熱が出た。
正確には、昨日から出ていたらしい。私の身体は大事な連絡ほど提出期限を守らない。
北側保管庫の机へ資料を並べていたら、文字の列が右へ滑った。机が傾いている。そう判断して紙束の下へ板を差し込もうとしたところで、ティアさんに手首をつかまれた。
「机は水平。あなたが傾いてる」
『角度はどのくらいですか』
「質問がそこなの?」
額へ測熱板。赤い線が四十の手前まで上がった。
これは高い。パン窯なら低すぎるけれど、人間には用途別の適温がある。
『三日寝れば戻ります』
書いた途端、部屋の音が止まった。
ノルの工具も、セラさんが紙をめくる指も、入口で警戒していたレオンの靴音も。止まらなかったのは、映写器の巻き取り軸だけだった。
細い歯車が、から、から、と空回りしている。
「その言葉を使わないで」
ティアさんは私の板を伏せた。怒っているときほど、薬師の声は温度をなくす。
『では二日半』
「日数の値引きじゃない」
惜しい。寝台へ運ばれる時間を短くする交渉だったのだけれど、先方は商品の種類から気に入らないらしい。
レオンが私の膝裏へ腕を入れる。
持ち上げられる前に立とうとして、床が二枚になった。上の床を選んだら足が抜けたので、下が本物だったようだ。次から覚えておこう。次があれば、だけど――いや、今のは床の話ね。
「歩ける」
声が出た。
砂を噛んだ笛みたいな二音だった。
ティアさんの手が喉へ来る。レオンは何も言わず、私を抱えたまま向きを変えた。ノルが入口を開け、ロウさんが外の簡易寝台を指す。役割分担が速い。修繕隊は病人一人くらいなら荷物として扱える。私も配達鞄で何度か似たことをした。中身はパンだったから、もう少し軽かったけれど。
保管庫の軒下へ張った天幕で、冷却布、解熱薬、喉の夜晶を溶かす吸入器。ティアさんが順に用意した。
私は寝台から腕だけを出し、資料箱の番号を示す。
『母の手紙は防湿袋。名簿はセラさん。映像筒は衝撃厳禁』
「患者の指示書は受けつけません」
『忘れた場合の損が大きい順です』
「私たちの記憶力より、あなたの熱のほうが損失」
ティアさんは石筆を取り上げた。声だけでなく筆談も没収されるとは、治療契約の商品の幅が広い。
ノルが防湿袋を二重にする。セラさんは名簿へ回収場所と時刻を記す。ロウさんが持ち出し順を決め、レオンは天幕の出入口へ座った。
ほら、できている。私が横になっていても作業は進む。
よいことだ。
胸のあたりが冷えたのは、解熱布が近いからだろう。まだ置かれていないけど、予定まで含めれば近い。
ティアさんが吸入器を私の口元へ固定する。
「発声八回の炎症だけでは四十度近くまで上がらない。影請けした夜滓が、声帯の夜晶を核にして全身へ回ってる」
『対処は』
板はないので、指で手のひらへ書く。
「冷却と溶解薬。影請け停止。発声停止。安静。最後のは一番効くのに、あなたへの投与が難しい」
うまいことを言う。笑うと喉が痛いので、目だけで採点した。九点。患者を笑わせる副作用で一点減点。
天幕の向こうで、映写器が止まった。
セラさんが入ってくる。灰色の筒を胸へ抱え、補助銀具の端へ小さな紙片を挟んでいた。
「保管庫に未分類映像、十二本。うち一本、三日前の言葉と一致」
三日前?
白麦院で映像を見たのは昨日だ。今の旅は一日が長すぎる。暦の係に苦情を出してもよい。
セラさんは寝台の横へ投影布を張った。
ティアさんが止める。
「今、見せる必要がある?」
「発熱前なら本人確認。解熱後まで待てば、回収される可能性」
「私が要約する」
「言葉そのものが要点」
二人の視線がぶつかる。セラさんは譲らず、ティアさんも器具から手を離さない。
私は指を三本立てた。三分だけ。便利な妥協案だと思ったけれど、二人とも私を見てから、相談相手から外すように顔を戻した。
ロウさんが決めた。
「一度だけ再生。ティアが中止を判断する」
布へ、白麦院の小部屋が映る。
低い寝台が四つ。窓はなく、壁に太陽の絵。八歳くらいの女の子が毛布へくるまっていた。顔は見えない。寝台番号は七。
若い職員が水差しを置く。
『心配しなくていい。三日寝れば戻るから』
次の寝台。番号十一。指先が黒い男の子へ、別の職員が同じ言葉を使う。
『三日寝れば元どおり。みんなの役に立ったね』
番号四。髪を短く切られた子は、音が聞こえていないみたいに壁を見ている。
『三日だけ。終われば食堂へ戻れる』
映像の日付は、それぞれ別だった。
三日後の欄には、七番は末梢壊死、十一番は視力低下、四番は記憶混濁。元どおりと書かれた子はいない。
四本目。番号十九。
私がいた。
八歳の私は喉を押さえ、職員へ何かを尋ねている。音声が擦れて聞き取れない。
画面の端から、若いエルネストが入った。今より髪が濃く、眼鏡は同じ細い銀縁だ。
『三日寝れば戻ります。君は回復が早いから』
八歳の私は頷いた。
泣いてはいない。唇の端を上げ、隣の寝台へ親指を立てた。あれなら皆も安心する。よくできている。
現在のレオンが、投影布の前へ立った。
「止めろ」
ティアさんが映写器を切る。
暗くなった布へ、レオンの背中だけが残る。握った手から血が出ていた。爪が食い込んだのだ。治療対象が増えたので、ティアさんが消毒布を投げる。
「何回だ」
誰への質問か分からない。
セラさんは記録を開いた。
「旅の開始後、確認できるだけで六回。『三日寝れば戻る』か、同じ意味の発言」
「俺は六回、信じた」
レオンは布を手へ巻かなかった。消毒布を握りつぶし、赤い点を白へ移していく。
信じてもらえたなら、言葉は仕事をした。食事を運ぶ人が増えず、足止め時間も減った。六回とも合理的だったはずだ。
その説明を指で書こうとして、ティアさんが私の手を毛布へ戻した。
「あなたは今、慰める側じゃない」
では何側だろう。寝台側か。分類が雑だ。
「知らなかったのか」
レオンが振り向く。
何を、と目で返す。
「その言葉を、あそこで教えられたこと」
教えられた?
考えてみれば、最初に誰が言ったかなんて覚えていない。便利な言葉は町を歩く。『焼きたてです』も『おまけしておきます』も、誰か一人の発明ではない。
指を一本ずつ立てる。職員、マルタ親方、私。誰が使っても三日は三日。
「同じじゃない」
レオンの声が低くなった。
「戻らないと知っていた奴の言葉だ」
それは職員側の不良品で、言葉の責任ではない。包丁で指を切ったからといって、包丁全部を捨てたら厨房が困る。
でも、今後この包丁を使うと皆の手まで止まる。それは効率が悪い。
私は手のひらへ別の文を作った。
『解熱薬服用済み。二時間後に再測定。四十度以上または意識低下で搬送』
ティアさんが読む。
「それなら事実」
採用された。
これからは安心語ではなく手順を書く。少し長いけれど、数字は人によって昔を思い出したりしない。たぶん。
セラさんが映像筒の後半を示した。
「もう一項。影請けの導入記録」
ティアさんの眉が動く。
「資質検査では?」
「表紙は資質検査。映像は処置」
再生されたのは、私の背中だった。
細い管が肩甲骨の間へ刺さっている。黒い液。別の寝台から集めた夜滓を、銀粉と一緒に脊髄沿いへ入れている。
エルネストの声。
『十九番は自発的な引き受け行動が強い。拒絶反応を役割意識で抑制できる』
小さな私が吐いた。職員が容器を替える。処置は止まらない。
『生来の受容幅は中程度。反復導入により器として拡張する』
映像の端へ処置番号が出る。第一回。
次は四日後。第二回。黒い液が少し増えた。小さな私は泣いていない代わりに、寝台の柵を両手で握っている。終わったら食堂の皿洗いをしてよいか、と尋ねた。
『回復すればね。三日寝れば戻る』
職員が答える。
その三日後、私は皿洗いをしていた。映像日誌の作業点が二点増えている。戻った証拠を自分で作ったらしい。腕は上がらず、皿を二枚割って、夕食点を一つ引かれていた。
第三回。背中へ管を入れる前に、私は隣の子の毛布を直した。処置台の近くは冷えるから、と説明している。自分の毛布は寝台へ残したまま。
第四回。吐いたあと、床を拭く布を求めた。職員が褒める。
『十九番は手がかからない』
第五回。右足が痙攣して、歩けない。私は廊下を這って食堂へ戻った。映像を撮る職員へ、競争なら一番だった、と指で示す。
食堂の子どもたちは笑わなかった。ユウ――ユリオが椅子から降り、私の片足を抱えている。
『おねえちゃん、もどってない』
弟の声を初めて聞いた。
高くて、少し鼻にかかる。五歳下なら、あのとき三歳くらい。よく見ている。戻るという言葉を、移動ではなく元どおりの意味で使えていた。
八歳の私は弟の頭を撫でた。
『戻ったよ。お仕事できるもん』
ユリオは首を振る。
『おねえちゃんのあし、ないてる』
足は泣かない。そう返した私が映像の中で笑う。弟の手を自分の膝から外し、割れた皿の片づけを頼んだ。あの子は素直に箒を取りに行った。
うまく動かせた。危ない破片から離した。八歳の私としては合格だ。
現在のノルが、映写器へ手を伸ばす。
「まだあるの」
セラさんは映像筒の目盛りを確かめた。
「処置映像は十二回。途中三回欠損」
「全部見せるの?」
「本人が自分の記録を知る権利」
「今倒れてる本人が、止めるって書けないじゃん」
書ける。空中へ指を動かしたが、誰も読まなかった。ノルは映写器の前へ座り込み、留め金を掌で覆う。
「今は僕が止める。あとでミナが見たいって言ったら、僕が回す」
セラさんの指が補助銀具の上で止まった。やがて映像筒から手を離す。
「記録。本人の権利を、現在の判断能力と身体状態により一時保留。保留者ノル、再開条件は本人の回復後の明示」
「うん。壊してないから」
ノルは筒を胸へ抱えた。壊せるのに壊さない。十二歳としては立派だし、機械屋としては当然らしい。
ティアさんは投影布ではなく、私の背中を調べ始めた。肩甲骨の間、古い白い点を指で数える。一つ、二つ。小さすぎて自分では傷とも思わなかった丸が、背骨に沿って並んでいる。
「十七」
「映像より多い」
セラさんが答える。
「少なくとも五回は記録外」
「銀粉の沈着が残ってる。影請けの通路を自然に広げたんじゃない。傷を治すたび、夜晶で壁を固めた」
ティアさんは私の右肩の黒線へ触れず、その周囲を測った。
「今の発熱は、昔の導入路が再び開いてるせい。喉だけ溶かしても、背中から回る。治療法を変える」
なるほど。古い配管が生きていた。なら設計図が見つかったのは幸運だ。故障箇所が分からない設備より、十七個も点検口がある設備のほうが親切である。
ロウさんが資料箱の蓋へ手を置いた。
「この処置を承認した責任者名は」
セラさんが映像の添付票を読む。
「研究主任エルネスト・ハイル。技術確認、王国鐘路局第三保守班」
ロウさんの肩がわずかに下がった。第三保守班。彼の古い署名と同じ所属だ。
「俺の班だ」
それだけ言って、資料箱を持つ手を替えた。右から左へ。右手の親指は、昔の署名欄をこすっていた。
今、誰か一人の過去まで開くと、処理する箱が増える。ロウさんの件は番号札をつけて次へ回したほうがよい。本人も同じ判断らしく、それ以上は話さなかった。
レオンは映像に映った三歳の弟を見ていた。布はもう白いのに、立つ場所を変えない。
「あの子は、一度で気づいた」
六回信じた、の続きらしい。
気づく対象が違っただけだ。ユリオは私の足を見た。レオンは私の説明を聞いた。情報源が違えば答えも違う。責任を足し算する話ではない。
伝えようとして、使える言葉を探した。
『あなたの判断材料を、私が減らした』
手のひらへ書く。ティアさんが読み上げた。
レオンは振り向かない。
「それをしたお前を責めれば、次は隠さなくなるのか」
難しい質問だ。責められたら、見つからないようにする。普通はそうだろう。
返答を組み立てているうちに、ティアさんが脈を測り、百四十二と記録した。
「答えなくていい」
今度はレオンが言った。
「今のお前が、俺を楽にする答えを選ぶのは分かってる」
選べるなら役に立てるのに、それも止められた。
仕方ない。治療中の設備は通行止めになる。迂回路を探すのは、熱が下がってからでよい。
生まれつきではなかった。
なるほど。なら、私の長所を一つ減らして数え直さないといけない。
夜滓に強いから仕事を任されたのではなく、任せやすいから強くされた。順番が逆だ。焼き型へ入るパンと、パンへ合わせて作った焼き型くらい違う。
「ミナ」
ティアさんが呼んだ。
返事は禁止されている。助かる。
私は記録紙の余白を指す。処置回数、薬剤名、後遺症。調べる欄は多い。動ける人が今ここで感想を増やしても、資料箱は軽くならない。
ノルが映写器の蓋を閉じた。
「それ、長所じゃない」
何が?
「入れられたこと」
もちろん処置は技術だ。私の長所は、途中で逃げなかったこと――。
ノルの両手が蓋の留め金を三度外し、三度かけ直した。機械が壊れたときの手ではない。直せないものを見つけたときの手だ。
説明を変える。
『現在使えるなら、由来は緊急対応に影響しません』
セラさんが私の指を見て、その文を記録しなかった。
「観察事実。発言後、脈拍百三十八。右手振戦。影が寝台から離れている」
足元を見る。
影は天幕の外、北側保管庫の壁へ戻っていた。私より資料が好きらしい。気が合うね。
外から蹄の音がした。
一頭ではない。道の石を揃って打つ、訓練された六頭。続いて車輪二軸。鐘守庁の封鎖鈴が三回鳴る。
ロウさんが結界杖を取り、レオンが剣帯を締める。ティアさんは私の寝台を天幕の奥へ押した。セラさんが映像筒を鞄へ、ノルが候補名簿を上着の内側へ入れる。
役割分担が速い。
私も起きようとしたら、五人から同時に見られた。視線だけで寝台へ固定できるなら、結界杖はいらないのでは。
「横になってろ」
ロウさんの命令。
今度は従った。正確には、肘を立てたところで腕が折れた。熱は交渉に参加しないらしい。
馬車の扉が開く。
磨かれた靴が地面へ降りた。銀縁眼鏡の奥で、同じ薄い目が保管庫、天幕、六人を順番に測る。
「迎えに来ました、ミナ・セル」
エルネスト長官は、昔と同じ声で言った。
「三日では、もう足りないようですから」