三千万人の夜を背負った少女   作:日向夏 

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影だけ置いていく

 雨樋町の第二鐘は、水の中でも働いていた。

 

 横倒しになり、半分泥へ埋まり、青い光は朝の豆蝋燭ほど。それでも中央水路へ夜滓が上がるたび、鐘の縁が震えて黒い泡を一つずつ消す。

 

「まじめですね」

 

 橋の上から見下ろす。

 

「誰がだ」

「鐘。あの状態で休んでない」

 

 ロウさんは返事をせず、引き上げ装置の図へ線を足した。

 

 第二鐘を水路から出すには、両岸へ滑車を立て、鐘の吊り環へ鎖を三本かける。昨日から準備を進め、太い鎖も人手もそろった。

 

 足りないのは、水底の封印鎖を外す人だった。

 

「潜水工が三人います」

 

 町役人が川向こうを示す。革の潜水服を着た人たちが、腰へ鉛帯を巻いている。

 

「全員、一度潜った。でも鐘の五歩手前で影が動かなくなる」

 

 ロウさんが図面の中央へ黒い印を置いた。

 

 鐘の下には夜滓が溜まり、人間の影を泥へ縫いつける。潜水工は身体だけ進もうとして、足首を傷めた。青灯を沈めても、水が光を散らして届かない。

 

「影が薄ければ、縫いつける場所も少ない?」

 

 聞くと、ロウさんの眉が動いた。

 

「考えるな」

「確認です」

「その確認をする時点で考えている」

 

 隊長は人の手順を読むのが速い。

 

「私は潜れます。パン屋は粉袋で息を止める訓練が」

「ない」

「ありませんね」

 

 さすがに通らなかった。

 

 町の潜水工は、封印鎖の位置を見ている。必要なのは水泳の速さではなく、沈んで留め具を一つ外す作業だ。鎖には旧式の蝶栓。ノルから工具を借りれば、私にも回せる。

 

「潜水経験」

 

 ティアさんが診察表を持って来た。

 

「川で泳いだことはあります」

「水路作業の経験」

「粉倉の排水溝なら」

「体温」

 

 答えにくいところへ移った。

 

 耳へ温度計を入れられる。

 

「三十五度七分」

「惜しい」

「何に」

「四捨五入で三十六」

「診断に四捨五入は使いません」

 

 潜水工の最低基準は三十六度。私は地上ですでに三分足りない。

 

「影請けの使用禁止に加え、冷水作業も禁止します」

 

 赤い医療布へ、青い線が一本追加された。

 

 禁止事項が増えるたび、腕が少し華やかになる。祭りまで続けば飾り紐に使えそうだ。

 

「別の方法は?」

 

 レオンがロウさんへ聞く。私ではなく隊長へ聞くところが、先回りの仕方として正しい。

 

「鐘を水路ごと囲い、夜滓を薄める。二日」

「水位予測は」

「今夜また強雨。排水門の封印は鐘なしであと六時間」

 

 町役人の声が小さくなる。

 

「二日は持ちません」

 

 別の方法は、間に合わない。

 

「潜水工へ影除けの札を増やす」

 

 セラさんが案を出す。

 

「水中で三分。札が濡れると一分」

 

 ノルが計算した。

 

「留め具は三つです。一人一個なら」

「近づくだけで一分半。戻れません」

 

 潜水工の親方が首を振った。

 

「命綱で引く」

「影が縫われたまま引けば、脚を置いてくる」

 

 話が静かになった。

 

 町全体を守る鐘と、人の脚三本。比べる話にしてはいけないけれど、時間は勝手に比べている。

 

「私なら影が薄い。水底の夜滓へ慣れてる。留め具の形も分かる」

 

 今度は提案として言った。

 

「駄目だ」

 

 レオン。

 

「ほかに六時間でできる案がある?」

「お前を使う案は、案に入れない」

「どうして」

「三日寝ても戻ってない。味が分からない。体温も基準以下だ」

 

 事実が三つ。ティアさんから習ったらしい。

 

「だから一回だけ。潜水工二人が左右の栓、私は中央。三人同時なら一分半で終わる」

「お前の影が止まったら」

「命綱で引いて」

「脚を置いてくると今聞いただろ」

「私の影は薄いから、縫い目も浅い」

 

 根拠はない。けれど影が遅れ始めてから、夜滓に引かれる感覚は弱くなっている。

 

「一番成功率が高いです」

 

 ロウさんへ言う。

 

 隊長は図面と私の赤青い医療布を見た。古い署名を見つけたときと同じ沈黙をする。

 

「成功率で決めるな」

 

 低い声だった。

 

「では、何で?」

「失敗したとき、戻せるかだ」

 

 私一人なら戻せる。命綱がある。潜水工も二人。鐘を放って町が浸かれば、戻せない家が増える。

 

「戻れます」

 

 答えた。

 

 ロウさんは信じていない顔をした。でも排水門の水位報告が届き、残り時間は五時間半になった。

 

「一回。中央栓だけ。水中一分を超えたら、作業途中でも引く」

 

 許可が出た。

 

 レオンがロウさんへ一歩詰めた。

 

「隊長」

「代案が間に合わない。俺が責任を取る」

「責任で体温は戻らない」

 

 その言葉はロウさんの眉の火傷へ当たったようだった。

 

「分かっている」

 

 レオンはまだ言いたそうだった。けれど命綱を自分の腰へ巻き、私の分を確かめ始めた。

 

 結び目を二度引く。金具を三度見る。紐の長さを測り直す。

 

「信用がない」

「紐を信用してない」

「私もつながってますけど」

「だからだ」

 

 潜水服は町の女性工から借りた。私には肩が広く、袖が余る。ノルが紐で詰め、胸へ影除け札を三枚縫った。

 

「細工工具、落とさないでください」

「私より工具?」

「工具は勝手に潜りません」

 

 もっともだ。

 

「帰ったら自分で手入れしてください。水路の泥、錆びるから」

「了解」

 

 帰ったら、という言葉が自然に入った。ノルはよい頼み方をする。

 

 水路へ降りる。

 

 最初の一歩で、冷たさが膝を噛んだ。二歩目で腰。三歩目で胸。

 

「中止」

 

 レオンが岸から言う。

 

「まだ入っただけ」

「唇が青い」

「水の色が映ってる」

 

 ティアさんは笑わず、潜水時計を上げた。

 

「一分。合図は綱を一回。異常は二回。引き上げは三回。返事」

「一、作業。二、異常。三、引く」

 

 息を吸う。

 

 潜った。

 

 水の中は、町の音を全部遠くする。

 

 雨、滑車、指示。代わりに自分の脈だけが耳の奥で鳴る。水は濁り、伸ばした手の先が青くぼやける。

 

 影除け札が光った。

 

 足元へ私の影が沈む。

 

 本来なら身体と同じ形でついてくる。それが半歩遅れ、水底の泥へ薄く広がった。

 

 黒い糸が寄る。

 

 影を縫おうとして、何度もすり抜ける。

 

 読みどおり。

 

 鐘へ着く。横倒しの青銅は、家の屋根ほど大きい。中央栓は泥の下。手を入れ、指で蝶形を探す。

 

 あった。

 

 細工工具を差し、回す。

 

 動かない。

 

 錆ではなく、黒い膜が栓を覆っている。影請けで取れば早い。

 

 禁止。

 

 工具の柄で膜を削る。少しずつ剥がれ、黒い泡になる。

 

 命綱が一回引かれた。

 

 一分の合図だ。

 

 戻らなくてはいけない。

 

 栓はあと半回。

 

 ここで戻れば、もう一度潜る。そのほうが身体は二回冷える。今の半回を終わらせるほうが合計は安い。

 

 工具へ力をかけた。

 

 蝶栓が回る。

 

 封印鎖が一つ外れ、鐘の中から青い泡が噴き出した。

 

 綱が三回引かれる。

 

 浮上する。

 

 頭が水面へ出た瞬間、空気が痛かった。

 

 レオンと潜水工が両腕をつかみ、岸へ上げる。ティアさんが濡れた札を剥がし、毛布を巻く。

 

「一分四十二秒」

 

 セラさんが時計を読む。

 

「中央栓、外しました」

「四十二秒超過」

「成果も記録して」

 

 言うと、セラさんの視線が私の足元へ落ちた。

 

「ミナ」

 

 珍しく呼び捨てだった。

 

 皆が水路を見る。

 

 私の影が、水底に残っている。

 

 鐘の横で、人の形に薄く広がったまま動かない。

 

 岸には私の身体がある。光もある。でも足元は空だった。

 

「忘れ物ですね」

 

 声にすると歯が鳴った。

 

 一秒。

 

 二秒。

 

 三秒。

 

 水底の影が剥がれ、水面を泳ぐように戻ってくる。岸へ上がり、私の踵へ重なった。

 

 レオンの手が右腕をつかんだ。

 

 強い。

 

「痛い」

 

 思わず言うと、すぐ緩んだ。でも離れない。

 

「影を置いてきた」

「戻ったよ」

「三秒」

「セラさんみたいに細かいね」

「戻らなかったら?」

 

 声が低い。怒っている。

 

 命令した時間を四十二秒も超えたからだ。影の異常を隠していたと思われても仕方ない。

 

「次は一分で戻る」

「次はない」

 

 毛布ごと腕を引かれ、引き上げ装置から離される。

 

「左右の栓は潜水工が外せます。中央の夜滓が抜けたから」

 

 ロウさんが水面を確認した。黒い糸が減っている。

 

 計画どおり、一回で済んだ。

 

 そう思ったとき、鐘が水中で傾いた。

 

 左の潜水工が浮上する。

 

「左栓、外れた!」

 

 右側の綱は動かない。

 

 水面へ黒い泡がまとまって上がった。

 

「右の命綱、引け!」

 

 ロウさんが叫ぶ。

 

 潜水工たちが綱を引く。重い。水底で何かに絡んでいる。

 

「二回合図!」

 

 異常。

 

 右の潜水工は戻れない。

 

「影が縫われた」

 

 ノルが青灯を水へ向ける。光の中で、人影の脚が泥へ固定されている。中央栓から剥がれた夜滓が、右側へ流れたらしい。

 

「影除け札を追加する。救助員二人」

 

 ロウさんが指示する。

 

「間に合いません。息綱が潰れてる」

 

 潜水工の親方が綱の振動を読む。

 

 水底の人が動かなくなった。

 

 私は立った。

 

 毛布が落ちる。

 

 レオンの手がまだ腕にある。

 

「離して」

「駄目だ」

「人がいる」

「救助員が行く」

「札を縫ってる時間がない」

 

 私の潜水服には、まだ札が一枚残っている。影は薄い。道も分かる。

 

「二度目は戻らないかもしれない」

 

 レオンの指が強くなる。今度は痛いと言っても緩まなかった。

 

「右の人も戻らない」

「だからお前が代わるのか」

「二人で戻る」

「一人増えて沈むだけだ」

「じゃあ、ほかの案を今すぐ」

 

 レオンは答えない。

 

 水中の命綱が、弱く二回震えた。

 

 時間がない。

 

「四分で町が一人減る。私なら増やさずに済むかもしれない」

「お前を人数から抜くな」

 

 怒鳴られた。

 

 橋の人たちが静かになる。

 

 私も、一瞬動けなかった。

 

「抜いてないよ。救助する側に入れてる」

 

 説明する。

 

「そういう意味じゃない」

「今は言葉の意味を合わせてる時間がない」

 

 腕を振りほどく。

 

 レオンの爪が医療布へ引っかかり、青い線が切れた。

 

 水へ飛び込む。

 

 二度目は、冷たさを感じなかった。

 

 それは慣れたからだと思うことにする。

 

 青灯を追い、水底へ沈む。

 

 右の潜水工は鐘の下で膝をついていた。息綱が封印鎖へ挟まり、空気が来ていない。影は両脚を黒い糸で縫われている。

 

 残った影除け札を剥がし、相手の胸へ貼る。

 

 青い光が広がる。

 

 黒い糸が緩む。

 

 工具で息綱を鎖から外す。泡が戻った。潜水工の肩が動く。

 

 命綱を三回引く。

 

 岸が引き始める。

 

 相手の身体が浮く。

 

 私の足は動かない。

 

 札を渡したので、今度は私の影が縫われた。

 

 想定内。

 

 工具で黒い糸を切る。一つ。二つ。切った先からまた絡む。

 

 胸の空気が減る。

 

「十九番。いい子から、残りなさい」

 

 水の中で声がした。

 

 白い廊下が、鐘の内側へ続いている。

 

 扉の向こうへ行けば息をしなくていい。そんな説明が聞こえる。

 

 忙しいので、あとにしてほしい。

 

 影請けを使えば、一度で糸を取れる。

 

 禁止。

 

 でも影を置いて身体だけ戻るより、夜滓を腕へ入れたほうが管理しやすい。黒線ならティアさんが測れる。影は測り方がない。

 

 手を水底へつく。

 

 黒い糸を、指先へ集めた。

 

 冷たさが腕を上がる。

 

 胸の黒線が一本だけ濃くなった。

 

 影が自由になる。

 

 底を蹴る。

 

 浮上する途中、鐘の内壁へ文字が見えた。

 

 泥の下に刻まれた古い一節。

 

『ひとりの影に朝を盛るな』

 

 続きがある。

 

『百の明日を百に返せ』

 

 分灯式の歌だ。

 

 完全な形。

 

 覚える。

 

 もう一行。

 

『器を作れば、朝は器とともに欠ける』

 

 肺が縮む。

 

 水面へ手を伸ばした。

 

 届かない。

 

 次に気づいたとき、石の上にいた。

 

 潜水工が胸を押し、口から水が出る。咳をすると喉が焼けた。

 

「体温三十三度二分。脈、四十六」

 

 ティアさんの声。

 

「影は」

 

 セラさん。

 

「戻ってる」

 

 ノル。

 

 レオンは何も言わない。

 

 膝をつき、私の右腕を両手で持っている。さっきつかまれた場所が紫色になっていた。彼の手はそこを避け、手首と肘を支えている。

 

「潜水工は?」

 

 声が掠れた。

 

「生きている」

 

 レオンが答えた。

 

「よかった」

「よくない」

「一人も減ってない」

「お前が減りかけた」

 

 また人数の話だ。

 

「でも、減ってない」

 

 笑おうとした。顎が震えて、うまく形にならない。

 

 レオンは怒っているはずなのに、怒鳴らなかった。濡れた私の髪を毛布の中へ入れ、外套まで重ねる。手順が妙に丁寧だ。

 

「命令違反は、あとでロウさんから叱ってもらいます」

 

 安心させるために言う。

 

「俺が怒ってるのは、命令じゃない」

 

 低い声だった。

 

「じゃあ、医療布を切ったこと?」

 

 レオンの目が閉じた。

 

 一度だけ。開いたときには、いつもの無表情へ近い。

 

「もう喋るな」

 

 怒りの理由は分からないままだった。

 

 ティアさんが温石を四つ、首、脇、腹、膝裏へ入れた。熱いはずなのに、厚い毛布の向こうで石の重さしか分からない。

 

「震えが止まりました」

「温まったから?」

「身体が熱を作れなくなったからです」

 

 よい知らせではなかった。

 

 十五分後、体温は三十三度九分。もう十五分で三十四度一分。上がってはいる。でも元の三十五度七分まで、遠い。

 

「雨樋町の治療所へ入院。少なくとも四十八時間、鐘作業から外します」

「第二鐘は上がりました」

「次は碑文の調査を始めるでしょう」

「よく分かってますね」

「あなたが口を挟む順番も分かります」

 

 ティアさんは濡れた袖を切り、胸の黒線を確認した。中央の一本が太くなっている。

 

「影請けも使用しましたね」

「最後に少し。影を置いてくるより、線一本のほうが診やすいかと」

 

 周りの音が止まった。

 

 ロウさんは引き上げ指示の途中で口を閉じ、セラさんの刻字針は板の上に触れたまま。ノルは細工工具を拭く布を握りしめた。

 

「比較するものが間違っています」

 

 ティアさんだけが手を動かした。

 

「どちらも失ってはいけない」

「でも現場では選ぶでしょう」

「その選択肢へ入る前に、あなたは撤退命令を破りました」

 

 事実である。そこはあとで始末書を書く。

 

「低体温は今回だけの症状ではありません。平常値そのものが下がっている可能性があります。今後、冷えを本人の感覚で判断しないで」

 

 パンの焼き加減だけでなく、寒さまで他人へ判断してもらうことになった。

 

「係が増えますね」

 

 ノルが顔を上げた。何か言いかけ、工具へ目を戻す。

 

 冗談としては弱かったらしい。

 

 でも水底の文字は覚えている。

 

「セラさん、記録」

 

 掠れた声で呼ぶ。

 

「鐘の内側。分灯式の続きがありました」

 

 ひとりの影に朝を盛るな。

 

 百の明日を百に返せ。

 

 器を作れば、朝は器とともに欠ける。

 

 セラさんの針が、濡れない記録板へ一字ずつ刻んだ。

 

 ロウさんは最後の行を聞くと、引き上げられた第二鐘ではなく、私の足元を見た。

 

 影は戻っている。

 

 今度は身体と同時に動いた。

 

 ただ、朝の光を受けても、昨日より少し薄かった。

 

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