三千万人の夜を背負った少女   作:日向夏 

17 / 18
百人ぶんの明日

 百人で一つの鐘を鳴らす、と聞けば大仕事に思える。

 

 実際は、一人につき明日の予定を一つ持ち寄るだけだ。

 

 魚を干す。壁の泥を落とす。弟の靴を直す。蜂蜜壺の蓋を洗う。

 

 その程度で朝が来るなら、ずいぶん安い。

 

「失敗すれば、予定を差し出した全員へ夜滓が逆流する」

 

 ロウさんが安い話を高くした。

 

 第二鐘は中央広場へ戻されている。割れはない。封印鎖も新しくした。なのに青い光は鐘の縁へ溜まるだけで、町へ広がらない。

 

 内壁の警告どおり、ひとりの器ではなく百の明日へ夜滓を返す。その分灯式を試すことになった。

 

「逆流した場合の症状は?」

 

 町長が聞く。

 

「悪夢、影熱、予定に結びついた記憶の欠損。重ければ夜喰いが百体生まれる」

 

 広場へ集まった人たちが静かになる。

 

「成功率は」

「原文どおりなら六割」

 

 六割は、店で新しい窯を買うには低い。でも今夜の雨までに第二鐘を動かす方法としては、一番高かった。

 

「私へ集めるなら?」

 

 手を上げる。

 

「九割以上です。鐘の残りを私が引き受けて、朝まで封印箱へ移す」

 

 広場の人たちがこちらを見る。

 

 ティアさんが私の手を下ろした。

 

「その案は医療上、存在しません」

「比較用の数字です」

「比較へ入れると、選ばれます」

 

 町長の顔には、もう九割という数字が残っている。家を守る立場なら、六割より九割を選びたい。悪いことではない。

 

 ロウさんが人々の前へ立った。

 

「九割の案では、夜滓と代償を一人へ集中する。成功しても、その一人の味覚、体温、影がさらに失われる。命も保証できない」

 

 私の症状を町へ説明される。

 

 少し居心地が悪い。

 

「分灯式は百人が危険を分ける。参加しない自由もある。危険を聞いた上で、町が決めろ」

 

 町長は鐘守庁の公定訳を見た。

 

「庁の資料には、一人の器へ集めよと」

「原文が改変されていた」

 

 ロウさんは隠さなかった。

 

 広場が騒がしくなる。誰が変えた。修繕隊も知っていたのか。今まで誰を器にした。

 

 問いが飛ぶ。

 

 ロウさんは一つずつ答えた。十四年前の調査班へいたこと。原文の拓本に警告部分がなかったこと。自分の署名が資料へ使われたこと。改変を見抜けなかったこと。

 

「言い訳はしない。今ある原文と公定訳を公開する」

 

 責任という言葉は使わない。代わりに、拓本を広場の壁へ貼った。

 

 セラさんが原文、公定訳、発行記録を別々に並べる。耳で騒ぎを拾いにくい彼女へ、町の人たちは一人ずつ正面に立って質問した。

 

 昨日より、話す位置がよい。

 

「六割で失敗したら、あんたらが治すのか」

 

 染物屋の主人が聞く。

 

「治療所と修繕隊で対応する。ただし全員を元へ戻せるとは約束できない」

 

 ティアさんが答える。

 

「九割の娘は元へ戻るのか」

「戻せません」

 

 迷いがない。

 

「味覚はすでに低下。体温も回復していません。次の集中で何を失うか予測できません」

 

 私が説明するより、ずいぶん悪く聞こえる。事実は言い方を選ばない。

 

「でも九割だろ」

 

 別の人が言った。

 

「一人が引き受けたいと言ってるなら、そのほうが」

 

 空気が私へ集まる。

 

 役に立てる場面だ。

 

「私は――」

 

 言いかけると、ジュノが前へ出た。

 

「一人が我慢する案です」

 

 伝令外套の胸へ、臨時雇いの札をつけている。

 

「それを仕事へ混ぜるなって、この人が言いました」

 

 私を指した。

 

 皆の目が戻ってくる。

 

「私は訓練が」

「味が分からない人の訓練?」

 

 昨日の蜂蜜パンを覚えている。

 

「それとこれは別」

「失ったのは同じ人です」

 

 十四歳は遠慮がない。広場でも同じだ。

 

 ノルも工具箱を抱えて前へ出た。

 

「夢泥のときも、一人へ集めました。三日たっても戻ってません」

 

 セラさんは灰色の帳面を開いた。

 

「本人説明――九割以上。観察事実――前回の集中後、幻聴、味覚低下、平常体温低下を継続」

 

「今それを読む?」

「比較に必要です」

 

 冗談だけでなく、私の提案まで二冊に挟まれた。

 

 レオンは何も言わない。広場の出口へ立ち、私が鐘へ近づく道だけ塞いでいる。

 

 それぞれ止め方が違う。ずいぶん準備がよい。

 

「六割を選ぶ人を集める」

 

 町長が決めた。

 

「百人に満たなければ、今夜は町を捨てる。高地へ全員避難だ」

 

 町を守るために一人を使う、と言わなかった。

 

 役所の書記が参加台帳を出す。

 

 一人目は、灰麦倉の女性だった。

 

「明日、残った粉を数える」

 

 二人目は、蜂蜜壺の主人。

 

「倒れた巣箱を起こす」

 

 三人目は、足を捻った若い市警。

 

「治ったら西二区を歩く」

 

「治ってから?」

 

 ティアさんが確認する。

 

「明日は治療所まで歩く。西二区はその次」

 

 予定が現実的になった。

 

 人は少しずつ列へ入った。

 

 明日、泥のついた皿を洗う。屋根瓦を拾う。亡くなった人へ花を持っていく。子どもの髪を切る。壊れた戸を板で塞ぐ。

 

 立派な計画は少ない。

 

 でも、どれも本人の明日だった。

 

 三十人。

 

 五十人。

 

 七十二人。

 

 そこで列が止まった。

 

 広場には百人以上いる。危険を聞けば、参加しない人がいるのは当然だ。子どもを抱く母親。影熱から治ったばかりの老人。明日の予定を夜滓へ触れさせたくない人。

 

 誰も責めてはいけない。

 

「あと二十八」

 

 町長が言う。

 

 沈黙が長くなる。

 

 私なら一人で埋められる。

 

 そう考えたところで、レオンの位置を確認した。出口ではなく、もう私の隣にいる。

 

「何も言ってないよ」

「顔で言った」

「顔の記録まで始めたら、セラさんが忙しい」

「もう書いています」

 

 セラさんが板を見せた。

 

『鐘を見た後、護衛の位置を確認』

 

 書くのが速い。

 

 七十三人目に、エマさんが立った。

 

「明日、外套を十二着返す」

 

 ジュノの母親だ。

 

 七十四人目、リク君。

 

「姉ちゃんと朝ご飯を食べる」

 

「子どもは参加させられない」

 

 町長が止める。

 

「原文に年齢制限はありません」

 

 セラさんが言う。

 

「でも危険を理解できるか」

「怖い夢を見るかもしれないんでしょう?」

 

 リク君は姉の手を握った。

 

「姉ちゃん一人より、半分のほうがいい」

 

 ジュノがしゃがみ、弟と目を合わせる。

 

「半分じゃない。百人で分けるから、もっと小さい」

「じゃあ平気?」

「平気とは約束できない」

 

 ティアさんの言葉を借りたような答えだった。

 

「でも一緒に帰る」

 

リク君は台帳へ小さな丸を書いた。

 

それを見て、親子で参加する人が増えた。夫婦。兄弟。隣人。誰か一人が出るのではなく、同じ家から二人が出る。

 

ティアさんは列を止め、参加者へ三枚の札を配った。

 

白は、危険を理解し参加する。

 

青は、説明をもう一度聞く。

 

赤は、参加を取りやめる。

 

「口で断りにくい人は、赤札を箱へ入れてください。名前は読みません」

 

広場の隅に布張りの箱を置く。参加台帳へ署名した人も、儀式が始まる直前まで選び直せる。

 

「百人から減ったら?」

 

町役人が聞いた。

 

「減った人数で実行はしません。中止して避難します」

 

 ロウさんが答えた。

 

「一人くらい、分からないように残しても」

「一人を数へ変えるな」

 

短い声で切った。

 

その言い方を、レオンが聞いていた。二人とも私を止めるときに同じ話をするようになった。人数の数え方へ、私だけ別の計算を使っていると思われているらしい。

 

青札を持った人は十一人いた。

 

「予定を忘れたら、二度と思い出せないのか」

 

 靴屋の女性が聞く。

 

「一時的な欠落なら、周囲の記録や本人の習慣から戻る場合があります。永久欠損の可能性もあります」

 

 ティアさんは可能性を薄めない。

 

「誰かが忘れたぶんを、九割の娘へ移せる?」

「しません」

「できるかを聞いた」

「できても、しません」

 

ティアさんは私を見ずに答えた。

 

 次の人は、悪夢が子どもへうつるか聞いた。夜喰いが生まれた場合の避難場所を聞く人、参加しなかった隣人まで鐘の光を使えるか聞く人もいた。

 

「光は全員へ届きます。参加しない人を区別しません」

 

 セラさんが筆談板を高く上げる。

 

「では、参加した者だけ損では?」

 

 問いが飛ぶ。

 

「はい。危険だけ見れば」

 

 セラさんは頷いた。

 

「その不公平を承知で、町を守りたい者だけ署名してください。善人である証明には使いません。辞退者名も残しません」

 

 赤札が箱へ八枚入った。

 

 誰も名前を見なかった。少なくとも私は見ないようにした。

 

 人数は八十二へ戻る。

 

「私、やめます」

 

 乳児を抱いた母親が列から出た。

 

「この子が今夜悪夢で泣いたとき、私まで動けなかったら困る」

 

「よい計算です」

 

 私は言った。

 

 申し訳なさそうにする必要はない。守るものがある人ほど、使える分を残すのは正しい。

 

 代わりに、その母親の姉が入った。

 

「明日、妹の子を一刻預かる」

 

 予定が一つ、家族の中で受け渡される。

 

 排水門の作業員は三人で参加した。

 

「明日、歯車を外して泥を取る」

「俺は軸を洗う」

「組み直すのは俺だ」

 

「同じ仕事を三つに分けた?」

 

 ノルが尋ねる。

 

「一人欠けても二人で途中までやれる」

 

 作業員の親方が答えた。

 

 私が一人で埋めるより、ずっとよい仕組みだ。

 

 胸が冷えた。

 

 温石はまだ温かい。なら、身体ではない。そう気づきかけて、参加台帳の人数を数え直した。

 

 八十九。

 

 仕事へ戻れば、名前のない冷えは数へ変わる。

 

九十人。

 

 九十八人。

 

 九十九人。

 

「あと一人」

 

 書記が数えた。

 

 誰も動かない。

 

 私は手を上げた。

 

 レオンが手首をつかむ前に言う。

 

「一人分の予定を出すだけ。影請けは使わない」

 

「患者です」

 

 ティアさん。

 

「年齢制限も健康制限もないんでしょう?」

「あなたの場合、分散せず集まる可能性があります」

「なら九十九人分を百へする補助になります」

 

 また都合のいい計算をした。でも今度は、一人で全部を持つ案ではない。

 

「参加したいです」

 

 役に立ちたい、ではなく言い直す。

 

 自分でも違いはよく分からない。

 

 ロウさんが私の影へ影除けの輪を置いた。夜滓が集中すれば、輪が割れる。そのときは即中止。

 

「明日の予定を」

 

 書記が筆を待つ。

 

 明日。

 

 第二鐘が動けば、浸水した家へ朝用のパンを配る。潜水工具をノルと手入れする。碑文の写しを確認する。

 

 どれも仕事だ。

 

「朝、低地へパンを配ります」

 

 書記が書く。

 

「それは復旧伝令の仕事です」

 

 ジュノが言った。

 

「一緒に行くから、私の予定でもあるよ」

「自分の予定を言うんでしょう」

「自分で行く」

「頼まれなくても?」

 

 問いが細いところへ入る。

 

「頼まれるよ。人手が足りないから」

「足りてたら?」

 

 答えが出ない。

 

 書記の筆が止まっている。

 

「では、明日の朝食を食べる」

 

 レオンが横から言った。

 

「人の予定を決めないで」

「嫌か」

「嫌ではないけど」

「なら書け」

 

 朝食は仕事ではない。食べなくても、町の復旧は遅れない。

 

「灰麦パンを一個食べる」

 

 書記が復唱した。

 

「一個?」

 

 確認される。

 

「一個」

 

 答えると、レオンの手が離れた。

 

 百人そろった。

 

 夕暮れ、第二鐘の周りへ百本の細い灯芯を置いた。各自の予定を書いた紙を巻き、一端を鐘の青い火へつなぐ。

 

 分灯式の歌を、皆で読む。

 

 ひとりの影に朝を盛るな。

 

 百の明日を百に返せ。

 

 器を作れば、朝は器とともに欠ける。

 

 ゆえに、器を作るな。

 

 最初の灯芯へ火が入る。

 

 二本。十本。五十本。

 

 青い光が百へ分かれ、人々の影へ細く触れた。

 

 私の胸の黒線が熱くなる。

 

 全部こちらへ来る。

 

 そう身構えた。

 

 来たのは、針の先ほどだった。

 

 隣でレオンの影にも青い点。ジュノ、リク君、ティアさん、ロウさん、セラさん、ノル。広場の百人へ、同じ大きさの光が一つずつ落ちる。

 

 誰かが息を呑む。

 

 次に、鐘が鳴った。

 

 水へ沈んでいた音ではない。広場から町の端まで届き、雨雲の底へ青い輪を広げる。

 

 第二鐘が朝を取り戻した。

 

 成功だ。

 

 町の人たちが、自分の影を確かめる。泣く人より、予定の紙を読み直す人が多かった。

 

「明日、やらないとね」

 

 灰麦倉の女性が笑う。

 

誰も倒れていない。

 

私も倒れていない。

 

影除けの輪も割れなかった。

 

青札を持っていた靴屋の女性は、自分の明日の予定を口にできた。リク君は姉の名前と朝食の場所を覚えている。赤札を入れた人たちも、同じ鐘の光の下に立っている。

 

成功率六割は、百人のうち四十人を捨てる意味ではなかった。百人全員が、失敗するかもしれない一つを持ち、その一つが成功した。

 

私が九割を持つより、結果はよかった。

 

そこまで計算できる。

 

なのに、自分の担当欄が消えたような感じだけ、計算の外へ残った。

 

「できましたね」

 

 ティアさんへ言う。

 

「はい」

 

 彼女は私ではなく、百人の脈を順に確認し始める。

 

 ノルは鐘の振幅を測る。セラさんは一人ずつ症状を記録。ロウさんは次の鐘へ使う手順を作り、レオンはリク君の悪夢反応を見ている。

 

 皆に仕事がある。

 

 私が夜滓を抱える必要はない。

 

 よかった。

 

 本当に、よいことだ。

 

 胸の奥が冷えた。

 

「温石、替えます」

 

 冷えの理由があって助かった。

 

 誰にも頼まれなかったので、自分で治療所へ戻る。明日の朝、灰麦パンを一個食べる予定がある。それまでは患者でいればいい。

 

 治療所の入口で、伝令馬が止まった。

 

 王都の黒い封筒。

 

 ジュノが受け取り、ロウさんへ運ぶ。封蝋は鐘守庁長官印だった。

 

 命令は短い。

 

『雨樋町における未認可分灯実験を、即時停止せよ。関係記録を封印し、候補者十九を王都へ移送せよ』

 

「候補者十九って、誰?」

 

リク君が姉へ聞いた。

 

ジュノは私の欠けた名札を見た。それでも答えなかった。

 

「ミナ・アルノです」

 

私は自分で訂正した。

 

「パン屋で、今は修繕隊の臨時協力員。番号だけだと配達先を間違えますから」

 

セラさんは命令書の余白へ、私の訂正を刻んだ。次に分灯式の拓本と百人分の参加記録を別の防水筒へ入れ、封印対象の箱から離す。

 

「命令違反では?」

 

町役人が声を落とす。

 

「原本を封印します。写しを消せとは書かれていません」

 

セラさんは黒い封筒を正面から読み直した。

 

紙を一枚ずつ増やして戦う人は、命令の空白まで記録に使う。

 

 成功した鐘の音が、もう一度鳴った。

 

 今度は誰も笑わなかった。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。