影は買っていない。
そう板へ書くと、オレンさんは私の足元をもう一度見た。
『なら、売ったのか』
今度の問いは短い。
『売ってません。勝手に薄くなりました』
書いてから、説明として弱いと思う。影は普通、勝手に薄くならない。
『影請けです』
言葉を足した。
オレンさんの白墨が止まる。
喉の縫い跡へ手を当て、一歩近づいた。私の襟元の黒線、赤青い医療布、筆談板を順に見る。
『声も取られた?』
『喋りすぎただけです』
板を横からセラさんに取られた。
『本人説明――喋りすぎ。診断――声帯へ夜晶』
二行に直して、オレンさんへ見せる。
灰色と青の帳面が、一枚へまとまっている。
オレンさんは私ではなくセラさんを見た。次に白墨で書く。
『店の奥に七人いる。今夜、声と一緒に第三鐘へ入れられる』
黒硝子の扉を指す。
『助けたい。だが、開ければ見張りへ音が届く』
声のない店なのに、音で守っているらしい。
レオンが通りの両端を見る。市場は夕方の片づけで人が多い。ここで扉を破れば、店の者だけでなく客も巻き込む。
「隊長を呼ぶ」
私の腕を取り、宿へ向けようとした。
オレンさんが道を塞ぐ。
『夜の鐘まで二刻。移送は一刻後』
あと二時間ほど。
板へ書く。
『裏口は?』
『運河。荷揚げ戸。鍵は声紋』
声紋は、登録した声を聞かせると開く錠だ。声を失ったオレンさんには開けられない。
『登録した声の音筒は?』
『店内』
鶏小屋の鍵を鶏へ持たせるより意地が悪い。
レオンが伝令笛を一度鳴らした。市場の音へ紛れる低い合図。ロウさんたちへ緊急集合を知らせる。
待つ間、オレンさんは黒板へ店の図を描いた。
表の売り場。地下の採声室。運河側の荷揚げ戸。七人は地下。声を抜く装置は第三鐘と細い硝子管でつながっている。
『管を切れば?』
『逆流する。中の人へ声滓が戻る』
『戻ったら声も戻る?』
オレンさんは首を横へ振った。
『声ではなく、夜滓になって戻る』
声を商品にしたあと、持ち主へ返せない形へ変える。ずいぶん使い捨ての商売だ。
『あなたは、どうして店を知ってる?』
私が聞くと、オレンさんは喉の縫い跡へ触れた。
黒板を一度消し、細かい字で書く。
『三年前、妹の手術代が必要だった。一曲ぶんの高音を三か月貸す契約だった』
次の行。
『採声台で、契約書を替えられた。読んだときには薬で手が動かなかった。声を全部取られた』
『妹は?』
『助かった』
そこだけ、字が大きい。
結果はよかった、と言える話だ。妹が生きた。オレンさんは声を失った。でも彼は今、黒硝子の前で自分の声を買い戻そうとしている。
『後悔してる?』
問いを書くと、オレンさんは長く止まった。
『妹を助けたことは、していない』
一行空ける。
『ほかの方法を探す時間を奪われたこと。声は要らないと、自分で先に決めたこと。誰にも相談しなかったことは、後悔している』
白墨の粉が指へついている。
『七人目は、当時の共演者。リサ。俺の契約を紹介した店を三年調べ、捕まった』
だから手を握っていた。
『助けたあと、声が戻らなくても?』
『生きて、自分で決め直せる』
声がない人の板は、短い。でも都合の悪いところを消さない。
私なら、妹が助かったなら差し引き黒字、と書いたかもしれない。
その考えを板へは出さなかった。
セラさんはオレンさんの説明を、本人へ見える位置で一字ずつ灰色の帳面へ写した。最後に閲覧範囲を尋ねる。オレンさんは『患者救出と告発へ使用可。妹の名は非公開』と加えた。
言葉を本人へ返す手続きだ。
ロウさん、ティアさん、ノルが裏路地から来た。
セラさんが図と残り時間を見せる。
「市警へ令状を求める」
ロウさん。
「鐘守庁の燃料汚染として緊急停止権を使えます」
セラさんが登録所の名簿を出す。
「証言は一人、店内患者は未確認。正面から止めれば、証拠と患者を先に運ばれる」
「運河から入る」
ロウさんはすぐ案を変えた。
声紋錠はノルが担当。正規の音筒を分解し、共鳴板へ同じ波を作る。オレンさんが自分の昔の音程を指で示す。声がなくても、劇場印の楽譜は残っていた。
「音を三つください」
ノルが硝子片を並べる。
オレンさんは机を指で叩いた。高、低、高。長さは二、二、四。
「歌の最初?」
頷く。
ノルは薄い板を削り、硝子管へ息を吹き込む。最初は高すぎた。二度目は短い。三度目に、オレンさんの手が止まった。
自分の声ではない。でも、自分が何千回も歌った最初の三音だ。
『それ』
白墨が強く折れた。
「うまい」
声を出せないので、ノルの肩を二度叩く。
ノルは私の手を見て、少しだけ口元を上げた。
運河へ小舟を出す。
ロウさん、ティアさん、レオン、セラさん、ノル、オレンさん。私も乗ろうとした。
「宿へ戻れ」
ロウさんが止める。
『影請けが必要になります』
「使わせない」
『患者へ夜滓が逆流したら?』
「ティアが薄める」
ティアさんが治療鞄の中を見せた。空の鉛瓶七本、溶解薬、吸着布。
「一人ずつ夜晶を溶かし、声滓を瓶へ移します。七人で最短二時間」
『移送まで一時間』
「店の移送装置を止めれば、時間は増えます」
正しい手順だ。
私は岸へ残された。
小舟が黒い荷揚げ戸へ近づく。ノルの硝子管が三音を鳴らす。鍵の青い輪が一度光り、戸が開いた。
全員が中へ入る。
私には仕事がない。
通りの見張り、と決める。誰かが表から入れば笛で知らせる。宿へ戻るより役に立つ。
レオンは振り返り、岸にいる私を指した。次に地面。そこを動くな、という合図。
親指を立てた。
小舟が戸の中へ消える。
十分。
二十分。
黒硝子の店は静かなまま。
市場の店じまいが進み、人が減る。音筒の歌も一つずつ止まる。声のない店だけ、最初から同じ顔をしている。
三十分で、第三鐘の塔から黒い馬車が来た。
荷台は鉛張り。御者二人、護衛四人。店の前へ止まる。
移送が早い。
笛を二回鳴らす。予定外の接近。
護衛がこちらを見る。
笛を外套へ隠し、配達板を持つふりをした。
「何者だ」
板へ『声が出ません』と書く。
「それを聞いてない」
『宿を探しています』
「通りを間違えてる。消えろ」
素直に角まで歩く。
地面を動くなという合図は破る。でも追い払われたので仕方ない。
角を曲がり、運河側へ走った。
走行禁止も破る。あとで一枚、医療布が増えるだろう。
荷揚げ戸は開いたままだった。
中から黒い煙が流れている。
小舟へ飛び乗り、戸をくぐる。
店の地下は、硝子管の森だった。
天井から細い管が何百本も垂れ、囁き、歌、叫びの欠片が流れている。耳へ入る前に次の声へ重なる。意味のない音なのに、喉の夜晶が一つずつ反応した。
奥の採声台へ、七人が横たわっている。
全員、首へ硝子輪。口から黒い管。
ティアさんが一人目の輪を外し、鉛瓶へ声滓を移していた。ロウさんとレオンは移送装置の歯車を止める。ノルは主弁を分解。セラさんは患者の名と脈を記録している。
オレンさんは七人目の手を握っていた。
若い女性だ。劇場の衣装を着ている。喉の周りへ黒線が広がり、呼吸が浅い。
「なぜ来た」
レオンが私を見つけた。
板へ書く暇がない。表を指し、指を六本立て、武器の仕草。
「護衛六。移送が来たのか」
頷く。
ロウさんが指示を変える。
「装置破壊を先行。患者は運河へ。ティア、移せる者から」
「一人目もまだです」
ティアさんの鉛瓶には、三分の一しか入っていない。
「輪を外せば逆流します。七人を同時には運べません」
表の扉が開く音。
護衛が入った。
残り時間はない。
七本の黒い管は、天井で一つにつながっている。
一つなら、まとめて取れる。
ティアさんの方法は安全だ。患者を一人ずつ守る。でも二時間かかる。追手は階段の上。
私なら十秒。
板へ『全管を私へ』と書く。
「駄目です」
ティアさんは一度見ただけで拒否した。
『患者七人と私一人。移動後に薄めて』
「その比較をしないで」
『時間がない』
「だから装置を守ります。ロウ隊長が時間を作る」
階段で剣が当たる音。レオンが上へ向かおうとする。
装置の主弁が動いた。
店の者が上階から遠隔で開いたらしい。
七人の身体が同時に反る。
声滓が第三鐘へ吸われ始めた。
若い女性の口から、声ではなく黒い泡が出る。オレンさんが首の輪を引く。でも鍵が閉じている。
ノルが主弁へ工具を入れる。
「固い。止めるまで一分!」
一分で、七人の声も命も燃料になる。
ティアさんは二本目の鉛瓶を開けた。手順を変えない。変えれば危ないからだ。
でも一人目しか間に合わない。
私は天井の集合管へ手を伸ばした。
レオンが手首をつかむ。
「するな」
右腕の痣と同じ位置だった。今度は力を入れず、触れるだけ。
「俺たちが止める」
信じている。
ノルは機械を直せる。ロウさんは追手を止める。ティアさんは患者を治す。レオンは私を守る。
皆、できる。
一分だけが足りない。
私は筆談板を落とした。
両手でレオンの手を外す。
集合管をつかんだ。
影請けを開く。
音が消えた。
管の中の歌も、叫びも、呼び声も、一度に私へ流れ込む。
喉を通らない。指から腕、肩、胸へ、黒い硝子の粒が走る。
声を出していないのに、喉が裂けるように痛い。
七人の黒線が薄くなる。
私の黒線は鎖骨を越え、右肩まで広がった。
十秒。
管が透明になる。
ノルが主弁を外した。
ティアさんが七人の輪を切る。
「運んで!」
ロウさんたちが患者を小舟へ移す。
成功だ。
私は集合管から手を離した。
足元の影が、七人ぶんの口を開けた。
歌が聞こえる。
音は外へ出ず、影の中で重なっている。
オレンさんが私の影を見て、顔を歪めた。自分の声の欠片があるのかもしれない。
『返す』
板は床。声は出せない。
口だけ動かした。
オレンさんは読んだ。でも首を横へ振った。
何を否定したのか分からない。
追手が地下へ下りてきた。
レオンとロウさんが通路を塞ぐ。剣と結界杖。セラさんは最後の患者の担架を押し、ノルは証拠の夜晶瓶を箱へ放り込む。
私も板を拾おうとした。
指が曲がらない。
ティアさんが私の襟をつかみ、小舟へ押した。
「あなたは患者です」
怒っている。
手順を勝手に変えたから当然だ。
小舟が運河へ出る。
黒い外套の男が荷揚げ戸へ現れた。受付名簿の黒三角と同じ印を胸につけている。
「その患者は契約済みだ。盗めば鐘守庁への反逆になる」
セラさんが小舟の最後尾で振り返る。
「永久譲渡契約は法令上無効です」
「本人が署名した」
「薬物使用下の差替え証言があります」
「声のない男の落書きだ」
男がオレンさんを指す。
セラさんは怒鳴らない。防水筒から契約控えを出した。店内の金庫から回収したらしい。貸与期間の欄へ別の紙が貼られ、下に三か月という文字が透けている。
「紙も証言します」
男の顔が変わった。
護衛へ手を上げる。運河沿いの二人が弩を構えた。
レオンが別の小舟から盾を上げる。一本目の矢が刺さる。二本目はロウさんの青い結界へ当たり、水へ落ちた。
「橋まで進め!」
櫂を持つ市警が小舟を押す。
患者の担架が揺れる。私は動く指で縁をつかみ、リサさんの身体が落ちないよう支えた。黒線のある右肩へ重さがかかる。
痛い。
板へ書く手がないので、誰にも報告できない。声があっても、今は言わなかったかもしれない。
オレンさんが私の手を外し、自分の腕を担架の下へ入れた。首を横へ振る。
代われ、という意味は分かる。
任せる。
私が手を離しても、担架は落ちなかった。
橋の上から港の市警が縄を下ろす。小舟を引き寄せ、患者を一人ずつ上げた。黒外套の護衛は追ってきたが、証拠筒を持つセラさんと店を指すオレンさんを見て、通行人まで道を塞ぎ始めた。
「息子を返せ!」
登録所の老人の声が市場から飛ぶ。
声を売った家族が、黒硝子の店の前へ集まる。
店側は扉を閉められなかった。
後ろで黒硝子の店の窓が割れた。歌の欠片が夜へ飛び、第三鐘が濁った音を鳴らす。
港の市警が到着し、追手を挟んだ。ロウさんとレオンも別の小舟で戻る。
七人は生きていた。
声は戻らない人もいる。でも呼吸はある。
オレンさんの隣にいた女性は、彼の手を二回握った。何かの歌の拍子らしい。オレンさんも二回返す。
よかった。
治療所へ着くと、ティアさんが七人をほかの薬師へ渡し、私を診察台へ座らせた。
右肩まで服を切る。
黒線が、声の波のように何本も重なっている。
「痛み」
板へ『四』と書く。
「事実?」
少し考え、『六』へ直す。
「喉」
『七』
「呼吸」
『少し重い』
「一括吸収を選んだ理由」
『一分で七人。ほかの方法は一人』
ティアさんは板を見たまま、動かない。
『怒ってます?』
「はい」
『手順を変えたから』
「違います」
即答だった。
『命令違反』
「違います」
『症状が増えたから』
「近いですが、違います」
ほかに何があるのだろう。
ティアさんは溶解薬を二つの杯へ注いだ。片方へ砂糖、片方へ黒い苦薬。見えないよう背を向ける。
「右を飲んで」
飲む。
水。少し粘る。
「味は」
『甘い』
ティアさんは答えを記録する。
「左」
飲む。
同じ。
『苦い』
「逆です」
右が苦薬。左が砂糖。
ティアさんは最初から杯の位置を入れ替えていた。
「あなたはもう、砂糖と苦薬を区別できません」
分かっていたことだ。
でも正解できると思った。
『たまたま』
「昨日も、一昨日も、その前も外しました」
記録が三枚、机へ並ぶ。
「私が怒っているのは、あなたが自分の損失を、手順の端数として扱うからです」
ティアさんの声は大きくない。
「七人を助けた結果を否定していません。あの場でほかの方法が間に合わなかった可能性も認めます」
なら、選択は間違いではない。
「でも、正しい結果ならあなたの痛みへ怒ってはいけないのですか」
問いの意味がつかめない。
『私に?』
「あなたを使った状況に。止められなかった私に。使われることしか選択肢に入れない、あなたに」
最後は私へ向いている。
『助かりました』
「知っています」
『なら』
「結果で、あなたの分を消さないで」
ティアさんは新しい溶解薬を作る。手は正確で、瓶を一つも鳴らさない。
怒鳴らないから、逃げ道がない。
私は苦くない薬を飲んだ。
喉は焼けた。
舌には、最後まで水の味しかしなかった。