予定帳には、使い方が書いていない。
濃紺の表紙。水に強い白い紙。頁の上に日付、下に行き先。最後の頁に帰港地。
配達帳なら、注文主と数と代金を書く。修繕記録なら、鐘の状態、交換部品、担当者。用途が分かれば、空欄はすぐ埋まる。
レオンは言った。
「お前の明日を書け」
用途の説明が足りない。
白丘療養院の宿舎で、帳面を開いたまま一刻が過ぎた。
明日は旧白麦院へ移動する。朝の服薬。検温。馬車で二時間ごとに休憩。昼前に白丘北門。夕方、白麦院跡の外壁調査。
全部、隊の予定だ。
治療契約へ追加された予定療法では、「本人の予定を一日一つ。任務は不可」とある。
朝食を食べる、は第十七話で使った。薬を飲む、は治療。寝る、起きる、息をする。どこからが予定で、どこまでが身体の仕事なのだろう。
『明日、靴紐を替える』
試しに書く。
右の靴紐は端がほつれている。自分の靴。任務ではない。
「必要作業です」
ティアさんに見せると却下された。
『私の靴です』
「必要だからすることではなく、したいことを一つ」
条件が増えた。
『ほつれた紐を替えたい』
「言葉だけ変えないで」
見抜かれた。
「候補を三つ書いてください」
ティアさんは診察室へ戻る。課題だけ置いていくところが、白丘の先生らしい。
一、朝食に灰麦パンを選ぶ。
味はない。白パンでも同じ。身体には灰麦のほうがよいので、これは必要作業になる。
二、馬車の右窓へ座る。
白麦院は左手に見える。右へ座りたい理由は、見たくないから。したいことというより、したくないことだ。
三、ノルの工具を手入れする。
任務。
全部消す。
紙は水に強いが、消し跡には弱い。最初の頁が灰色になった。
「使い方が汚い」
背後からレオンが言った。
振り返る。今日は十語を使い切ったので、板へ書く。
『紙は使えば汚れます』
「何を書いた」
『予定候補』
「消したのは」
『不合格』
レオンは向かいへ座り、帳面を自分のほうへ引いた。
『贈った物でも、勝手に読まないで』
慌てて押さえる。
レオンの手が止まった。
「悪い」
すぐ離す。
意外だった。食事も傷も勝手に数えるのに、帳面は読まないらしい。
「見せていい頁だけ見せろ」
最初の頁は消し跡だけ。見せてもよい。
向きを変える。
「靴紐でいいだろ」
『したいことではなく必要作業だそうです』
「誰が決めた」
『ティアさん』
「自分の靴紐を替えたいなら、自分の予定だ」
『替えたいというより、切れる前に替えるべき』
「なら切れるまで待て」
『非効率』
「効率を外せ」
予定を作るために靴紐を切らせる人がいるだろうか。
レオンは新しい頁を開いた。
「明日では短い。先に一年後を書く」
『もっと難しい』
「俺も書く」
自分の小さな紙片を出す。
「互いに一つ。任務以外。現実にできるかは今、考えない」
『帳面は私用です』
「俺の予定をお前の帳面へ予約する」
『場所を借りるなら使用料』
「蜂蜜パン一個」
味のない物を使用料にするのは安い。でもレオンは、味が戻らなくても買うと言った。
『先払い?』
「来年払う」
返済期限のある契約になった。
最初の白い頁へ、レオンが書く。
『来年、麦環市で朝飯』
主語がない。
『誰と?』
「俺とお前」
『店で?』
「アルノパン店」
『親方は?』
「いる」
『ノルは?』
「麦環市へ来てれば」
『皆も呼ぶ?』
「来られるなら」
人数が増える。
六人。親方を入れて七人。グスタさんも来るかもしれない。食卓が足りない。
『長卓を出す必要があります』
「出せ」
『冬なら外は寒い』
「来年の今ごろだ。初夏」
『献立は?』
「お前が食いたいもの」
分からない。
味覚が戻るかもしれない。戻らないかもしれない。戻れば蜂蜜パン。戻らなければ、食感がよいもの。灰麦、豆粥、柔らかいパン。
『皆の希望を聞きます』
「お前のを聞いてる」
また主語を戻される。
『来年なら、今決めなくていい』
「帳面に書け」
『未定』
「それでも書け」
レオンの予定の下へ、私の一行を入れる場所がある。
書けば、来年の食卓へ私の皿が置かれる。
王都の面談。朝の器。白麦院の記録。大夜蝕。どれも終わっているか分からない。
私が店へ戻るかも決めていない。
味覚と声が残っているかも分からない。
生きているか。
そこまで考えたところで、筆先が止まった。
来年の予定は、代わりの人へ引き継げない。
『ロウさんは王都で分灯式の制度化』
別の行へ書く。
「お前の話だ」
『一年後の候補を増やします』
『ティアさんは白丘に声滓治療室』
『セラさんは改変記録を公開』
『ノルは麦環市で検知灯の工房』
『レオンは警備隊の副長』
「勝手に昇進させるな」
未来は本人へ確認したほうが正確だ。
帳面を持って、順番に聞くことにした。
ロウさんは記録庫の報告書を作っていた。
『一年後、分灯式を制度にします?』
「俺が制度に残っていればな」
『処分後の予定』
「白麦院の二十人を調べる」
『仕事では?』
「仕事でなくても調べる」
ロウさんが自分から仕事と切り離すのは珍しい。
『そのあとは』
「決めてない」
『一年後ですよ』
「お前に言われたくない」
返された。
それでも帳面へ書く。
『ロウ――二十人の名前と行き先を調べる。所属に関係なく』
「お前の帳面だろ」
『候補を集めています』
「他人の予定で頁を埋めるな」
レオンと同じことを言う。相談したのだろうか。
ティアさんは薬品棚の補充中だった。
『一年後、白丘に声滓治療室?』
「白丘だけでは足りません」
薬瓶を大きさ順に並べながら答える。
「巡回治療車を作ります。採声事故のある町へ設備ごと運ぶ」
『修繕隊と一緒?』
「別の権限が必要です。鐘守庁の命令を待たず治療できる医療隊」
もう設計が始まっている。必要薬品、鉛瓶、検査器、寝台数。
『自分の予定は?』
主任薬師に聞かれた問いを、そのまま返す。
ティアさんの手が止まる。
「三日に一度、六時間眠る」
『少ない』
「毎日六時間」
すぐ訂正した。
『食べたい物』
「白丘の酸果煮」
初めて好物を知った。酸っぱい果実を蜂蜜で煮る料理らしい。
『巡回先でも作れます』
「あなたの味覚が戻ったら、甘味と酸味を検査できます」
仕事へ戻された。
『検査でなく食べます』
書くと、ティアさんは一度眼鏡を上げた。
「その予定を、あなたの頁へ書いてください」
また返された。
セラさんは候補者日誌の閲覧申請を作っていた。
『一年後、改変記録を公開?』
「公開は手段です」
『目的は?』
「本人へ返す」
短い。
「二十人の記録を、名前ごと本人または遺族へ返します。生存不明なら、公開範囲を決める人もいません。まず名前を探します」
『自分の記録は?』
「帰郷して、十六歳の報告書へ追記します」
鐘楼倒壊のとき、混乱した少女と要約された記録。
『何と書く?』
「床の振動を報告した。正しく扱われなかった。今も記録官をしている」
事実だけ。でも最後の一文は、本人の未来だ。
ノルは馬車の軸を分解していた。
『一年後、麦環市の工房?』
「グスタさんが弟子にしてくれたら」
『頼む前提で書いていい』
「断られたら?」
『次の工房へ頼む』
「ミナさんの予定は、断られたら消すのに」
鋭い。
『今はノルの話』
「僕は、夢泥検知灯を全十二鐘へ置きます」
『一年で?』
「一個を三日。部品を共通にすれば、一年でできます」
工具へ置き換えると未来も速い。
「それから、赤い糸を返します」
細工箱の取っ手に結ばれた糸。
『貸出期限はなし』
「一年後も借りてたら、形見みたいだから」
言葉が急に変わった。
『生きてます』
「一年後も?」
ノルは工具から顔を上げる。
『その予定を書く練習中』
「練習じゃなくて、書いてください」
どこへ行っても同じ答えを求められる。
他人の一年後は簡単だ。長所と欲しいものが見える。ロウさんは責任を名前へ変える。ティアさんは治療車。セラさんは記録を返す。ノルは灯りを作る。レオンは――。
レオンは朝食。
一番、仕事ではなかった。
十語制限を破りそうな顔をしたので、板へ『向いてる』と書く。
「俺の一年後はもう書いた」
麦環市で朝食。
仕事ではない。
「お前は」
『皆の予定が重なる日に朝食を用意します』
「用意するのをやめろ」
『食べる人がいるなら必要』
「お前も食べるだけでいい」
『パン屋で食べるだけは難しい』
「一日くらいできる」
『親方に怒られる』
「俺が頼む」
レオンが親方へ頼む。親方は面白そうに承諾するだろう。私だけ客の席へ座らせ、厨房へ入れない。二人ともやりそうだ。
怖い。
自分でも、何が怖いのか分からなかった。
仕事をしない朝。用意される皿。返す作業がない贈り物。来年も同じ席へいる前提。
役に立つからではなく、私だから呼ばれる。
そんな契約は、条件が分からない。
『明日の予定から練習します』
頁をめくる。
レオンが書いた一年後の頁を飛ばし、次の頁へ明日の日付を入れる。
『白丘北門で馬車の積荷確認』
「任務だ」
さらに次。
『昼、薬を飲む』
「治療だ」
次。
『白麦院の外壁図を作る』
「任務」
次。
『ノルへ右車輪の音を伝える』
「今伝えろ」
ノルは隣室にいる。確かに明日まで待つ必要はない。
頁をめくるたび、使えない予定が増える。
「最初の頁へ戻れ」
首を横へ振る。
『あれは一年後』
「だから残る」
『今は明日』
「逃げてる」
レオンはもう三度目なので、別の言葉を使った。
『練習です』
「じゃあ明日、何を食べたい」
『携行食』
「種類」
『味は同じ』
「食感で選べ」
固焼きパン、柔らかい白パン、灰麦、干し果実。
『柔らかい白パン』
書く。
「理由」
『喉が痛くない』
「必要じゃなく、好き嫌い」
味はない。けれど今は、固いものより柔らかいほうが食べたい。
『柔らかいほうが好き』
書き直す。
レオンはその一行を読んだ。
笑わない。褒めない。大げさに頷かない。
「分かった」
それだけ。
翌朝、食堂の私の皿へ柔らかい白パンが置かれた。
頼んだのはレオンだろう。
借りではない。予定を伝えた結果。
食べる。
甘くも塩辛くもない。柔らかい。
帳面の予定へ、小さな丸をつけた。
一年後の頁は開かなかった。
食後、麦環市から手紙が届いた。
親方の字は、焼印のように太い。
『店は無事。粉代は上がった。魚屋が毎朝一枚多く平焼きを頼む。お前の窓はレオンに直させるから寸法を送れ』
レオンが先に話したらしい。
『味のことはティアから聞いた。店の配合表を写して送る。味見は私がする。戻ったら窯の前に立てないとは言ってない』
ここまで全部、仕事の話。
親方も分かりやすい。
最後に三行あった。
『お前の皿は棚にある。誰にも使わせてない』
『欲しい物を書け。粉と道具は禁止』
『返事が空なら、蜂蜜を送る』
粉と道具を先に禁止されている。
蜂蜜は味が分からない。送られても、ノルの味見用になる。いらないと書けば、親方は余計に大きな壺を送るだろう。
予定帳へ返事の候補を書く。
新しい靴紐。必要品なので禁止に近い。
冬外套。季節外れ。
店の帳簿の写し。仕事。
蜂蜜パン。味がない。
親方の手紙。
今、手にある。
『もう一通、手紙をください』
書いてみる。
役に立たない。腹も満たさない。返事が来るまで、親方は店の時間を使う。
でも欲しい物という条件には合う。
予定帳から破らず、別の便箋へ写した。
レオンが隣で見ていたが、何も言わない。
「一年後の頁より先に、次の手紙か」
十語制限は朝に戻っている。
「近い予定から」
三語使った。
「いい」
レオンはそれだけ答え、封筒へ麦環市の住所を書いた。
返事を待つ予定が一つできた。
白丘を出る。
旧白麦院は、北の森にある。十四年前の閉鎖後、建物は鐘守庁の封鎖地になった。移送表の本名簿と二十番の健康票を探す。
馬車の右窓へ座った。
左側には、白い建物が少しずつ近づく。
見たくないから右を選んだ。これは、自分のしたいことだったのかもしれない。
でも右の景色にも、白麦院の影が映る。窓硝子へ薄い私の影。その向こうに白い壁。
逃げる向きを変えただけだった。
昼前、外門へ着いた。
白麦院の表札は外され、錆びた釘だけ残っている。封鎖札をロウさんが開ける。
中庭へ雑草。白い廊下の窓は半分割れていた。
私は場所を知っている。
食堂は東。寝室は二階。治療室と呼ばれた部屋は地下。
声に出さず、地図へ書く。
玄関の受付机をノルが開けた。
「紙が残ってます」
湿気を吸った帳面が、底へ十冊。
候補者日誌。
表紙は灰色に退色している。けれど紙の手触りに覚えがあった。
水へ強い繊維。日付と行き先の欄。最後の頁に、帰る場所。
私の濃紺の予定帳と同じ紙だった。
一冊目を開く。
最初の頁の表題。
『明日の予定を書きなさい』
子どもの字で、その下へ答えがある。
『先生に呼ばれたら、地下へ行く』
自分の予定ではなかった。
二冊目。
『明日は泣かない』
三冊目。
『八番のぶんまで働く』
四冊目。
『食札を二枚もらったら、一枚を六番へ返す』
予定の形をした命令、我慢、返済。
私の帳面へ書いた任務と、よく似ていた。
ノルが古い日誌の頁と、私の予定帳を灯りへかざした。
「透かしも同じです」
紙の中へ、小さな鐘と船の印。
「硝子港の紙店は、鐘守庁の払い下げ品を扱っています」
セラさんが店の領収書を確認する。
「白麦院は十四年前、同じ紙を候補者教育用として購入」
『丈夫だからでしょう』
私は板へ書いた。
「何を書かせるために、丈夫である必要があった」
レオンが古い日誌をめくる。
毎日、命令に従う予定を書かせる。守れば赤い丸。守れなければ黒い線。頁は一年分あるのに、どの帳面も三か月ほどで終わっていた。
移送されたからだ。
私の濃紺の帳面は、まだ新しい。
同じ紙でも、書く人と読む人が違えば用途は変えられる。
そう思って表紙へ手を置く。
最初の頁には、レオンの字で『来年、麦環市で朝飯』。
古い日誌のどの頁にも、来年という言葉はなかった。