじゃないから」

「肉屋が食わせるなら、肉屋の注文だろ」

 

「でも犬は銅片を持ってないよ」

「飼い主が払う」

「レオン、市警より徴税官に向いてるかも」

 

 褒めたのに、帳面を取り上げられた。

 出発は明日の朝。

 

 六十日以内に十二の暁鐘を調べ、夜滓の逆流を止める。最初の行き先は南東の雨樋町。麦環市から馬車で四日。第二鐘が川の増水と一緒に光量を落としている。

 

 ロウさんは一日で出るつもりだった。でも医療品、工具、食料、通行証、鐘守庁を避ける経路をそろえるには二日かかる。

 

 その二日で、私は店の仕事を全部引き渡す。

 

「仕込みはイネスさん。帳簿は親方。配達表はペト。粉屋との値段交渉はバルトさん」

 

「分かってる」

 

 イネスさんが、生地を分けながら言う。

 

「三回目です」

「大事なので」

「四回目を言ったら、この生地を顔へつけるよ」

 

 それは困る。明日の朝食ぶんだ。

 私は口を閉じた。

 

 代わりに棚の札を並べ直す。塩、酵母、蜂蜜、乾燥果実。誰が見ても分かるよう、文字を大きくした。

 

 バルトさんが石臼小屋から、小麦の値段表を持ってくる。

 

「来週は北粉が上がる。先に二袋買う」

「湿気ます。春麦と一袋ずつのほうが」

「春麦は膨らみが弱い」

「蜂蜜パンへ回せば甘さで補えます」

「ならそうする」

 

 相談はすぐ終わった。

 バルトさんは私がいなくても決められる。イネスさんも、ペトも、親方も。

 店は回る。

 胸の中で、安心と何かが一緒に動いた。

 何かのほうは、名前をつける前に帳簿へ押し込む。

 

「帰ってから、値段表が合ってるか見ますね」

 

 言うと、バルトさんが手を止めた。

 

「帰るんだな」

「配達鞄を返さないと」

 

 今、赤い鞄は旅用品を詰めるため二階にある。

 

「そんな物は送れる」

「送料がもったいないでしょう」

「帰る理由が、鞄でもいい」

 

 バルトさんは値段表を畳んだ。

 

「忘れるなよ」

 

 忘れるような大きさではない。赤くて、肩紐が太く、角に私が二度ぶつけた傷がある。

 

「大丈夫」

 

 答える。

 その言葉を使った途端、廊下を通ったティアさんが足を止めた。

 

「何が?」

「鞄を忘れない話です」

「なら、そう言って」

「鞄を忘れません」

「よろしい」

 

 最近、言葉の検査まで増えた。

 旅の医療契約も渡された。

 一、毎朝と夕方に体温を測る。

 二、黒線の位置を本人と薬師が確認する。

 三、影請けは隊長と薬師の許可がある場合のみ。

 四、痛み、眩暈、味覚、声、睡眠の変化を報告する。

 五、違反時は能力任務から外す。

 

「五番、厳しくないですか」

「厳しくした」

「人手不足なのに」

「人を壊して補う人手不足は、計算に入れません」

 

 ティアさんは二部の契約書へ署名した。一部を私、一部を自分が持つ。

 

「これ、仕事の契約?」

「治療の契約です」

「違いは」

「治療では、あなたも判断する側です。何をされるか、どこまで受けるか、拒否するかを決める」

 

「専門知識がないのに?」

「必要な事実は私が説明します。決めるのは身体を使う人」

 

 面倒な仕組みだ。

 

 薬師が決めてくれたほうが早い。私は必要な治療を受け、終わったら仕事へ戻る。それでいい。

 

 でも、そう言うと契約が増えそうなので署名した。

 字は少し崩れた。左手の冷えが残っている。

 

 ティアさんは署名と指先を交互に見たが、何も言わず紙を受け取った。

 次は、修繕隊の雇用書類。

 こちらはセラさんが担当した。

 

「役割を確認します。現地連絡、経路選定、物資管理。影請けは補助能力として別記」

 

「能力が主な採用理由では?」

「ロウ隊長へ確認しました。あなたを同行させる理由は、鐘守庁から保護することと、麦環市で示した三つの技能です」

 

 記録板へ並べる。

 

『土地の生活情報を修理手順へ接続する』

 

『住民へ仕事を分け、混乱を整える』

『限られた物資の損失順を判断する』

「長いですね。パン屋一つでよくない?」

 

「パン屋すべてが同じことをできるわけではありません」

 

 セラさんは文字を消さなかった。

 能力以外の役割が三つもある。

 

 少し、座り心地が悪い。褒められすぎた椅子は、立ち上がるときに倒しそうで落ち着かない。

 

「給金は月に銀輪十二。危険手当は任務ごと。食費、宿泊費、治療費は隊の経費」

 

「食費は自分で」

「隊員全員、経費です」

「私は臨時でしょう?」

「臨時でも食べます」

 

 反論が難しい。

 

「では給金から引いてください」

「引きません」

「そこ、融通が利かないですね」

「契約は、全員へ同じ条件を保証するためにあります」

 

 家族という言葉より、契約のほうが分かりやすい。何をすれば、何を受け取るか書いてある。

 

 最後に緊急連絡先。

 

「マルタ・アルノさんで?」

「店へ連絡が行くんですか」

「重傷、行方不明、契約解除の場合」

「ロウさんにしてください」

「ロウ隊長は同行者です」

「なら、レオン」

「同じく同行者」

「空欄」

 

 セラさんの筆が止まった。

 

「なぜ店へ知らせたくないんです?」

「重傷と行方不明の連絡をもらっても、親方は仕事を止めるでしょう。遠くにいたら何もできないのに」

 

「帰ってくるよう求められるかもしれない」

 

「私一人のために?」

「家族なら」

 

 また、その言葉だ。

 

「親方は店を空けません」

「本人へ確認します」

 

 セラさんは紙を持ち、一階へ下りた。

 すぐに戻ってくる。

 

「マルタさんから、『空欄にしたら書類ごと窯へ入れる』との回答です」

 

 帳簿と同じ扱いだ。

 親方の交渉は選択肢が少ない。

 

「分かりました。店で」

 

 緊急連絡先へ、アルノパン店。

 その下の続柄欄へ、セラさんが「養母」と書く。

 

「申請はまだ出してません」

「本人が家族として連絡を受けると回答しました。役所の身分欄ではなく、隊の連絡欄です」

 

 線を引いて区別する。

 書面の中に、親方との関係が一つ増えた。

 消してほしいとは、言えなかった。

 修繕隊の荷は、店の裏庭へ集められた。

 

 結界杖。医療箱。記録箱。ノルの工具。携帯用火皿。五人分の寝具と食器。

 

「六人分です」

 

 セラさんが訂正する。

 

「ロウ、ティア、セラ、ノル、私」

「レオンが加わります」

 

 昨日出した転属願いが、その日のうちに通ったらしい。

 

「早いね」

「鐘事故の特例だ」

「市警、辞めなくて済んだ?」

「修繕隊護衛へ出向。籍は残る」

「よかった」

 

 レオンは答えず、私の赤い鞄を荷の横へ置いた。

 

「まだ中が軽い」

「着替え三枚、前掛け二枚、毛布、食器、手帳。充分でしょう」

 

「六十日以上の旅だぞ」

「洗えば着られる」

「薬は」

「ティアさんが持つ」

「食べ物」

「親方が明日」

「自分の物は」

 

 質問が曖昧だ。

 

 持っていきたい物なら、赤い鞄。パン切りナイフ。店の配達表は置いていく。細工箱はノルが持つ。

 

 部屋には衣装箱と机。冬服。欠けた名札。

 

「特にない」

 

 答えると、レオンの眉間が狭くなった。

 

「五年住んで、それだけか」

「物が少ないと引っ越しが楽だよ」

「引っ越しじゃない。帰ってくる」

「そうだった」

 

 言い直す。

 

「帰ってくるなら、置いていっても平気でしょう?」

 

 今度はきれいな理屈だと思う。

 レオンは鞄を開き、部屋へ上がった。

 

 勝手に入るのはよくない。追いかけると、衣装箱から厚い外套を出している。

 

「南でも夜は冷える」

「荷物になる」

「着ればいい」

 

 外套を私へ着せた。

 まだ春の昼だ。暑い。

 

「今から?」

「荷物にはならない」

「頭いいねえ」

「脱ぐな」

 

 無茶を言う。

 

 袖が少し長い。親方が去年買ったものだ。冬の配達へ着たのは二回だけ。古い外套で足りると言ったのに、店の看板を背負う人間がみすぼらしい格好をするな、と押しつけられた。

 

 外套にも、まだ代金を返し終えていない。

 

「これ、置いていこうかな」

「着ろ」

「汚したら困る」

「服は汚れる物だ」

「店のは商品みたいなものなの」

「お前のだ」

 

 また値段の分からない言葉だ。

 私は外套を脱がず、袖を折った。

 夕方、セラさんが旅程表を持ってきた。

 

 出発地、経由地、到着予定。各人の役割。緊急連絡先。最後に帰還予定欄がある。

 

「未定でいいですか」

「日付は未定です。ただし帰還先を書きます」

 

 ロウさんは王都支部。ティアさんは白丘療養院。セラさんは記録院。ノルは修繕隊詰所。

 レオンは麦環市市警。

 

「ミナはアルノパン店」

 

 セラさんが書こうとする。

 

「待って。鐘守庁が店を監視するなら、私だけ別の場所へ戻ったほうが」

 

 筆が止まる。

 

「帰還先を隠す欄ではありません」

「でも、私が店へ戻ると迷惑が」

「あなたが戻りたい場所を書く欄です」

「行ってから考えます」

「今は?」

 

 店だ。

 朝の窯。親方の声。長卓の六枚目の皿。ここへ戻りたい。

 

 そう書いたら、鐘守庁へも読まれる。店が私の保護者だと認めたことになる。迷惑が増える。

 

「空欄で」

 

 セラさんは、すぐには従わなかった。

 

「理由も記録します」

『本人希望により未定。鐘守庁の監視が店へ及ぶことを懸念』

 

「そこまで書く?」

「空欄と、帰る場所がないことは違います」

 

 確かに違う。

 でも、書面を遠くから見れば同じ白い枠だ。

 

 夜、店の皆で夕食を食べた。

 長卓には六人。親方、バルトさん、イネスさん、ペト、レオン、私。

 六枚の皿が、やっと合った。

 

「明日、レオンは修繕隊と一緒に食べるんでしょう?」

 

「そうなる」

「じゃあ、また五枚ですね」

 

 親方の匙が止まる。

 

「帰ってきたら六枚だ」

「レオンも毎朝来るの?」

「お前の皿を数えてる」

 

 そういう意味か。

 

「食事代は」

「次に言ったら、匙ごと食わせるよ」

 

 黙った。

 親方の冗談は、たまに本気との境目が薄い。

 

 食後、ペトが小さな紙袋をくれた。ルカと二人で集めた乾燥林檎。バルトさんは石臼用の油を小瓶へ詰めた。扉の蝶番にも使える。イネスさんは林檎酵母の種。

 

「旅先で焼きな」

「生き物だから、毎日面倒を見ないと死ぬよ」

 

「お前と同じだ」

 

 全員がこちらを見る。

 

「私は一日くらい食べなくても死にません」

 

「そういうところも含めてだよ」

 

 イネスさんは酵母瓶を赤い鞄へ入れた。

 世話が必要な荷物が増えた。

 

 でも、旅先でパンを焼ける。皆の食事へ使える。役に立つ物なので、受け取っていい。

 

 翌朝。

 暁鐘が三つ鳴る前に、修繕隊の馬車が店の前へ来た。

 

 荷台は二台。一台に工具と医療箱、一台に寝具と食料。馬は四頭。ロウさんが車輪を確認し、ティアさんが薬品箱へ封をする。セラさんは出発時刻を記録。ノルは赤い糸のついた細工箱を、自分の膝から離さない。

 

 レオンは修繕隊の濃紺外套ではなく、市警の灰色外套のままだ。胸へ臨時護衛の銀札が増えている。

 

 私は赤い鞄を背負った。

 親方が布袋を渡す。

 

「朝飯。昼まで開けるんじゃないよ」

「何個?」

「数えるな」

「荷物の確認です」

「馬車へ乗れ」

 

 答えてくれない。

 

 出発を見に、市場の人たちも集まった。花屋のエダさんが赤い花を一輪、鞄へ差す。魚屋は平焼きを一枚。靴屋夫婦は外套の留め紐を勝手に補強した。

 

「皆さん、私を何だと思ってます?」

「帰ってくる配達人」

 

 エダさんが言う。

 

「南の町へ朝を届けておいで」

「パンは届けませんよ」

「分かってるさ」

 

 分かっていない言い方だと思う。

 

 馬車へ乗る。

 親方は最後まで、帰ってこいと言わなかった。

 代わりに、私の外套の襟を直した。

 

「食べる。寝る。痛ければ言う」

「ティアさんと同じですね」

「あの薬師とは話が合う」

 

 困った。逃げ道が減る。

 

「分かりました」

「返事だけはいい」

 

 親方の手が襟から離れる。

 

 馬車が動いた。

 

 店が少しずつ遠くなる。窓辺の私の部屋、二階の小さな窓、勝手口の傷。毎日見ていたものが、一つの建物へまとまっていく。

 

 寂しい。

 言葉が浮かんだので、別のことを考える。

 

 南東街道は最初の橋が工事中。馬車は北門から迂回。昼までに林檎畑、夕方には宿場。仕事の順番は決まっている。

 

「昼食」

 

 ティアさんが言った。

 

「まだ朝です」

「袋を確認します。マルタさんから、あなたが自分の分を人へ渡さないよう頼まれました」

 

 信用がない。

 布袋を開く。

 丸パンが六個。

 修繕隊は、ロウさん、ティアさん、セラさん、ノル、レオン、私。

 六人。

 ちょうどだ。

 

「今日は数え間違えてませんね」

「何の話です?」

 

 ティアさんが聞く。

 

「親方、たまに一つ多く入れるから」

 

 パンを配る。

 ロウさん。ティアさん。セラさん。ノル。レオン。

 最後に袋へ一つ残った。

 蜂蜜パンだった。

 親方が私へ入れたものだ。

 

「食べて」

 

 ティアさんが見ている。

 

「昼に食べます」

「今、半分」

 

 半分に割る。

 蜂蜜の匂いがする。片方を口へ運び、噛む。

 甘い。

 残り半分は紙へ包み直した。

 

「なぜしまうの」

「昼の分」

「昼食は別にあります」

「おやつ」

 

 ティアさんは納得していない。でも半分は食べたので、契約違反ではない。

 午後、最初の橋で馬車が止まった。

 

 工事は聞いていたより遅れ、仮橋を一台ずつ渡る。待ち時間に、レオンが外套の留め紐を直していた。

 

 朝の予定どおりだ。

 

「はい」

 

 紙包みを渡す。

 

「何だ」

「親方が一つ多く入れた分」

「六人で六個だった」

「私、朝は半分で足りるから。残り半分は余り」

 

 レオンは受け取らない。

 

「食え」

「もう食べたよ」

「半分だ」

「人の食事量を細かく数えないで」

「お前が数えないからだ」

 

 手を取って、紙包みを押しつけた。

 

「留め紐を直すの、手伝ってくれたでしょう。工賃」

 

「店の前で靴屋が直した」

 

 知っていたらしい。

 

「じゃあ護衛料」

「給金が出る」

「幼なじみ割引の返礼」

「そんな割引はしてない」

 

 面倒な人だ。

 

「数え間違いでいいでしょう」

 

 最後にそう言った。

 

「親方が五人分のつもりで六個入れた。私は間違いを直してるだけ」

 

 レオンは紙包みを見た。

 受け取った。

 よかった。これで袋は空だ。

 

「ミナ」

「何?」

「次は、最初から自分を数えろ」

「今日は数えたよ。半分」

「一人は半分じゃない」

 

 橋の向こうで、出発の合図が鳴った。

 返事をせず、馬車へ戻る。

 六人を乗せた二台の馬車が、麦環市から南東へ進む。

 帰還予定表の私の欄だけ、まだ空白だった。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。