三日寝れば戻る。
誰が最初に言い始めたのかは知らないけれど、ずいぶん便利な言葉である。期限がはっきりしている。聞いた人は三日待てばよいし、言った人は三日ぶん心配を先送りできる。
ただし、三日目の朝にも白い廊下が見える場合は困る。
「十九番。食堂へ」
目を開けると、天井は麦倉の梁だった。
白麦院の職員はいない。声も、雨が樋を流れる音へ戻る。私は毛布の中で指を一本ずつ動かした。十本。足も二本。胸の黒線は鎖骨の下。増えていない。
なら、ほとんど戻った。
「起きました」
身体を起こすと、すぐ横から椅子が鳴った。
ティアさんが立ち上がる。膝に載せていた薬草誌が床へ落ちた。拾うより先に、私の額、手首、瞳を順に調べる。
「名前」
「ミナ・アルノ」
「場所」
「雨樋町の麦倉」
「最後に覚えていること」
「注文を数え間違えました」
ティアさんの指が止まった。
「存在しない注文です」
「今は分かってます」
「三日前にも、そう言いました」
私は一度起きたらしい。
覚えていない。
「何をしました?」
「白麦院へ届けると言って外へ出ようとしました。レオンとロウ隊長が止め、鎮静薬を使用しました」
「二日目は?」
「壁へ十九人分の名前を書こうとしました」
「書けた?」
「全員、同じ名前でした」
ティアさんは事実だけを置く。声を低くしたり、怖い言葉を足したりしない。それでも毛布の中の足が冷えた。
「今日は?」
「今のところ、声だけ」
「聞こえたのですね」
失敗した。質問へ正直に答える癖がついている。
「雨音と似てたから、聞き間違いかも」
「本人説明へ記録します」
奥の机でセラさんが刻字針を動かした。朝からいたらしい。
「皆さん、三日もここに?」
「交代です。私は今朝から。レオンは昨夜。ノルは毎食時。ロウ隊長は第二鐘と往復しています」
セラさんが勤務表を読み上げる。
「そこまでしなくても、縛っておけば出ませんよ」
ティアさんとセラさんが同時にこちらを見た。
よくない提案だったようだ。
「冗談です。三日寝た人の寝起きとしては、悪くないでしょう?」
「二日と二十一時間です」
セラさんの訂正は細かい。
「三時間お得」
「幻聴が残っています」
「そこは今後の追加料金ということで」
笑う人はいなかった。
代わりにティアさんが、湯気の立つ椀を出した。灰麦の粥。自分たちで焼いたパンを細かくして、豆の煮汁で戻してある。
「食べて」
「味見係は?」
「これは診察です。あなたが食べます」
一口。
温かい。柔らかい。塩は、分からない。
「おいしいです」
「味の種類を答えて」
「灰麦、豆、たぶん塩」
「砂糖も入っています」
甘くない。
ティアさんは記録へ目を落とした。セラさんの針も動く。
「でも食感はいいです。病人用なら、これくらい柔らかいほうが」
「評価を仕事へ戻さないで」
「食べ物を評価すると、どうしても仕事になります」
椀は全部食べた。量は少なかったけれど、追加を頼むと二人の顔が少し戻った。人を安心させるのは、大げさな言葉よりおかわり一杯のほうが早い。
三杯目は止められた。寝ていた胃へ多いらしい。
食器を返すころ、ノルが階段を上がってきた。両手に細工箱と、新しい青灯を抱えている。灯りは昼なのに点いていた。
「起きてる」
「見れば分かるでしょう」
「二回、起きてるように見えて起きてなかったから」
反論できない。
ノルは枕元へ灯りを置いた。私が貸した細工工具のうち、一番細い錐が新しい灯芯を留めている。
「これ、夢泥がつくと光が赤くなります。次から、眠くなる前に分かる」
「三日で作ったの?」
「二日です。最初の一日は、ここにいました」
余計な見張りを一人増やしたらしい。
「ノルが眠ったのは私の判断が遅かったからじゃないよ。夢泥を見つけたのもノル。灯具を直したのもノル。今回の収支は十分、黒字」
「僕の話じゃないです」
細工箱の蓋が強く閉まった。
「ミナさんが僕の眠気を取った話です」
「それも結果は黒字。新しい灯りまでできた」
「黒字なら、次もやるんですか」
ノルの問いは、分からないところへ真っ直ぐ入る。大人なら言いにくい場所も、工具の隙間と同じようにのぞく。
「次はこの灯りがあるから、やらなくて済む」
「灯りが間に合わなかったら?」
答えを探している間に、青灯が赤く揺れた。夢泥ではない。ノルの手が灯りを傾けたからだ。
「そのとき考える」
便利な棚へ置く。
ノルは納得していない顔で、それ以上聞かなかった。代わりに赤い糸のついた細工工具を一つずつ拭き始めた。私が寝ている間も、毎日ここで手入れしたのだろう。
「レオンは?」
「外です」
「見張り?」
「入ると怒るから、今は顔を見ないほうがいいって」
「自分で言ったの?」
「ロウ隊長が出しました」
それは見たかった。ロウさんに襟をつかまれて運ばれるレオンは、少し面白い。
笑うと胸が痛んだ。黒線ではなく、息を吸いすぎた痛みだと思う。
扉の下に影が一つあった。動かない。私が話しているあいだ、ずっとそこにいる。
声はかけなかった。怒っている人には、仕事を一つ渡せば落ち着く。第二鐘の引き上げで忙しくなれば、いつものレオンへ戻るだろう。
午前の終わりに、麦倉の外へ出る許可が出た。
雨は糸ほどに細くなっている。中央水路の水位も下がり、屋根の上へ避難していた人たちは全員、丘へ移された。第二鐘は横倒しのまま半分水へ浸かり、青い光を弱く点滅させている。
町の壁に、亡くなった人の名前が四人分掲げられていた。
その前だけ、泥を踏む音が小さくなる。
「レイ・オーグ」
一番下の名前を読む。
「排水門の伝令です」
セラさんが隣で言った。
「第二鐘の基礎が崩れたとき、下流へ退避を知らせに行きました。住民十一人は避難。本人は戻りませんでした」
仕事を終えた人だ。
名前の下へ、小さな灰色の花が三本置かれている。一本は途中で折れ、赤い糸で結び直してあった。
「家族は?」
「妻、娘十四歳、息子八歳」
「避難所に?」
「います」
十四歳の娘は、昨夜の伝令を手伝っていたらしい。ジュノ・レイ。父親が戻らないと分かったあとも、白布の家を市警へ知らせ続けた。
「しっかりした子ですね」
「はい」
セラさんはそれだけ答えた。
しっかりした人には仕事が集まる。十四歳なら、これからもっと集まるだろう。母親と弟を支える。葬送の手配。浸水した家の片づけ。伝令の給金は高くない。
必要なものが、数えやすい形で並んだ。
「昼に町長から表彰があります」
「表彰?」
「排水門の開放と避難路確保に対する危険手当の支給です」
「修繕隊へ?」
「各個人へ」
ちょうどいい。
町役所は、床の半分まで泥が入っていた。壁の水跡より上へ机を運び、濡れていない旗を一本だけ立てている。町長は長靴のまま、私たち六人へ頭を下げた。
「雨樋町を代表し、感謝申し上げる」
机の上に革袋が六つ。
一袋ずつ、名前の札がついている。私の袋は、持つと銀貨が二十枚鳴った。アルノパン店の半月分に近い。危険は一晩だったのに、ずいぶん時給がいい。
皆は袋を受け取ると、それぞれ使い道を口にした。
「水没した治療所へ薬を補充します」
ティアさんは町長へ、必要な薬草の一覧まで渡した。自分の取り分の半分を使うらしい。残りは次の町で買う医療器具へ。
「僕は精密歯車を買います」
ノルは銀貨を三つの小袋へ分けた。工具、材料、貯金。十二枚でも、行き先が全部決まっている。
レオンは袋を外套へ入れた。
「使わないの?」
「麦環市へ戻ったら、窓を直す」
「誰の」
「お前の部屋」
私の部屋の窓は、冬になると隙間風が入る。布を詰めれば済む程度だ。
「勝手に直したら親方が怒るよ」
「先に許可を取る」
「私の許可は?」
「今、取ってる」
「高い窓になるなあ」
銀貨二十枚もかからない。余りをどうするのか聞く前に、レオンは袋の口を固く結んだ。
ロウさんは袋を持ったまま黙っていた。町役所の壊れた梁を見上げ、町長へ補修工の名簿を求める。使途を言わない代わりに、もう誰へ払うか計算しているようだった。
セラさんだけは袋を鞄へ収め、何も説明しない。自分の報酬だから、それで正しい。
皆の銀貨には、行き先がある。
私も考えてみた。新しい靴。今の靴は踵を二度直しているけれど、まだ歩ける。冬外套。旅用を借りている。部屋の窓。レオンが直すと言った。自分だけで使う物は、考えた途端に値段が高くなる。
レイ家なら、銀貨二十枚で三人が一月暮らせる。
行き先が決まった。
「受領欄へ署名を」
役所の書記が台帳を回す。
ロウさん、ティアさん、セラさん、ノル、レオン。順に署名する。
私の欄で筆を止めた。
「寄付へ回せますか」
「町の復旧基金なら、別の用紙で」
「レイ家へ指定で」
書記が町長を見る。
「個人への危険手当です。一度受領してからでなければ、町は行き先を変えられません」
なるほど。帳簿は正しい順番が好きだ。
受領欄へ署名し、革袋を受け取る。その場で寄付申請書をもらい、ジュノ・レイの家族へ銀貨二十枚、と書いた。
「全額?」
セラさんが聞く。
「端数がないので書きやすいです」
「あなたの宿泊費と食費は」
「修繕隊の経費」
「それは隊との契約による支給です」
「分かってます」
「なら、危険手当を受け取る理由と関係ありません」
関係はある。
宿、食事、診察、薬。私は巡回へ同行してから、借りるものばかり増えた。働いて返しているつもりでも、昨夜は仕事より見張りの人手を使わせた。銀貨を持っていると、返していない物の札が一枚ずつ頭へ浮かぶ。
誰かへ渡せば、その音が止まる。
「私が持つより、レイ家が持つほうが役に立ちます」
「用途の比較ではありません」
「お金は用途の比較をする道具でしょう?」
セラさんは記録板を出さず、こちらを見た。
「あなたが危険を引き受けた対価です」
「危険を引き受けたのはレイさんも同じです」
「彼の遺族には、別に弔慰金が支給されます」
「十四歳の子が大人一人分になるには足りない」
セラさんの目が細くなった。
「ジュノさんは、大人一人分になる必要があるのですか」
ない。
十四歳は子どもだ。父親の穴へ入れるものではない。
「だから、お金があったほうがいいんです」
話を戻す。
「あなたにも、あったほうがいい」
「私には仕事があります」
「ジュノさんにも伝令の仕事があります」
言葉が同じ形で返ってきた。
少し困る。
「でも私は一人です。あちらは三人」
「あなたが一人なら、必要なものがなくなるのですか」
なくならない。ただ、少なくて済む。
食事は一人分。寝床も一つ。将来の蓄えは、今のところ計算しなくていい。
「私の話は、今しなくても」
「今、あなたの危険手当の話をしています」
セラさんは論点を逃がしてくれない。ティアさんが症状の逃げ道を塞ぐなら、セラさんは言葉の逃げ道へ板を打つ。
でも書類はもうできた。
「決めました」
「受け取りを拒むのですね」
「受け取って、渡します」
「違いは」
「帳簿が正しい」
署名済みの寄付申請書を、書記へ渡した。
銀貨の音が手から消える。
胸が軽くなった。
たぶん、よいことをしたからだ。
セラさんは申請書を止めなかった。代わりに、自分の記録板へ刻んだ。
『危険手当、受領後に全額寄付。本人は経費支給を理由に自己分不要と説明』
「不要とは言ってません」
「訂正しますか」
「もっと必要な人へ回した、と」
針が動く。
『本人訂正――より必要な者へ配分』
「ありがとうございます」
「感謝されることではありません」
声はいつもと同じだった。でも次の行を書くまでが長い。
『観察事実――受領中、本人は一度も自分の用途を挙げず』
それは当然だ。旅の必要品はそろっている。
町役所を出ると、ロウさんたちは第二鐘の引き上げへ向かった。私はまだ作業禁止なので、セラさんと帰還名簿を整理する。
修繕隊の書式には、訪問地、作業、負傷、報酬、次の移動先がある。
ロウさんの報酬欄、銀貨二十。ティアさん、二十。セラさん、二十。ノル、見習い規定で十二。レオン、二十。
私の欄へ、セラさんが筆を置いた。
「受領二十、寄付二十」
「差し引きゼロなら、空欄でよくないですか」
「事実が消えます」
「合計は同じ」
「過程が違います」
帰還先の欄も、私だけ空白のままだ。
報酬まで数字が入ると、その空白が目立つ。私は筆を取り、報酬欄へ横線を引いた。
「何を」
「未保有という意味」
「受領拒否の記号です」
「今は持ってません」
セラさんが私の筆を止める。
「記録は、今の持ち物一覧ではありません。何があり、何を選んだかを残すものです」
「選んだ結果、ゼロです」
「ゼロにしたことを残します」
新しい紙へ書き直された。
私の行だけ、文字が多い。
危険手当銀貨二十、受領。全額指定寄付。本人保有ゼロ。
ずいぶん面倒なゼロだ。
「セラさんは、全部残したいんですね」
「必要な事実を残します」
「人が忘れたいことも?」
白い廊下が視界の端へ浮かぶ。
セラさんは、すぐに答えなかった。
「忘れることを選ぶためにも、何があったかは必要です」
記録板を胸の前へ戻す。
「消された記録は、本人以外の都合で使われます」
白麦院のことを言っているのかもしれない。でも他者の内側は読めない。セラさんの指が、十九と書かれた記録の端を押さえていた。それだけだ。
夕方、麦倉へ戻る。
入口で、十四歳くらいの女の子が待っていた。
泥のついた伝令外套。短く切った髪。折れた灰色の花を結んでいたのと同じ赤い糸が、手首にある。
ジュノ・レイだと分かった。
女の子は私を見るなり、革袋を突き出した。
銀貨が二十枚、重い音を立てる。
「返します」
挨拶より先に、結論が来た。
「町が間違えて渡した?」
「間違えたのは、あなたです」
ジュノは袋を私の胸へ押しつけた。
「うちは施しを頼んでない。私は働けます。母さんも、弟も。父さんの分まで、私が働く」
十四歳の口から出るには、聞き覚えがありすぎる言葉だった。