白丘療養院は、病人を坂道の上へ集めている。
名前どおり白い丘。その頂上に石造りの病棟が七つ。薬草畑、検査塔、記録庫、食堂。どこへ行くにも階段だ。
治す前に足腰を鍛える方針なのかもしれない。
「馬車を上まで入れます」
ティアさんが言った。
私の冗談は板の中に置いたままにした。
硝子港から三日。声は少し戻ったが、一日に十語まで。治療契約へ追加された。十語を値段にすると、一語を無駄遣いできない。
「おかえり、ティア」
正門の薬師が手を上げる。
「患者六人、うち要精密検査一人。修繕隊の記録閲覧申請があります」
ティアさんは挨拶より先に用件を返した。
「ほかの五人は患者じゃないでしょう」
「睡眠不足二、右手捻挫一、慢性腰痛一、耳の補助具調整一」
ロウさん、ノル、レオン、セラさん、たぶん本人も含む。全員患者にされた。
「変わらないねえ」
門の薬師は笑い、六枚の受付札を出した。
ティアさんは療養院育ちだ。帰る場所と働く場所が同じ。そう地図へ書いた。
けれど彼女は建物を懐かしそうに見たりしない。薬品庫の位置、検査塔までの近道、車輪の通れる廊下を順に確認する。
帰る人も、帰る顔をするとは限らないらしい。
受付のあと、ティアさんだけ別室へ呼ばれた。
白髪の主任薬師が、彼女の提出した診療録を机へ並べる。私は廊下の長椅子から見えた。
「患者七人の一括声滓。あなたが止められなかった?」
「止める指示は出しました。物理的制止はレオン、装置停止はノルとロウ隊長。私は患者一名の分離中でした」
「責任を分けているの?」
「行動を分けています。責任は後で検討します」
主任薬師は一度だけ頷いた。
「帰ってきた顔じゃないね。まだ現場の顔だ」
「患者がいます」
ティアさんは私を見る。
「そういうところは、変わらない」
門の薬師と同じ言葉を、今度は笑わずに言われた。
ティアさんは返事をしない。代わりに私の服薬時刻を伝え、検査塔の予約票を受け取った。
帰る場所でも、仕事が先へ来る人はいる。
私だけのやり方ではない。
少し安心したところで、主任薬師がこちらへ来た。
「ティアの契約書を読みました」
『守っています』
「守る目的は?」
『治療を受け、任務へ参加するため』
「前半だけでも成立します」
白丘の薬師は、皆同じところを直したがる。
『結果として同じです』
「結果が同じなら、任務へ戻れないときも治療を続けられますか」
続ける理由はある。味が戻ればパン屋で働ける。声が戻れば交渉できる。
戻らなかった場合。
質問がそこまで含んでいると分かり、板が止まった。
「今日は答えなくていい」
主任薬師は逃げ道を残した。
ティアさんなら、必要な事実として答えを求める。育った場所と本人は、似ているけれど同じではない。
検査塔へ向かう途中、食堂を通った。昼の皿が六つ用意されている。受付時点で人数へ入っていた。
私の皿だけ柔らかいパン、喉を傷めない粥、味覚がなくても腐敗を避けられる個包装。
療養院は患者が役に立つかを確認する前に、食事を数える。
ありがたい、より先に費用が気になった。隊の医療経費だと自分へ説明し、全部食べた。
私の検査は半日かかった。
味覚は五味すべて反応なし。嗅覚八割。声帯夜晶は右に五粒、左に二粒。黒線は右肩から先へ進んでいない。平常体温三十五度一分。影の遅れ、平均〇・六秒。
「影に平均があるんですね」
一語目から七語使った。
「今ので七語です」
ティアさんが数える。
残り三語。
『返事は板にします』
「最初からそうしてください」
検査塔の技師は、影の周りへ青い目盛りを置いた。私が手を上げる。影は〇・四秒後。歩く。〇・七秒。急に振り返ると一・二秒。
「夜晶が身体の情報を遅らせています」
技師が結果を読む。
「通常、影は身体の一部です。遅延が二秒を超えると分離の危険。戻らなければ、本人の記憶と体温を持っていきます」
『予防は?』
「夜滓を増やさない。影へ名前を呼びかける。自分の予定を毎日一つ、影と共有する」
最後だけ治療に聞こえない。
「予定は身体と影を同じ明日へ結びます」
技師は本気だった。
濃紺の予定帳が鞄にある。
まだ一頁も書いていない。
『薬では?』
「予定が一番副作用が少ない」
薬のほうが簡単なのに。
ティアさんが検査結果へ署名し、予定療法を治療契約へ追加した。一日一つ、本人の予定を書く。隊の任務では不可。
逃げ道を検査技師と二人で塞がれた。
午後は記録庫へ行く。
白丘療養院には、長夜直後からの患者記録が残っている。白麦院の候補者は、ここを中継して王都の施設へ移されたらしい。
記録庫は丘の中に埋まっていた。温度と湿度が一定で、夜滓を避ける青い石が壁へ入っている。
入口の管理官へ、ロウさんが閲覧申請を出した。
「白麦院、影請け候補者移送、十四年前。技術班記録」
管理官は申請書の署名を見る。
「あなたの名が、旧記録にもあります」
「分かっている」
「当事者による閲覧は、改変防止の立会いが必要です」
「セラ・ユイン記録官、ティア・ベルク薬師。患者本人もいる」
管理官の目が私へ来る。
「候補番号は」
板へ『名前はミナ・アルノ』と書く。
「旧記録との照合に番号が要ります」
『十九』
書き足す。
管理官は私の顔を見た。驚きは声に出さず、申請書を持つ指が止まった。
「十九番は、記録上――」
「原本を先に」
セラさんが遮る。
管理官は口を閉じ、青い手袋を六組出した。
十四年前の箱は、地下三段目にあった。
箱の表には『白麦院・候補者二十名・第二次移送』。
二十。
私は十九だから、後ろに一人いる。
白い廊下で、番号順に並んだ。前の子の背中。後ろの子の咳。名前は思い出せない。
「開けるぞ」
ロウさんが言う。
頷く。
封印をセラさんが記録し、管理官が切る。
中には移送表、健康票、食札、設備図、技術班報告。
健康票は番号順に束ねられていた。
一番、十歳。影請け反応は弱い。洗濯点三十二。
二番、七歳。夜間発熱。掃除点四十一。
三番、十二歳。右脚に古傷。厨房点五十六。
病状より、働いた点数が大きく書かれている。
「この点は?」
ノルが聞く。
「白麦院の配給評価です」
管理官が答える。
「一日十点で食札一枚。規定は後の箱に」
「子どもの病院でしょう」
「登録上は孤児養護施設です」
「治療施設ではないの?」
ノルの問いへ、誰もすぐ答えない。
四番、九歳。歌唱点六十。
白い廊下の夕方、誰かがよく歌っていた。分灯式の短い歌。声は思い出せるのに顔がない。
五番、六歳。裁縫点十四。泣くと作業停止、減点五。
六番、十三歳。年少者介助点七十八。
七番、八歳。食札譲渡二回、減点二十。
「食べ物を人へあげると、減点?」
レオンが紙を見る。
「本人の健康管理を乱す行為として」
管理官は規則を読む。
正しい面もある。子どもが食事を譲れば、止めなくてはいけない。
ただ、食べ物を取り上げる減点で止めるのは、方法が少し悪い。
「少し?」
声が出ていたら言ったかもしれない。板へは書かなかった。
八番、十一歳。移送中死亡。
健康票の最後に、『架台固定中、呼吸停止』。
ロウさんの作った架台だ。
彼の手が紙へ伸び、触れる前で止まった。青い手袋の指を握り直す。
「原因欄は」
ティアさんが読む。
「鎮静薬過量の疑い。投薬者署名なし」
設備だけが原因ではない。
でもロウさんの顔は戻らない。
九番から十三番。年齢は六歳から十二歳。厨房、掃除、子守、夜警補助。
十四番、白丘返送。
「到着していません」
ティアさんが自分の療養院記録と照合する。
「返送票の受領印は偽造です。白丘の印は外周に薬草葉が五枚。これは四枚」
育った場所の印を、一目で見分けた。
十五番、八歳。影請け適性、高。
十六番、九歳。高。
十七番、七歳。中。
十八番、十二歳。高。
十九番、八歳。最高。
厨房点、百四十二。年少者介助、九十。採血協力、四十。夜滓受容、一回につき二十。
ほかの子より点が多い。
「よく働いてますね」
残り三語のうち使った。
レオンの視線が私へ移る。
「褒めてない」
「数字の話」
残り一語。
十四年前の私は、食札を多くもらえたはずだ。自分で全部食べた記憶はない。でも仕事としては上手だった。
「夜滓受容が評価項目に入っています」
ティアさんの声が硬い。
「医療行為を労働点へ変え、本人の同意を報酬で誘導した」
難しい言い方だ。
よく我慢したら食べられる。役に立ったら食卓へ呼ばれる。子どもへ分かりやすくしたのだと思う。
ノルが十九番の健康票を裏返した。
「二十番がない」
束の最後は十九。移送表には二十人。
「健康票ごと消えています」
セラさんが箱の綴じ紐を調べる。
「一枚抜かれた跡。紙粉が新しい。十四年前ではなく、最近です」
誰かが私たちより先に、二十番の記録だけ持ち出した。
「二十番の子、覚えているか」
レオンが聞く。
番号列の最後。咳。小さな手が、私の服の裾を持っていたような気がする。
確かめられる記憶ではない。
『後ろに誰かいた。名前は不明』
セラさんは本人記憶として灰色の帳面へ書く。
名前のない二十人が、少しずつ作業と年齢を持った。
それでも、生きているかを照合できる名前はない。
ロウさんは設備図を取った。
右下に署名がある。
ロウ・ガルド。
第八話で見た古い設計図と同じ字だった。
「影熱患者移送用安定架」
ノルが表題を読む。
「患者を寝かせ、影を下の箱へ固定。移動中の夜滓拡散を防ぐ」
図だけなら、治療道具だ。
台は二十台。子どもの身長に合わせ、ベルトが五本。手首、足首、胸。影を固定する誘導札には番号。
「これを作った」
ロウさんが言った。
「十四年前、鐘守庁の技術班で。白麦院から白丘へ、影熱の子どもを移すためだと説明された」
声がいつもより遅い。
「実際は?」
今日は残り三語。全部使った。
「白丘へ来た記録はない」
ティアさんが移送表を開く。
「中継検査の欄が空白です。王都へ直送された」
ロウさんの指が設備図の署名へ乗る。
「俺は最初の移送に立ち会った」
レオンが顔を上げる。
「白麦院へ行ったのか」
「外庭まで。子ども二十人を数え、架台二十、誘導札二十を確認した」
「中は見なかった?」
「権限がないと言われた。見ようとしなかった」
ロウさんは言い訳をしない。第十七話の広場と同じだ。
「子どもは歩いていた。病人には見えなかった。一人が、架台へ乗る前にパンを落とした」
視線が私へ来る。
「拾おうとして、職員に止められた。十九番だった」
覚えていない。
「それが私?」
声を使い切ったので、板へ書く。
「欠けた札を握っていた。今のお前と同じ髪だった」
髪は証拠として弱い。でも名札は合う。
『拾わなくて正解。床のパンは汚い』
書くと、ロウさんの眉間が深くなった。
「お前は、後ろの子へ渡すと言った」
落としたパンを、自分で食べるつもりではなかったらしい。
「俺は予備食を出すよう職員へ言った。職員は、移送先で与えると答えた」
『与えた記録は?』
「ない」
『なら今後の証言に使えます』
役に立つ部分を拾う。
ロウさんは私の板を読んでも、設備図から手を離さない。
「お前たちを数えた。二十人いると確認した。それで俺の仕事は終わりだと思った」
『架台は故障した?』
「していない」
『設計上の問題は?』
「影を固定する時間が長すぎる。今なら作らない。だが移送だけなら機能した」
『では子どもの行き先が問題』
「そうだ」
『そちらを調べましょう』
話が進む。
「ミナ」
ロウさんが板を押さえた。
「俺が謝る話を避けるな」
『謝罪で記録は増えません』
「増やすためじゃない」
『今、必要なのは移送先』
「俺には必要だ」
隊長が自分の必要を言うのは珍しい。
でも私が受け取って、何をすればよいのだろう。許せば設備図が消えるわけではない。怒れば子どもが戻るわけでもない。
『何を返せばいいですか』
「返さなくていい」
また値段のないものだ。
『では後で』
「後で、いつだ」
レオンと同じ質問をする。
『調査後』
「仕事が終わったら聞くのか」
『必要なら』
「お前に必要かを聞いてる」
自分が十四年前に数えられたことを知り、設計者から謝罪を受ける。必要かどうかの分類がない。
役に立つ告白。今は役に立たない告白。
前者だけ聞けば、作業は進む。
『今は移送表』
板へ書く。
ロウさんは手を離した。
怒った顔ではない。命令が通じなかったときより、静かだった。
セラさんが灰色の帳面へ、ロウさんの証言と私の回答を両方記録する。
移送表は二十行。
一番、王都第一研究棟。
二番、同。
三番から七番、王都第二研究棟。
八番、移送中死亡。
九番から十三番、第一研究棟。
十四番、白丘返送。けれど白丘側に到着記録なし。
十五番から十八番、朝の器試験棟。
十九番。
欄の前で、ティアさんの指が止まった。
二十番は空白。
「生存照合をします」
セラさんが別の名簿を出す。
王都研究棟の閉鎖記録、死亡票、白丘の患者名簿、各町の保護登録。
一番、死亡。
二番、記録断絶。
三番、死亡。
一人ずつ、青い印を置く。
記録断絶は生存ではない。死亡確認もない。どこかで名前を変えた可能性はある。
ただ、生きていると現在確認できる印は一つしかつかなかった。
十九番。
ミナ・アルノ。
「二十人のうち、生存確認一名」
セラさんが事実を読む。
ノルが移送表の名前欄を見る。
「番号しかない」
「白麦院の本名簿が必要です」
セラさんが言う。
「二十人を番号のまま終わらせません」
レオンは十九の行から目を上げない。
ティアさんは私の脈を取った。何も言わず、指を置く。
『正常?』
「八十四。普段より速いです」
『胸二』
「記録します」
契約どおり報告した。
移送表の十九番へ戻る。
行き先欄は、王都第一研究棟。
その横に、赤い印があった。
『処理完了』
下へ小さく、二文字。
『廃棄』
「間違いですね」
声は使えないので、板へ書いた。
『私はここにいます』
誰も返事をしなかった。
紙の上では、十四年前に捨てられたことになっている。
なら、今の私は帳簿にない余りだ。
余りなら、どこへ帰すか決まらないのも当然だった。