三千万人の夜を背負った少女   作:日向夏 

13 / 19
報酬袋の行き先

 三日寝れば戻る。

 

 誰が最初に言い始めたのかは知らないけれど、ずいぶん便利な言葉である。期限がはっきりしている。聞いた人は三日待てばよいし、言った人は三日ぶん心配を先送りできる。

 

 ただし、三日目の朝にも白い廊下が見える場合は困る。

 

「十九番。食堂へ」

 

 目を開けると、天井は麦倉の梁だった。

 

 白麦院の職員はいない。声も、雨が樋を流れる音へ戻る。私は毛布の中で指を一本ずつ動かした。十本。足も二本。胸の黒線は鎖骨の下。増えていない。

 

 なら、ほとんど戻った。

 

「起きました」

 

 身体を起こすと、すぐ横から椅子が鳴った。

 

 ティアさんが立ち上がる。膝に載せていた薬草誌が床へ落ちた。拾うより先に、私の額、手首、瞳を順に調べる。

 

「名前」

「ミナ・アルノ」

「場所」

「雨樋町の麦倉」

「最後に覚えていること」

「注文を数え間違えました」

 

 ティアさんの指が止まった。

 

「存在しない注文です」

「今は分かってます」

「三日前にも、そう言いました」

 

 私は一度起きたらしい。

 

 覚えていない。

 

「何をしました?」

「白麦院へ届けると言って外へ出ようとしました。レオンとロウ隊長が止め、鎮静薬を使用しました」

「二日目は?」

「壁へ十九人分の名前を書こうとしました」

「書けた?」

「全員、同じ名前でした」

 

 ティアさんは事実だけを置く。声を低くしたり、怖い言葉を足したりしない。それでも毛布の中の足が冷えた。

 

「今日は?」

「今のところ、声だけ」

「聞こえたのですね」

 

 失敗した。質問へ正直に答える癖がついている。

 

「雨音と似てたから、聞き間違いかも」

「本人説明へ記録します」

 

 奥の机でセラさんが刻字針を動かした。朝からいたらしい。

 

「皆さん、三日もここに?」

「交代です。私は今朝から。レオンは昨夜。ノルは毎食時。ロウ隊長は第二鐘と往復しています」

 

 セラさんが勤務表を読み上げる。

 

「そこまでしなくても、縛っておけば出ませんよ」

 

 ティアさんとセラさんが同時にこちらを見た。

 

 よくない提案だったようだ。

 

「冗談です。三日寝た人の寝起きとしては、悪くないでしょう?」

「二日と二十一時間です」

 

 セラさんの訂正は細かい。

 

「三時間お得」

「幻聴が残っています」

「そこは今後の追加料金ということで」

 

 笑う人はいなかった。

 

 代わりにティアさんが、湯気の立つ椀を出した。灰麦の粥。自分たちで焼いたパンを細かくして、豆の煮汁で戻してある。

 

「食べて」

「味見係は?」

「これは診察です。あなたが食べます」

 

 一口。

 

 温かい。柔らかい。塩は、分からない。

 

「おいしいです」

「味の種類を答えて」

「灰麦、豆、たぶん塩」

「砂糖も入っています」

 

 甘くない。

 

 ティアさんは記録へ目を落とした。セラさんの針も動く。

 

「でも食感はいいです。病人用なら、これくらい柔らかいほうが」

「評価を仕事へ戻さないで」

「食べ物を評価すると、どうしても仕事になります」

 

 椀は全部食べた。量は少なかったけれど、追加を頼むと二人の顔が少し戻った。人を安心させるのは、大げさな言葉よりおかわり一杯のほうが早い。

 

 三杯目は止められた。寝ていた胃へ多いらしい。

 

 食器を返すころ、ノルが階段を上がってきた。両手に細工箱と、新しい青灯を抱えている。灯りは昼なのに点いていた。

 

「起きてる」

「見れば分かるでしょう」

「二回、起きてるように見えて起きてなかったから」

 

 反論できない。

 

 ノルは枕元へ灯りを置いた。私が貸した細工工具のうち、一番細い錐が新しい灯芯を留めている。

 

「これ、夢泥がつくと光が赤くなります。次から、眠くなる前に分かる」

「三日で作ったの?」

「二日です。最初の一日は、ここにいました」

 

 余計な見張りを一人増やしたらしい。

 

「ノルが眠ったのは私の判断が遅かったからじゃないよ。夢泥を見つけたのもノル。灯具を直したのもノル。今回の収支は十分、黒字」

「僕の話じゃないです」

 

 細工箱の蓋が強く閉まった。

 

「ミナさんが僕の眠気を取った話です」

「それも結果は黒字。新しい灯りまでできた」

「黒字なら、次もやるんですか」

 

 ノルの問いは、分からないところへ真っ直ぐ入る。大人なら言いにくい場所も、工具の隙間と同じようにのぞく。

 

「次はこの灯りがあるから、やらなくて済む」

「灯りが間に合わなかったら?」

 

 答えを探している間に、青灯が赤く揺れた。夢泥ではない。ノルの手が灯りを傾けたからだ。

 

「そのとき考える」

 

 便利な棚へ置く。

 

 ノルは納得していない顔で、それ以上聞かなかった。代わりに赤い糸のついた細工工具を一つずつ拭き始めた。私が寝ている間も、毎日ここで手入れしたのだろう。

 

「レオンは?」

「外です」

「見張り?」

「入ると怒るから、今は顔を見ないほうがいいって」

「自分で言ったの?」

「ロウ隊長が出しました」

 

 それは見たかった。ロウさんに襟をつかまれて運ばれるレオンは、少し面白い。

 

 笑うと胸が痛んだ。黒線ではなく、息を吸いすぎた痛みだと思う。

 

 扉の下に影が一つあった。動かない。私が話しているあいだ、ずっとそこにいる。

 

 声はかけなかった。怒っている人には、仕事を一つ渡せば落ち着く。第二鐘の引き上げで忙しくなれば、いつものレオンへ戻るだろう。

 

 午前の終わりに、麦倉の外へ出る許可が出た。

 

 雨は糸ほどに細くなっている。中央水路の水位も下がり、屋根の上へ避難していた人たちは全員、丘へ移された。第二鐘は横倒しのまま半分水へ浸かり、青い光を弱く点滅させている。

 

 町の壁に、亡くなった人の名前が四人分掲げられていた。

 

 その前だけ、泥を踏む音が小さくなる。

 

「レイ・オーグ」

 

 一番下の名前を読む。

 

「排水門の伝令です」

 

 セラさんが隣で言った。

 

「第二鐘の基礎が崩れたとき、下流へ退避を知らせに行きました。住民十一人は避難。本人は戻りませんでした」

 

 仕事を終えた人だ。

 

 名前の下へ、小さな灰色の花が三本置かれている。一本は途中で折れ、赤い糸で結び直してあった。

 

「家族は?」

「妻、娘十四歳、息子八歳」

「避難所に?」

「います」

 

 十四歳の娘は、昨夜の伝令を手伝っていたらしい。ジュノ・レイ。父親が戻らないと分かったあとも、白布の家を市警へ知らせ続けた。

 

「しっかりした子ですね」

「はい」

 

 セラさんはそれだけ答えた。

 

 しっかりした人には仕事が集まる。十四歳なら、これからもっと集まるだろう。母親と弟を支える。葬送の手配。浸水した家の片づけ。伝令の給金は高くない。

 

 必要なものが、数えやすい形で並んだ。

 

「昼に町長から表彰があります」

「表彰?」

「排水門の開放と避難路確保に対する危険手当の支給です」

「修繕隊へ?」

「各個人へ」

 

 ちょうどいい。

 

 町役所は、床の半分まで泥が入っていた。壁の水跡より上へ机を運び、濡れていない旗を一本だけ立てている。町長は長靴のまま、私たち六人へ頭を下げた。

 

「雨樋町を代表し、感謝申し上げる」

 

 机の上に革袋が六つ。

 

 一袋ずつ、名前の札がついている。私の袋は、持つと銀貨が二十枚鳴った。アルノパン店の半月分に近い。危険は一晩だったのに、ずいぶん時給がいい。

 

 皆は袋を受け取ると、それぞれ使い道を口にした。

 

「水没した治療所へ薬を補充します」

 

 ティアさんは町長へ、必要な薬草の一覧まで渡した。自分の取り分の半分を使うらしい。残りは次の町で買う医療器具へ。

 

「僕は精密歯車を買います」

 

 ノルは銀貨を三つの小袋へ分けた。工具、材料、貯金。十二枚でも、行き先が全部決まっている。

 

 レオンは袋を外套へ入れた。

 

「使わないの?」

「麦環市へ戻ったら、窓を直す」

「誰の」

「お前の部屋」

 

 私の部屋の窓は、冬になると隙間風が入る。布を詰めれば済む程度だ。

 

「勝手に直したら親方が怒るよ」

「先に許可を取る」

「私の許可は?」

「今、取ってる」

「高い窓になるなあ」

 

 銀貨二十枚もかからない。余りをどうするのか聞く前に、レオンは袋の口を固く結んだ。

 

 ロウさんは袋を持ったまま黙っていた。町役所の壊れた梁を見上げ、町長へ補修工の名簿を求める。使途を言わない代わりに、もう誰へ払うか計算しているようだった。

 

 セラさんだけは袋を鞄へ収め、何も説明しない。自分の報酬だから、それで正しい。

 

 皆の銀貨には、行き先がある。

 

 私も考えてみた。新しい靴。今の靴は踵を二度直しているけれど、まだ歩ける。冬外套。旅用を借りている。部屋の窓。レオンが直すと言った。自分だけで使う物は、考えた途端に値段が高くなる。

 

 レイ家なら、銀貨二十枚で三人が一月暮らせる。

 

 行き先が決まった。

 

「受領欄へ署名を」

 

 役所の書記が台帳を回す。

 

 ロウさん、ティアさん、セラさん、ノル、レオン。順に署名する。

 

 私の欄で筆を止めた。

 

「寄付へ回せますか」

「町の復旧基金なら、別の用紙で」

「レイ家へ指定で」

 

 書記が町長を見る。

 

「個人への危険手当です。一度受領してからでなければ、町は行き先を変えられません」

 

 なるほど。帳簿は正しい順番が好きだ。

 

 受領欄へ署名し、革袋を受け取る。その場で寄付申請書をもらい、ジュノ・レイの家族へ銀貨二十枚、と書いた。

 

「全額?」

 

 セラさんが聞く。

 

「端数がないので書きやすいです」

「あなたの宿泊費と食費は」

「修繕隊の経費」

「それは隊との契約による支給です」

「分かってます」

「なら、危険手当を受け取る理由と関係ありません」

 

 関係はある。

 

 宿、食事、診察、薬。私は巡回へ同行してから、借りるものばかり増えた。働いて返しているつもりでも、昨夜は仕事より見張りの人手を使わせた。銀貨を持っていると、返していない物の札が一枚ずつ頭へ浮かぶ。

 

 誰かへ渡せば、その音が止まる。

 

「私が持つより、レイ家が持つほうが役に立ちます」

「用途の比較ではありません」

「お金は用途の比較をする道具でしょう?」

 

 セラさんは記録板を出さず、こちらを見た。

 

「あなたが危険を引き受けた対価です」

「危険を引き受けたのはレイさんも同じです」

「彼の遺族には、別に弔慰金が支給されます」

「十四歳の子が大人一人分になるには足りない」

 

 セラさんの目が細くなった。

 

「ジュノさんは、大人一人分になる必要があるのですか」

 

 ない。

 

 十四歳は子どもだ。父親の穴へ入れるものではない。

 

「だから、お金があったほうがいいんです」

 

 話を戻す。

 

「あなたにも、あったほうがいい」

「私には仕事があります」

「ジュノさんにも伝令の仕事があります」

 

 言葉が同じ形で返ってきた。

 

 少し困る。

 

「でも私は一人です。あちらは三人」

「あなたが一人なら、必要なものがなくなるのですか」

 

 なくならない。ただ、少なくて済む。

 

 食事は一人分。寝床も一つ。将来の蓄えは、今のところ計算しなくていい。

 

「私の話は、今しなくても」

「今、あなたの危険手当の話をしています」

 

 セラさんは論点を逃がしてくれない。ティアさんが症状の逃げ道を塞ぐなら、セラさんは言葉の逃げ道へ板を打つ。

 

 でも書類はもうできた。

 

「決めました」

「受け取りを拒むのですね」

「受け取って、渡します」

「違いは」

「帳簿が正しい」

 

 署名済みの寄付申請書を、書記へ渡した。

 

 銀貨の音が手から消える。

 

 胸が軽くなった。

 

 たぶん、よいことをしたからだ。

 

 セラさんは申請書を止めなかった。代わりに、自分の記録板へ刻んだ。

 

『危険手当、受領後に全額寄付。本人は経費支給を理由に自己分不要と説明』

 

「不要とは言ってません」

「訂正しますか」

「もっと必要な人へ回した、と」

 

 針が動く。

 

『本人訂正――より必要な者へ配分』

 

「ありがとうございます」

「感謝されることではありません」

 

 声はいつもと同じだった。でも次の行を書くまでが長い。

 

『観察事実――受領中、本人は一度も自分の用途を挙げず』

 

 それは当然だ。旅の必要品はそろっている。

 

 町役所を出ると、ロウさんたちは第二鐘の引き上げへ向かった。私はまだ作業禁止なので、セラさんと帰還名簿を整理する。

 

 修繕隊の書式には、訪問地、作業、負傷、報酬、次の移動先がある。

 

 ロウさんの報酬欄、銀貨二十。ティアさん、二十。セラさん、二十。ノル、見習い規定で十二。レオン、二十。

 

 私の欄へ、セラさんが筆を置いた。

 

「受領二十、寄付二十」

「差し引きゼロなら、空欄でよくないですか」

「事実が消えます」

「合計は同じ」

「過程が違います」

 

 帰還先の欄も、私だけ空白のままだ。

 

 報酬まで数字が入ると、その空白が目立つ。私は筆を取り、報酬欄へ横線を引いた。

 

「何を」

「未保有という意味」

「受領拒否の記号です」

「今は持ってません」

 

 セラさんが私の筆を止める。

 

「記録は、今の持ち物一覧ではありません。何があり、何を選んだかを残すものです」

「選んだ結果、ゼロです」

「ゼロにしたことを残します」

 

 新しい紙へ書き直された。

 

 私の行だけ、文字が多い。

 

 危険手当銀貨二十、受領。全額指定寄付。本人保有ゼロ。

 

 ずいぶん面倒なゼロだ。

 

「セラさんは、全部残したいんですね」

「必要な事実を残します」

「人が忘れたいことも?」

 

 白い廊下が視界の端へ浮かぶ。

 

 セラさんは、すぐに答えなかった。

 

「忘れることを選ぶためにも、何があったかは必要です」

 

 記録板を胸の前へ戻す。

 

「消された記録は、本人以外の都合で使われます」

 

 白麦院のことを言っているのかもしれない。でも他者の内側は読めない。セラさんの指が、十九と書かれた記録の端を押さえていた。それだけだ。

 

 夕方、麦倉へ戻る。

 

 入口で、十四歳くらいの女の子が待っていた。

 

 泥のついた伝令外套。短く切った髪。折れた灰色の花を結んでいたのと同じ赤い糸が、手首にある。

 

 ジュノ・レイだと分かった。

 

 女の子は私を見るなり、革袋を突き出した。

 

 銀貨が二十枚、重い音を立てる。

 

「返します」

 

 挨拶より先に、結論が来た。

 

「町が間違えて渡した?」

「間違えたのは、あなたです」

 

 ジュノは袋を私の胸へ押しつけた。

 

「うちは施しを頼んでない。私は働けます。母さんも、弟も。父さんの分まで、私が働く」

 

 十四歳の口から出るには、聞き覚えがありすぎる言葉だった。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。