百人で一つの鐘を鳴らす、と聞けば大仕事に思える。
実際は、一人につき明日の予定を一つ持ち寄るだけだ。
魚を干す。壁の泥を落とす。弟の靴を直す。蜂蜜壺の蓋を洗う。
その程度で朝が来るなら、ずいぶん安い。
「失敗すれば、予定を差し出した全員へ夜滓が逆流する」
ロウさんが安い話を高くした。
第二鐘は中央広場へ戻されている。割れはない。封印鎖も新しくした。なのに青い光は鐘の縁へ溜まるだけで、町へ広がらない。
内壁の警告どおり、ひとりの器ではなく百の明日へ夜滓を返す。その分灯式を試すことになった。
「逆流した場合の症状は?」
町長が聞く。
「悪夢、影熱、予定に結びついた記憶の欠損。重ければ夜喰いが百体生まれる」
広場へ集まった人たちが静かになる。
「成功率は」
「原文どおりなら六割」
六割は、店で新しい窯を買うには低い。でも今夜の雨までに第二鐘を動かす方法としては、一番高かった。
「私へ集めるなら?」
手を上げる。
「九割以上です。鐘の残りを私が引き受けて、朝まで封印箱へ移す」
広場の人たちがこちらを見る。
ティアさんが私の手を下ろした。
「その案は医療上、存在しません」
「比較用の数字です」
「比較へ入れると、選ばれます」
町長の顔には、もう九割という数字が残っている。家を守る立場なら、六割より九割を選びたい。悪いことではない。
ロウさんが人々の前へ立った。
「九割の案では、夜滓と代償を一人へ集中する。成功しても、その一人の味覚、体温、影がさらに失われる。命も保証できない」
私の症状を町へ説明される。
少し居心地が悪い。
「分灯式は百人が危険を分ける。参加しない自由もある。危険を聞いた上で、町が決めろ」
町長は鐘守庁の公定訳を見た。
「庁の資料には、一人の器へ集めよと」
「原文が改変されていた」
ロウさんは隠さなかった。
広場が騒がしくなる。誰が変えた。修繕隊も知っていたのか。今まで誰を器にした。
問いが飛ぶ。
ロウさんは一つずつ答えた。十四年前の調査班へいたこと。原文の拓本に警告部分がなかったこと。自分の署名が資料へ使われたこと。改変を見抜けなかったこと。
「言い訳はしない。今ある原文と公定訳を公開する」
責任という言葉は使わない。代わりに、拓本を広場の壁へ貼った。
セラさんが原文、公定訳、発行記録を別々に並べる。耳で騒ぎを拾いにくい彼女へ、町の人たちは一人ずつ正面に立って質問した。
昨日より、話す位置がよい。
「六割で失敗したら、あんたらが治すのか」
染物屋の主人が聞く。
「治療所と修繕隊で対応する。ただし全員を元へ戻せるとは約束できない」
ティアさんが答える。
「九割の娘は元へ戻るのか」
「戻せません」
迷いがない。
「味覚はすでに低下。体温も回復していません。次の集中で何を失うか予測できません」
私が説明するより、ずいぶん悪く聞こえる。事実は言い方を選ばない。
「でも九割だろ」
別の人が言った。
「一人が引き受けたいと言ってるなら、そのほうが」
空気が私へ集まる。
役に立てる場面だ。
「私は――」
言いかけると、ジュノが前へ出た。
「一人が我慢する案です」
伝令外套の胸へ、臨時雇いの札をつけている。
「それを仕事へ混ぜるなって、この人が言いました」
私を指した。
皆の目が戻ってくる。
「私は訓練が」
「味が分からない人の訓練?」
昨日の蜂蜜パンを覚えている。
「それとこれは別」
「失ったのは同じ人です」
十四歳は遠慮がない。広場でも同じだ。
ノルも工具箱を抱えて前へ出た。
「夢泥のときも、一人へ集めました。三日たっても戻ってません」
セラさんは灰色の帳面を開いた。
「本人説明――九割以上。観察事実――前回の集中後、幻聴、味覚低下、平常体温低下を継続」
「今それを読む?」
「比較に必要です」
冗談だけでなく、私の提案まで二冊に挟まれた。
レオンは何も言わない。広場の出口へ立ち、私が鐘へ近づく道だけ塞いでいる。
それぞれ止め方が違う。ずいぶん準備がよい。
「六割を選ぶ人を集める」
町長が決めた。
「百人に満たなければ、今夜は町を捨てる。高地へ全員避難だ」
町を守るために一人を使う、と言わなかった。
役所の書記が参加台帳を出す。
一人目は、灰麦倉の女性だった。
「明日、残った粉を数える」
二人目は、蜂蜜壺の主人。
「倒れた巣箱を起こす」
三人目は、足を捻った若い市警。
「治ったら西二区を歩く」
「治ってから?」
ティアさんが確認する。
「明日は治療所まで歩く。西二区はその次」
予定が現実的になった。
人は少しずつ列へ入った。
明日、泥のついた皿を洗う。屋根瓦を拾う。亡くなった人へ花を持っていく。子どもの髪を切る。壊れた戸を板で塞ぐ。
立派な計画は少ない。
でも、どれも本人の明日だった。
三十人。
五十人。
七十二人。
そこで列が止まった。
広場には百人以上いる。危険を聞けば、参加しない人がいるのは当然だ。子どもを抱く母親。影熱から治ったばかりの老人。明日の予定を夜滓へ触れさせたくない人。
誰も責めてはいけない。
「あと二十八」
町長が言う。
沈黙が長くなる。
私なら一人で埋められる。
そう考えたところで、レオンの位置を確認した。出口ではなく、もう私の隣にいる。
「何も言ってないよ」
「顔で言った」
「顔の記録まで始めたら、セラさんが忙しい」
「もう書いています」
セラさんが板を見せた。
『鐘を見た後、護衛の位置を確認』
書くのが速い。
七十三人目に、エマさんが立った。
「明日、外套を十二着返す」
ジュノの母親だ。
七十四人目、リク君。
「姉ちゃんと朝ご飯を食べる」
「子どもは参加させられない」
町長が止める。
「原文に年齢制限はありません」
セラさんが言う。
「でも危険を理解できるか」
「怖い夢を見るかもしれないんでしょう?」
リク君は姉の手を握った。
「姉ちゃん一人より、半分のほうがいい」
ジュノがしゃがみ、弟と目を合わせる。
「半分じゃない。百人で分けるから、もっと小さい」
「じゃあ平気?」
「平気とは約束できない」
ティアさんの言葉を借りたような答えだった。
「でも一緒に帰る」
リク君は台帳へ小さな丸を書いた。
それを見て、親子で参加する人が増えた。夫婦。兄弟。隣人。誰か一人が出るのではなく、同じ家から二人が出る。
ティアさんは列を止め、参加者へ三枚の札を配った。
白は、危険を理解し参加する。
青は、説明をもう一度聞く。
赤は、参加を取りやめる。
「口で断りにくい人は、赤札を箱へ入れてください。名前は読みません」
広場の隅に布張りの箱を置く。参加台帳へ署名した人も、儀式が始まる直前まで選び直せる。
「百人から減ったら?」
町役人が聞いた。
「減った人数で実行はしません。中止して避難します」
ロウさんが答えた。
「一人くらい、分からないように残しても」
「一人を数へ変えるな」
短い声で切った。
その言い方を、レオンが聞いていた。二人とも私を止めるときに同じ話をするようになった。人数の数え方へ、私だけ別の計算を使っていると思われているらしい。
青札を持った人は十一人いた。
「予定を忘れたら、二度と思い出せないのか」
靴屋の女性が聞く。
「一時的な欠落なら、周囲の記録や本人の習慣から戻る場合があります。永久欠損の可能性もあります」
ティアさんは可能性を薄めない。
「誰かが忘れたぶんを、九割の娘へ移せる?」
「しません」
「できるかを聞いた」
「できても、しません」
ティアさんは私を見ずに答えた。
次の人は、悪夢が子どもへうつるか聞いた。夜喰いが生まれた場合の避難場所を聞く人、参加しなかった隣人まで鐘の光を使えるか聞く人もいた。
「光は全員へ届きます。参加しない人を区別しません」
セラさんが筆談板を高く上げる。
「では、参加した者だけ損では?」
問いが飛ぶ。
「はい。危険だけ見れば」
セラさんは頷いた。
「その不公平を承知で、町を守りたい者だけ署名してください。善人である証明には使いません。辞退者名も残しません」
赤札が箱へ八枚入った。
誰も名前を見なかった。少なくとも私は見ないようにした。
人数は八十二へ戻る。
「私、やめます」
乳児を抱いた母親が列から出た。
「この子が今夜悪夢で泣いたとき、私まで動けなかったら困る」
「よい計算です」
私は言った。
申し訳なさそうにする必要はない。守るものがある人ほど、使える分を残すのは正しい。
代わりに、その母親の姉が入った。
「明日、妹の子を一刻預かる」
予定が一つ、家族の中で受け渡される。
排水門の作業員は三人で参加した。
「明日、歯車を外して泥を取る」
「俺は軸を洗う」
「組み直すのは俺だ」
「同じ仕事を三つに分けた?」
ノルが尋ねる。
「一人欠けても二人で途中までやれる」
作業員の親方が答えた。
私が一人で埋めるより、ずっとよい仕組みだ。
胸が冷えた。
温石はまだ温かい。なら、身体ではない。そう気づきかけて、参加台帳の人数を数え直した。
八十九。
仕事へ戻れば、名前のない冷えは数へ変わる。
九十人。
九十八人。
九十九人。
「あと一人」
書記が数えた。
誰も動かない。
私は手を上げた。
レオンが手首をつかむ前に言う。
「一人分の予定を出すだけ。影請けは使わない」
「患者です」
ティアさん。
「年齢制限も健康制限もないんでしょう?」
「あなたの場合、分散せず集まる可能性があります」
「なら九十九人分を百へする補助になります」
また都合のいい計算をした。でも今度は、一人で全部を持つ案ではない。
「参加したいです」
役に立ちたい、ではなく言い直す。
自分でも違いはよく分からない。
ロウさんが私の影へ影除けの輪を置いた。夜滓が集中すれば、輪が割れる。そのときは即中止。
「明日の予定を」
書記が筆を待つ。
明日。
第二鐘が動けば、浸水した家へ朝用のパンを配る。潜水工具をノルと手入れする。碑文の写しを確認する。
どれも仕事だ。
「朝、低地へパンを配ります」
書記が書く。
「それは復旧伝令の仕事です」
ジュノが言った。
「一緒に行くから、私の予定でもあるよ」
「自分の予定を言うんでしょう」
「自分で行く」
「頼まれなくても?」
問いが細いところへ入る。
「頼まれるよ。人手が足りないから」
「足りてたら?」
答えが出ない。
書記の筆が止まっている。
「では、明日の朝食を食べる」
レオンが横から言った。
「人の予定を決めないで」
「嫌か」
「嫌ではないけど」
「なら書け」
朝食は仕事ではない。食べなくても、町の復旧は遅れない。
「灰麦パンを一個食べる」
書記が復唱した。
「一個?」
確認される。
「一個」
答えると、レオンの手が離れた。
百人そろった。
夕暮れ、第二鐘の周りへ百本の細い灯芯を置いた。各自の予定を書いた紙を巻き、一端を鐘の青い火へつなぐ。
分灯式の歌を、皆で読む。
ひとりの影に朝を盛るな。
百の明日を百に返せ。
器を作れば、朝は器とともに欠ける。
ゆえに、器を作るな。
最初の灯芯へ火が入る。
二本。十本。五十本。
青い光が百へ分かれ、人々の影へ細く触れた。
私の胸の黒線が熱くなる。
全部こちらへ来る。
そう身構えた。
来たのは、針の先ほどだった。
隣でレオンの影にも青い点。ジュノ、リク君、ティアさん、ロウさん、セラさん、ノル。広場の百人へ、同じ大きさの光が一つずつ落ちる。
誰かが息を呑む。
次に、鐘が鳴った。
水へ沈んでいた音ではない。広場から町の端まで届き、雨雲の底へ青い輪を広げる。
第二鐘が朝を取り戻した。
成功だ。
町の人たちが、自分の影を確かめる。泣く人より、予定の紙を読み直す人が多かった。
「明日、やらないとね」
灰麦倉の女性が笑う。
誰も倒れていない。
私も倒れていない。
影除けの輪も割れなかった。
青札を持っていた靴屋の女性は、自分の明日の予定を口にできた。リク君は姉の名前と朝食の場所を覚えている。赤札を入れた人たちも、同じ鐘の光の下に立っている。
成功率六割は、百人のうち四十人を捨てる意味ではなかった。百人全員が、失敗するかもしれない一つを持ち、その一つが成功した。
私が九割を持つより、結果はよかった。
そこまで計算できる。
なのに、自分の担当欄が消えたような感じだけ、計算の外へ残った。
「できましたね」
ティアさんへ言う。
「はい」
彼女は私ではなく、百人の脈を順に確認し始める。
ノルは鐘の振幅を測る。セラさんは一人ずつ症状を記録。ロウさんは次の鐘へ使う手順を作り、レオンはリク君の悪夢反応を見ている。
皆に仕事がある。
私が夜滓を抱える必要はない。
よかった。
本当に、よいことだ。
胸の奥が冷えた。
「温石、替えます」
冷えの理由があって助かった。
誰にも頼まれなかったので、自分で治療所へ戻る。明日の朝、灰麦パンを一個食べる予定がある。それまでは患者でいればいい。
治療所の入口で、伝令馬が止まった。
王都の黒い封筒。
ジュノが受け取り、ロウさんへ運ぶ。封蝋は鐘守庁長官印だった。
命令は短い。
『雨樋町における未認可分灯実験を、即時停止せよ。関係記録を封印し、候補者十九を王都へ移送せよ』
「候補者十九って、誰?」
リク君が姉へ聞いた。
ジュノは私の欠けた名札を見た。それでも答えなかった。
「ミナ・アルノです」
私は自分で訂正した。
「パン屋で、今は修繕隊の臨時協力員。番号だけだと配達先を間違えますから」
セラさんは命令書の余白へ、私の訂正を刻んだ。次に分灯式の拓本と百人分の参加記録を別の防水筒へ入れ、封印対象の箱から離す。
「命令違反では?」
町役人が声を落とす。
「原本を封印します。写しを消せとは書かれていません」
セラさんは黒い封筒を正面から読み直した。
紙を一枚ずつ増やして戦う人は、命令の空白まで記録に使う。
成功した鐘の音が、もう一度鳴った。
今度は誰も笑わなかった。