翌朝、灰麦パンを一個食べた。
予定というのは、口にすると逃げ道が減る。
レオンは私が最後の一口を飲み込むまで向かいに座っていたし、ジュノは数を確認し、セラさんは百人分の予定の履行欄へ丸をつけた。
「朝食一個で、立会人が三人」
感想を言ったら、声が掠れた。
低い。窯の煙を吸った朝よりひどい。
「喉、痛いの?」
ジュノが聞く。
「昨日、百人へ説明したから。喋りすぎ」
もう一度、声が紙やすりを通る。
「いつからですか」
ティアさんが食堂の端から来た。
薬師は小さな異変を聞き逃さない。セラさんより耳がよいという意味ではなく、異変が起きる位置へいつもいる。
「今朝。起きたときは普通でした」
「最初に喋ったのは」
「パンを一個ください」
「そのときは」
「少し掠れてたかも」
正確に答える。ティアさんの指が喉へ触れた。冷たい指なのに、皮膚の下だけ熱い。
「飲み込む痛み」
「なし」
「息苦しさ」
「なし」
「発熱」
「測ってません」
温度計は三十五度二分。私としては温かいほうだ。
「口を開けて」
舌を押さえ、喉を見る。次に銀色の小鏡を入れられた。
「声帯の右側へ黒い結晶があります」
「食べ物?」
「夜晶です」
夜滓が体内で固まったもの。胸の黒線と同じ材料が、声を作る場所へできている。
「取れます?」
「細かすぎます。溶解薬で薄めます。今日から発声禁止」
「いつまで」
聞いた時点で禁止を一回破った。
ティアさんの目が細くなる。
「最低二日。返事は頷くか筆談」
二日も喋らない。
パン屋なら注文を聞き、焼き上がりを知らせ、値段を言う。修繕隊では避難先を案内し、作業を分ける。声がないと困る場面は多い。
でもセラさんは筆談で仕事をしている。道具があれば代われる。
記録板を借り、『了解』と書いた。
「素直ですね」
ティアさんは疑っている声だった。
『喋らず説明する方法を考えました』
「それを素直と言いません」
何をしても評価が厳しい。
雨樋町を出る前に、鐘守庁の移送命令へ返答した。
ロウさんは黒い封筒の裏へ、候補者十九という登録は現行台帳に存在しないこと、ミナ・アルノは拘束対象でなく臨時協力員であること、修繕隊は第三鐘の緊急点検へ向かうことを書いた。
「命令を断るんですか」
町役人が不安そうに聞く。
「照会する。移送の法的根拠、身柄拘束の必要性、改変記録の説明。返答が来るまで通常任務を続ける」
命令へ正面から逆らわず、質問を四つ置いて道を塞ぐ。セラさんと似た戦い方だ。
私は板へ書いた。
『王都へ行って話したほうが早いのでは?』
ロウさんは最後まで読み、首を横へ振る。
「お前一人で話す形を作らない」
『修繕隊で行けば一人ではありません』
「連れていくと決めるのは庁ではなく、本人と隊だ」
本人は行ってもよいと思っている。そう書こうとした。
灰色の帳面を持つセラさんが目に入る。
役に立つから行く。話せば皆の仕事が減る。そう書けば、また観察事実と並べられるだろう。
板を消した。
「今のも記録しますか」
声を出さず、口だけで聞く。
セラさんは正面から見ていた。
『書こうとして消した事実だけ。内容は見えませんでした』
自分の板へ書いて見せる。
嘘をつかない。
少し安心した。
町の出口で、ジュノが馬車を待っていた。
「復旧配達費の日当、受け取りました」
革袋から銀貨を一枚だけ出す。
「働いた分」
私が頷く。
「残りは、ほかの伝令三人へ。母さんは縫い物の給金。リクは学校が再開したら行かせる」
家族の仕事を分けたらしい。
板へ『よい配分』と書く。
「褒めても、お金は返しません」
『返してほしくないです』
「なら、よかった」
ジュノはそこで初めて少し笑った。
次に、私の喉の赤い医療布を見る。発声禁止の印だ。
「味見係の次は、喋る係も作るんですか」
私は板へ『必要なら』と書いた。
「誰かに頼めば済む、って顔」
『仕事は済みます』
「ミナさんは?」
また主語が私へ戻る。
声が出なくても、食べられる。歩ける。仕事は筆談でできる。困るのは相手が文字を読めないときくらいだ。
『字を大きく書きます』
「答えになってない」
十四歳にティアさんと同じことを言われた。
出発の鐘が鳴る。
ジュノは私の板を取った。
『次に会ったら、誰の分の大人か答える』
勝手に予定を書き、返してくる。
消そうとすると、レオンが板を取り上げた。
「予定は残せ」
仕方なく、裏面へひっくり返した。
硝子港までは馬車で二日。
雨樋町を離れると、土地が低くなり、道へ白い砂が混ざる。午後には潮の匂いがした。
私は声を使わず、代わりに板を使った。
『次の分岐、左。右は荷馬車が沈みます』
『ノル、後輪の留め具が鳴ってる』
『昼食の干し肉、レオンの袋へ二枚多く入ってました』
最後の一文で、レオンが自分の袋をこちらへ渡した。
「交換する」
私の袋にも干し肉は二枚。量は同じだ。
首を横へ振る。
「お前の分が少ないと思ったんだろ」
違う。親方が配分を間違えたと知らせただけだ。
板へ書く。
『私は二枚で足ります』
「俺も二枚で足りる」
『身体の大きさが違う』
「なら、お前が三枚食え」
計算がおかしい。
セラさんが向かいの席で、灰色の帳面を開く。
何を書くのか分かる。本人説明――二枚で足りる。観察――他人の袋の多さを先に指摘。
私は自分の板へ『干し肉会議、終了』と書き、毛布を頭までかぶった。
声が出ないと、話を終わらせるのは簡単だ。
一日目の宿で、喉の夜晶は小さくならなかった。
溶解薬は苦いらしい。味は分からない。飲むたびティアさんが蜂蜜を一匙入れるけれど、粘りだけが舌へ残る。
「本当に苦くない?」
ノルが聞いた。
頷く。
「じゃあ僕も飲めそう」
ティアさんが薬瓶を閉じた。
「健康な人は飲みません」
ノルは残念そうではない。私の顔を見て、どのくらい苦いふりをすればよいか考えていたのかもしれない。
板へ『おいしいです』と書く。
ティアさんが無言で砂糖壺と苦薬の瓶を並べた。
冗談が診察に変わりそうなので、すぐ消した。
宿の主人は文字が読めなかった。
夕食を頼もうとして板を見せると、申し訳なさそうに首を横へ振る。私は指を六本立て、皿を指し、口へ運ぶ仕草をした。
「六人分ですか、それとも六皿追加ですか」
主人が困る。
指で人を一人ずつ数える。ロウさん、ティアさん、セラさん、ノル、レオン、私。次に鍋を指す。
「煮込みを六つ?」
頷く。
「パンは?」
親指と人差し指で丸を作る。丸パンのつもりだった。
「銅貨?」
通じない。
セラさんが主人の正面へ立った。
「煮込み六皿、丸パン六個。部屋へ湯を一桶お願いします」
ゆっくり、口の形を確かめながら話す。主人はすぐ注文票へ印をつけた。
私が板へ文字を書けるからといって、相手が読めるとは限らない。セラさんが筆談を使うのも、声の完全な代わりではない。相手の位置を見て、音、口元、板を選んでいる。
『簡単そうに見えてました』
本人へ書く。
『簡単な方法を選んでいます』
『喋れない人へ、喋る係を頼むのは変?』
『変ではありません。私も聞き取りを頼みます』
セラさんは宿帳の説明をレオンへ聞き、数字だけを確認する。できないところを隠さない。頼んだあと、借りの顔もしない。
『上手ですね』
『練習しました』
短い答えだった。
私は夕食の皿を配った。喋らなくても、誰が大盛りかは分かる。レオンとロウさんへ深い皿。ノルは豆を多め。ティアさんは薬草を避けず、セラさんは左側から手渡すと見える。
自分の皿だけ、最後に残る。
今日は六人で六皿だと最初から分かっていた。
煮込みを口へ入れる。味はない。温度と豆の形だけ。
「どう?」
ノルが聞く。
親指を立てる。
「おいしい?」
頷く。
「味、戻ったんですか」
首を横へ振る。
「じゃあ、おいしくない?」
今度はどう答えるか迷う。
作った人の仕事はよい。身体にも必要。皆で同じ鍋を食べるのも悪くない。舌が受け取らないだけだ。
板へ三行書く。
『豆は柔らかい。温かい。皆が食べているから、おいしい扱い』
「扱い?」
ノルは眉を寄せた。
ティアさんが板を読み、私の皿を見た。
「食べ物を分類する話ではありません」
声がないと、都合の悪い説明を冗談へ変えにくい。文字は書いた形のまま残る。
私は『全部食べます』と足し、皿へ戻った。
夜、声を出す夢を見た。
店で焼き上がりを知らせる。親方が返事をする。起きると喉は黙ったままで、夢の声だけ耳へ残っていた。
悲しい、とは違う。使っていた道具を別の棚へ置かれた感じだ。棚の場所さえ分かれば、必要なとき取り戻せる。
そう考えて、朝まで板へ硝子港の配達経路を書いた。
二日目、港の手前で硝子の林を通った。
白い砂へ細い硝子管が何百本も立ち、海風が通るたび音を鳴らす。高い音、低い音。暁鐘とは違う、軽い朝の音だ。
「硝子港では、声が商品になります」
セラさんが板へ書いた。
港の職人は、歌手や語り手の声を硝子管へ写し、遠くへ送る。劇場の歌を家で聞くための音筒、船への警報、迷子を呼ぶ親の声。便利な技術だ。
『声を貸す仕事?』
「正規には、一度写して返します。声は失われません」
ロウさんが前の馬車から振り返る。
「裏市場では、声そのものを夜滓ごと抜く。夜晶燃料になる」
『売る人がいる?』
「借金、病気、契約。理由はそれぞれだ」
声を売る。
自分に置き換えてみる。喋れなくなる代わりに銀貨をもらう。筆談で仕事は続けられる。今の私なら、値段によっては悪くない取引に見える。
ティアさんが板をのぞき込んだ。
まだ何も書いていない。
「考えたことを言わなくていいです。顔で分かりました」
レオンと同じことを言う。
そんなに読みやすい顔だろうか。喋れないぶん、顔が働きすぎているらしい。
硝子港へ入る。
町の屋根は透明な板で葺かれ、夕日を赤く反射していた。運河には細長い船。岸壁の倉庫から、箱へ詰めた硝子音筒が運び出される。
第三鐘は港の中央塔にある。
光量は規定内。でも鐘の音へ、人の咳のような雑音が混じっていた。
「声滓だ」
ロウさんが言う。
売られた声の残りが、第三鐘へ燃料として入っている。
第三鐘の隣には、声の登録所があった。
正規に声を写す人は、ここで健康診断を受け、使用回数と報酬を書いた契約を結ぶ。入口の壁に、喉の図と赤い警告が貼られている。
『一日に二回を超える採声は禁止』
『夜晶反応のある者から採ってはならない』
『声の永久譲渡契約は無効』
私の喉は二つ目に当たる。
受付でティアさんが患者照会票を出した。声を失った人の数は、今年だけで三十七人。正規登録所が扱った事故は二人。
「残り三十五人は?」
ロウさんが聞く。
「原因不明です」
受付官は名簿を閉じようとした。
セラさんが手で押さえる。
「三十五人全員が、第三鐘の夜晶燃料納入日から三日以内に受診しています」
日付を並べた紙を見せる。
「偶然ではありません」
「うちの記録では、採声歴なしです」
「本人の申告は」
「声が出ない者へ聞けと?」
受付官が笑った。
セラさんの顔は変わらない。
「筆談、家族の証言、手話があります」
受付官は耳の銀具へ目をやり、笑うのをやめた。
「三十五人の記録を閲覧します」
「鐘守庁の許可が要る」
「第三鐘の緊急点検権限があります」
ロウさんが隊長印を置く。
受付官は名簿を渡したが、三十五人の住所欄はすべて空白だった。代わりに黒い三角の印がある。
「この印は?」
「紹介業者」
「名は」
「知りません」
答えが早い。セラさんの針が動く。
「黒硝子の店」
待合椅子にいた老人が、小声で言った。
「音のない店だ。声を売った連中は、皆あそこへ行った」
受付官が老人を睨む。
「根拠のない噂です」
老人は杖を床へ打った。
「息子の声を買い戻しに行った。銀貨百枚と言われた。噂なら、あの店から息子を出してみろ」
喉の右側に、古い切り傷がある。息子だけでなく、この人も採られたのかもしれない。
セラさんは老人の言葉を灰色の帳面へ、受付記録の日付を青い帳面へ書いた。
二冊の頁番号をつなぐ。
黒硝子の店が、調査先になった。
正規の鐘守庁支給品なら混ざらない。裏市場と鐘の管理者がつながっている。
「調査は俺とセラ。ティアは患者記録を当たれ。レオンとノルは第三鐘の燃料庫」
ロウさんが役割を分ける。
私の名前がない。
板を上げる。
『私は?』
「宿で待機」
『声売りの客を装えます』
全員がこちらを見た。
『喉に夜晶がある。向こうから接触してくるかも』
「だから近づけない」
ティアさん。
『交渉は板でできます』
「発声禁止は、声を売ってよいという意味ではありません」
分かっている。売るつもりではない。入口を見つけるだけだ。
ロウさんは少し考え、レオンへ言った。
「宿まで護衛。外出させるな」
「了解」
役割が宿の荷物へ近づいた。
胸の奥が冷える。
温石は入っていない。海風のせいだ。
宿へ向かう途中、硝子市場を通った。
店先で、歌の音筒が鳴っている。女の高い声。船乗りの合唱。子どもの数え歌。
その間に、音のない店が一軒あった。
看板はない。窓へ黒い硝子片が吊られている。
店の前に、一人の男が立っていた。
三十歳くらい。長い外套。喉へ銀色の縫い跡があり、首から小さな黒板を下げている。
私を見る。
正確には、私の足元を見る。
男の顔から血の気が引いた。
一歩、後ずさる。
自分の黒板へ白墨を走らせ、こちらへ向けた。
端には、消えかけた劇場印と名前が残っている。
オレン・カイ。登録所の事故名簿で見た、三年前まで硝子港一座の歌手だった人だ。
本人の声だけが、今は名札に残っていない。
『その影を、どこで買った』
私は足元を見る。
夕日の中で、影は薄い。
身体より半歩遅れ、黒い硝子の店へ手を伸ばしていた。