地図へ線を引くと、道は必ずどこかへ着く。
紙の端で切れた道も、次の紙を足せば続く。橋が壊れていれば迂回し、夜喰いの出る森には赤印。行き止まりは道の問題であって、描く人の問題ではない。
だから帰り道を作るのは、簡単だと思っていた。
「硝子港から白丘、白丘から旧白麦院、そこから王都」
修繕隊の宿で、大きな路線図へ青い線を引く。
声はまだ禁止なので、説明は板。地の文まで板で書く必要はないので、そこは助かる。頭の中でくらい、好きに喋らせてほしい。
鐘守庁から二通目の返答が来た。
候補者十九の強制移送について、法的根拠は示されなかった。代わりに、白丘療養院での精密検査を命じる。その後、旧白麦院の資料回収。最後に王都で長官面談。
ロウさんが置いた質問へ、命令を三つ返してきた形だ。
「検査は必要です」
ティアさんが言った。
「味覚、声帯夜晶、影の遅延。白丘には測定設備があります」
「旧白麦院の記録も必要だ」
ロウさんは公定訳の発行記録を地図脇へ置く。
「王都は?」
レオンが聞く。
「二か所の結果を見て決める。今は予定へ入れるだけだ」
予定へ入れる。
決定ではない。消すこともできる。そういう線なら、私も困らない。
『移動は三日、二日、四日。白丘で検査二日。白麦院は一日。王都到着は最短十二日後』
板へ書く。
「ミナは移動可能なのですか」
セラさんがティアさんへ確認する。
「馬車移動のみ。発声禁止、能力禁止。三時間ごとに休憩。胸痛が五を超えたら停止」
治療契約が道へ条件を足す。
『守ります』
「返事だけではなく、路線図へ書いて」
ティアさんの指示で、各宿場の横へ検温と服薬の印をつけた。自分の症状が旅程の一部になる。役に立つ報告なので、契約どおりだ。
次に、修繕隊全員の帰還経路を作る。
鐘守庁の命令で動く以上、途中で隊が分けられる可能性がある。誰かが負傷した場合、どこへ戻すか。記録を誰が持つか。家族や所属への連絡先。
「ロウさんは王都修繕局」
赤い線を引く。
「戻るとは限らん」
『所属はそこです』
「処分されれば所属ではなくなる」
『処分後の候補も書きます?』
「いや。今は局でいい」
ロウさんの線は王都で終わる。本人の家ではなく、修繕隊の倉庫だ。仕事へ帰る人なので、分かりやすい。
「ティアさんは白丘療養院」
「次の任務がなければ。医療記録は白丘へ返します」
金色の線を白丘で止める。ティアさんは療養院育ち。帰る場所と働く場所が同じらしい。
「セラさんは王都記録院?」
「原本は記録院。私は麦環市支所へ戻る可能性があります」
二本に分け、点線でつなぐ。
「ノルは修繕工房」
「王都の?」
ノルが地図をのぞく。
「今の所属は王都工房でしょう」
「麦環市の鐘楼工房がいいです」
初めて聞いた。
「グスタさんのところ?」
「はい。水路用の灯具を直したい。夢泥検知灯も、町ごとの部品で作れるようにする」
ノルは細工箱の赤い糸へ触れた。
「麦環市なら、パン屋にも行けるし」
最後は小さい声だった。
王都工房から麦環市へ、緑の線を曲げる。
『グスタさんへ弟子入り願いが必要』
「書きます」
『親方にも寝床の相談』
「働いて払います」
十二歳に、寝床は働いた分でなくてもよいと言うべきだろうか。
私が言うと説得力が薄い。ジュノに使った説明なら通るかもしれない。
『子どもの分まで大人がいます』
ノルは板を読んだ。
「ミナさんにも?」
ジュノと同じ返しが来た。
すぐ地図へ目を戻す。
線が一本足りない。
「レオンは麦環市警備隊」
黒い線を、王都から麦環市へ引く。
「お前と同じ馬車だ」
レオンが言った。
『私は王都面談があります』
「そのあと」
『任務が未定』
「決まってから一緒に帰る」
レオンの線は麦環市まである。そこへ私の線を重ねれば早い。
でも王都のあとは、次の鐘の点検が入るかもしれない。白麦院の記録から別の施設へ行くかもしれない。候補者十九の検査で残るかもしれない。
決まっていない線を描くと、あとで直す手間が増える。
『レオンの線だけ先に』
黒い線を完成させる。
「お前は」
別の色を取る。
硝子港から白丘。白丘から旧白麦院。旧白麦院から王都。
王都の丸で止まる。
「麦環市まで引け」
『面談後の命令が未定』
「命令じゃない。帰る道だ」
『修繕隊の旅程表です』
「今、帰還経路を書いてる」
レオンの指が王都から麦環市までをなぞる。
「道はある」
『知ってる』
「なら引け」
黒線の横へ、私の赤い線を置けばよい。
簡単だ。
筆先を王都へ置く。
動かない。
麦環市へ帰ったら、親方の店へ戻る。声が出ず、味も分からないパン職人。味見係は親方に頼める。注文は板。働き方は作れる。
修繕隊は次へ行く。
ノルは麦環市へ来るかもしれない。レオンも戻る。なら六人分の朝食を用意する。いや、修繕隊が解散すればロウさんたちは王都だ。何人分になるのだろう。
人数が決まらない。
帰ったあとの仕事も未定だ。
私がどこへ入れば役に立つか、まだ分からない。
役割のない場所へ線を引くと、地図の上で自分だけ余る。
『あとで』
板へ書く。
「なぜ今書けない」
『情報不足』
「帰りたいか、帰りたくないかだ」
質問が二つしかない形になる。
帰りたい。
親方の窯。朝の粉の匂い。自分の寝台。冬に風が入る窓。焦げたパンを借りとして食べる昼。
帰りたい、と書けば、任務から外される理由になるかもしれない。
帰りたくない、と書けば、親方へ何を返すのか分からない。
どちらも今の作業に不要だ。
『道順と希望を混ぜないで』
「混ぜてない」
『帰還先は作業上必要になったら決める』
「今、必要だ」
『王都から先の同行者が未定』
「一人でも帰れる」
『次の仕事が王都なら、戻るのは無駄』
「仕事がなくても帰っていい」
意味が分からない。
仕事がないのに、食事と寝床を使う。親方は娘だと言うだろう。でも家族欄へ署名していない。私もまだ返事をしていない。
店の手伝いならできる。味がなくても掃除と配達はある。
結局、仕事へ戻る。
『仕事はあります』
「そういう話じゃない」
レオンの声が低くなる。
右手が地図の端を握った。紙が少し皺になる。すぐ力を抜き、平らへ伸ばす。
「お前は、俺たちの帰る人数へ自分を入れてない」
六個目のパンと同じ話になった。
『今は別行動の可能性』
「可能性がなくても、理由を作るだろ」
『作ってない』
「朝飯は半分。報酬はゼロ。帰還欄は空白。地図は王都で終わり」
セラさんの帳面みたいに、事実を並べる。
『全部理由があります』
「理由があれば、いなくていいのか」
いなくていい、とは言っていない。
役に立つ場所へいるだけだ。
『誰の分の大人?』
ジュノの字が、板の裏に残っている。消したつもりだったのに、白墨の跡が光で浮いた。
私は板を裏返した。
「何だ」
『何でもない』
「見せろ」
『個人的な宿題』
「なら答えろ」
誰の分。
私は配達先の分を少しずつ持つ。そう答えた。
では私へ届ける人は、と聞かれた。
その答えは、まだない。
『王都へ着くまでに考えます』
未来ではなく、宿題の期限を書く。
レオンは納得していない。けれど地図から手を離した。
「帰還線も、王都で考えるのか」
『面談後なら情報が増えます』
「逃げるな」
声は大きくない。
板へ返事を書かず、地図の宿場へ食料補給の印を足した。
作業へ戻れば、問いは止まる。
帰還経路に合わせ、緊急荷物も分けた。
赤い袋はロウさん。隊長印、公定訳の原本、王都修繕局へ出す報告書。本人が倒れた場合はセラさんが持つ。
白い袋はティアさん。患者記録、薬品一覧、白丘療養院への紹介状。運ぶ人はレオン。薬品名を読めない人でも間違えないよう、瓶の形を紙へ描く。
青い防水筒はセラさん。第二鐘の拓本、百人分灯式、黒硝子の契約証拠。原本と写しを別の馬車へ。
緑の箱はノル。夢泥検知灯、細工工具、第三鐘から外した汚染弁。重いので、本人だけに持たせない。
黒い袋はレオン。警備隊の引継ぎ、武器証、麦環市への通行札。
全部へ、戻す場所と担当者を書いた札を結ぶ。
「ミナさんのは?」
ノルが聞いた。
『赤い配達鞄』
「どこへ戻す札ですか」
鞄を見る。
中身は、欠けた名札、親方の林檎酵母、乾燥林檎、治療契約の控え、筆談板。どれも私が持っていればよい。
『本人』
「本人が運べないときの話です」
『レオン』
板へ書く。
「受け取ったあと、どこへ?」
ノルは引かない。
『状況に応じて』
「ほかの袋は場所が書いてある」
『私のは重要記録じゃないから、急がなくていい』
細工工具が緑の箱から音を立てた。ノルが蓋を閉じたからだ。
「名札も、酵母も、契約も、ミナさんのでしょう」
『そうだよ』
「本人がいなかったら、誰へ返すんですか」
本人がいない場合。
事故や病気で別の治療所へ運ばれたら、荷物は同行者へ。もっと遠くへ行った場合は、親方へ送ればよい。
死んだ場合も、親方へ。
答えは同じなので簡単だ。
『アルノパン店』
札へ書く。
レオンがペンを取り、その下へ『本人とともに帰還』と足した。
『荷物の送り先です』
「本人も送る」
『怪我なら白丘のほうが近い場合も』
「治療後だ」
『任務が続けば』
「帰還経路の話だ」
また同じ場所へ戻る。
セラさんが二人の文を別々の紙片へ写した。
『ミナ説明――状況に応じ、最終的にアルノパン店へ荷物を返送』
『レオン希望――荷物でなく本人を含め、治療後にアルノパン店へ帰還』
「希望じゃない。帰還計画だ」
「本人が合意していません」
セラさんは静かに返した。
今度はレオンが黙る。本人に選ばせず帰すなら、管理になる。二人の間に似た話があったのか、レオンの指が赤い鞄の肩紐を離した。
「合意しろ」
命令形で選ばせようとするので、少しおかしい。
『情報が増えたら』
「いつ」
『王都面談後』
「日付」
『最短十二日後』
「十三日目の朝までに決めろ」
期限ができた。
『遅延したら延長』
「逃げるな」
同じ文を二度使わせた。レオンの語彙を増やすためにも、次は別の方法を考えなくてはいけない。
赤い鞄の札は二枚になった。
一枚は、アルノパン店。
もう一枚は、十三日目の朝に本人が決める。
荷物の予定なのに、私の予定まで結びついてしまった。
午後、第三鐘の引継ぎをした。
声滓燃料は全量押収。正規燃料へ交換。黒硝子の店は市警封鎖。患者七人は硝子港治療所。オレンさんとリサさんは証言のため残る。
セラさんは原本の写しを三部作り、一部を患者側へ渡した。ロウさんは分灯式の記録を封印箱と別便にする。ティアさんは私の薬を十二日分用意。ノルは馬車の軸を交換した。
食料と紙を買うため、硝子市場へ出た。
私にはレオンが同行する。単独行動禁止の契約がある。市場の店を一軒見るだけでも護衛つき。買い物の値段へ警備料を足すと高いけれど、レオンの給金は隊から出るので帳簿上はゼロだ。
紙店で路線図の予備を買う。
壁には、船乗り用の予定帳が並んでいた。濃紺、深緑、茶。水へ濡れても字が消えにくい紙で、一頁ごとに日付と行き先を書く欄がある。
「旅の記録にどうです?」
店主が一冊を開いた。
「出航、寄港、帰港。三つを書けば、待つ人にも渡せます」
板へ『隊用は足りています』と返す。
「個人用ですよ。食べた物でも、見た景色でも。最後の頁に帰る港を書く」
最後の頁を見る。
『帰港地――』
空欄だ。
閉じる。
『予備紙を二十枚ください』
必要な物だけ買う。
隣でレオンが濃紺の帳面を手に取った。
「銀貨二枚」
値段を確かめる。
『高い』
「聞いただけだ」
棚へ戻した。
店を出たあと、私は食料店へ行き、レオンは武器油を見ると言って別の通路へ入った。
単独行動ではない。市場の角に市警がいて、互いに見える距離。契約の内側だ。
私は乾燥豆、固焼きパン、塩漬け肉を六人十二日分で計算した。自分の分も一人として入れた。食事確認があるので、ここは最初から数えたほうが早い。
ただし王都のあとの分は買わない。
行き先が決まっていないからだ。
レオンだけ、途中で市場へ消えた。
戻ったとき、小さな紙包みを持っていた。
『何?』
「地図帳」
紙包みから、手のひら二枚分の帳面が出る。濃紺の表紙。白い頁。道や予定を自分で書き込む旅用のものだ。
『隊の地図はあります』
「隊のじゃない」
『自分用?』
「お前用だ」
また贈り物。
値札を見る。銀貨二枚。紙としては高い。
『危険手当から?』
「そうだ」
『窓の分が減る』
「窓と帳面とパンを買っても残る」
危険手当二十枚の使い道を、私に関係する物ばかりへしている。
『借りになります』
「なら、使って返せ」
前にも同じ方法で蜂蜜パンを食べさせられた。
『返却期限は?』
「返さなくていい」
『借りなら期限が要る』
「借りじゃない。贈った」
言葉が変わった。
贈り物は困る。使えば減る。汚す。返す金額が決まらない。相手が自分へ使った理由を、こちらで精算できない。
『隊の備品にします』
「するな」
『旅の記録なら皆が使える』
「お前が使え」
『文字はセラさんのほうが』
「記録官の帳面は別にある」
逃がす先を一つずつ塞がれる。
『受領書を書きます』
「要らない」
『何もなしでは受け取れない』
レオンは少し考え、帳面の最初の頁へ書いた。
『受取条件――明日の予定を一つ、自分のために書く』
署名欄へ自分の名を入れ、私へペンを渡す。
条件つきなら契約に近い。理由ができる。
私はミナ・アルノと署名した。
「成立だ」
レオンの肩がわずかに下がった。
帳面を受け取っただけで、どうして安心するのだろう。
『何を書くの』
「明日」
レオンは濃紺の帳面を私の路線図の上へ置いた。
「隊の予定じゃない。お前の明日を書く」
白い頁は、どこにも線がなかった。
王都で止める丸さえない。