自分の影に案内されるのは、あまり気分がよくない。
道を知っていたなら先に教えてほしい。こちらは崩落した地下を一周して、声まで置いてきたところだ。
影は外壁の北を指したまま動かない。
『北側保管庫。図面なし』
板へ書く。
ロウさんが崩れた建物と影を見比べる。
「今日は入らない」
『地上の別棟です』
「構造確認後だ」
『追跡票を見た長官側が回収に来る』
「だから六人全員、まず治療と休憩」
隊長判断。
従う。
影だけが従わなかった。
身体から離れ、保管庫の壁へ張りつく。足元には薄い輪郭しか残らない。
体温が三十四度六分へ下がった。
「影を戻して」
ティアさんに言われても方法が分からない。
『名前と呼べば戻る、と白丘の技師』
「ミナ」
レオンが呼ぶ。
影は動かない。
「ミナ・アルノ」
二度目。
影の肩が少し揺れた。でも壁から離れない。
「本人の予定を共有する方法もあります」
ティアさんが濃紺の帳面を出す。
今日の予定は、セラさんへ合図を習う。地下崩落で実行できなかった。
明日は、声を使わず最初の合図を習う。
影へ見せる。
『明日、セラさんに合図を習う』
板にも書く。
影は保管庫を指したまま、もう片方の手で自分の胸を叩く。
名前。
今の名前では足りないらしい。
「保管庫に名前がある、と言っているのでは」
セラさんが影の動作を記録する。
『本人が忘れた記録を、影が保持?』
「可能性があります」
ティアさんは認めたくなさそうに答えた。
「ただし分離が進んでいます。二秒を超えれば記憶と体温を持っていく」
影遅延ではなく、もう別行動だ。
『保管庫を開ければ戻るかも』
「かもしれない、で入れない」
ロウさんは構造図を作らせた。ノルが外壁、屋根、基礎を検査する。レオンは周囲の封鎖札と足跡。セラさんは保管庫の存在が公文書から消された時期を調べる。
私は椅子へ座り、温石を四つ。役割は休むこと。
十分で、ノルが戻る。
「屋根は別支柱。地下なし。扉は内開き、蝶番は生きてます」
二十分でレオン。
「新しい足跡はない。封印は十四年前のまま」
三十分でセラさん。
「初期配置図には『面会記録庫』。第二次移送の翌日に削除」
面会。
何のための記録か分からない。
孤児院へ面会に来る人は少ない。私にはいなかった。
『開ける条件はそろった』
ロウさんはティアさんを見る。
「体温三十五度。胸痛二。影分離は継続。十分以内、外から閲覧」
許可が出た。
保管庫の前へ移る。
扉に鍵穴はない。中央へ、名前札を入れる横長の窪み。
欠けた木札を当てる。
数字の九は合う。でも長さが足りない。
裏返す。
今まで気にしなかった傷がある。二文字の右半分。
『ル』
数字側だけ見ていた。
「左半分があれば、名前になります」
ノルが窪みの中を灯りで照らす。
奥に木片が挟まっていた。
細い挟みで出す。
欠けた札の左半分。
数字の一。裏に『セ』。
二つを合わせる。
十九。
セル。
扉の仕掛けが鳴った。
影が壁から離れ、私の足元へ戻る。
体温が少し上がる。三十五度一分。
『ミナ・セル?』
板へ書く。
名前として、口の中で転がす。声は出さない。
覚えがあるような、ないような。
ミナは白麦院でも呼ばれていた。セルは初めて見る。
「旧姓です」
セラさんが二つの木片を撮図する。
「アルノはマルタさんの姓。セルが入所前」
『訂正が一つ増えた』
十九番ではなく、ミナ・セル。
今はミナ・アルノ。
どちらも私だと言われれば、そうなのだろう。
扉を開ける。
中は一部屋。棚が四列。候補者二十人の本名簿、面会申請、手紙、返送荷物。
地下の記録より、紙が多い。
「面会記録を施設が分離していた」
ロウさんが一冊取る。
「候補者へ家族がいることを隠すためか」
『孤児院です』
「家族が生きている子も入れられた」
セラさんが本名簿を開く。
一番、トーマ・ベク。
二番、トトと呼ばれた子は、トーマス・ルウ。
六番のリィは、リリア・エム。
十二番のうたは、サーニャ・ベル。
二十番のユウは、ユリオ・セル。
セラさんは二十人の本名を、手形の呼び名と一つずつ結んだ。
一番、トーマ・ベク。呼び名なし。
二番、トーマス・ルウ。トト。
三番、エナ・ポル。ちび。
四番、サリ・オルド。うたの姉。
五番、ネネ・ハス。ナナ。
六番、リリア・エム。リィ。
七番、ハルク・ジン。ハル。
番号だけだった健康票へ、名前が戻る。
八番、移送中死亡。アト・クレイ。手形の下には『あにき』。
九番から十八番も、読み上げる。呼び名と本名が一致しない子、正式名が空欄の子、家族欄へ村名だけの子。
ノルが二十枚の紙札を切り、名前を書く。実験箱の番号札へ重ねるためだ。
「原本を変えてよいのですか」
管理官が止める。
「貼りません。並べるだけです」
ノルは番号を隠さず、その手前へ名札を立てた。
「どっちも記録。でも先に読むのは名前」
セラさんが配置を撮図する。
『二十人を番号のまま終わらせない』
白丘で言ったことを、実行している。
私も十九の前へ札を書く。
『ミナ・セル/ミナ・アルノ』
二つの姓を並べた。
どちらを先にするか迷い、今の姓を後へ書いた。古い記録との照合だから順番として正しい。
「今の名前を小さくするな」
レオンが二つを同じ大きさへ直す。
紙札が少し狭い。
『場所が足りない』
「大きい札を使え」
ノルが二倍の紙を切った。
名前一つへ使う紙が増える。効率は悪い。でも番号札の前で、私だけが余らない。
セル。
十九番と同じ姓。
『兄弟?』
「家族欄では、十九番の弟」
セラさんが読む。
咳をして、私の服を握っていた子。
弟。
記憶にない。
『年齢』
「五歳」
『私は八歳』
「三歳差」
ノルと近い。
私は弟の健康票が抜かれたことを先に考えた。最近、誰かが生存記録を隠した可能性。ユリオが生きているかもしれない。
『二十番を優先調査』
板へ書く。
「十九番の家族欄も見ます」
セラさんは頁を飛ばさない。
父、故人。
母、リナ・セル。
弟、ユリオ・セル。
入所理由、『母の長期療養に伴う一時保護』。
面会箱の下段には、返送荷物があった。
『受取人不在』の札。
実際は建物の中にいた。
一つ目の包み。八歳用の青い襟巻き。端へMの刺繍。
二つ目。五歳用の小さな革靴。ユリオの足には少し大きい。
三つ目。乾燥林檎と蜂蜜菓子。食べ物は黒くなり、もう開けられない。
四つ目。絵本。母鳥が二羽の雛を巣へ連れ帰る話。
五つ目。赤い糸と針。
六番の余りだと思っていた糸と、同じ色だった。
『母から届いた糸を、六番と使った?』
記憶はない。でも職員が荷物を渡さず、作業室へ回した可能性はある。
セラさんが物品台帳を照合する。
「面会荷物の衣類と裁縫材は、施設共用品へ移管。赤糸二巻、作業室へ」
母が私へ送った物を、知らずに六番と分けていた。
全部奪われたわけではない。用途を変えられ、名前を消され、余りとして戻ってきた。
「返却先を決めます」
セラさんが物品目録を作る。
『襟巻きは使えません。靴も小さい』
「使えるかではなく、誰のものかです」
『私とユリオ』
「返却先は二人。ユリオさんの所在が分かるまで保管」
襟巻きを首へ当てる。今の私には短い。端と端が届かない。
十四年前なら、ちょうどだった。
レオンが手を出し、巻くのを手伝おうとする。
『試しただけ』
外す。
「持っていけ」
『証拠品』
「記録後は本人返却だ」
セラさんが同意する。
赤い配達鞄へ入れる。林檎の種、欠けた名札、母の襟巻き。荷物の中身が増えるほど、アルノパン店へ返送する札が重く感じる。
『ユリオの靴も持つ』
「本人へ返すため?」
セラさんが確認する。
『はい』
これは仕事の理由がある。
少し安心した。
一時。
『捨てられた子の記録では?』
聞く。
「一時保護です」
『母が迎えに来なかったから、長期になった』
白麦院でそう聞いた。母親はもう来ない。働ける子だけが、ここで居場所を得る。
「面会申請を照合します」
セラさんが十九番の箱を出した。
申請書が三十一枚。
一枚目、入所七日後。
『娘ミナ、息子ユリオとの面会を希望』
施設回答、『治療安定まで不可』。
二枚目、十四日後。
不可。
三枚目、二十一日後。
不可。
一か月、二か月、半年。
母は来ている。
『名前が同じだけかも』
「家族登録印、入所時と一致」
『面会した記録はない』
「施設が拒否しています」
『来たことを覚えてない』
「会わせていないからです」
セラさんの声は平らだ。
逃げ道を事実で塞ぐ。
母は来なかった。
そう思っていたほうが、今までの計算が合う。必要とされなければ捨てられる。働けばここにいられる。親方へも、修繕隊へも、同じ規則を使える。
母が来ていたなら、規則の最初が間違う。
間違った規則で十四年働いたことになる。
『申請回数は分かりました。次は弟』
頁を進める。
レオンが箱の蓋を押さえた。
「母親の記録を先に見ろ」
『二十番は生存不明』
「お前の話を後回しにするな」
『同じ家族です』
「だから両方だ」
ティアさんが脈を取る。九十六。
「胸痛」
『二』
「事実?」
胸は痛くない。呼吸が浅い。指が冷たい。数字へするなら四。
『四』
「十分休憩」
『記録を見ながら』
「休憩です」
椅子へ戻される。
面会申請書は視界にある。読まないよう窓を見る。
窓の外に、母親が立っていた気がする。
古い外套。濡れた髪。手に紙袋。
幻視。
『幻視一。母らしい人』
契約どおり報告する。
像はすぐ消えた。
「記憶ですか」
レオン。
『分からない』
「来ていたところを見た可能性は」
『窓から面会門は見えない』
建物の構造で否定する。
記憶でなく、今読んだ紙から作った像だ。
十分後、申請書へ戻る。
二十六枚目から、筆圧が弱くなる。
『療養院を退院しました。子どもを引き取りに来ました』
施設回答、『候補者は王都治療対象。保護解除不可』。
二十九枚目。
『せめて手紙を渡してください』
不可。
三十枚目。
母の署名が震えている。
三十一枚目。移送の前日。
『二人を返してください。治療費は働いて返します』
働いて返す。
親子らしい言葉だ。
施設回答はない。
同じ日付の手紙が、未開封で九通あった。
最初は長い。
『ミナは朝、固いパンを牛乳へ浸すのが好きでした。ユリオは姉の真似をします。食事で困っていませんか』
二通目。
『熱が下がりました。医師から、来月には二人と暮らせると言われました』
三通目。
『新しい部屋を借りました。窓が東向きです。三人分の寝台を置けます』
帰る場所を作っていた。
四通目から、文が短くなる。
『面会だけでもお願いします』
『返事をください』
『子どもたちが生きていると知らせてください』
最後の二通は、同じ文を何度も書き直した跡。
返事は一通も出されていない。
『施設側の通信不履行。証拠番号を』
板へ書く。
「今、仕事へしなくていい」
ロウさんが言う。
『後で抜けると困る』
「セラが記録している」
『私も確認』
「読んだ事実は消えない」
母の手紙を、証拠としてなら読める。自分宛てだと思うと、何を返せばよいか分からない。
返信期限は十四年前に過ぎている。
『母の所在は?』
「最終住所を調べます」
セラさんは現在名簿を開く。
リナ・セル。移送の三か月後、白丘療養院へ再入院。二年後に退院。その後の住所は王都南区。七年前から記録なし。
死亡票はない。
生きている可能性も、もういない可能性もある。
『王都で照合』
また仕事が増えた。
今度は安心しなかった。
代わりに、面会係の内部メモ。
『母親は長時間門前に滞留。候補者の情緒安定を損なうため退去命令』
『候補者十九へは、家族から連絡なしと説明済み』
説明済み。
私は捨てられたのではない。
捨てられたと説明された。
板へ何か書こうとした。
白墨が折れた。
「ミナ」
レオンが呼ぶ。
返事はできない。声は禁止。
頷けばよいのに、首も動かなかった。
ティアさんが板を取る。
「今は報告を書かなくていい」
契約違反になる。
そう思ったのが顔へ出た。
「私が観察します。呼吸二十四、脈百二、手指冷却。胸痛は後で聞きます」
役割を代わってくれた。
セラさんは三十一枚目の裏に挟まった小紙を見つけた。
「伝言です」
『誰宛て』
新しい白墨で書く。
「ミナとユリオへ」
読まなくても調査はできる。母の面会が拒否された証拠はそろった。弟の記録を探すほうが現在の救助へ役立つ。
『写しを作って保管』
「今、読みますか」
セラさんは選ばせる。
『あとで』
「いつ」
レオン。
皆、期限を求める。
『弟の記録確認後』
「また仕事のあとか」
『同じ箱。順番です』
ユリオの箱を開ける。
面会申請は同じ。健康票はない。代わりに移送取消票。
『対象二十、適性不足のため主計画から除外。十九番の情緒維持用として同行』
弟は、私を働かせるために残された。
移送先は空白。
追跡票に、最近抜き取られた紙粉。エルネスト側がユリオの記録を持っている。
『王都で確認』
現在の仕事が決まった。
その下に、母の伝言を置く。
『読みます』
セラさんが小紙を私へ渡した。
声には出さない。
母の字を、自分で読む。
『ミナ。ユリオ。待たせてごめんね』
『お母さんが迎えに行きます』
『働けなくても、病気でも、よい子でなくても、あなたたちの家はなくなりません』
最後の一行。
『役に立たなくていいから、帰ってきて』
紙の端が、指の汗で少し濃くなった。
濡らすと記録資料として困る。そう判断して机へ戻そうとしたら、レオンの手が先に布を敷いた。ティアさんは薬瓶を片づけるふりで顔を伏せ、ノルは弟の靴を両手で持ったまま動かない。ロウさんだけは扉の外を見ていた。見張りなら助かる。全員で紙を眺めても、字は増えないからね。
『原本は防湿袋へ。写しを二部作ります』
セラさんが、私の板から視線を上げた。
「一部は記録用。もう一部は?」
『母へ返します。受け取りました、と』
そこまでは書けた。
『帰ります』
続けようとして、石筆が止まる。どこへ、誰が、いつ。その三つが空欄では、これは予定ではなく願いだ。願いは荷物にならないし、夜滓も運べない。便利だけれど、扱い方の分からない品物ほど保管に困る。
意味は読める。
使い方が分からなかった。