廃屋へ入るときは、床より天井を見る。
床の穴は見つけやすい。落ちてくる梁は、気づいたときには遅い。
「右の壁沿いで」
今日は声を三語使った。
玄関の天井は中央が腐っている。昔も雨漏りしていた。水受け桶を置く係が朝一番に回り、満杯なら一作業点。
今は桶も腐り、床へ輪の跡だけ残っている。
「知っているのか」
ロウさんが梁を支える杭を立てた。
『毎朝通りました』
板へ書く。
「記憶に負担が出たら止めます」
ティアさんが後ろから言う。
『案内したほうが安全』
「安全の話と、記憶の負担は別です」
『胸一。幻聴なし。体温は出発時三十五度二分』
先に報告する。
契約を守っている。なら調査へ参加できる。
ティアさんは検温器をしまわなかったが、止めなかった。
白麦院の一階は、玄関、事務室、食堂、厨房、作業室。
二階は共同寝室と職員室。
地下は治療室、影熱隔離室、物品庫。
子どもは地下を勝手に歩いてはいけない。呼ばれた番号だけ、白線の内側を通る。
「なぜ知ってるんですか」
ノルが聞く。
『何度も呼ばれたから』
「治療で?」
『検査と採血。夜滓受容』
健康票に書いてあった言葉を使う。
ノルは次を聞かなかった。代わりに床の白線を工具の先で確かめる。古い塗料の下に、まだ数字が残っている。
十九。
線は地下階段へ続く。
「先に一階を調べる」
ロウさんが順番を変えた。
『本名簿は事務室。食札規則は食堂。地下は最後が効率的』
「お前を地下へ近づけないためでもある」
『調査目的と違います』
「隊長判断だ」
命令なら従う。
事務室の扉は鍵が壊れ、半分開いていた。中には倒れた棚と、鼠に食われた書類。セラさんが紙片を一枚ずつ青布へ載せる。
机は三つ。
一番奥が院長。左が配給係。右が作業点係。
『右の机、底板が外れます』
「隠し場所?」
『点を直してもらう子が手紙を入れました』
板に書くと、レオンの眉間が深くなった。
「直してもらう?」
『採点間違いの申告』
「手紙で?」
『職員へ直接言うと、口答えで減点』
だから机の底へ入れる。配給係が見つければ、たまに直る。見つからなければ、そのまま。
「合理的ではありません」
セラさんが言う。
『直接より成功率が高かった』
「子どもが抗議できない規則のほうです」
そちらか。
『規則は職員が決めます』
「正しいとは限りません」
机の底板をノルが外す。
手紙が十七通、乾いた隙間に残っていた。
『掃除四点が二点になっています』
『熱があって作業できませんでした。減点を一日にしてください』
『六番が私の食札を取りました。でも六番は悪くありません。お腹が空いていました』
子どもの字。
返事はない。
「採点間違いは直ったのか」
レオンが聞く。
『覚えてません』
「手紙を入れたことは?」
『十九番も何度か』
「何を書いた」
『ほかの子の点』
「自分のは」
『点が多かったから不要』
健康票で百四十二。食札には困らなかった。
レオンは十七通を見たあと、院長の机を開けた。返事の紙はない。代わりに赤い減点印が一箱。
事務室の壁へ、規則表が貼ってあった。
一、起床鐘より前に寝台を整える。
二、作業は静かに行う。
三、職員の質問へ「はい」と答える。
四、泣いた場合は落ち着くまで食堂へ入れない。
五、影熱の子を見つけたら職員へ知らせる。自分で触れてはならない。
最後だけ、私は守らなかった。
『だから夜滓受容点が追加された』
「違反を褒めて繰り返させた?」
ティアさんが規則表を見る。
『結果がよかったから、規則を変えたのでは』
「子ども一人だけが引き受ける形へ?」
『適性があった』
私の健康票には最高と書かれていた。
「適性があれば、痛くないのですか」
『痛みは減りません』
「なら、何への適性です」
耐える。移す。死なない。
『成功率』
ティアさんはそれ以上聞かなかった。
規則表を剥がす手が、紙の端を少し破った。すぐ補修紙を当てる。
食堂へ移る。
長い机が四列。椅子は二十脚ずつ。壁に食札の投入口。厨房窓で札を一枚渡すと、粥とパンが出る。
『食札は十点で一枚。朝と夕方に必要』
「一日二十点働く?」
ノルが数える。
『幼い子は半札。大きい子が足りない分を稼ぐ』
「病気で働けない日は」
『治療食。申請が通れば』
「通らなければ?」
『前日の残りを借りる』
「誰から」
『点の多い子』
十九番は点が多かった。
食堂の景色が戻る。
列の最後で、札がない子が立っている。私は自分の札を渡す。職員が見る。働き点の譲渡は禁止。なら先に粥を受け取り、机の下で半分にする。
効率が悪い。
「ミナ」
レオンの声。
今の食堂へ戻る。
『幻視、一回。胸二』
契約どおり板へ書く。
「調査を止めます」
ティアさん。
『内容は既知。新しい負担ではない』
「身体反応が出ています」
『報告したら外す?』
「休憩です」
『報告が参加停止につながるなら、次から』
書きかけて止める。
次から隠す、と書けば契約違反になる。
ティアさんは途中まで読んだ。
「報告したから休ませるのではありません。幻視が出たから休みます」
『同じ結果』
「報告しなければ、もっと長く外します」
契約の柵が高くなる。
食堂の入口へ椅子を置かれ、温石と水を渡された。皆は視界に入る範囲で調査を続ける。
役に立てない休憩は長い。
何かできることを探し、古い食札を数えた。三百二十一枚。番号別に束ねる。これは座ってできる記録補助だ。
「休憩です」
レオンが札を取る。
『手だけ』
「頭も使う」
『数えるだけ』
「休め」
仕事を奪われる。
胸の重さが二から三へ上がった。
『胸三』
報告する。
ティアさんが来て脈を測る。七十八。
「休むと悪化する?」
レオンが聞く。
『たまたま』
「事実?」
ティアさんの言い方を使う。
板が止まる。
『仕事を外れると、少し』
何が少しなのか書けない。
「怖い?」
レオンが聞いた。
休むだけ。契約もある。皆は同じ建物にいる。
『暇です』
「違う」
『本人説明へ』
セラさんへ板を向ける。
「記録します」
青い帳面には、脈と胸痛。灰色には、暇。
どちらも消えない。
三十分後、調査へ戻る許可が出た。
厨房の奥に、小さな食卓があった。椅子は六脚。食堂の子ども用ではなく、職員と高得点者が使う。
壁の札に、『今週のよい子』。
一位、十九番。
二位、六番。
三位、十二番。
『よい子から食卓へ呼ばれました』
説明する。
「何を食べた」
レオン。
『白パン。ときどき蜂蜜』
「ほかの子は粥?」
『点が足りればパンも』
「足りなければ」
『働けばいい』
食札の仕組みは分かりやすい。役に立つ。札をもらう。食べる。迷惑をかければ減る。
親方の店は違った。働く前に皿があった。家族欄があった。返し方が分からない。
「八歳の子が、食べるために働くのは正しいのか」
ロウさんが聞く。
『孤児院は人手が少ない』
「正しいかを聞いた」
『運営には必要』
「お前に必要だったか」
食べ物は必要だった。働けば得られた。
『困ってませんでした』
誰も返事をしない。
食卓の一脚は、座面が外されていた。
裏へ革帯。子どもの腰を固定する金具。食事用ではない。
食卓で夜滓受容の観察をしたらしい。
蜂蜜は報酬であり、薬の味を隠すものだった。
私の舌は今、どちらも分からない。
「困っていなかった子の椅子ではありません」
ティアさんが言う。
私は板を消した。
『二階を確認してから地下へ』
順路を変える。
共同寝室は、東西に二部屋ずつ。小さい子、大きい子、病気の子、減点中の子で分かれていた。
「減点中?」
ノルが聞く。
『規則違反が三十点を超えると西端』
「寝る部屋も変わるんですか」
『反省期間。話すと相手も減点』
西端の扉には、内側からついた爪の跡があった。
反省中の子は、夜に便所へ出ると減点。呼んでも職員が来ない場合がある。だから寝台の下へ空き瓶を置いていた。
「それを反省と呼ぶのか」
ロウさんの声が硬い。
『規則表にはそう』
「お前はどう呼ぶ」
呼び方を考えたことがない。
『西端の部屋』
場所の名前で答える。
セラさんは規則表と爪跡を別々に記録した。
東の大寝室には、二十台の寝台が残っている。頭側へ番号。十九番は窓の隣。雨が入るので、冬は人気がなかった。
『朝、最初に起きやすいので得でした』
雨受け桶を運べば一点。寝台を早く整えれば二点。窓の隙間から光が入る場所は、起床鐘の前に動ける。
「寒くなかったのか」
レオンが寝台の木枠へ触る。
『毛布は二十点で追加』
「取れた?」
『取らない。点は食札へ』
食べ物のほうが使える。寒さは服を重ねればよい。
ティアさんが私の今の体温を測った。三十四度九分。
「あなたが寒さを小さく扱うのは、ここで覚えたのですか」
『今の低体温は影請け』
「原因ではなく評価です」
同じ寒さではない。昔は毛布がなくても朝になった。今は温石がある。
『比較できません』
「比較しないでください。どちらも寒いと報告して」
『今は寒さ二』
「温石を替えます」
報告すると作業が止まる。でも隠せばもっと長く外される。
交換のあいだ、レオンが十九番の寝台下から木箱を出した。
子ども一人に一箱。私物はここへ入る分だけ。
十九の箱には、乾いた林檎の種、赤い糸の切れ端、丸い石、焦げたパンの皮。
「まだ残ってる」
自分でも驚いた。
声を一語使う。
「お前のか」
頷く。
林檎の種は、厨房の果物から取った。土へ植えれば木になると思った。でも中庭の土を掘るには作業許可が必要で、種のまま置いた。
赤い糸は、六番の服を直した余り。
丸い石は、レオンと川で拾ったものかもしれない。白麦院の外へ出る前なので、違う石かもしれない。
焦げたパンの皮は、食べ物だ。
「なぜ残した」
『非常食』
「十四年たってる」
『当時の話』
今は食べない。さすがに石より固い。
レオンが皮を捨てようとし、手を止めた。
「どうする」
本人へ選ばせる。
『記録後に廃棄』
セラさんが箱の中身を一つずつ撮図し、私物目録へ入れる。
「返却先は本人」
はっきり書いた。
古い林檎の種を赤い配達鞄へ入れる。親方の林檎酵母と同じ袋になった。
寝台の壁には、細い縦線が刻まれていた。
一本、二本、三本。四十七本。
「日数?」
ノルが数える。
『たぶん』
違う気がする。
線の横へ、小さな丸。七本ごとに一つ。
起床日ではない。移送までの日数でもない。
レオンが壁を光へ向けた。
線の下に、子どもの字がある。
『きょうもよいこ』
四十七本。
職員に叱られなかった日を数えたのだと思う。
「四十八日目は」
レオンが聞く。
『移送日かも』
「よい子じゃなかった日は?」
『西端へ行った日』
「お前も入れられたのか」
『一度。夜滓を勝手に取った』
規則違反。翌日から受容点ができたので、同じ行動がよいことになった。
「大人の都合で、悪い子とよい子が変わっただけだ」
レオンが壁の線を見る。
『規則が改善された』
「改善じゃない」
『食札が増えた』
「お前が引き受ける夜滓も増えた」
収入と作業が一緒に増えた。仕事なら普通だ。
でも八歳は職人ではない、とジュノへ言ったのは私だ。
考えがつながりかける。
廊下の奥で、子どもの泣き声がした。
幻聴。
『声、一。胸四』
すぐ報告する。
ティアさんが近づく前に、泣き声の場所が分かった。西端ではない。大寝室の戸棚。
開ける。
中に、落書きがあった。
子ども二十人ぶんの手形。煤を掌へ塗り、壁へ押している。手形の下には、番号ではなく呼び名。
『リィ』『トト』『ナナ』『ハル』『チビ』『うた』
正式な名前ではない。でも子ども同士では番号だけで呼んでいなかった。
十九の位置には、『ミナ』。
自分の名前がある。
十二歳で親方に聞かれたとき、覚えている名として答えた。誰が最初に呼んだのか忘れていた。
「ここにあった」
残りの声を使った。
セラさんが手形を記録する。ノルは二十番目の呼び名を読む。
『ユウ』
咳をして、私の服を握っていた子。
正式名簿がなくても、一つ呼べるものが戻った。
『ユウの健康票が抜かれています』
セラさんが二十番の記録へ呼び名を仮登録する。
泣き声は消えた。
胸の重さは四のまま。
「休みますか」
ティアさんが聞いた。
私が決めてよい聞き方だった。
地下へ早く行けば、実験記録を見つけられる。休めば一時間遅れる。でも胸四は停止基準の五より下。
『温石交換と水。十分後に続行したい』
条件を自分で出した。
「許可します」
十分は長い。
でもそのあいだ、手形の呼び名を帳面へ写せる。これは記録補助ではなく、思い出したいからすることだ。
濃紺の予定帳の新しい頁へ、二十の呼び名を書く。
最初の頁ではない。
それでも任務の欄ではなく、自分の帳面を使った。
『地下へ行きましょう』
目的を変える。
食堂から地下階段まで、最短で四十歩。
白線の十九をたどる。
一段目で喉の夜晶が熱くなる。二段目で影が遅れる。三段目、白い廊下が新しく見えた。
『幻視あり。胸三。続行可能』
「最後は私が決めます」
ティアさんが脈を取り、ロウさんが命綱を私の腰へつけた。
レオンではなく隊長が持つ。レオンは私の横。腕をつかまず、届く距離を歩く。
地下の扉は三つ。
治療室、隔離室、記録室。
十九の白線は治療室へ。
でも記録は右の扉だ。
『先に記録室』
「知っている道から外れるが」
『今の目的です』
自分で選んだように見える。実際は、治療室を後回しにしただけだ。
記録室の鍵は、欠けた名札で開いた。
木札の十九を扉の窪みへ入れる。古い仕掛けが鳴り、錠が外れた。
中は乾いている。
映写器。夜晶板。候補者ごとの実験箱。
一番から二十番。
二十番の箱だけ空。
十九番の箱は、赤い封帯で三重に巻かれていた。
表に私の番号。
『影請け受容試験・最高適性個体』
個体。
人の名前ではない。
箱を開く。
八歳の私が夜滓を引き受ける映像記録、百四十七回分。
その下に、現在の私まで追跡した診断票があった。
最終更新日は、三日前。
誰かが今も、十九番の実験記録を増やしている。