崩れる建物は、最初に小さな音を出す。
砂が落ちる。釘が抜ける。梁の中で虫が鳴くような音。
気づけば、走る時間が一つ増える。
実験箱の封帯を閉じた直後、映写器の奥で赤い光が点いた。
ノルが先に気づく。
「これ、再生灯じゃない」
工具を差し、裏蓋を開けた。
追跡票と細い銀線がつながっている。箱を開け、最後の映像を再生すると通電する仕掛け。銀線は壁の中へ続く。
「警報?」
レオンが聞く。
「たぶん。でも音がしない」
ノルは線へ検査灯を当てる。赤い光が壁の向こうへ走った。
「建物の四か所へ分岐してます。支柱の位置」
「崩落装置だ」
ロウさんが設備図を開く。
「記録を回収された場合、施設ごと封じる」
十四年前の設計にはない。追跡票と同じく後から追加された。
「切れます」
ノルが銀線へ鋏を入れる。
「待て。通電後に切れば起爆する形式がある」
「じゃあ、戻す?」
「映像板を外せ」
セラさんが原本を防護袋へ入れ、ティアさんは十九番の診断票、レオンは候補者日誌、私は追跡票を取った。
全部を持ち出す時間はない。
実験箱百四十七枚。健康票。食札。手紙。二十人の手形。
何を残すか決める。
『原本は映像、名簿、現追跡。ほかは写しあり』
板へ書く。
「手形は」
ノルが聞く。
『記録済み』
「物じゃなくて」
言いたいことは分かる。でも壁ごと持てない。
セラさんが記録筒から、二十人の手形を写した長紙を出した。
「こちらにあります。原壁は位置と状態を記録」
本人へ返せる形は残る。
ロウさんが荷物を六人へ分ける。誰か一人が捕まっても全部を失わない配分。
赤い光が消えた。
「止まった?」
ノルが線を見る。
次に、天井から砂が落ちた。
「三十秒遅延だ。退避!」
声を出す前に、ロウさんが命じた。
「伏せて!」
今日の発声上限は使い切っていた。
でも天井は上限を待たない。
ロウさんが結界杖を上げる。青い壁へ梁が落ち、地下記録室の床が揺れた。
「出口へ!」
二度目。
喉の夜晶が鳴る。
ノルが実験箱を閉じ、セラさんは記録筒を抱える。ティアさんは映写器の夜晶板を防護袋へ入れた。レオンが私の腕を取る。
「走れ」
走行禁止は緊急時に解除。治療契約にも書いてある。
廊下へ出た。
階段まで四十歩。
二十歩で、床が割れた。
前を走るロウさんとノルが向こう側。こちらに私、レオン、ティアさん、セラさん。幅は二間。下は治療室のさらに下、図面にない空洞。
「迂回路!」
ロウさんが向こうから叫ぶ。
知っている。
記録室の裏、物品庫、配管通路。昔、職員が食札を運んだ道。子どもは立入禁止だったけれど、六番と一度入った。
板へ書くより、声が速い。
「東の物品庫!」
三度目。
ロウさんが頷き、ノルを連れて消える。
「喋らないで」
ティアさんが私の喉へ手を当てる。
夜晶は熱い。痛み七。
報告は板でできる。
『痛み七。経路案内は声を使う』
「使いません。私が板を読み上げます」
正しい。でも暗い廊下で、全員が一枚の板をのぞく時間はない。
セラさんなら、手の合図と位置で伝えられる。
私は進行方向を指し、指を四本。四十歩。次に右。
セラさんが読み取った。
「四十歩、右ですか」
頷く。
声を使わなくても通じる。
走る。
十歩。
背後で記録室が潰れた。風が押し、灯りが消える。
暗闇。
先頭はレオン。二番目に私。ティアさん。セラさん。
手をつなぐ。声を使わず四十歩。
右へ曲がる。
扉が二つ。
どちらが物品庫か見えない。
左の扉は隔離室につながる。開けると夜滓が残っている可能性。右が物品庫。
レオンの肩へ触れ、右腕を二回叩く。
右。
伝わった。
扉を開ける。
中から冷たい風。物品庫なら乾いているはずだ。
違う。
「閉めて!」
四度目。
レオンが扉を戻す。隙間から黒い腕が伸び、盾へ爪を立てた。
隔離室だった。
暗闇で向きが逆になった。
声を使わなければ、夜喰いが出た。
使ってよかった。
「左!」
五度目。
喉へ刃を入れられたような痛み。
物品庫へ入る。レオンが扉を閉め、ティアさんが封印札を貼る。
「もう声を出さないで」
ティアさんの声が強い。
『必要時のみ』
「今ので声帯夜晶が動きました。右の五粒が一つにつながっています」
『あと何語』
「ゼロです」
契約上は最初からゼロ。でもここから配管通路は狭く、分岐が多い。後ろの人へ板は見えない。
物品庫の棚をどける。
壁に小さな扉。子どもなら立って通れる。大人は屈む。
順番を決める。
レオン、セラさん、ティアさん、私。
私が先なら道を示せる。でも崩れた場合、後ろが分からない。
最後から声で指示するほうが全員へ届く。
『私は最後』
「俺が最後だ」
レオンが板を返す。
『道を知ってる』
「前へ行け」
『後ろから全員へ指示』
「声は使わせない」
決まらない。
天井から砂が落ちた。
セラさんが板を取る。
『ミナ先頭。手順を手の合図へ翻訳。私が中央で後ろへ伝達。レオン最後』
筆談を使う人の案は、声を使わない前提が上手い。
頷く。
配管通路へ入る。
這って進む。私の足をセラさんが触り、その足へティアさん、レオン。止まると全員止まる。
一つ目の分岐。左へ三回叩く。
伝わる。
二つ目。上の管が折れ、熱い蒸気。
伏せる合図は手では後ろまで遅い。
「伏せて!」
六度目。
全員が頭を下げる。蒸気が髪の上を通った。
ティアさんが私の足首を強くつかむ。怒っている。
でも火傷はない。
結果はよい。
通路の途中で、前方から声がした。
「ミナ!」
ノル。
配管の向こう側にいる。
「位置は」
声を返したい。板は見えない。
管を三回叩く。昔の水道合図で、東。
「三回。東です」
ノルが分かった。
「出口を開けます。十二番管を切る!」
十二番管は私たちの右上。
切れば蒸気が来る。
「待って!」
七度目。
声が割れた。
ノル側で工具が止まる。
「何が」
説明が要る。
十二番、蒸気。十五番を切る。七語。
「十二は蒸気、十五!」
八度目。
血の味がした気がする。味覚はない。喉から温かいものが上がっただけ。
「十五番、切ります!」
金属音。
前の壁へ穴が開き、青い光が入る。
ロウさんとノルがいる。
一人ずつ通路から出る。
私が最後に出たとき、ティアさんはすぐ喉を見た。
「出血。夜晶が声帯へ食い込んでいます」
『全員いる?』
板へ書く。
ロウ、ノル、レオン、ティア、セラ、私。
六人。
「いる」
レオンが答える。
「もう声を出すな」
頷く。
地上への階段は、あと一つ。
物品庫側の崩落が追いついてくる。壁に亀裂。ロウさんが結界を張り、ノルが鉄扉を開ける。
扉の向こうは三方向。
左、厨房地下。
中央、古井戸。
右、外庭。
外庭が出口。
右を指す。
全員が進む。
途中で、床へ白い霧が出た。
影熱の麻酔霧。吸えば眠る。
霧の中で、白麦院の廊下が重なった。
職員が立っている。
「十九番。皆を先に行かせなさい」
幻聴だ。
昔の命令と、今やろうとしたことが同じなので見分けにくい。
『幻視一、幻聴一』
板へ書いてティアさんへ見せる。
「内容は」
『皆を先に』
「従わないで」
ティアさんが私の肩をつかむ。
『避難順は?』
「全員で進みます」
最後尾へ残る案は、症状に引かれた可能性がある。
レオンが外套を二枚に裂き、私と自分へ渡す。六人が離れないよう、腰紐を一本につないだ。
一人が止まれば全員止まる。遅い。でも誰かを置かない。
白い職員は、霧の向こうで首を横へ振った。
「非効率です」
私も少しそう思う。
それでも腰紐を外さなかった。
ティアさんが布を配る。六枚中、五枚。
一枚足りない。
自分の布をノルへ渡そうとする。
ノルが拒む。
「またですか」
自分の襟を口へ当てる。
レオンが予備の外套を裂き、二枚にした。
私と自分へ。
「一人分を二つにした。文句あるか」
ない。
霧の中を進む。
出口の鉄格子が錆びている。
ロウさんとレオンが引く。動かない。
ノルが蝶番を調べる。
「下の留め具。泥の中です」
影が遅れて、泥へ伸びた。
私の影だけ、留め具の位置を知っているように指を差す。
ノルがそこへ工具を入れる。
「あった」
外れる。
格子が開いた。
外庭へ出る。
夕方の光。雑草。白麦院の外壁が後ろで沈む。
地面へ座り、人数をもう一度数える。
六人。
持ち出した記録も確認する。
映像板はセラさん。候補名簿の断片はロウさん。追跡票は私。二十人の手形写しはノル。医療票はティアさん。候補者日誌はレオン。
六つ。
全員の荷物がある。
ノルの左手に切り傷。配管の縁で擦った。セラさんの補助銀具へ砂。レオンの外套は半分。ロウさんの結界杖に亀裂。ティアさんは右膝を打っている。
私だけが損をしたわけではない。
『全員、負傷報告』
板を回す。
「まずあなたです」
ティアさんが返す。
『喉八、胸四、影一・四秒、幻視一、幻聴一』
契約どおり全部書く。
「発声八回」
セラさんが補う。
『回数は症状?』
「原因記録です」
ティアさんが喉へ鏡を入れた。
「右の夜晶五粒が癒着。左二粒も下端が声帯へ定着。溶解薬では剥がせません」
『手術』
「今はできません。無理に剥がせば声帯も切れます」
『声を使わなければ維持』
「可能性はあります」
戻る可能性ではなく、これ以上悪くしない可能性。
声は道具だ。今日、八回使って六人を出した。道具が傷んだなら、次から別のものを使う。
『合図表を作ります』
「今、休んでください」
『休憩後に』
「明日です」
声を失うかもしれないのに、準備を明日へ回すのは不安だ。必要な道具がない時間ができる。
セラさんの筆談板を見る。
彼女は聞こえにくい場所でも働いている。声がなくても記録し、質問し、道を伝える。
『セラさんの方法を教えて』
板へ書く。
セラさんはすぐ答えなかった。
「何を」
『緊急筆談、手話、合図。声を失っても使えるように』
「私の方法は、声を失った人用ではありません」
『聞こえない場面で通じる』
「結果だけを見れば」
声が平らになる。
「私は聞き取れないことを隠さず相手へ伝え、正面へ立ってもらい、読み上げを頼み、失敗しながら手段を増やしました。筆談板一枚を持てば同じになるわけではありません」
『同じとは』
書きかける。
さっき自分で書いた。「失ってもセラさんの筆談を真似れば」。同じように代えられると思っていた。
『簡単に借りられると思いました。ごめんなさい』
書き直す。
セラさんは最後まで読む。
「謝罪を記録します」
許すとは言わない。
「明日、基礎から教えます。条件は、声を失う前提で練習しないこと」
『どういう意味?』
「今ある声を消耗してよい理由にしない」
ティアさんが頷く。
『分かりました』
「本人説明へ記録します」
セラさんは少し意地が悪い。
でも一歩離れていた距離が、半歩戻った。
レオンが裂いた外套の残りを持ってきた。
白い布へ、小さな赤い点が八つある。
「通路に落ちてた」
声を出すたび、喉から血が飛んだらしい。
一つ目は記録室の出口。二つ目は割れた床。三つ目、隔離室。四つ目、蒸気管。声のパンくずをたどれば、私たちが通った道になる。
『帰り道の印』
板へ書く。
「もう帰った」
『役に立った印』
「血を成果に数えるな」
レオンは布を捨てず、ティアさんへ渡した。
検査薬をつけると、赤い点の周りが黒く変わる。夜晶の粉が混じっている。
「発声するたび、夜晶が声帯を削っています」
ティアさんは八つの点を診療録へ写した。
「次に一語でも使えば、出血だけでなく夜晶が気管へ落ちる可能性があります。窒息します」
『確率』
「次の一語で三割。十語なら七割以上」
三割。
今日の崩落なら、使う場面はあった。普通の案内には高すぎる。
『緊急時だけ』
「緊急時も、ほかの手段を試してから」
『時間がない場合』
「その判断を一人でしない」
契約へ追加される。
一、自分だけで声の必要性を決めない。
二、ロウ、ティア、セラのうち一名が承認。
三、承認を取れない即時危機では、発声後に使用理由と症状を報告。
崩れる天井へ許可を求めるのは難しい。でも三つ目がある。
『署名します』
契約が厚くなる。
自由が減る、と考えかけた。
今日の腰紐を思い出す。一人ずつ走るより遅かった。でも六人で出た。
遅い仕組みが、全部悪いわけではない。
濃紺の予定帳へ、明日の予定を書く。
『声を使わず、セラさんへ最初の合図を習う』
これは治療でも任務でもある。でも、習いたいと思った部分は私のものだ。
セラさんへ見せると、予定の横へ小さな丸を書いた。
「明日、実行したら二つ目を」
今日の丸ではない。明日も同じ場所にいる前提の丸だった。
ティアさんが私の口元の血を拭く。
「声を失う可能性があります」
『どれくらい』
「次に出せば、高いです」
『今回は必要だった』
「必要だった指示もあります」
全部否定しない。
「でも手の合図で通じた場面もありました」
『練習します。失ってもセラさんの筆談を真似れば』
書いたところで、セラさんの手が止まった。
灰色の帳面を閉じる。
『違う?』
聞く。
セラさんは答えず、私の板を見ない。
自分の聴覚と筆談を、失った声の便利な代用品と呼ばれたように感じたのかもしれない。
でも内面は断定できない。
見える事実は、刻字針を鞄へしまい、私から一歩離れたことだけ。
『ごめんなさい』
板へ書く。
セラさんは読んだ。
「何についてですか」
答えが書けない。
筆談を軽く見たこと。声を消耗品にしたこと。セラさんならできるから自分も困らないと、彼女の積み重ねを簡単に借りたこと。
『あとで、正確に書きます』
「記録します」
声は平らだった。
地面の影が動いた。
私の身体は座ったまま。
影だけが立ち上がる。
壁から紙を剥がすように足元を離れ、白麦院の外壁へ歩いた。
「ミナ、動くな」
レオンが私の肩を押さえる。
動いていない。
影は外壁の北側を指す。
崩れていない、小さな保管庫。
次に、自分の胸を指した。
口の形が動く。
声はない。
でも私は、何と言ったか分かった。
『名前』