雨樋町では、空から落ちた水まで列に並ぶ。
屋根の端に銅の樋。その下に木の樋。道の両側にも石の溝があって、町じゅうの雨が中央水路へ集められる。麦環市なら水たまりになる量でも、ここでは一滴残らず東門から川へ出ていく仕組みだ。
「働き者の町ですね」
「雨が多いだけだ」
ロウさんは空を見た。雲は粉袋の底みたいな灰色で、朝なのに暁鐘の青い輪が薄い。
私たちが宿場を出たあと、雨は二度強くなった。昼前に町へ着いたときには、馬車の車輪が半分まで泥に沈んでいる。これだけ降って水たまりが一つもないのだから、やっぱり働き者でいいと思う。
「第二鐘の光量は規定の六割。南側の排水門が詰まり、低地三区画へ避難勧告」
門で待っていた町役人が、挨拶を三つほど飛ばして報告した。セラさんが同じ速さで記録板へ刻む。
「鐘の点検を先行する。グラント、馬車を鐘楼へ。ティアは避難所の医療確認。レオンは市警と経路を合わせろ」
ロウさんが仕事を配る。
「私は?」
「医療班に同行」
「けが人運び?」
「見学だ」
見学は仕事に数えてよいのだろうか。たぶん数えない。けれど着いたばかりで勝手に仕事を増やすと、レオンの眉間の仕事も増える。
「了解。よく見ておきます」
雨樋町の避難所は、丘の上の麦倉だった。乾いた場所と大量の粉が同じ建物にある。そこまでは満点。ただし集まった百二十人へ配る食事が、生の豆と小麦粉しかない。
惜しい。粉は眺めても腹持ちしない。
避難してきた人たちは、濡れた外套を壁へ掛け、床の線ごとに家族で座っていた。泣く子は少ない。代わりに皆が入口を見る。次に誰が来るか、川の水位を知らせる人が入ってくるか、それとも家が流れたと告げる人か。待つしかない時間は、空腹より腹へ重い。
なら、手を動かしてもらうのがいい。パンができるまでの時間は同じでも、粉を量っているあいだは、入口だけを見なくて済む。
「パン焼きは?」
倉番の女性へ聞く。
「南窯の職人がまだ来てない。家が水路の向こうでね」
「共同窯は使えます?」
「火は入る。でも仕込みが分かる者がいないよ」
ほら、見学が仕事になった。
ティアさんへ振り向くと、先に首を横へ振られた。
「あなたは重労働禁止です」
「捏ね台の高さと粉袋の運搬を人へ頼めば、重くありません。私は配合と成形だけ」
「昨夜の睡眠は」
「宿で横になりました」
「時間を聞いています」
質問が細かい。二時間と答えると、たぶん休養になる。三時間半ならどうだろう。
「三時間と、馬車で少し」
「馬車では寝ていません」
レオンは市警のところへ行ったはずなのに、倉の入口にいた。濡れた前髪から水が落ちている。
「見てたの?」
「向かいの馬車からな」
「景色を見てただけかもしれないでしょう」
「三回、荷台から落ちかけた」
「道が悪かったから」
ティアさんが私とレオンを順に見た。
「二時間四十分です。昨夜、消灯後に廊下へ出た時間を除けば」
「お湯をもらいに行っただけです」
「林檎酵母へです」
セラさんまで倉へ入ってきた。板に時刻が残っている。
皆さん、人の睡眠へ詳しすぎないだろうか。本人の私より詳しい。本人が数えていないせいだと言われそうなので、これは口に出さない。
「百二十人分です。今から寝ても、パンは膨らみません」
粉袋を示す。
「私が配合を決めます。捏ねるのは避難してきた人へお願いする。成形も教えればできます。働ける人へ作業があるほうが、待っているだけより落ち着きますよ」
倉番の女性が頷いた。
「子どもも手伝えるかい」
「丸める係なら。大きさ見本を一個作って、それと比べてもらいましょう」
役に立つ手は多い。私でなくてもできる部分を増やせば、百二十人分でも間に合う。
ティアさんは黙って、私の手首を取った。脈を測る指が冷たい。いや、私の腕が冷たいのかもしれない。
「二時間。座って指示だけ。粉袋、捏ね、窯入れはしない。眩暈、吐き気、黒線の変化があれば中止」
「味見は?」
「一回」
「そこを二回に」
「一回です」
交渉は敗北した。でも作れる。
倉の真ん中へ長机を四台並べた。粉を量る人、水を運ぶ人、捏ねる人、丸める人。ノルは壊れた秤を細工箱の薄い金具で直し、左右の皿をぴたりと合わせた。
「いい仕事」
「まだ一回量っただけです」
「一回目で合うのがいい仕事なの」
ノルの耳が少し赤くなる。褒めると毎回、工具へ顔を近づける。隠れてはいないので、隠すのが上手ではない。
粉は雨樋町でよく作る灰麦だった。麦環市の白麦より皮が多く、膨らみは控えめ。でも水をよく抱くので、翌朝まで固くなりにくい。洪水が一日で引くとは限らないから、見栄えのいい白パンよりこちらが向いている。
「酵母を減らして平たく焼けば、今日中に二回転できます。最初の分は今夜、二回目は明日の朝へ」
「明日のぶんまで?」
倉番の女性が目を丸くした。
「明日の朝に空腹だと、今日助かったありがたみが半分になりますから」
これは親方の教えだ。災害用の食事は、最初の一食より二食目を忘れるな。助ける側が疲れて眠ったあとにも、腹は律儀に減る。
親方なら灰麦へ豆の煮汁を混ぜる。私はそこへ林檎酵母を使う。育った町と旅先の粉が同じ生地へ入るのは、ちょっといい。味が合えば、もっといい。
「水は少なめ。雨の日は粉が湿気を吸ってます。最初から全部入れず、手の裏へ生地がつくくらいで止めて」
私が見本を捏ねるのは禁止なので、倉番の女性の手へ自分の手を重ね、動かす向きだけ教えた。押して、折る。四分の一回して、また押す。
「人に任せるの、上手いじゃない」
「私がやるより腕が強いです。任せたほうが早い」
本当だ。彼女の手は大きく、麦袋の紐を毎日締めている。生地の表面がすぐ滑らかになった。
林檎酵母は旅へ持ってきた分を使う。親方の窯から分けてもらった種だ。瓶の蓋を開けると、甘酸っぱい匂いがした。
した、と思う。
雨と濡れた麻袋の匂いが強くて、鼻が負けているだけだろう。
「塩、これくらい?」
ノルが小皿を持ってきた。
「秤で八。砂糖は十二」
「砂糖を入れるんですか」
「避難用は少し。冷えてる人が食べやすいから」
一皿目の塩を粉へ入れる。別の机で子どもが呼んだので、丸め方を見に行った。
「お姉ちゃん、これ、丸?」
掌の上に、角が五つある生地が載っている。
「新しい形だね。焼くと角だけ焦げるから、朝の星パンとしては優秀。でも今日はお腹を満たしたいので、角を中へ隠そうか」
指で端を一つずつ底へ集める。生地が丸くなった。
「失敗?」
「焼く前なら全部、途中」
女の子はもう一つ取り、今度は自分で端をたたんだ。一回見て覚えられる。丸め係の中で一番早くなるだろう。
長机へ戻ると、小皿に塩が残っていた。
「入れ忘れた?」
さっき入れた気もする。ただ、砂糖の皿だったかもしれない。白い粉は仕事中に見分けがつきにくい。舐めれば一秒だ。
指先へつけ、舌へ乗せる。
薄い。
塩だと思う。たぶん。
「塩、まだですよ」
ノルが秤の向こうから言った。
「そうだよね」
小皿を粉へ入れた。
一度目の発酵を待つあいだ、避難者へ豆の薄いスープが配られた。私にも器が来る。温かい。味は、少し水が多い。
雨の日だから仕方ない。豆の量には限りがある。
「どう?」
隣でノルが聞いた。
「温まるよ」
「味です」
「やさしい」
「薄いって意味ですか」
便利な言葉を見破られた。
「避難所のスープは濃すぎないほうが喉を通るの」
ノルは自分の器を飲んだ。
「しょっぱいです」
「そう?」
「豆より塩の味がします」
私ももう一口飲む。温かい水と、柔らかい豆。塩気はどこか遠くにいる。
舌を火傷しただろうか。朝、宿場で飲んだ茶は熱かった。火傷なら一日で戻る。パン屋だって、たまには舌を休ませたい。
生地が膨らんだ。
一個分をちぎり、薄くして共同窯へ入れる。味見用は平たくすると早く焼ける。表面が色づいたところで出し、割った。
湯気の中から、酵母と小麦の匂い。
一口噛む。
「どうです?」
ノルが期待した顔で待っている。
「うん。雨の日の味」
「また便利な言葉」
「粉が少し湿気てる。でも発酵はいい。窯の下火を弱めて、焼き時間を二分長くしよう」
生地の弾力は歯で分かる。香りも分かる。味だけが薄い。
疲れていると、よくある。たぶん。
「僕も食べていいですか」
「もちろん。味見係が二人なら安全二倍」
残りを渡す。
ノルは一口噛んだ。次の瞬間、眉と鼻を一緒に寄せた。
「しょっぱい」
「スープのあとだから?」
「スープよりしょっぱいです」
水を飲み、もう一度ほんの少し噛む。
「塩、倍です」
小皿を二つ思い出した。
一つ目は入れた。子どものところへ行ったあと、残っていた二つ目も入れた。
舐めたとき、薄いと思った。
「なるほど。秤が正確すぎたね」
「僕のせいですか」
「違う違う。正確に倍入ってるから、直す量も正確に分かるって話」
ノルの眉が戻る。
失敗した生地と同量の、塩なし生地を作って合わせればいい。発酵は少し遅れるけれど、捨てなくて済む。粉と水の量を読み上げると、倉番の女性たちがすぐ動いた。
「次の味見も、ノルお願い」
「二人じゃないんですか」
「私は焼き具合係。ノルは塩係。専門を分けたほうが強いでしょう」
自分でも、うまい分け方だと思った。
背後で椅子が鳴った。
ティアさんが診察鞄を持って立っている。
「ミナ。口を開けて」
「パンは直せます」
「生地ではなく、あなたを診ます」
「舌を少し火傷しただけです」
「今朝の茶は、私も同じ薬缶から飲みました。火傷する温度ではありません」
逃げ道を一つずつ塞ぐのが上手い。薬師ではなく石工でも働けそうだ。
窓辺へ連れていかれ、舌、目、指先を調べられる。砂糖水、塩水、苦い薬草の水を、順に一滴ずつ。
「一番強いのは?」
「苦いの」
全部、水に近い。けれど苦味は舌の奥に少し残った。
「順番は」
「苦い、塩、甘い」
ティアさんは答えを記録しなかった。
「塩、甘い、苦いの順です。濃度を変えました」
「三つとも当てたから、まだ働けますね」
「休養です」
「パンが百二十人分」
「あなた以外に十七人が作っています」
長机を見る。倉番の女性が配合を読み上げ、子どもたちが見本と大きさを比べ、男の人が天板を運んでいる。私が座っていても、生地は増えていく。
よかった。
胸の奥が冷えたのは、濡れた服のせいだ。
「じゃあ、二回目の配合を確認したら休みます」
「今から」
「確認は声だけ」
「今からです」
ティアさんは椅子を窯から遠い壁際へ動かした。座らされ、毛布まで掛けられる。
「味覚低下は影請けの代償かもしれません。次の能力使用は禁止。従来の禁止を強めます」
「使ってません」
「だから、今の低下が以前の蓄積なら、回復を待つ必要があります」
「味見をノルへ頼めば、作業には困りません」
ティアさんの手が止まった。
「あなたが困るかを聞いています」
「私?」
パンは焼ける。匂いも、生地の温度も、発酵も分かる。足りない部分は味見係を二人にした。いや、私は焼き具合係だから、味見はノル一人で足りる。
「仕事は回ります」
「答えになっていません」
「困るほどではないです」
ティアさんは砂糖水をもう一滴、私の舌へ落とした。水より少し粘る。それだけは分かる。甘さを探して舌先を上顎へつけても、何も増えない。
指先が毛布をつかんだ。
離す。皺になったところを平らへ直す。借り物を傷めるのはよくない。
ティアさんはその手元を見て、砂糖水の瓶へ蓋をした。何も言わない。ノルも秤の前で動きを止め、セラさんは記録板へ一行だけ刻んだ。こちらからは字が読めない。
「一時的なものです」
誰へ言ったのか、自分でもよく分からない。
「可能性はあります」
ティアさんは安心用の嘘を足さなかった。そういう人だ。困るけれど、信用はできる。
壁の向こうで、雨が樋を走る。
蜂蜜パンの味を思い出そうとした。甘い。親方の蜂蜜は少し花の匂いがして、端へ垂れたところが焦げる。
思い出せるなら問題ない。舌で分からなくても、作り方は頭にある。
ノルが二度目の味見パンを持ってきた。
「塩、ちょうどです」
「発酵は?」
「最初より柔らかい。下火を弱くして、二分長く」
「完璧」
私が言うと、ノルはパンではなく私を見た。
「僕、明日も味見します」
「助かる」
「明後日も」
「そんなに食べたら、育つねえ」
「そういう意味じゃないです」
知っている。でも、味見係が決まったことはよいことだ。私一人しか分からない作業は、私がいなくなると止まる。二人、三人と覚えれば、誰かが休んでも続く。
私が休んでも続く。
それは安心する話だ。
窯から一斉にパンが出た。湯気と歓声が倉へ広がる。星パンの女の子は自分の丸いパンを母親へ見せ、倉番の女性は最初の一籠を低地から来た家族へ運んだ。
私の分も一個、膝へ置かれる。
割って、食べる。
柔らかさはいい。塩は、ノルがちょうどだと言った。なら、おいしい。
「おいしいね」
星パンの女の子へ言うと、誇らしそうに頷いた。
嘘ではない。皆で間に合わせたパンは、ちゃんとおいしい。
味がしないこととは、別の話だ。
午後、雨音が一段強くなった。
最初の異変は、床だった。
丘の上の麦倉が、ほんの少し震える。天井から粉が落ち、並べた水桶の表面へ輪が広がった。
次に、町の鐘が鳴った。
一度。
音が途中で水へ沈む。
ロウさんが倉へ駆け込んできた。外套から雨水が流れ、眉の火傷跡まで濡れている。
「第二鐘の基礎が抜けた。水路へ落ちる」
「人は?」
「退避済みだ」
それなら、まず一つ。
「鐘は?」
「半分沈んだ。光が消えれば、排水門の夜滓封印が解ける」
窓の外を見る。
町じゅうの樋を走っていた水が、中央水路から溢れ始めている。
雨樋町の働き者の水が、今度は列を逆へ進んでいた。