お金を渡すときは、相手の手へしっかり載せる。
返されるときは、両手を後ろへ回す。
パン屋の店先で学んだ技である。代金はいらないと言い張る常連と戦うとき、親方もよくやっていた。
「受け取りません」
私は両手を後ろへ隠した。
「返します」
ジュノは革袋を私の胸へ押しつける。
「町役所で手続き済みです」
「レイ家で受け取りを拒否しました」
「じゃあ町役所へ返して」
「寄付者本人の署名が必要です」
十四歳の伝令は、仕事が速い。町役所へ行き、受取拒否の方法まで確認してきたらしい。
「私は働けます。母さんは縫い物ができる。弟だって、井戸水くらい運べます」
「八歳へ水桶を持たせるの?」
「私が大きいほうを持つ」
「小さいほうは持たせるんだ」
革袋がまた近づく。避けると、ジュノも一歩出る。
右。左。右。
麦倉の入口で、妙な踊りになった。
「二人とも、通行を妨げています」
セラさんに言われ、壁際へ移る。
「セラさん、寄付した物を返される決まりはあります?」
「受取人が拒否した場合、寄付者へ返還。寄付者も拒否した場合、町の復旧基金へ移管です」
「基金で」
「駄目」
ジュノが即答した。
「うちに使うつもりだったお金を、勝手にほかへ回さないで」
正しい。
受け取らないなら何に使っても同じ、とはならないらしい。お金の行き先は、人の気持ちより道幅が狭い。
「どうして嫌なの?」
「父さんが死んだからって、かわいそうな家にされたくない」
ジュノは袋の口を握った。手首の赤い糸が雨で濡れている。
「父さんは仕事をした。私も仕事をする。お金は仕事でもらう」
筋が通っている。
困った。私も同じ筋を使って報酬を渡したので、正面から否定すると昨日の自分へ当たる。
「じゃあ、仕事をお願いします」
袋ではなく、ジュノの伝令外套を見る。左胸に雨樋町の水紋。裾には乾いた泥が何層もついている。
「低地へ避難用パンを配りたい。私は道を全部覚えてない。ジュノは?」
「覚えてます」
「白布が出ていた家は」
「昨日で十四。全員避難済み。戻れる家は西二区の三軒だけ」
「一緒に回って、戻った人の数と必要なパンを数えて。給金は――」
革袋を見る。
「高すぎます」
セラさんが先に言った。
「銀貨二十枚は、伝令仕事なら二か月分です」
「先払い」
「二か月ここにいません」
「残りは次の伝令へ」
「私たちの会計ではありません」
逃げ道が細い。
セラさんは少し考え、役所の書式を一枚出した。
「危険手当の寄付を、雨樋町の復旧配達費へ用途変更。ジュノさんを臨時伝令として日当払い。レイ家が受け取るのは働いた日数分。残額は同じ仕事をする住民へ支給」
「それなら」
ジュノの返事はまだ硬い。でも袋を押しつける手は止まった。
「私が全部働けば、全部もらえますか」
「二か月休まず働けばね」
「やります」
「やらせません」
今度は私が即答した。
ジュノの眉が上がる。
「仕事を頼んだのは、あなたです」
「今日の分を頼みました。二か月休まない契約はしてない」
「私が我慢すれば、母さんと弟は休める」
それは違う。
「我慢を仕事へ混ぜないで」
思ったより強い声が出た。
麦倉でパンを包んでいた人たちがこちらを見る。
声を下げる。
「眠らない人は、次の日に二人ぶん助けてもらうことになる。食べない人は、荷物を持てなくなる。十四歳が大人一人分をやろうとすると、見てる大人の仕事が増える。損です」
「あなたは三日寝た」
返しが速い。
「私は夜滓を扱う訓練がある」
「眠らない訓練も?」
「配達の経験」
「私は伝令です」
鏡と話すと、こんなに面倒なのだろうか。
「年齢が違う」
「三つだけ」
「三年は長いよ」
「父さんがいなくなったら、今日から私が一番上です」
ジュノは胸を張った。立派に見せるためではなく、曲げたら崩れる柱みたいに背を伸ばしている。
「一番上なら、全部やるの?」
「やります」
「お母さんは縫い物ができるって、今言ったよね。弟も水を運ぶって」
「それは」
「家族三人で分けられる。町の大人にも頼める。一番上の仕事は、全部抱えることじゃなくて、誰に何を頼むか決めること」
パン作りと同じだ。粉を量る人、捏ねる人、丸める人。私一人で百二十人分を作るより、十七人へ分けたほうが早い。
「子どもの分まで、大人がいるんだから」
ジュノは唇を噛んだ。
「父さんはいない」
「お父さん一人しか大人がいなかったの?」
町役所の書記。倉番の女性。排水作業員。ジュノの仕事へ給金を出すと決めたセラさん。名前を挙げていく。
「誰もお父さんの代わりにはならない。でも、大人の仕事は分けられる。穴を一人で埋めなくていい」
ジュノの握っていた革袋が、少し下がった。
「あなたが言うんですか」
小さな声だった。
「年上ですから」
「三つだけ」
そこへ戻るらしい。
「今日は先輩配達員ということで」
話を仕事へ着地させる。
セラさんが用途変更の紙を作った。私、ジュノ、町役所の書記が署名する。革袋はセラさんの会計鞄へ入り、今日の終わりに日当を出すことになった。
ジュノはまだ納得しきっていない。でも働いて受け取る形なら、拒まない。
よい解決である。
「配達へ行こうか」
「あなた、休養中でしょう」
ティアさんが背後にいた。
この人は必要なとき、だいたい背後にいる。
「歩行許可は出ました」
「麦倉周辺に限って」
「低地も雨樋町の周辺です」
「麦倉の、です」
文字一つで範囲が狭い。
「では私は荷車に乗ります。歩かない」
「誰が引くの」
「市警の――」
「俺は引かない」
レオンまで背後に増えた。
「まだ怒ってる?」
「怒ってない」
怒っている人の短さだった。
「じゃあ仕事として。荷車を引いて、私を見張る。一度に二つできてお得」
「お前は麦倉に残る」
「ジュノへ配り方を教える約束をした」
「俺が聞いて教える」
「パンの状態を見ないと数を決められない」
「味が分からないのに?」
言葉が胸へ当たった。
レオンも気づいたらしい。口を閉じる。
「数は分かるよ」
なるべく普通に答えた。
「固さも、匂いも。味見はジュノへ頼めばいい。できないところは分ければいいって、今説明したところ」
ジュノが私とレオンを見比べる。
「この人は大人ですか」
「十八なので、仮採用」
「お前より一つ上だ」
「一つで偉そうだねえ」
レオンの眉間は戻らない。でも荷車の柄を持った。
出発前に、ジュノの家族へ仕事の契約を知らせた。
母親のエマさんは、麦倉の隅で濡れた外套を繕っていた。町の人から預かったものが十二着。自分の家も浸かったのに、もう針を動かしている。
「ジュノに伝令を頼みます。一日分の日当。日暮れまで、途中に休憩一回」
セラさんが作った契約書を見せる。
「この子、昨日から休んでません」
エマさんは署名より先に言った。
「寝たよ」
「壁へ寄りかかって、半刻」
「半刻は寝た」
親子で最低睡眠時間の基準が違う。
「では休憩を先に」
ジュノを長椅子へ座らせる。避難所の昼食は、灰麦パン一個と豆の煮物。ジュノは受け取るなり、パンを半分に割った。
「リクへ」
弟の分らしい。
「リク君はもう受け取りましたよ」
「夜にお腹が空くから」
「ジュノも空くでしょう」
「私は仕事中です」
仕事をすると腹が減らない身体なら、パン屋はずいぶん粉を節約できる。
「伝令の道具を確認します。外套、靴、町章、昼食」
「昼食も道具?」
「途中で動かなくならないための携行品です。半分では不足」
ジュノは母親を見る。エマさんは針を止めず、強く頷いた。
半分を戻し、全部食べ始める。
「ミナさんは?」
「さっき粥を三杯」
正確には二杯と、止められた三杯目の二口。合計すればだいたい二杯半だ。業務へ支障はない。
レオンが口を開きかけたので、先に荷車の車輪を指した。
「左の留め金、緩んでない?」
確認のため、レオンはしゃがんだ。話題の切り替えは、相手が得意な作業を置くとうまくいく。
弟のリク君が、姉の隣へ座った。
「姉ちゃん、父さんの仕事するの?」
「うん」
「じゃあ、帰ってこない?」
ジュノの口が止まった。
八歳の中では、父親の仕事と帰ってこないことが一本の線になっているらしい。
「今日は私と配達して、日暮れ前にここへ帰ります」
私が答えた。
「本当?」
「契約書に書いてあります。日暮れより遅れたら、レオンが荷車ごと運んでくれます」
「人は荷車ごと運ばない」
車輪を締めながら訂正された。
「でも連れて帰るでしょう?」
「帰す」
リク君はレオンの腕を見て、安心したように姉の外套を離した。
ジュノは残りのパンを急いで食べた。急ぎすぎて喉へ詰まらせ、母親から水を渡される。
「ゆっくり。配達は逃げません」
「水は逃げる」
「下流へね。でも今日は水より人を追う仕事」
ジュノは水を飲み、今度は小さく噛んだ。
自分の無理を止められると腹が立つらしい。私にも少し分かる。でも、この子は止める人の言葉を聞ける。立派だ。
「日暮れには帰すよ」
エマさんへ言う。
「あなたも一緒に?」
一瞬だけ答えが遅れた。
「私は修繕隊の予定次第です。でもジュノは必ず」
エマさんは私ではなく、レオンを見た。
「二人とも帰す」
彼が答えた。
仕事を増やされた顔をしていない。むしろ、やっと担当が決まったように荷車の柄を握る。
私は契約の当事者ではないので、そこまで保証されなくてもよいのだけれど、家族の前で訂正するのは感じが悪い。ひとまず黙った。
低地へ向かう。
水は足首まで下がっていた。泥を掻き出す音、濡れた家具を運ぶ声、壁を洗う水音。町は悲しむ暇も作業表へ入れたように動いている。
「西二区から」
ジュノが道を選ぶ。
「戻った家は三。人数は六、四、二。六人の家には乳児が一人。四人の家は老人二人」
「よく覚えてる」
「伝令だから」
褒めても工具箱へ隠れない。代わりに歩く速度が少し上がる。
「乳児の家は大人へ一個ずつ、母親へスープ用の柔らかいパンを追加。老人の家は固い皮を外して渡そう」
「皮はどうする?」
「水へ浸して豆と煮れば食べられる。作業してる人の昼に」
最初の家では、床板を外して泥を出していた。母親はパン籠を見ると、人数分より一個少なく取った。
「赤ん坊は食べないから」
「お母さんが二人分使ってます」
柔らかい一個を足す。
「乳が出なくなったら、粉乳を探す仕事が増えます。今食べるほうが町のため」
私が言うと、ジュノが横で変な顔をした。
「何?」
「同じことを言ってる」
「誰と」
「私に」
同じではない。赤ん坊を育てる母親と、銀貨二十枚を一人で稼ごうとする十四歳では、仕事の種類が違う。
二軒目で、老人が焦げたパンばかり選んだ。
「きれいなのは若い者へ」
「焦げには噛む仕事が多いですよ。若い人へ働いてもらいましょう」
きれいな一個と交換する。
「あんたはどれを食う」
「私は配達が終わってから」
老人とジュノが、同時にこちらを見た。
「何です?」
「同じことを言ってる」
今度は二人分になった。
仕方なく籠から一個取る。半分へ割り、片方を食べた。
灰麦の匂い。弾力。味は薄い。
「半分だけ?」
「配達中は食べすぎると動きにくい」
「荷車に乗ってる」
ジュノは細かい。
「残りはあとで」
「布に包んで人へ渡すんでしょう」
レオンまで加わる。
「今日は信用が低い日ですね」
「三日寝て、起きた翌日だ」
「昨日から起きてます」
「二日二十一時間を三日と言ったのはお前だ」
セラさんの訂正まで覚えている。
残り半分も食べた。味はしないけれど、腹には入る。三人の視線が外れたので、効果もある。
三軒目の庭には、泥だらけの蜂蜜壺が並んでいた。養蜂をしている家らしい。壺の中身は無事だったものを、避難所へ分けるという。
「パンへ塗って」
家の主人が木匙を差し出す。
「お礼だ。配達の二人が先」
ジュノは首を振る。
「仕事だから」
「仕事した人へ食わせるのも仕事だ」
主人のほうが一枚上だった。
小さなパンを二つ出し、一つへ蜂蜜。もう一つへ塩漬け豆の汁を塗る。見た目はどちらも薄い金色だ。
「どっちが蜂蜜?」
ジュノが私へ聞く。
「右」
匂いで選ぶ。
「じゃあ、右をどうぞ」
一口食べた。
柔らかい。表面が少し濡れている。甘さはない。
「おいしい?」
「蜂蜜がいいですね」
主人が首を傾げた。
「そっちは塩豆だぞ」
逆だった。
雨で鼻も鈍っている。蜂蜜壺と豆桶が隣だったから、匂いが混ざったのだろう。
「引っかけ問題でしたか」
「置き場所を見てれば分かる」
ジュノが左のパンを食べる。
「甘い」
半分に割り、私へ差し出した。
「こっちも食べて」
「二個は多いよ」
「半分ずつ」
「ジュノがもらった分でしょう」
「味見の仕事を頼んだんでしょう。給金とは別に、仕事の道具が必要です」
言葉の使い方がうまい。
受け取って、一口。
右と同じだった。
違うのは、ジュノが甘いと言ったことだけ。
「どう?」
「うん。蜂蜜」
飲み込む。
手の中の半分が急に重くなった。蜂蜜パンは好きだった。親方の店では、焼けた端から味見をした。春の蜂蜜と夏の蜂蜜の違いも分かった。
今は塩と同じだ。
「ミナさん」
「何?」
「顔が、おいしい顔じゃない」
十四歳は遠慮がない。
「塩のあとだから、舌がびっくりしてる」
「私に、我慢を仕事へ混ぜるなって言いましたよね」
「言ったね」
「それ、我慢じゃないんですか」
蜂蜜パンを持つ指へ力が入った。
「食べられるよ」
「食べられるかじゃなくて」
ジュノは途中で言葉を切った。何を聞けばいいか探すように、私の顔、黒線のある襟元、赤い医療布を見る。
「私には、子どもの分まで大人がいるって言った」
「いるよ」
「じゃあ、ミナさんは誰の分の大人?」
質問の意味が、すぐには分からなかった。
「私は自分の分で足りるよ」
「自分の分のパン、半分しか取らなかった」
老人の家で見られていた。
「あとで全部食べたでしょう」
「見られてたから」
レオンが荷車の前で黙っている。
ジュノは答えを待つ。
誰の分。
ノルが眠ればノルの分。親方の店が忙しければ親方の分。レオンが傷つけばレオンの分。足りない場所へ入るのだから、決まった相手はいない。
「配達員は、届け先の分を少しずつ持つものだよ」
仕事の話へ直す。
「じゃあ、ミナさんへ届ける人は?」
また分からない問いが来た。
レオンが荷車の柄を握り直した。木が小さく鳴る。
「今日はジュノが味見を届けてくれたでしょう。半分ずつで解決」
残りの蜂蜜パンを口へ入れた。
甘さは最後まで来なかった。