三千万人の夜を背負った少女   作:日向夏 

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家族欄の空白

 たいした人数じゃありません。

 

 そう答えたら、普通は「そうか」と頷くか、「無理するなよ」と話を締めてくれる。市場のお客さんなら、ついでにパンを一つ買ってくれることもある。なかなか使い勝手のいい言葉なのだ。

 

 ところが暁鐘修繕隊の皆さんは、使い勝手が悪かった。

 

「診察します」

 

 銀縁眼鏡のティアさんが、私の腕へ白い布を巻く。市場の隅、ひっくり返した木箱が臨時の診察台だ。魚の匂いがするので、患者より干物に向いている。

 

「もう動いていいですか」

「駄目です」

「魚屋さんの箱を占領しています」

「店主には許可を取りました」

「うちのパンが一籠、道に置いたままです」

「護衛の彼が持っています」

 

 見ると、レオンが赤い配達鞄と空の籠を両方抱えていた。

 

 剣を提げた市警がパン籠を持つと、盗人を捕まえたのか朝食を買いすぎたのか分からない。少し面白い。でも彼は笑ってくれそうにないので、黙っておいた。

 

「次の理由は?」

 

 ティアさんが聞く。

 

「何のです?」

「診察を切り上げたい理由。全部潰しますから、まとめてどうぞ」

 

 手強い。

 

 私は諦めて、木箱へ座り直した。

 

 白布の下で、黒い線がじわじわ滲む。ティアさんは小瓶の砂を線の上へ振った。砂粒は皮膚へ触れずに浮き、六つの小さな輪を作る。

 

「六本、全部で濃さが違う。今朝の二人だけじゃないですね」

「細かいことまで分かるんですね。便利」

「質問へ答えて」

 

 褒めたのに流された。残念である。

 

「昔、何度か」

「何人から」

「一人ずつです」

「合計を聞いてる」

 

 覚えていない、と言えば、たぶん怒られる。

 

 でも本当に覚えていない。熱を出した子。夜に泣いていた子。廊下で動けなくなった人。移して、三日くらい寝て、起きたら次の仕事があった。

 

 パンを焼くたび小麦の粒を数えないのと同じだ。必要なのは、焼き上がった数である。

 

「十人よりは多くて、百人よりは少ないです」

「範囲が広すぎる」

「じゃあ五十人前後」

 

 ティアさんの目が細くなった。

 

「今、真ん中を言っただけですね」

 

 ばれた。

 

 この人は、私とあまり相性がよくないかもしれない。いや、患者としては、である。仕事相手なら見落としがなくて頼もしい。

 

「影請けは、移した夜滓を消していません」

 

 ロウ隊長が横から言った。

 

 夜喰いを閉じ込めていた濃紺の外套は、左肩が裂けている。結界杖にも細いひびが入っていた。本人は怪我をしていないようで、そこはよかった。

 

「身体の中で薄め、本人の明日の予定を燃やして封じる。寝て戻るのは、予定がまた生まれるからだ」

「予定なら毎日あります。仕込み、配達、窯掃除。品切れの心配はありませんね」

「冗談ではなく?」

「半分くらい」

 

 隊長は私の顔をしばらく見た。

 

 人の顔を見るとき、ロウさんは目だけを動かす。レオンは眉間、ティアさんは眼鏡の奥まで一緒に動く。皆それぞれで面白い。

 

「残り半分は」

「うち、人手が足りないので」

 

 店へ戻る予定がある。だったら黒い線も、そのうち薄くなる。

 

 簡単な話だ。

 

「記録します」

 

 淡い茶色の髪を結んだ女性が、手元の板をこちらへ見せた。

 

 セラ・ユイン。さっきロウさんがそう呼んでいた。薄い木板には蝋が張られ、尖った筆で文字を刻めるようになっている。

 

『本人説明:毎日予定があるため問題ない』

 

 その下へ、もう一行。

 

『観察:指先の低温。黒線六本。過去使用回数は不明』

 

「二つに分けるんですか」

 

 セラさんは私の唇を見てから、少し遅れて頷いた。

 

「聞こえる音に偏りがあります。だから、言ったことと見たことを分けます。混ぜると、後から誰の判断か分からなくなる」

 

 声は静かで、語尾がはっきりしている。市場の音が大きいときは、こちらの口の形も読んでいたらしい。

 

「それ、いいですね。帳簿でも、注文と実際に売れた数は分けます」

 

 セラさんの口元が少し上がった。

 

 初めて一人、笑わせられた。今日はもう充分かもしれない。

 

「充分じゃない」

 

 レオンが言った。

 

「声に出てた?」

「顔に出てる」

 

 顔の作りは直せない。

 

 ティアさんが白布を外し、代わりに冷たい軟膏を塗った。ひりつきが消える。効く薬は助かる。値段を尋ねると、返事の代わりに包帯を少しきつく巻かれた。

 

「三日は能力を使わない。今夜は十二時間寝る。温かい食事を三回。黒線が増えたらすぐ報告」

「十二時間も寝たら、仕込みが終わります」

「終わらせてもらって」

「誰に?」

「あなた以外に」

 

 何を言っているんだろう。

 

 うちの窯は、火の回り方に癖がある。バルトさんは粉挽き、イネスさんは焼成が担当。仕込みを任せればできるだろうけれど、そのぶん二人の仕事が後ろへずれる。

 

 私が寝るために、三人が余計に働く。

 

 計算が合わない。

 

「六時間なら」

「十二」

「間を取って八」

「取らない」

 

 やっぱり手強い。

 

 市場の片づけが終わるころ、ノルが鐘楼から戻ってきた。

 

 足取りはしっかりしている。さっきまで影熱で倒れていたとは思えない。金属の輪を引きずったせいで上着の肘が裂け、鼻の頭には煤がついていた。

 

 私の前で止まると、両手を後ろへ隠す。

 

「足、どう?」

「動きます」

「痛くない?」

「少し。でも、これは転んだところです」

 

 自分の症状を分けて言える。ティアさんの教育がいいのだろう。

 

「助けてくれて、ありがとうございました」

 

 ノルは深く頭を下げた。

 

 子どもにこんなふうに礼を言われると、落ち着かない。必要だったからやっただけで、借りを作るつもりはないのだ。

 

「こちらこそ。輪を閉じてくれたでしょう。あれがなかったら、私の店のパンまで夜喰いに食べられてた」

「夜喰いはパンを食べません」

「じゃあ私たち、好みが合わないね」

 

 ノルは笑いかけて、私の包帯を見た。口が閉じる。

 

「僕のせいですか」

 

 違う。

 

 それはすぐに言える。

 

「ノルのせいなら、私が勝手に触れるわけないでしょう。私が選んだの。そこ、間違えないでね」

 

 少し強い声になった。

 

 自分のせいで誰かが傷ついたなんて、子どもが持つには重すぎる。そういう荷物は、大人が持てばいい。私は十七だから、大人かどうかは町の規則によって変わるけれど、十二歳よりは上だ。

 

「でも」

「それより、あの金属の輪。三本の杭で留めたの、すごかったよ。一本目は手が震えてたのに、二本目から真っすぐだった」

 

 ノルが瞬く。

 

「見てたんですか」

「いい仕事は見逃さない主義です」

 

 今度は少しだけ笑った。

 

 よし。これで一件片づいた。

 

「片づいていません」

 

 ティアさんの声が飛んできた。

 

 聞こえていたらしい。薬師の耳は油断ならない。

 

 私たちは、そろってアルノパン店へ戻った。

 

 正確には、私は戻され、修繕隊の四人がついてきて、レオンが逃げ道を塞いだ。街中をぞろぞろ歩いたので、通行人が何度もこちらを見る。

 

 店の評判としては、あまりよくない。

 

 夜喰いをパンへ混ぜたとは思われないだろうけれど、役人が五人も来る店は、たいてい税金か食中毒である。

 

「もっと散らばって歩きません?」

「逃げるだろ」

「逃げませんよ。自分の店へ帰るんだから」

「診察からは逃げた」

「一歩下がっただけ」

 

 レオンは返事をせず、配達鞄を自分の肩へかけ直した。

 

 そのまま返してくれてもいいのに。

 

 店へ入ると、マルタ親方が腕を組んで待っていた。

 

 市場の騒ぎはもう届いているらしい。町の噂は、焼きたてのパンより足が速い。

 

「座れ」

 

 朝から二回目だ。

 

 今度は長椅子に配達籠がない。レオンが横へ置いてしまった。

 

「仕事は」

「バルトとイネスがやってる」

「私の分まで?」

「あの二人を見くびるな」

 

 見くびってはいない。二人とも私より長く店にいる。できることと、やらせていいことは別だと思うだけだ。

 

 ロウさんが親方へ身分証を見せた。

 

「暁鐘修繕隊のロウ・ガルドです。ミナ・アルノについて確認したい」

「先に治療は」

「ティアが応急処置を。今後の保護登録が必要です」

 

 保護。

 

 きれいな言葉だ。雨を防ぐ屋根みたいで、聞こえはいい。

 

 屋根には住所がつく。住所がつけば、持ち主が分かる。

 

「登録は要りません」

 

 ロウさんが私を見る。

 

「影請けの登録者は治療費を国が負担する。能力使用を命じられた場合の拒否権もある」

「命じられる可能性もできる?」

「ある」

 

 正直な人だ。

 

 鐘守庁へ名前と居場所が届く。昔の記録と同じ棚へ、ミナ・アルノが戻ってくる。

 

 店にも検査が入るだろう。親方たちが私を隠していたと疑われるかもしれない。影熱を扱う店だと噂になれば、パンは売れない。

 

 治療費と店一軒。

 

 これも計算は簡単だ。

 

「登録すると、具体的に何が来ます?」

 

 ロウさんは質問の意味を考えるように一拍置いた。

 

「最初に鐘守庁の検査官。能力測定、過去の使用歴、居住環境の確認。危険があれば一時的な営業制限もありうる」

「期間は」

「通常三日。夜滓が店内に残っていれば長くなる」

「パン生地は三日待ってくれません」

 

 粉は捨てることになる。酵母も弱る。取引先へ事情を話し、別の店を紹介して、再開後に戻ってもらえるか頭を下げる。三日ぶんの損だけでは済まない。

 

「補償制度があります」

 

 セラさんが板へ書いた。

 

「支給までどのくらい?」

「早くて三十日」

「粉屋さんは三十日、請求を待ってくれません」

 

 セラさんは反論せず、その言葉も記録した。こういう人は話しやすい。正しい答えを押し込まず、必要な材料を残してくれる。

 

 ティアさんが眼鏡を押し上げた。

 

「店の損失と、あなたの身体を同じ欄で比べないで」

「どちらも困ることには変わらないでしょう?」

「代わりの粉は買える。代わりのあなたは買えない」

 

 買えないのは、値段がついていないからだ。

 

 そう言いかけて、親方の顔を見た。さっきより怖い。ここで言えば、診察ではなく説教が始まる。

 

 私は賢く口を閉じた。

 

「今まで登録なしで困りませんでした。黒線も寝れば薄くなります」

「困っていないかは医療側が判断します」

 

 ティアさんが言う。

 

「それに、店は関係ない。能力はあなた個人の――」

「関係あるよ」

 

 親方の声が重なった。

 

「ミナはうちの娘だ」

 

 一瞬、何の話か分からなかった。

 

 娘。

 

 五年前、住み込みの働き手として置いてもらった。給金は少ないけれど部屋と食事がつく。最初は皿洗いだけで、次に配達、帳簿、仕込みを覚えた。

 

 娘という仕事は、した覚えがない。

 

「親方、今はそういう冗談――」

「誰が冗談だ」

 

 怒らせた。

 

 親方は帳場の引き出しから、役所の紙束を出した。店員名簿。火災保険。粉税の控え。その一番下に、見たことのない家族登録の申請書がある。

 

 マルタ・アルノ。

 

 配偶者欄は空白。実子欄も空白。

 

 養子欄に、ミナ・アルノ。

 

 まだ役所の受領印はない。日付も書かれていない。

 

「出してないんですか」

 

 口から出たのは、そこだった。

 

 親方の眉が動く。

 

「お前が成人する前に、話してから出すつもりだった」

「じゃあ今は、まだ職人ですね」

 

 紙の上では。

 

 きちんと確認できて、少し安心した。

 

「そういう話をしてるんじゃない!」

 

 親方の手が帳場を叩いた。粉袋が小さく揺れる。

 

 店の奥で作業していたバルトさんたちが顔を出し、すぐ引っ込んだ。判断が速い。夫婦そろって長生きすると思う。

 

「お前が役に立つか、パンを何個焼くか、そんなことで置いてるんじゃない」

「でも、働かなかったら困るでしょう?」

「困る。だから別の職人を雇う」

「お金がかかる」

「払う!」

 

 そこまで声を張らなくても聞こえる。

 

 親方は怒っている。たぶん、私が話を帳簿へ戻すから。

 

 でも帳簿なら答えがある。家族という言葉は、どこまで働けば受け取っていいのか分からない。

 

「親方。店へ迷惑をかけない方法を話しましょう」

 

 落ち着いて言ったつもりだった。

 

 親方は、ひどく疲れた顔をした。

 

 その顔を見たら、胸の奥が少し冷えた。私の腕より、ずっと嫌な冷たさだった。

 

「ミナ」

 

 レオンが低く呼ぶ。

 

 これ以上話すと、たぶん全員を困らせる。

 

 私は話題を変えた。

 

「そうだ。朝の蜂蜜パン、まだ食べてませんでした」

 

 赤い鞄へ手を伸ばす。レオンが先に取り出し、私へ渡した。

 

 少し潰れている。でも蜂蜜の匂いは残っていた。

 

「食べます。食べて、十二時間寝ます。これでいいでしょう?」

 

 誰も頷かなかった。

 

 それでもパンを一口かじる。

 

 甘い。

 

 借りだから、あとで給金から引いてもらう。明日は今日のぶんまで働けばいい。

 

 そう考えると、喉を通った。

 

 食べ終えるまで、レオンは長卓の向かいから動かなかった。

 

 皆が店の奥へ散ったあとも、赤い配達鞄を膝に置いたままだ。返す気がないらしい。

 

「鞄」

「部屋まで運ぶ」

「空ですよ」

「知ってる」

 

 私の荷物を持つこと自体が目的らしい。変なの。

 

 二階の小部屋へ上がる。寝台と衣装箱、小さな机。窓からは鐘楼のてっぺんが見える。住み込みを始めた日に親方から渡され、五年間使っている部屋だ。

 

 レオンは鞄を机へ置き、扉の横へ立った。

 

「まだ何か?」

「腕」

「さっき全員で見たでしょう」

「増えてないか確認する」

 

 包帯の端をめくる。黒線は六本のままだった。

 

 レオンの肩が少し下がる。安心したように見えた。私の腕一つで、朝からずいぶん忙しい人である。

 

「家族の話」

「親方が役所へ出してなかった話?」

「違う」

 

 違うらしい。

 

 レオンは机の傷を見た。まっすぐ私を見ないときは、言葉を選んでいる。

 

「お前は、マルタさんが紙を出してないから娘じゃないと思ってるのか」

「思うも何も、今の登録は職人です」

「俺は市警だ。紙に書かれている身分と、本当の関係が違う家をいくらでも知ってる」

「それ、役所として大丈夫?」

「話をそらすな」

 

 そらしたつもりはない。気になっただけだ。

 

「娘なら、何をすればいいの」

 

 聞くと、レオンが黙った。

 

 ほら。答えに困るでしょう。

 

「仕込み? 帳簿? 親方が病気になったら店を継ぐ?」

「何もしなくていい」

「それは娘じゃなくて置物だよ」

「そういう意味じゃない」

 

 レオンが額を押さえた。説明が下手な人をこれ以上困らせるのも気の毒だ。

 

「分かった。親方が言いたかったことは、ちゃんと考える」

 

 考えるだけならできる。答えを出す期限は言われていない。

 

 レオンもそこへ気づいたらしく、納得しない顔のまま扉を開けた。

 

「寝ろ。八時間じゃない。十二時間だ」

「善処します」

「それはやらない奴の言葉だ」

「市警は言葉にも詳しいね」

 

 扉が閉まる直前、彼の手が止まった。

 

「ミナ。店が三日休むのと、お前が戻らないのは、同じ損じゃない」

 

 返事を考えている間に、レオンは階段を下りた。

 

 同じではない。それは分かる。

 

 店なら立て直せる人が何人もいる。私の身体は私しか動かせない。だから壊れる前まで、いちばん効率よく使うべきだ。

 

 たぶん、そういう話だ。

 

 その夜、私は本当に八時間も眠った。

 

 十二時間ではない。でも普段の倍だ。かなり譲ったほうだと思う。

 

 目を覚ますと、窯には火が入り、生地は一次発酵を終えていた。バルトさんとイネスさんの仕事だ。店は私がいなくても、ちゃんと朝へ進んでいる。

 

 よかった。

 

 胸のどこかが空いた気もしたけれど、寝起きだからだろう。

 

 作業着へ着替え、厨房へ下りる。長卓には、六つの皿が並んでいた。

 

「一つ多いですよ」

 

 親方は返事をしなかった。

 

 代わりに、町の中心から暁鐘が鳴る。

 

 一つ。

 

 二つ。

 

 三つ目が来ない。

 

 生地を窯へ入れる合図が、一拍、遅れた。

 

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