三千万人の夜を背負った少女   作:日向夏 

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十九番の名前

 自分の影に案内されるのは、あまり気分がよくない。

 道を知っていたなら先に教えてほしい。こちらは崩落した地下を一周して、声まで置いてきたところだ。

 

 影は外壁の北を指したまま動かない。

 

『北側保管庫。図面なし』

 

 板へ書く。

 ロウさんが崩れた建物と影を見比べる。

 

「今日は入らない」

『地上の別棟です』

「構造確認後だ」

『追跡票を見た長官側が回収に来る』

「だから六人全員、まず治療と休憩」

 

 隊長判断。

 従う。

 影だけが従わなかった。

 身体から離れ、保管庫の壁へ張りつく。足元には薄い輪郭しか残らない。

 

 体温が三十四度六分へ下がった。

 

「影を戻して」

 

 ティアさんに言われても方法が分からない。

 

『名前と呼べば戻る、と白丘の技師』

「ミナ」

 

 レオンが呼ぶ。

 

 影は動かない。

 

「ミナ・アルノ」

 

 二度目。

 影の肩が少し揺れた。でも壁から離れない。

 

「本人の予定を共有する方法もあります」

 

 ティアさんが濃紺の帳面を出す。

 今日の予定は、セラさんへ合図を習う。地下崩落で実行できなかった。

 明日は、声を使わず最初の合図を習う。

 影へ見せる。

 

『明日、セラさんに合図を習う』

 

 板にも書く。

 

 影は保管庫を指したまま、もう片方の手で自分の胸を叩く。

 

 名前。

 今の名前では足りないらしい。

 

「保管庫に名前がある、と言っているのでは」

 

 セラさんが影の動作を記録する。

 

『本人が忘れた記録を、影が保持?』

「可能性があります」

 

 ティアさんは認めたくなさそうに答えた。

 

「ただし分離が進んでいます。二秒を超えれば記憶と体温を持っていく」

 

 影遅延ではなく、もう別行動だ。

 

『保管庫を開ければ戻るかも』

「かもしれない、で入れない」

 

 ロウさんは構造図を作らせた。ノルが外壁、屋根、基礎を検査する。レオンは周囲の封鎖札と足跡。セラさんは保管庫の存在が公文書から消された時期を調べる。

 

 私は椅子へ座り、温石を四つ。役割は休むこと。

 十分で、ノルが戻る。

 

「屋根は別支柱。地下なし。扉は内開き、蝶番は生きてます」

 

 二十分でレオン。

 

「新しい足跡はない。封印は十四年前のまま」

 

 三十分でセラさん。

 

「初期配置図には『面会記録庫』。第二次移送の翌日に削除」

 

 面会。

 何のための記録か分からない。

 孤児院へ面会に来る人は少ない。私にはいなかった。

 

『開ける条件はそろった』

 

 ロウさんはティアさんを見る。

 

「体温三十五度。胸痛二。影分離は継続。十分以内、外から閲覧」

 

 許可が出た。

 

 保管庫の前へ移る。

 

 扉に鍵穴はない。中央へ、名前札を入れる横長の窪み。

 欠けた木札を当てる。

 数字の九は合う。でも長さが足りない。

 裏返す。

 今まで気にしなかった傷がある。二文字の右半分。

 

『ル』

 

 数字側だけ見ていた。

 

「左半分があれば、名前になります」

 

 ノルが窪みの中を灯りで照らす。

 奥に木片が挟まっていた。

 細い挟みで出す。

 欠けた札の左半分。

 数字の一。裏に『セ』。

 二つを合わせる。

 十九。

 セル。

 扉の仕掛けが鳴った。

 影が壁から離れ、私の足元へ戻る。

 

 体温が少し上がる。三十五度一分。

 

『ミナ・セル?』

 

 板へ書く。

 名前として、口の中で転がす。声は出さない。

 覚えがあるような、ないような。

 ミナは白麦院でも呼ばれていた。セルは初めて見る。

 

「旧姓です」

 

 セラさんが二つの木片を撮図する。

 

「アルノはマルタさんの姓。セルが入所前」

 

『訂正が一つ増えた』

 

 十九番ではなく、ミナ・セル。

 今はミナ・アルノ。

 どちらも私だと言われれば、そうなのだろう。

 扉を開ける。

 中は一部屋。棚が四列。候補者二十人の本名簿、面会申請、手紙、返送荷物。

 地下の記録より、紙が多い。

 

「面会記録を施設が分離していた」

 

 ロウさんが一冊取る。

 

「候補者へ家族がいることを隠すためか」

 

『孤児院です』

「家族が生きている子も入れられた」

 

 セラさんが本名簿を開く。

 一番、トーマ・ベク。

 二番、トトと呼ばれた子は、トーマス・ルウ。

 六番のリィは、リリア・エム。

 十二番のうたは、サーニャ・ベル。

 二十番のユウは、ユリオ・セル。

 セラさんは二十人の本名を、手形の呼び名と一つずつ結んだ。

 一番、トーマ・ベク。呼び名なし。

 二番、トーマス・ルウ。トト。

 三番、エナ・ポル。ちび。

 四番、サリ・オルド。うたの姉。

 五番、ネネ・ハス。ナナ。

 六番、リリア・エム。リィ。

 七番、ハルク・ジン。ハル。

 番号だけだった健康票へ、名前が戻る。

 八番、移送中死亡。アト・クレイ。手形の下には『あにき』。

 九番から十八番も、読み上げる。呼び名と本名が一致しない子、正式名が空欄の子、家族欄へ村名だけの子。

 ノルが二十枚の紙札を切り、名前を書く。実験箱の番号札へ重ねるためだ。

 

「原本を変えてよいのですか」

 

 管理官が止める。

 

「貼りません。並べるだけです」

 

 ノルは番号を隠さず、その手前へ名札を立てた。

 

「どっちも記録。でも先に読むのは名前」

 

 セラさんが配置を撮図する。

 

『二十人を番号のまま終わらせない』

 

 白丘で言ったことを、実行している。

 私も十九の前へ札を書く。

 

『ミナ・セル/ミナ・アルノ』

 

 二つの姓を並べた。

 どちらを先にするか迷い、今の姓を後へ書いた。古い記録との照合だから順番として正しい。

 

「今の名前を小さくするな」

 

 レオンが二つを同じ大きさへ直す。

 紙札が少し狭い。

 

『場所が足りない』

「大きい札を使え」

 

 ノルが二倍の紙を切った。

 名前一つへ使う紙が増える。効率は悪い。でも番号札の前で、私だけが余らない。

 セル。

 十九番と同じ姓。

 

『兄弟?』

「家族欄では、十九番の弟」

 

 セラさんが読む。

 咳をして、私の服を握っていた子。

 弟。

 記憶にない。

 

『年齢』

「五歳」

『私は八歳』

「三歳差」

 

 ノルと近い。

 私は弟の健康票が抜かれたことを先に考えた。最近、誰かが生存記録を隠した可能性。ユリオが生きているかもしれない。

 

『二十番を優先調査』

 

 板へ書く。

 

「十九番の家族欄も見ます」

 

 セラさんは頁を飛ばさない。

 父、故人。

 

 母、リナ・セル。

 

 弟、ユリオ・セル。

 入所理由、『母の長期療養に伴う一時保護』。

 面会箱の下段には、返送荷物があった。

 

『受取人不在』の札。

 

 実際は建物の中にいた。

 一つ目の包み。八歳用の青い襟巻き。端へMの刺繍。

 二つ目。五歳用の小さな革靴。ユリオの足には少し大きい。

 三つ目。乾燥林檎と蜂蜜菓子。食べ物は黒くなり、もう開けられない。

 四つ目。絵本。母鳥が二羽の雛を巣へ連れ帰る話。

 五つ目。赤い糸と針。

 六番の余りだと思っていた糸と、同じ色だった。

 

『母から届いた糸を、六番と使った?』

 

 記憶はない。でも職員が荷物を渡さず、作業室へ回した可能性はある。

 セラさんが物品台帳を照合する。

 

「面会荷物の衣類と裁縫材は、施設共用品へ移管。赤糸二巻、作業室へ」

 

 母が私へ送った物を、知らずに六番と分けていた。

 

 全部奪われたわけではない。用途を変えられ、名前を消され、余りとして戻ってきた。

 

「返却先を決めます」

 

 セラさんが物品目録を作る。

 

『襟巻きは使えません。靴も小さい』

「使えるかではなく、誰のものかです」

『私とユリオ』

「返却先は二人。ユリオさんの所在が分かるまで保管」

 

 襟巻きを首へ当てる。今の私には短い。端と端が届かない。

 十四年前なら、ちょうどだった。

 レオンが手を出し、巻くのを手伝おうとする。

 

『試しただけ』

 

 外す。

 

「持っていけ」

『証拠品』

「記録後は本人返却だ」

 

 セラさんが同意する。

 赤い配達鞄へ入れる。林檎の種、欠けた名札、母の襟巻き。荷物の中身が増えるほど、アルノパン店へ返送する札が重く感じる。

 

『ユリオの靴も持つ』

「本人へ返すため?」

 

 セラさんが確認する。

 

『はい』

 

 これは仕事の理由がある。

 少し安心した。

 一時。

 

『捨てられた子の記録では?』

 

 聞く。

 

「一時保護です」

『母が迎えに来なかったから、長期になった』

 

 白麦院でそう聞いた。母親はもう来ない。働ける子だけが、ここで居場所を得る。

 

「面会申請を照合します」

 

 セラさんが十九番の箱を出した。

 申請書が三十一枚。

 一枚目、入所七日後。

 

『娘ミナ、息子ユリオとの面会を希望』

 

 施設回答、『治療安定まで不可』。

 二枚目、十四日後。

 不可。

 三枚目、二十一日後。

 不可。

 一か月、二か月、半年。

 

 母は来ている。

 

『名前が同じだけかも』

「家族登録印、入所時と一致」

『面会した記録はない』

「施設が拒否しています」

『来たことを覚えてない』

「会わせていないからです」

 

 セラさんの声は平らだ。

 逃げ道を事実で塞ぐ。

 

 母は来なかった。

 

 そう思っていたほうが、今までの計算が合う。必要とされなければ捨てられる。働けばここにいられる。親方へも、修繕隊へも、同じ規則を使える。

 

 母が来ていたなら、規則の最初が間違う。

 

 間違った規則で十四年働いたことになる。

 

『申請回数は分かりました。次は弟』

 

 頁を進める。

 レオンが箱の蓋を押さえた。

 

「母親の記録を先に見ろ」

『二十番は生存不明』

「お前の話を後回しにするな」

『同じ家族です』

「だから両方だ」

 

 ティアさんが脈を取る。九十六。

 

「胸痛」

『二』

「事実?」

 

 胸は痛くない。呼吸が浅い。指が冷たい。数字へするなら四。

 

『四』

「十分休憩」

『記録を見ながら』

「休憩です」

 

 椅子へ戻される。

 面会申請書は視界にある。読まないよう窓を見る。

 窓の外に、母親が立っていた気がする。

 古い外套。濡れた髪。手に紙袋。

 幻視。

 

『幻視一。母らしい人』

 

 契約どおり報告する。

 像はすぐ消えた。

 

「記憶ですか」

 

 レオン。

 

『分からない』

「来ていたところを見た可能性は」

『窓から面会門は見えない』

 

 建物の構造で否定する。

 記憶でなく、今読んだ紙から作った像だ。

 十分後、申請書へ戻る。

 二十六枚目から、筆圧が弱くなる。

 

『療養院を退院しました。子どもを引き取りに来ました』

 

 施設回答、『候補者は王都治療対象。保護解除不可』。

 二十九枚目。

 

『せめて手紙を渡してください』

 

 不可。

 三十枚目。

 

 母の署名が震えている。

 

 三十一枚目。移送の前日。

 

『二人を返してください。治療費は働いて返します』

 

 働いて返す。

 親子らしい言葉だ。

 施設回答はない。

 同じ日付の手紙が、未開封で九通あった。

 最初は長い。

 

『ミナは朝、固いパンを牛乳へ浸すのが好きでした。ユリオは姉の真似をします。食事で困っていませんか』

 

 二通目。

 

『熱が下がりました。医師から、来月には二人と暮らせると言われました』

 

 三通目。

 

『新しい部屋を借りました。窓が東向きです。三人分の寝台を置けます』

 

 帰る場所を作っていた。

 四通目から、文が短くなる。

 

『面会だけでもお願いします』

『返事をください』

『子どもたちが生きていると知らせてください』

 

 最後の二通は、同じ文を何度も書き直した跡。

 

 返事は一通も出されていない。

 

『施設側の通信不履行。証拠番号を』

 

 板へ書く。

 

「今、仕事へしなくていい」

 

 ロウさんが言う。

 

『後で抜けると困る』

「セラが記録している」

『私も確認』

「読んだ事実は消えない」

 

 母の手紙を、証拠としてなら読める。自分宛てだと思うと、何を返せばよいか分からない。

 

 返信期限は十四年前に過ぎている。

 

『母の所在は?』

「最終住所を調べます」

 

 セラさんは現在名簿を開く。

 リナ・セル。移送の三か月後、白丘療養院へ再入院。二年後に退院。その後の住所は王都南区。七年前から記録なし。

 死亡票はない。

 生きている可能性も、もういない可能性もある。

 

『王都で照合』

 

 また仕事が増えた。

 今度は安心しなかった。

 代わりに、面会係の内部メモ。

 

『母親は長時間門前に滞留。候補者の情緒安定を損なうため退去命令』

 

『候補者十九へは、家族から連絡なしと説明済み』

 

 説明済み。

 私は捨てられたのではない。

 捨てられたと説明された。

 板へ何か書こうとした。

 白墨が折れた。

 

「ミナ」

 

 レオンが呼ぶ。

 返事はできない。声は禁止。

 頷けばよいのに、首も動かなかった。

 ティアさんが板を取る。

 

「今は報告を書かなくていい」

 

 契約違反になる。

 そう思ったのが顔へ出た。

 

「私が観察します。呼吸二十四、脈百二、手指冷却。胸痛は後で聞きます」

 

 役割を代わってくれた。

 セラさんは三十一枚目の裏に挟まった小紙を見つけた。

 

「伝言です」

『誰宛て』

 

 新しい白墨で書く。

 

「ミナとユリオへ」

 

 読まなくても調査はできる。母の面会が拒否された証拠はそろった。弟の記録を探すほうが現在の救助へ役立つ。

 

『写しを作って保管』

「今、読みますか」

 

 セラさんは選ばせる。

 

『あとで』

「いつ」

 

 レオン。

 皆、期限を求める。

 

『弟の記録確認後』

「また仕事のあとか」

『同じ箱。順番です』

 

 ユリオの箱を開ける。

 

 面会申請は同じ。健康票はない。代わりに移送取消票。

 

『対象二十、適性不足のため主計画から除外。十九番の情緒維持用として同行』

 

 弟は、私を働かせるために残された。

 移送先は空白。

 追跡票に、最近抜き取られた紙粉。エルネスト側がユリオの記録を持っている。

 

『王都で確認』

 

 現在の仕事が決まった。

 

 その下に、母の伝言を置く。

 

『読みます』

 

 セラさんが小紙を私へ渡した。

 声には出さない。

 

 母の字を、自分で読む。

 

『ミナ。ユリオ。待たせてごめんね』

『お母さんが迎えに行きます』

『働けなくても、病気でも、よい子でなくても、あなたたちの家はなくなりません』

 

 最後の一行。

 

『役に立たなくていいから、帰ってきて』

 

 紙の端が、指の汗で少し濃くなった。

 

 濡らすと記録資料として困る。そう判断して机へ戻そうとしたら、レオンの手が先に布を敷いた。ティアさんは薬瓶を片づけるふりで顔を伏せ、ノルは弟の靴を両手で持ったまま動かない。ロウさんだけは扉の外を見ていた。見張りなら助かる。全員で紙を眺めても、字は増えないからね。

 

『原本は防湿袋へ。写しを二部作ります』

 

 セラさんが、私の板から視線を上げた。

 

「一部は記録用。もう一部は?」

『母へ返します。受け取りました、と』

 

 そこまでは書けた。

 

『帰ります』

 

 続けようとして、石筆が止まる。どこへ、誰が、いつ。その三つが空欄では、これは予定ではなく願いだ。願いは荷物にならないし、夜滓も運べない。便利だけれど、扱い方の分からない品物ほど保管に困る。

 

 意味は読める。

 

 使い方が分からなかった。

 

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