三千万人の夜を背負った少女   作:日向夏 

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甘さのない朝

 朝は、味がなくても来る。

 

 硝子港の治療所は透明な屋根で、日の出が寝台までまっすぐ入った。目を閉じていても赤い。第三鐘が鳴り、港の船が一斉に出航の笛を返す。

 

 私の喉だけ、返事をしない。

 発声禁止なので正しい。仕事を守っている。

 

 起き上がると、右肩が重かった。黒線は昨日と同じ位置。指は曲がる。影も足元にある。七人ぶんの声は夜のあいだ何度か影の中で歌ったけれど、朝日が差すと静かになった。

 

 患者七人は別室にいる。

 

 全員、生存。呼吸安定。三人は声が少し戻り、四人はまだ出ない。オレンさんの共演者、リサさんも後者だった。

 結果は悪くない。

 

「診察を始めます」

 

 ティアさんがカーテンを開けた。

 

 昨夜から一度も寝ていないはずなのに、髪も襟も乱れていない。薬師の人は疲れまで瓶へ詰めて棚に置けるのだろうか。

 

 私は板へ『患者を先に』と書いた。

 

「患者を診てきました。次はあなたです」

 

『私は安定』

「それを決めるのは私です」

 

 いつもの順番だ。

 

 脈、体温、瞳、黒線、呼吸。体温三十五度。脈は五十八。声帯の夜晶は右だけでなく、左へ小さな粒が二つ増えている。

 

「昨夜、幻聴は」

『歌が七種類。内容は聞き取れない』

「幻視」

『なし』

「痛み」

『肩五、喉七、胸二』

「息苦しさ」

『階段なら少し』

「階段を上ったのですか」

 

 余計な情報を出した。

 

『便所が二階』

「呼んでください」

『夜中です』

「夜勤の薬師がいます」

『歩けました』

「歩けるかではなく、症状を報告する話です」

 

 診察が一つ増えた。

 ティアさんは小卓へ五つの杯を並べる。甘味、塩味、酸味、苦味、旨味。今度は位置を見せず、番号だけにした。

 

「一番から」

 

 飲む。

 冷たい水。

 

『水』

「二番」

 

 少し粘る水。

 

『砂糖』

「三番」

 

 舌の奥へ何も残らない。

 

『塩』

「四番」

『苦薬』

「五番」

『豆の煮汁』

 

 ティアさんは答えを一つずつ記録した。

 

「正解は、一番から塩、苦味、酸味、旨味、甘味です」

 

 一つも合っていない。

 

『昨日の薬で舌が』

 

 書きかける。

 

「香りの検査をします」

 

 逃げ道を先に塞がれた。

 林檎、蜂蜜、酢、焦がした麦、海藻。こちらは四つ分かった。蜂蜜と林檎を逆にしただけ。

 

「嗅覚は軽度低下。味覚は五味すべて消失」

 

 ティアさんが診断欄へ書く。

 

『消失ではなく、一時低下』

「現時点の診断です。回復可能性は別に記載します」

 

『戻る?』

「分かりません」

 

 正確な答え。

 味がないと、何が困るだろう。

 毒や腐敗を見分けにくい。塩の量を間違える。蜂蜜の季節差が分からない。パン屋の仕事では大きい。

 

 でもノルが味見できる。親方もいる。配合表は頭にある。匂いと焼き色と手触りは残っている。

 工夫すれば働ける。

 ノルが診察室へ呼ばれた。

 ティアさんは五つの杯を片づけず、検査結果を本人にも見せる。

 

「味見係、続けます」

 

 ノルはすぐ言った。

 

「塩と砂糖だけじゃなくて、酸っぱいのも、苦いのも。配合表を作れば僕が全部」

 

 細工箱から薄い金属板を出し、区切り線を引き始める。粉の種類、塩、砂糖、発酵時間。味を歯車と同じように分解するつもりらしい。

 

『助かる』

「でも、僕が分かれば戻ったことにはならないです」

 

 白墨の先が止まった。

 

「仕事はできます。でもミナさんが蜂蜜を食べたとき、僕が横で甘いって言うのは、戻ったのと違う」

 

 十二歳に区別される。

 

『仕事には困らない』

「僕は仕事の話だけしてません」

 

 皆、同じことを言う。

 ロウさんは検査表を読み、次の第三鐘作業表から私の名を消した。

 

『外す?』

「今日の作業だ」

『明日は』

「診断後に決める」

『鐘守庁の返答が来ます』

「だから外す。交渉と治療を同時にさせない」

 

 役割が一つ消える。

 レオンは作業表を見ず、私の旅鞄を持ってきた。

 

「麦環市へ戻る便を調べた」

 

 板へ大きく『帰らない』と書く。

 

「今すぐとは言ってない。明日の定期馬車、その次は三日後」

 

『調べなくていい』

「選べるように調べた」

『帰すためでしょう』

「帰りたいとき、道がないよりいい」

 

 帰りたいとは言っていない。

 でも帰還欄を空白にしたのは私だ。レオンはそこへ勝手に道を一本描いている。

 

「店へ戻っても、修繕隊へ戻れなくなるわけじゃない」

 

『役に立てなくなったのに?』

 

 書いてから、消す前に読まれた。

 レオンの手が板へ伸びる。私は胸へ抱えた。

 

「今のを、もう一度書け」

 

 首を横へ振る。

 

「味が分からないと、役に立たないのか」

 

『パン屋では困る』

「パン屋だけの話じゃない」

 

 また話が人へ戻る。

 セラさんは灰色の帳面を開いたが、勝手には書かない。私の板へ『今の言葉を記録してよいですか』と見せる。

 拒否できる。

 少し考え、『任務判断用のみ』と書いた。

 セラさんは条件ごと記録した。

 

 私が役に立てないと思っていることを残せば、任務へ戻す材料が減るかもしれない。それでも、消したところを全員に見られたあとでは遅い。

 

 ティアさんは皆の反応を待ち、治療契約の紙を出した。

 そう板へ書こうとして、ティアさんが紙を一枚置いた。

 

「治療契約です」

 

 昨日までの医療契約より厚い。

 一、症状を自覚した時点で報告。

 二、影請け、冷水、徹夜、単独行動を禁止。

 三、食事と服薬を医療担当が確認。

 四、症状の虚偽、隠匿、報告遅延が一度あれば、任務参加資格を停止。

 五、再開は医療担当と隊長の両名が承認。

 最後に署名欄が三つ。私、ティアさん、ロウさん。

 

『前より増えてます』

「前の契約を守らなかったからです」

『七人が助かった件は?』

「契約違反を消しません」

『成功しても同じ?』

「同じです」

 

 紙の文字が、急に狭く見えた。

 

 症状を一つ言い忘れれば、任務から外れる。少し息が重いだけでも報告。自分で歩けるのに呼ぶ。食事まで確認される。

 

 信用されていない。

 

 当然かもしれない。私は影請けを使わないと言って使った。三日で戻ると言って戻らなかった。味が薄いだけと言って、もう何も分からない。

 

 でも、言葉を信じられない人を隊へ置く理由はあるのだろうか。

 

『契約しない場合は?』

「任務から外します」

 

 答えが早い。

 

『麦環市へ帰る?』

「移動可能になるまで治療。その後は本人と隊長が決めます」

 

 帰される。

 店へ帰るのは悪いことではない。親方がいる。窯も部屋もある。

 

 でも修繕隊は次の鐘へ行く。ノルの工具箱にはまだ私の赤い糸。分灯式の記録。白麦院。候補者十九。途中の仕事が残っている。

 

 私がいなくても進む。

 雨樋町の共同式が証明した。

 それはよいことだ。

 胸の中で、何かが床へ落ちた。

 音はしなかった。

 

『署名します』

「今すぐでなくていいです」

『条件を守れば働ける』

「働くためだけの契約ではありません」

『治療を受ける。報告する。結果として働ける』

 

 順番を変えれば、同じだ。

 

「同じではありません」

 

 ティアさんは紙を私の手から外した。

 

「今日は決めないで」

『早いほうが次の予定を組めます』

「あなたは、任務から外れることを罰だと思っています」

 

 罰というほど大げさではない。役に立てない人が仕事から外れるのは普通だ。

 

『規則です』

「休むことと、捨てられることを同じにしないで」

 

 板を持つ手が止まった。

 そんな話はしていない。

 

『捨てるなんて言ってない』

「言っていません。あなたが、そういう顔をしました」

 

 顔で話す人が増えすぎている。

 ティアさんは椅子へ座った。

 薬を作るとき以外に、この人が患者と同じ高さへ座るのは珍しい。

 

「私は、あなたを任務から外せます」

 

 はっきり言う。

 

「影請けを使わないあなたに、価値がないとは言っていません」

 

 価値という言葉まで出ると、話が大きくなる。

 

『私は仕事の話をしてます』

「私は人の話をしています」

 

 噛み合わない。

 

「あなたが症状を言えば、私は治療できます。言わなければできません。私の仕事をさせてください」

 

 それなら分かる。

 ティアさんが働くため、私が報告する。私の症状も仕事になる。

 

『役に立つ?』

 

 書いてから、変な質問だと思った。

 ティアさんは笑わない。

 

「正確な報告は、治療に役立ちます」

 

 欲しかった答えが来た。

 胸の落ちたものが、少し戻る。

 

『なら契約します』

 

 紙を取り返し、署名した。

 ミナ・アルノ。

 番号ではない。

 ティアさんは私の署名を見た。安心した顔はしない。むしろ、何かを間違えたように唇を結んだ。

 

「今の説明では、足りなかった」

 

 独り言のように言う。

 

『契約は成立?』

「成立します」

 

 なら問題ない。

 

 署名後、七人の患者を見舞う許可が出た。

 

 治療所の大部屋には寝台が七つ。喉へ包帯を巻いた人たちが、板、指、瞬きで話している。声が戻った三人も、まだ囁きだけだった。

 

 一人目の船員は、妻へ「帰る」と書いた紙を何度も見せている。二人目の青年は採声契約の借金額を計算し、セラさんへ相談。三人目の老女は、戻った掠れ声で孫の名を呼ぶ練習をしていた。

 

 助かったあとの仕事が、それぞれ違う。

 オレンさんはリサさんの寝台脇にいる。

 

 リサさんはまだ声が出ない。けれど指で寝台の縁を、二、二、四の拍子に叩いた。黒硝子の声紋錠を開けた歌の最初だ。

 

 オレンさんも同じ拍子を返す。

 

『声は?』

 

 私が板へ書く。

 

『分からない』

 

 オレンさんが答える。

 

『戻らない場合、劇場は』

 

 リサさんが私の板を指で止めた。

 自分の黒板へ書く。

 

『劇場の心配より先に、朝食』

 

 その下へ、小さく足す。

 

『食べてから、決める』

 

 オレンさんが笑った。声はない。肩だけが一度揺れる。

 食べてから決める。

 私は味覚が戻るか、任務へ戻れるかを、朝食より先に決めようとしていた。

 

『私がまとめて取ったせいで、声が』

 

 リサさんは首を横へ振る。

 

『店にいた時点で、ほとんどなかった』

『でも最後を取った』

『息を返した』

 

 板を押し返される。

 結果はよかった。

 そう書けば、ティアさんはまた違うと言うだろう。

 

 リサさんは私の肩の黒線を見る。自分の包帯を指し、次に私の包帯を指す。七人。私。一つの夜滓が移ったことを理解している。

 

『返せるよう治療します』

 

 書くと、オレンさんが首を横へ振った。

 

『返すな』

『あなたの声も入ってる』

『俺の声を、君の身体へ置くな』

 

 白墨が板へ食い込む。

 

『いらないからではない。自分のものだから、自分で取り戻す』

 

 私が持っているほうが、夜滓の場所は一つで済む。治療もしやすい。そう考えたのが顔へ出たらしい。

 

『一か所なら簡単、という顔をするな』

 

 続けて書かれた。

 声のない人にまで顔を読まれる。

 リサさんが温かい粥を運ばれてきた。匙を一度持ち、手が震えて落とす。

 私は拾おうとした。

 オレンさんが先に拾い、別の匙を渡した。けれど食べさせはしない。リサさんが自分で握り直すのを待つ。

 一口。休む。二口。

 時間はかかる。でも本人の朝食だ。

 私の中にある声も、勝手に「いらないもの」として処分してはいけないのかもしれない。

 

 ティアさんが大部屋の入口にいる。こちらを急かさず、患者七人の服薬表を確認していた。

 私は契約書の控えを見た。

 報告する。治療を受ける。ほかの人のものを返す。

 仕事としてなら、続けられる。

 

 昼前、レオンが紙袋を持ってきた。

 硝子港のパン屋で買った蜂蜜パン。表面へ透明な蜜が塗られ、端に焦げた雫が固まっている。

 

「朝食」

『もう食べた』

「検査の水だけだ」

『粥も半分』

「半分だ」

 

 六個目のパンから、半分へ厳しい。

 ティアさんが契約書の三項を指す。食事を医療担当が確認。

 署名したばかりなので破れない。

 紙袋を受け取る。

 温かい。焼きたてを探したらしい。

 

『いくら?』

「俺の危険手当」

『窓を直す分』

「パン一個で窓は消えない」

『返す』

「食べて返せ」

 

 食べたら返せないと思う。でも契約が先だ。

 一口噛む。

 外側は薄く、ぱりっと割れる。中は柔らかい。蜂蜜が指へつく。

 甘くない。

 昨日まで分からなかったのだから、今日も同じで当然だ。

 

『おいしい』

 

 板へ書く。

 レオンは読んでも、何も言わない。

 

『硝子港のパンも悪くない』

「そうか」

 

 声が低い。

 もう一口。

 蜂蜜パンは好きだ。

 

 十二歳で親方の店へ来た日、初めてもらった。値札のない食事が怖くて、翌朝から働いた。床を掃き、粉袋を運び、蜂蜜壺を洗った。

 

 親方は三日目に、売り物の蜂蜜パンを一個くれた。

 

「働いた分じゃない。お前の皿だ」

 

 そう言った。

 甘かった。

 記憶では分かる。

 手の中のパンにはない。

 指が止まった。

 

「ミナ」

 

 レオンが呼ぶ。

 動かす。噛む。飲み込む。

 

『少し冷めた』

 

 板へ書く。

 

「今買ってきた」

 

 逃げ道がない。

 

 ノルが診察室の入口にいた。細工箱を抱え、こちらを見ている。セラさんも、その後ろ。ロウさんは廊下の壁へ寄り、目を閉じた。

 

 全員、蜂蜜パンを食べる私を見に来たわけではないだろう。でも誰も動かない。

 残りを食べる。

 味はない。

 半分を誰かへ渡す理由もない。

 全部、腹へ入った。

 

『ごちそうさま』

 

 板を上げる。

 レオンは紙袋を畳んだ。丁寧すぎる折り方で、小さな四角にする。

 

「次は、麦環市で食べる」

 

 明日の予定ではなく、帰ったあとの話だ。

 

『親方のほうがおいしいよ』

「味が戻らなくても買う」

 

 何のために。

 聞こうとして、やめた。答えが仕事ではなさそうだからだ。

 ティアさんが契約書へ二つ目の署名をした。

 

「症状報告」

 

 板を向けられる。

 

『味なし。食感、温度、匂いは分かる。喉の痛み七。肩五』

 

「今、胸は」

『少し重い』

「少しを数字で」

『三』

 

 ティアさんは記録する。

 

「これから毎回、同じように答えてください」

 

 頷く。

 

「次に嘘をついたら」

 

 針が止まる。

 

「私はあなたを使いません」

 

 治療しません、ではない。

 任務から外す、でもない。

 使わない。

 胸の重さが、三から五へ上がった。

 契約どおり報告しなくてはいけない。

 板へ書く。

 

『胸、五』

 

 ティアさんはすぐ脈を取った。

 私は役に立つ報告ができた。

 それでよいはずだった。

 

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