入院中の人間を現場へ連れ出してはいけない。
現場を入院先へ運べばよい。
「駄目です」
ティアさんは、どちらも駄目だと言った。
第二鐘は治療所の裏庭まで運ばれている。私の寝台から窓を開ければ、青銅の縁が見える距離だ。水底の碑文を読めるのは今のところ私だけ。なら寝台を窓辺へ寄せ、鐘を少し回せば、私は外へ出ずに調査へ参加できる。
「鐘は三十人で動かします。寝台はレオン一人」
「動かす人数の問題ではありません」
ティアさんは毛布を顎まで戻した。
「体温三十五度一分。黒線の熱、幻聴、味覚低下。安静四十八時間のうち、まだ十六時間です」
「喋るだけなら安静です」
「あなたは喋ると仕事を増やします」
否定しにくい実績がある。
窓の外で、金属をこする音がした。泥を落とした鐘の内壁へ灯りを入れている。碑文は湾曲し、文字の半分が腐食していた。水中で見た位置と順番が必要になる。
「私が間違えて覚えていたら、公定記録へ残ります」
ティアさんの手が止まる。
「それは困るでしょう?」
「記録を人質にしないで」
「協力のお願いです」
交渉の結果、寝台は動かさず、私だけ裏庭へ出ることになった。椅子、毛布三枚、温石四個、湯の瓶。足は地面へつけない。三十分ごとに検温。鐘には入らない。
条件が多い。つまり、条件を守れば参加できる。
レオンが椅子ごと私を運んだ。
「歩けます」
「地面へ足をつけるなと言われた」
「入口から十歩」
「十歩でも違反は違反だ」
昨日、私が破ったものを数えているらしい。
右腕の痣へ彼の目が落ちる。すぐ前へ戻った。今日は一度もそこへ触れない。
「怒ってるなら、叱っていいよ」
「叱れば次は止まるのか」
「内容による」
椅子を置く手が強くなった。でも腕ではなく、木の背もたれを握っている。
「なら、今は言わない」
ずいぶん効率の悪い怒り方だ。
第二鐘は、洗われると色が変わった。泥の下から青緑の地金が現れ、内側には輪状の文字が三段ある。セラさんが鐘の中へ入り、手灯りで一字ずつ照らしていた。
返事が聞こえないときのため、腰へ細い紐を結び、外のノルとつないでいる。ノルが一回引けば位置を移す、二回なら確認、三回なら外へ戻る。
「水中の合図と同じ?」
私が聞くと、セラさんは振り向かなかった。
「ミナさん。こちらから口元が見えません」
鐘の内側は声が反響する。聴覚の弱いセラさんへ、背中から話しても届かない。
「ごめんなさい」
正面へ回りたいけれど、椅子から降りられない。レオンが無言で持ち上げ、鐘の開口部へ向け直した。
「今、合図は水中と同じか聞きました」
「同じです。緊急時に規則を増やすと間違えるので」
「よい決め方ですね」
セラさんは口元を見てから、ほんの少し頷いた。
「私、つい喋る人の都合で話しちゃうんです。聞く人の位置を先に見るべきでした」
「多くの人がそうです」
「直します。見えてなかったら、これを」
手を大きく振る。
「視界に入らなければ分かりません」
「確かに」
ノルが笑いをこらえ、紐を一回引いた。セラさんは文字の位置を移る。
仕事が始まった。
水中で見た一段目は、鐘の下側にあった。
「最初は『ひとりの影に』。影の字は、日と景色の景を重ねた古字です」
セラさんが濡らした紙を青銅へ押し、拓本を取る。外した紙へ、浮いた文字が黒く残った。
『ひとりの影に朝を盛るな』
「次が『百の明日を百に返せ』」
曲面を追う。
「『百』の二つ目は欠けています」
「水中では見えた気がします」
「本人記憶として補います。欠損部とは分けます」
「同じ文になるなら、一緒でよくないですか」
「同じに見えても、出所が違います」
セラさんは二冊の帳面を開いた。
一冊は青い表紙。鐘の拓本、温度、位置、欠損。観察できる事実。
もう一冊は灰色。私が水中で読んだ文、町役人の伝承、ロウさんの旧式解釈。人が言ったこと。
「二度手間ですね」
「混ぜたあとで分けるほうが、手間です」
正しい。でも灰色の帳面の私の頁だけ、紙片が何枚も挟まっていた。
「それ、今回の碑文だけじゃないですよね」
「はい」
セラさんが灰色の帳面をこちらへ渡した。
第一頁。
『市場。本人説明――三本まとめたほうが片づく』
第二頁。
『学校。本人説明――三日寝れば戻る』
横に細い追記。
『観察――二日半意識なし。起床後も低体温、黒線残存』
「観察事実が混ざってます」
「対応する青帳の頁番号です」
第三頁。
『鐘地下。本人説明――九秒、一秒得』
『観察――誘導札に接触。過去の番号呼称へ反応。笑ったが周囲は応答せず』
第四頁。
『旅立ち。本人説明――六人で六個を数え間違い』
『観察――本人は自分のパンを半分のみ摂取。残りを複数の理由でレオンへ譲渡』
第五頁。
『雨樋町。本人説明――夜滓は取っていない』
『観察――三人の覚醒と同時に本人へ眼振、低体温、幻覚』
冗談と事実が、向かい合わせに並んでいる。
「こんなに書いてたんですか」
「必要な記録です」
「『一秒お得』まで?」
「九秒という事実と、危険の評価が違います」
自分で言った言葉なのに、紙へ書かれると別の人の言い訳に見えた。
「冗談は消しません?」
「なぜ」
「現場を軽くするために言っただけです。後から読んでも役に立たない」
「あなたが、何を軽くしたか分かります」
「私の性格が悪いみたい」
「性格の評価は書いていません」
書いていないから余計に逃げにくい。
「これ、皆が読むんですか」
「医療情報はティアさん。任務記録はロウ隊長。本人説明は原則、私と本人だけです」
「じゃあ、私が要らないと言えば?」
セラさんは灰色の帳面へ手を置いた。
「削除の申し出として記録します」
「消すとは言わない」
「消しません」
即答だった。
「私の言葉なのに?」
「あなたが言った事実でもあります」
「冗談まで証拠みたいに残されたら、何も喋れなくなる」
声が少し強くなった。
セラさんは口元を見る。聞き返さなかった。正確に届いたらしい。
「今の言葉も記録しますか」
「必要なら」
「必要かどうか、誰が決めるの?」
「今は私です」
灰色の帳面が急に重くなる。
私の説明を、誰も信じていない。
そう思った。違う。ティアさんは症状を数字で聞く。レオンは半分だけの言葉を疑う。ロウさんは命令を破る前提で綱を結ぶ。
皆が、私の言葉より観察したものを使う。
正しい。私だって、相手が安心する答えを選ぶ。全部を正確に言っているわけではない。
それでも。
「役に立たない説明ばかりですね、私」
口から出た。
セラさんの指が帳面の角で止まる。
「そうは書いていません」
「でも信じられないから二冊にするんでしょう」
「信じるために分けます」
意味が逆だった。
「どういうこと?」
「『平気』という言葉を観察事実と混ぜれば、嘘だったで終わります。別に残せば、そのときあなたが平気だと扱う必要があったことも消えません」
「必要?」
「そう言えば相手が安心する。仕事を続けられる。追い出されない。理由は複数考えられます」
最後の一つだけ、胸の近くへ来た。
「私は追い出されませんよ。契約があります」
「契約があれば、怖くないのですか」
問いは一つだった。
怖くない。契約には期限と役割がある。守れば居てよい。違反すれば外される。それは分かりやすい。
だから、怖くないはずだ。
灰色の帳面から、小さな紙片が落ちた。
『右上腕、指五本の皮下出血。潜水直前、護衛レオンが制止した位置と一致』
拾うより先に読めた。
「これは外して」
今度は冗談ではなく頼んだ。
「理由は」
「レオンが悪く見える。私が振りほどいたからついただけです」
「力を加えたのはレオンさんです」
「飛び込むのを止めるため」
「理由として記録済みです」
「なら、結果は要らないでしょう」
「理由だけなら、正当な制止で終わります。結果だけなら、暴力で終わります。両方が必要です」
セラさんは紙片を拾い、青い帳面の同じ時刻へ戻した。
「本人は痣を見て、今日は触れませんでした。反省してます」
「それはレオンさんの説明として、本人に確認します」
「私が言ったことでは足りない?」
「足りません」
迷いがない。
「誰かを守るために、別の人の事実を消してはいけません」
私の腕の話なのに、レオンを守ることが別の人の事実を消すことになるらしい。
「私が気にしてなくても?」
「気にしていないという説明も残します」
どう言っても頁が増える。
「セラさんは、記録のせいで誰かに嫌われたこと、あります?」
「あります」
即答だった。
「困らない?」
「困ります」
「それでも書く?」
「書きます」
セラさんは耳の後ろの銀具へ触れた。音を集める補助具だ。雨音や鐘の反響が強い場所では、言葉まで一緒に潰れてしまう。
「十六歳のとき、私の町で鐘が割れました。私は亀裂の音を聞き取れず、代わりに床の振動を役所へ伝えました」
事実を読む声で、自分の話をする。
「報告書には『聴覚障害のある少女が混乱を訴えた』と要約されました。床の振動、時刻、間隔は削除。翌日、鐘楼が倒れました」
「人は?」
「夜警が一人、脚を失いました」
セラさんはそこで口を閉じた。顔は変わらない。銀具を押さえる親指だけ、白くなっている。
「私の言葉が正しかった、と証明したいのではありません。正しいか判断できる形で残したかった」
灰色と青の二冊へ目を落とす。
「説明だけでは、混乱した少女になる。観察だけでは、誰が何を伝えようとしたか消える。だから分けます」
自分の言葉を信じてもらえなかった人が、私の言葉を信じるために分けている。
さっきより意味は分かった。
でも、帳面を開かれると身体の中まで表へ出される感じは消えない。
「嫌なら、閲覧範囲は相談できます」
私の顔を見て、セラさんが言った。
「書くのはやめない?」
「やめません」
「頑固ですね」
「よく言われます」
そこだけ、返事が少し速かった。
「私の説明は、あとで私へ返します。訂正、補足、公開拒否を書けます。ただ、起きたこと自体をなかったことにはしません」
「返して、どうするの?」
「あなたが自分の記録を選べるようにします」
選べる。
削除はできない。でも誰に見せるか、何を補うかは本人へ返す。白い値札の番号とは違う扱いだ。
少しだけ、帳面の重さが変わった。
「じゃあ今、補足。レオンは私を助けようとした。痣は、その結果」
「記録します」
「私も潜水工を助けようとした。低体温は、その結果」
「記録します」
セラさんの針が動く。
「ただし、助けようとしたことは、方法が適切だった証明にはなりません」
「そこまで書く?」
「今、私が言いました」
自分にも同じ規則を使うらしい。
公平で、面倒だ。
でも、その面倒さなら少し信用できる。
「碑文へ戻りましょう。三十分たちます」
答えの代わりに検温器を取った。
セラさんは止めなかった。
ティアさんが耳で測る。三十四度八分。
「下がっています。室内へ」
「あと一段」
「駄目」
「鐘を私の窓へ回す案に戻ります?」
ティアさんがロウさんを見る。ロウさんは作業員三十人と滑車を見た。
「三十分だけだ」
鐘が回された。
最初の案が採用された。言ってみるものだ。
寝台へ戻り、窓の外の鐘を読む。セラさんは開口部へ座り、こちらへ顔を向ける。私が話すたび口元を見て、灰色の帳面へ水中の記憶、青い帳面へ拓本の字を書く。
三段目。
『器を作れば、朝は器とともに欠ける』
さらに下。泥で完全に隠れていた場所から、短い一文が出た。
『ゆえに、器を作るな』
ノルが水をかけ、ロウさんが布でぬぐう。何度見ても同じ字だ。
「命令形です」
セラさんが青帳へ書く。
「ずいぶん、はっきりしてますね」
鐘守庁の分灯式資料を思い出す。第七話で見た公定教本には、器を使って朝の光を守ったと書かれていた。
ロウさんが修繕隊の資料箱から、革表紙の公定訳を出した。
同じ第二鐘、同じ三段目。
『朝を器へ集め、長き夜を越えよ』
まったく違う。
「訳の差ではありません」
セラさんが原文と公定訳を並べた。
「『作るな』に、別の読みはない」
ロウさんの声が硬い。
「公定訳では、この一行が削除されています」
セラさんは青い帳面へ、欠損のない原文を写す。次に灰色の帳面へ、公定訳を作った鐘守庁の説明を貼った。
二冊を分ける意味が、少しだけ分かった。
混ぜてしまえば、都合のいいほうだけが事実になる。
「消された記録は、本人以外の都合で使われる」
雨樋町の役所で聞いた言葉を思い出す。
「セラさん。これを残して、どうするんです?」
「原本、拓本、公定訳を別々に保管します。改変者と時期を調べます」
「鐘守庁が止めたら?」
「止めた事実を残します」
表情は変わらない。刻字針を持つ手も、今日は震えていない。
この人は戦うとき、声を大きくしない。紙を一枚ずつ増やす。
「強いですね」
正面を向いて言った。
セラさんは私の口元を見てから、首を横へ振った。
「消された経験があるだけです」
詳しくは言わない。私は聞かなかった。聞けば、記録の理由を役立つ過去だけにしてしまいそうだった。
灰色の帳面を返す。
「私の冗談も、残す?」
「はい」
「恥ずかしいのは削って」
「削除希望として記録します」
やっぱり消してはくれない。
少し寂しい。
その言葉へ近づいたので、窓の外を指した。
「四段目の右、まだ泥が残ってます。作業を増やしましょう」
セラさんは灰色の帳面へ何かを書いた。
見せてとは言わなかった。
夕方、公定訳の発行記録が届いた。
第二鐘の原文を調査したのは、十四年前の鐘守庁技術班。
責任者の署名は、ロウ・ガルド。
けれど警告文を削除した改訂承認欄には、別の名があった。
鐘守庁長官、エルネスト・ヴァン。