三千万人の夜を背負った少女   作:日向夏 

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眠らない配達

 水は高いところから低いところへ流れる。

 

 人は疲れると座る。

 

 夜喰いは困っている場所へ来る。

 

 三つとも分かりやすい。分かりやすい問題は、順番に片づければいい。

 

「南の排水門を開ける。第二鐘は沈んだままで構わん。まず低地から人を出す」

 

 麦倉の長机へ地図を広げ、ロウさんが赤い駒を動かした。

 

 雨樋町の中央水路は、沈んだ第二鐘を避けて水が左右へ膨らんでいる。西側は住宅地。東側は染物工房。どちらにも避難しきれていない人がいる。

 

「西の石橋はあと一刻で越水します」

 

 町役人が言う。

 

「東の木橋は?」

「今は通れます。ただ、街灯の青油が切れました。暗くなれば夜喰いが出ます」

 

 外はもう夕方の色だった。雲が厚く、実際の時刻より夜が早い。

 

「配達向きですね」

 

 地図をのぞく。

 

 麦倉から東橋まで、乾物通りを南へ。灯具倉で青油を積み、橋の街灯を順に補充。帰りは低地を回って、避難用パンを配る。一周で三つ済む。

 

「ミナは避難所待機」

 

 ロウさんが地図の上へ手を置いた。

 

「道を知っている者が要ります」

「町の配達人をつける」

「パンの配り方を知らない」

「一人一個だ」

「子どもと、濡れてる人は半分ずつ先に食べてもらいます。残りは包んで朝用。豆のスープがある家は一個を二人で分けても足りる。数だけでは決められません」

 

 ロウさんの手の下から、地図の端を引く。

 

「影請けは使いません。荷車もほかの人に引いてもらう。私は道順と配分だけ」

「睡眠二時間四十分。味覚低下。低体温」

 

 ティアさんが隣から事実を三つ並べた。

 

「配達に舌は使いません」

「人の話を聞く耳は使って」

 

 これは一本取られた。

 

 レオンが地図上の東橋へ指を置く。

 

「俺が同行する。最初の一周だけだ。戻ったらミナは二時間休む」

「二時間で水が待ってくれる?」

「次の組へ道を渡せ」

 

 町の配達人が三人いる。乾物屋の青年、郵便馬車の御者、薬草売りのおばあさん。皆、道は私より詳しい。配り方も、一周すれば覚えられる。

 

 私がいなくても二周目は回る。

 

 よい仕組みだ。

 

「了解。一周で引き継ぎます」

 

 約束して、雨へ出た。

 

 荷車には青油の缶六つ、パン八籠、毛布。引くのはレオンと乾物屋の青年で、私は横を歩く。走行は禁止だから、急ぎ足まで。急ぎ足と走行の境目は曖昧だけれど、両足が同時に地面から離れなければ歩きだと思う。

 

「速度を落とせ」

「離れてません」

「何が」

「両足」

「屁理屈を考える元気があるなら、荷台へ乗れ」

 

 元気がある人を乗せるのは効率が悪い。でも押し問答のほうが遅いので、毛布の横へ腰を下ろした。

 

 町の水は石溝から溢れ、道を薄い川にしている。軒下には避難を待つ人が立ち、荷車の青灯を見ると手を上げた。

 

「麦倉へ行ける人は北へ。歩けない人がいる家は、扉へ白い布を結んでください。救助組が回ります」

 

 声を張る。

 

「パンは?」

「帰りに配ります。先に橋を明るくしてきますね。暗い道で食べるより、明るい道で持って帰るほうがお得です」

 

 子どもが笑った。母親は笑わず、何度も頷いた。腕の中の赤ん坊へ外套をかぶせている。

 

 東橋へ着くころ、日が落ちた。

 

 街灯は十二本。青油を注ぐたび、小さな火が水面へ伸びる。ノルが灯芯を直し、町の配達人が次の缶を運ぶ。私は橋の向こうの家を数えた。

 

「三十四軒。白布は七。うち二軒は二階窓」

 

 セラさんが数を記録する。いつの間に追いついたのだろう。

 

「ロウ隊長から、記録員を一人つけるようにと」

「私が約束を守るか記録する係?」

「経路と配布数です」

 

 一拍置いた。

 

「約束も記録します」

 

 正直でよろしい。

 

 橋の中央で、青い灯が一つ消えた。

 

 油は入れたばかりだ。ノルが火口を開ける。灯芯へ黒い雫がついている。

 

「雨じゃない」

 

 指で触れず、挟みで取る。

 

「夢泥です。第二鐘の底から流れてきた」

 

 夢泥は、人の眠気へ混ざる夜滓だ。寝た人間の夢を出口にして、小さな夜喰いを作る。起きていれば害は薄い。こんな夜に、ずいぶん条件の悪い話である。

 

 乾物屋の青年が大きな欠伸をした。

 

 荷車を引いてきたのだから当然だと思った。でも口を閉じたあとも目が開かない。膝が折れ、レオンが腕をつかんだ。

 

「座らせろ」

 

 石欄干の内側へ運ぶ。

 

 ノルも灯具へ顔を近づけたまま、身体が揺れた。

 

「ノル」

 

 肩を引く。返事が遅い。

 

「起きてます」

「それ、寝る人の台詞」

 

 橋の向こうでは、排水門の作業員が一人、壁へ背をつけて座り込んだ。三人。

 

 夢泥が灯具と水路から広がっている。

 

「全員、交代で一時間休ませます」

 

 ティアさんが救護鞄を置き、簡易天幕を指した。

 

「眠気の強い三人を先に。ほかは一時間ごとに交代。起きている者を夢泥から離す」

「排水門は?」

 

 町役人の声が上ずる。

 

「作業員八人のうち三人を休ませます。五人では開門器を回せません」

「閉じたままなら西橋が先に越水する」

 

 地図の時間より、水が速い。

 

 ロウさんは橋の向こうとこちらを見比べた。

 

「修繕隊を二人回す。レオン、ノルを麦倉へ。セラは灯具を――」

 

「待って」

 

 ノルの手を取る。

 

 冷たい。でも私ほどではない。脈の間に、柔らかい黒が絡んでいる。

 

 眠気なら、夜滓そのものより軽い。

 

 眠気だけを少し移す。影請けではなく、目を覚まさせる手伝い。名前を変えてもティアさんには通じないだろうから、説明はしない。

 

「ノル、今日直した秤の金具、どこから切った?」

「細工箱の……薄板」

「何番?」

「三番」

 

 答える声に合わせ、黒い糸を指先へ引く。

 

 欠伸が私へ移った。

 

 ノルの目が開く。

 

「今、何を」

「質問。眠いときは頭を使うと起きるでしょう」

 

 次は乾物屋の青年。家に置いてきた品物の数を聞き、答えている間に眠気を取る。排水門の作業員には、開門器の歯数を数えてもらった。

 

三人分。

 

頭の中へ、温かい綿が詰まった。

 

目を閉じれば、とてもよく眠れそうだ。

 

引き受けた眠気は同じ色ではなかった。ノルの眠気は細かく跳ねる。夢の中でも歯車を数えているのだろう。乾物屋の青年の分は重く、肩から腕へ垂れる。作業員の分は焦げた油の匂いがして、胸の黒線へ絡んだ。

 

味は遠いままなのに、いらないものだけよく分かる。身体の働きというのは配分が下手だ。

 

「顔を見せて」

 

 ティアさんがこちらへ来る。

 

「皆、起きました」

「あなたの顔です」

 

 青灯が二つに見える。瞬きをすると一つへ戻った。

 

「眠いだけ」

「能力を使った?」

「夜滓は取ってません」

 

 嘘ではない。夢泥へ絡んだ眠気を動かしただけだ。

 

「質問に答えて」

「排水門を先に。閉め切ったままだと、治療する場所まで浸かります」

 

 ロウさんが私の肩をつかんだ。左肩の傷を避けた手だった。

 

「引き受けたものを戻せるか」

「寝れば抜けます」

「何時間」

「三日寝れば戻ります」

 

 口から先に出た。

 

 レオンの顔が変わった。

 

 九年前の話を、側で聞いていたわけではない。けれど彼は知っている。私が同じ言葉を使い、三日間目を覚まさなかったことを。

 

「今すぐ寝ろ」

「今寝たら、夢泥が育つでしょう」

「だから麦倉へ戻す」

「避難所で夜喰いを出したら、もっと困る」

 

 これは本当だった。三人分を抱えたまま眠れば、夢の出口が大きくなる。第二鐘を直すか、朝の光が差すまで起きている必要がある。

 

 ティアさんの唇が細くなる。

 

「使う前に、それを考えた?」

「使ってから分かりました」

 

 順番が悪かった。反省はしている。

 

「私が起きていれば済みます。排水門を開けて、避難路を確保して、朝になったら寝る。作業が一列になりました」

 

問題を並べる。起きる、配る、灯す。単純だ。

 

レオンは私の腕を離さない。

 

セラさんが記録板をこちらへ向けた。

 

『本人説明――夜滓は取っていない。観察事実――対象三名の覚醒と同時に、ミナへ強い眠気、眼振、体温低下』

 

「眼振まで分かるんですか」

「瞳が左右へ動いています」

「左右確認が熱心」

 

冗談欄へ刻む音はしなかった。

 

「記録を消してください、とは言いません。でも結果も書いて。三人が起きた。排水門を八人で回せる」

 

セラさんは板の下へ一行足した。

 

『結果――三名が作業復帰。ただし代償を一名へ集中』

 

「書き方が暗い」

「事実に明暗はありません」

 

顔は変わらない。けれど刻字針を持つ指だけ、板へ強く押しつけられていた。

 

ティアさんは私の瞼を親指で上げ、灯りを当てた。

 

「意識が飛んだら、拘束してでも運びます」

「そのときはお願いします」

「お願いを聞いたわけではありません」

 

皆、私を運ぶ予定へ力を使いすぎる。その力を開門器へ回してもらえれば早いのだけれど、言うと本当に縛られそうなので黙った。

 

「俺も起きる」

「護衛は交代して」

「しない」

「明日使い物にならなくなるよ」

「お前が言うな」

 

 強い声だった。乾物屋の青年がこちらを見る。

 

 人前で争うと、仕事が止まる。

 

「分かった。一周だけ一緒。そのあと交代」

 

 私が譲ると、レオンの手が少し緩んだ。

 

 譲ったのは、一周の部分だけだ。

 

 排水門は八人で開いた。鉄の開門器を回すと、門の隙間から黒い水が噴き出す。青灯を近づけ、夢泥を焼く。中央水路の高さが指一本ずつ下がり始めた。

 

 それから配達をした。

 

一周目はレオン、セラさん、町の三人。二周目は郵便馬車の御者と薬草売り。三周目は市警の若い二人。

 

私は全部にいた。

 

西の染物屋では、おばあさんがパンを受け取らなかった。

 

「孫がまだ工房から戻らない。あの子の分だけ置いておくれ」

「おばあさんの分もあります」

「年寄りは一晩くらい食べなくても」

 

その理屈はよくない。誰かが我慢すれば数が合うように見えて、朝には動けない人が一人増える。

 

「お孫さんが戻ったとき、おばあさんを運ぶ仕事まで増えますよ。今、一個食べるほうがお孫さん孝行です」

 

半分を手へ持たせ、残りを布へ包んだ。おばあさんは渋い顔で一口食べた。飲み込むのを見てから次へ行く。

 

向かいの家では、男の子が戸口から動かなかった。父親が排水門の作業へ出たという。

 

「門が開いたら帰る?」

「作業が終わったらね。お父さん、鉄の輪を回すのがすごく上手だったよ」

 

実際、八人の中で掛け声を出していた。力を入れる場所を皆へ教え、一度も手を滑らせなかった。

 

「見たの?」

「見た。だから、帰ってきたら褒める係をお願い」

 

男の子は泣く代わりに、何を褒めるか考え始めた。戸口を離れ、母親と麦倉へ向かう。

 

次の角では、市警の若い人が足首を捻った。本人は歩けると言ったけれど、右足だけ水音が浅い。

 

「片足をかばってます。荷車へ」

「配達が遅れる」

「あなたが悪化すると、明日の人手が一人減ります。今夜の十分と明日の一日、どっちが高いです?」

 

計算すると、若い市警は黙って荷台へ乗った。

 

人の傷は分かりやすい。先で困る量まで含めれば、休ませる理由がいくらでも見つかる。

 

私の眠気は、朝になれば抜ける。たぶん三日もいらない。だから同じ計算には入らない。

 

 道順を引き継ぐはずだったけれど、低地の家族構成、白布の位置、朝用のパンを渡した家は私が一番よく知っている。説明してから行くより、一緒に回ったほうが早い。

 

 レオンは二周目の途中でロウさんに交代させられた。

 

「ミナも交代だ」

「私は眠れません」

「座っていろ」

「座ると目が閉じる」

 

 歩いていれば平気。足の裏へ冷たい水が当たり、目を覚ましてくれる。

 

 夜半を過ぎるころ、雨は少し弱くなった。

 

 町の形がおかしくなった。

 

 乾物通りの角を曲がると、白い廊下が続いている。石壁ではなく、白麦院の漆喰。扉の上に十九と書かれている。

 

 瞬きをする。

 

 扉は染物屋の青い戸へ戻った。

 

 眠いと昔の夢が起きたまま出てくる。便利ではないけれど、正体が分かれば怖くない。

 

「十九番。次です」

 

 後ろから声がした。

 

 振り返る。郵便馬車の御者が荷車を押しているだけだ。

 

「何か?」

「いえ。次、左です」

 

 存在しない声へ返事をしなければ、誰にも分からない。

 

 四周目。白布の家は残り二軒。五周目。東橋の灯具へ油を追加。六周目。避難所へ戻る人へ朝用のパン。

 

 眠気は、重さではなく距離を奪う。

 

 次の角までが遠い。歩いたはずの道が後ろへ伸びる。荷車の車輪が一度鳴るあいだに、鐘が十回鳴った気がする。

 

 それでも手は動く。

 

 パン一個。毛布一枚。白布を外す。家に人がいないことを戸口へ記す。

 

 作業へ名前がついているかぎり、間違えない。

 

 空が薄くなった。

 

 朝だ。

 

 雨雲の向こうから光が差し、道の黒い筋が煙になって消える。第二鐘はまだ水へ沈んでいるが、夜喰いの時間は終わった。

 

「寝られる」

 

 声に出すと、誰かが笑った。

 

 親方の声だった気がする。

 

「配達が先だよ」

 

 そうだった。

 

 赤い鞄へ、最後のパンを入れる。

 

 注文票には、白麦院別棟、十九人分。

 

 地図を確認する。白麦院は麦環市の北。雨樋町にはない。でも注文票へ道順が書いてある。

 

 中央水路を越えて、白い廊下の突き当たり。

 

「近いですね」

 

 荷車を置き、歩き出す。

 

 腕をつかまれた。

 

 レオンだった。いつ交代から戻ったのだろう。顔色が悪い。

 

「どこへ行く」

「配達」

「どこへ」

 

 注文票を見せる。

 

 私の手には、何もなかった。

 

「白麦院の別棟。十九人分」

「そんな注文はない」

「あります。今、親方が」

 

 言いながら、親方がここにいないことを思い出す。

 

 雨樋町にも、白麦院はない。

 

 赤い鞄の中には、パンが一個。

 

 十九人分には足りない。

 

「数え間違えた」

 

 直さなくては。

 

 麦倉へ戻れば、まだ焼ける。粉を量って、水を――。

 

 膝が石畳へついた。

 

 痛みは遅れて来た。先にレオンの腕が背中を支える。

 

「寝ろ」

 

 耳元で言われた。

 

「三日で、戻るから」

 

 安心させる言葉を選んだつもりだった。

 

 レオンの手が震えた。

 

「それを信じたくないんだ」

 

 どうしてそんな答えになるのか考える前に、朝の光が消えた。

 

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