三千万人の夜を背負った少女   作:日向夏 

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置いていった大人

 エルネスト長官は、見舞いの品を持ってきた。

 王都鐘守庁の封蝋がある治療箱、移送許可証、医師二名、護衛八名。それから、私を一人運ぶための寝台車。

 品数は多いけれど、用途が全部同じだ。贈り物としては工夫が足りない。

 

「王都の設備なら、声帯夜晶と発熱を同時に処置できます」

 

 長官は天幕の外で手袋を外した。中へ入ろうとはしない。ティアさんの治療領域だと分かっている人の距離だった。

 

「候補者十九――失礼。ミナさんの搬送を」

 

「許可しない」

 

 ロウさんが答えた。

 結界杖を地面へ立て、長官と寝台の間に一本の境界を作る。

 

「あなたに患者の処分権はない、ガルド隊長」

 

「搬送指揮権はある。本人は修繕隊の臨時協力員、治療契約下だ」

 

「契約違反を重ね、任務停止条件に達している」

 

「だから治療中だ」

 

 同じ事実が、運ぶ理由にも置く理由にもなる。契約は丈夫な布に似ている。引く人が二人いれば、患者を包まず綱引きに使える。

 

 私は寝台から起き上が――ろうとして、ティアさんの指一本で額を押し戻された。

 

「話さない。書かない。起きない」

 

 選択肢がきれいに減った。

 エルネスト長官の視線が、私の喉、背中の処置痕、天幕の外へ離れた影を順に測る。

 

「導入路が再開通しましたね。三時間以内に専用冷却槽へ入れなければ、受容幅が自律拡張する」

 

 ティアさんの眉が上がった。

 

「知っていたの」

「設計しましたから」

 

 答えが速い。隠す気はないらしい。

 レオンの剣が鞘の中で鳴った。抜いてはいない。親指で鍔を押し、金属を一厘だけ動かした音だ。

 

「八歳の子に」

「当時の処置がなければ、同室の子ども六名が死亡していました」

 

「本人へ、戻らないと知らせずに」

「理解可能な説明を選びました。恐怖は拒絶反応を増やす」

 

 長官は声を荒らげない。数字の桁だけを細かくする。

 

「十九番は処置ごとの生存率が他候補より二十七・四パーセント高かった。自分の処置で他者が助かると理解した場合は、さらに十一・二パーセント上昇した」

 

 よい設計ではある。やる理由が分かれば人は動ける。配達でも、ただ走れと言われるより、朝食に間に合わせろと言われたほうが足が速い。

 

 ただ、現在のレオンへ説明するときに使う数字ではなかった。

 彼の親指がもう一度動く。今度は刃が半寸出た。

 ロウさんの結界杖が横へ倒れ、剣の鍔を押さえた。

 

「抜くな」

「命令ですか」

「そうだ」

「あのときも?」

 

 レオンの視線が、結界杖からロウさんの顔へ上がる。

 天幕の布が風で一度ふくらんだ。誰も続けない。ノルが抱えた映像筒の歯車だけが、服へ触れて小さく鳴る。

 エルネスト長官が眼鏡の位置を直した。

 

「第三保守班の件を話していないのですか」

 

「黙れ」

「移送架台の設計確認者として、彼女には説明責任がある」

 

「俺が話す」

 

 ロウさんは結界杖を地面へ戻した。

 長官ではなく、私を見る。

 

「ティア。話せる状態か」

「聞くだけなら。熱は三十九度七分。返答を求めないで」

 

「返答は要らない」

 

 それは少し困る。仕事の依頼なら受領確認が必要だし、苦情なら対応期限を決めたい。

 

 ロウさんは天幕へ入り、寝台から二歩離れた場所で膝をついた。目線を合わせるためだろう。私は寝かされているので、隊長が床へ近づくしかない。

 

「十二年前、俺は王国鐘路局第三保守班の副技師だった。白麦院から第二次移送用の架台設計が来た。候補者二十名を王都地下へ運ぶ設備だ」

 

 知っている。署名も見た。

 

「俺は安全基準を確認して、署名した。荷重、振動、酸素量、封鎖機構。人間を運ぶとは書いてあった。子どもだとは書いていなかった」

 

 では書類側の不備だ。年齢欄を追加すれば次回から防げる。

 

「現地試験で、初めてお前たちを見た」

 

 ロウさんの手が膝の上で閉じる。

 

「番号札を首へ下げた二十人。架台の座席は十五。五人は床の固定環へつなぐ仕様だった。俺は責任者へ増床を要求した」

 

 エルネスト長官が外から補う。

 

「延期すれば大夜滓流入期に重なり、候補児全体の死亡率が上がる状況でした」

 

「俺は、一晩だけ待てと言った」

「待てなかった」

「だから署名を取り消さなかった。現場で直すつもりだった」

 

 結果として、移送表に彼の署名が残った。

 理解できる。止められない荷車なら、横へ走りながら車輪を直すしかない。最初から完璧な判断を要求すると、現場の人がいなくなる。

 

「出発前夜、十九番が発作を起こした」

 

 私だ。

 

「お前は弟の夜滓を吸って、意識を失った。医療員は『廃棄』と札を替えた。架台へ載せず、夜明けに処理場へ運ぶと」

 

 あの移送表の文字。

 生存確認一、ほか十九廃棄。私の行だけ、あとから濃い墨で書き直されていた。

 

「俺は処理担当へ、炉が故障したと嘘をついた。お前を工具箱へ入れ、保守車で外へ出した」

 

 ノルが息を吸う。

 

「工具箱」

「当時最大の箱だった」

「人を入れる箱じゃない」

「分かってる」

 

 分かっているならよい。私は覚えていないので、乗り心地の苦情も出せない。

 

「逃がしたあと、行き先がなかった。白丘の町で、夜明け前から窯を焚いている店を見つけた」

 

 焦げたパンの匂いがした気がした。

 熱のせいか、記憶か。今の私には味も匂いも頼りないけれど、焦げた端だけは色で分かる。

 

「マルタ・アルノに、三日だけ預かってくれと頼んだ」

 

 三日。

 また便利な長さが出た。

 

「金を渡した。食費と、黙っている代金のつもりだった」

 

 レオンの声が硬い。

 

「親方は受け取ったのか」

「俺の顔へ投げ返した」

 

 それは想像できる。マルタ親方は小麦粉袋なら正確に積むけれど、気に入らない物は距離を測らず投げる。

 

「『パン屋を何だと思ってる。腹を空かせた子を三日で追い出せるなら、とっくに儲かってる』と言われた」

 

 計算が逆の気もする。追い出さないから食費がかかるので、実際あの店はあまり儲からない。

 

「俺は名前を聞かれて、知らないと答えた。番号しか見ていなかった。親方はお前が握っていた赤い配達札の裏を読んだ。『ミナ』と、子どもの字で書いてあった」

 

 ユウが書いた札かもしれない。

 

 赤い配達鞄の原型。あの札を親方は捨てず、鞄の内ポケットへ縫いつけた。第十七話で糸がほつれたとき、裏に古い字があるのを見た。読めなかったのではない。読む必要のない補修跡に分類した。

 

 胸の冷えが、今度は冷却布の位置と合わない。

 

「翌朝、戻った。お前を別の安全地へ移すつもりだった。親方は店の奥へ入れなかった」

 

 ロウさんは一度、口を閉じた。

 

「窓から見た。お前は台へ乗って、生地を丸めていた。片手が動かず、もう片方だけで。親方が失敗した生地を隣へ置いて、同じ形に直していた」

 

 覚えている。

 最初の仕事ではない。最初に触った生地だ。固くて、冷たくて、押すと戻ってきた。人の腕より扱いやすかった。

 

「俺は置いていった」

 

 その言い方は正確ではない。安全な場所へ配置した。候補者一名を施設外へ移し、店主の保護下へ渡した。結果、生存十二年。成果としては十分だ。

 

「助けたんだろ」

 

 レオンが言う。

 

「一人だけだ。残り十九人の移送を止めなかった。十九番を逃がしたことで、俺は自分が命令に逆らったつもりになった。そのあと王都へ報告せず、班を辞めた。お前の弟も、ほかの子も、探さなかった」

 

 ロウさんは床へ拳をついた。

 

「そして今、お前が使えると知って修繕隊へ入れた」

 

 そこが問題らしい。

 私は指先を動かす。ティアさんは止めなかった。返答を求めない約束だったけれど、未処理の報告を放置すると全員が動けない。

 

『結果的に助かりました』

 

 手のひらへ書く。

 

『修繕隊参加も同意済み。現在の成果、第二鐘再起動、患者七名救出、記録回収』

 

 ティアさんが声にしないので、セラさんが読み上げた。

 誰も頷かなかった。

 感謝が足りないのだろうか。では追加する。

 

『ありがとうございます』

 

 ロウさんの顔が上がる。

 

「違う」

 

 怒るべきだったかもしれない。

 

 署名したこと。弟を探さなかったこと。私を工具箱へ入れたこと。三日だけと言ったこと。候補は多い。ただし今ここで怒っても、過去の架台は止まらない。許すと言えば、今度は許された側が何かを返そうとする。どちらも仕事が増える。

 

 なら、この荷物は廃棄が一番安い。

 

『処理済みです。次の作業へ』

 

 ロウさんは立たなかった。

 レオンが寝台の柵をつかむ。ティアさんは測熱板を読み直す。ノルは工具箱という言葉を嫌うように映像筒を抱き直し、セラさんだけが私の文をそのまま記録した。

 

「本人説明。結果的に助かった。処理済み」

 

 少し間を置き、別の欄へ書く。

 

「観察事実。告白の各項目へ具体的評価を返し、感情に関する問いには回答なし。脈拍百五十。左手、母の手紙が入った袋を握り続けている」

 

 見れば、手の中に防湿袋があった。

 いつ取ったのだろう。資料保全のために持っているだけだ。汗で濡らさないよう、すぐセラさんへ渡す。

 受け取ったセラさんは、袋を記録鞄へ入れなかった。私の枕の下へ置いた。

 

「返却先、本人」

 

 エルネスト長官が天幕の外で時計を見た。

 

「昔話に十八分。冷却槽への猶予は二時間四十二分です」

 

 ティアさんが答える。

 

「あなたの槽は使わない。導入路の薬剤配合を渡して」

 

「国家機密です」

「患者の身体に入れた処方を、患者から隠すの?」

 

「移送に同意すれば、全記録を開示します」

 

 取引条件としては分かりやすい。

 

 ティアさんは治療箱を見た。鐘守庁の護衛が両脇を固めている。奪えば薬は手に入るけれど、配合が分からない。渡されたものをそのまま使えば、眠らされて運ばれる可能性がある。

 

「ノル。保管庫の旧冷却管、動かせる?」

 

「井戸側が詰まってる。圧力弁も錆びてる」

 

「何分」

「部品があれば四十分。なければ一時間」

 

 ノルは私を見てから、言い直した。

 

「三十五分でやる」

 

 立派だ。見積もりを縮めるのは普通なら注意するところだけれど、今回は患者が四十度なので値引きを許したい。

 

「レオン、井戸。セラ、映像の薬剤名を全部拾って。ロウ、保管庫を治療区画として封鎖」

 

 ティアさんが指示を飛ばす。

 三人が動いた。ロウさんだけは一拍遅れた。告白の途中で止まっている顔だったが、命令を受けると足は動く。

 

「鐘守庁の医師二名も貸してください」

 

 ティアさんはエルネスト長官へ言った。

 

「患者は渡しません。けれど医師が患者を見捨てる理由もない」

 

 長官の後ろで、灰衣の医師二人が互いを見る。一人は治療箱へ手を伸ばし、護衛に止められた。もう一人は目を伏せたまま、指で自分の袖を数えている。

 

「職務命令を」

 

 ティアさんが続ける。

 

「あなたは合理性を重んじるのでしょう。移送前に患者が壊れれば、計画の損失です」

 

「言葉の選び方を、彼女から学びましたか」

 

「患者を物として呼ぶところは、あなたから反面教師として」

 

 医師の一人が小さく咳をした。笑いを隠したのか、空気が悪いのかは断定しない。けれど護衛の手が離れた瞬間に、治療箱を持って天幕へ入った。

 

「冷却剤は使えます。導入路抑制薬は管理番号のみで、配合は私たちにも非開示です」

 

 女性医師は私へ名乗った。鐘守庁医療官エマ・リード。名乗ったあと、候補番号ではなく「ミナさん」と呼び直す。

 

「背中を確認します」

 

 ティアさんが横につき、二人で十七の痕を測る。エマ医師は三つ目で息を止め、七つ目で長官を見るのをやめた。十七まで数えたあと、手袋を交換する。

 

「導入基準では最大六回です」

「十二年前の基準は?」

「同じです」

 

 ティアさんの問いに、医師は短く答えた。

 規則違反が十一回。ずいぶん多い。けれど今の私は生きているので、罰金の請求先を間違えないでほしい。

 

「本人が毎回、自発的に志願しました」

 

 エルネスト長官が外から言う。

 エマ医師の手が止まる。

 

「八歳の同意書を、有効として?」

「保護責任者が代筆しています」

「保護責任者は白麦院」

「そうです」

 

 ティアさんは薬瓶を寝台脇へ強く置いた。割らない力加減なのが、かえって怖い。

 

「逃げ道を全部同じ人が持ってる契約を、同意って呼ばない」

 

 長官は反論しなかった。必要な承認欄が埋まっていれば、呼び方は業務へ影響しないらしい。

 

 外で井戸の滑車が回る。レオンが水桶を二つ運び、ノルは冷却管の格子を外した。セラさんが映像記録から薬剤名を一語ずつ抜き、板へ並べる。ロウさんは護衛と保管庫の境へ青い結界を張った。

 

 五人が、私を運ばないために働いている。

 不思議な作業だ。普通は品物を目的地へ届けるために人が動く。今は品物を同じ場所へ置くために、全員の手がふさがっている。

 私が王都へ行けば、この作業は要らない。

 そう計算すると、熱とは別のところがすっと冷えた。

 

 起きて説明できれば簡単なのに。仲間の安全も治療も、王都で同時に条件へ入れればよい。けれど声は禁じられ、指はティアさんの視界にあり、身体は寝台の上だ。

 

 役に立たない患者は、本当に手がかかる。

 枕の下で紙が鳴った。母の手紙。

 役に立たなくていいから帰ってきて。

 帰る先を選ぶと、今ここで五人が働く。王都を選べば、五人の作業を減らせる。なら、どちらが迷惑でないかは簡単――。

 影が天幕の外で揺れた。

 私の身体の形を取らず、細長い器の輪郭になる。縁から黒いものがあふれ、地面へ落ちないまま戻っていく。

 エルネスト長官だけが、その変化を見ても驚かなかった。

 

「自律拡張は計画に適合しています」

 

 ティアさんが影を隠すように立つ。

 

「これを治療せず、育てたのね」

「治療と育成は目的次第で同じ行為です」

 

「患者の目的は聞いた?」

 

 長官の視線が私へ向く。

 

「彼女は一貫して、他者の役に立つことを望んだ」

 

 正しい。

 だからこそ、ティアさんの顔がもっと冷たくなった理由が分からなかった。

 ロウさんが立ち上がった。膝についた土を払わない。

 

「同意しない」

「本人の意思を確認していません」

「今は判断能力が落ちている」

「では回復後に」

 

 長官は急がない。私が王都へ行く道は、彼の中ではもう一本しか残っていないようだ。

 護衛の一人が、馬車から黒い板を運んできた。鐘守庁の公示板。銀の文字が自動で刻まれていく。

 

「その前に、市民へ計画を説明します。あなた方が回収した分灯式には価値がある。しかし百人規模で七割。大夜蝕で必要なのは、全国三千二百四十七鐘路、推定夜滓量九百八十万単位です」

 

 公示板に王国地図が光る。すべての鐘路が黒い線となり、王都中央の一点へ集まった。

 

「確実な受け皿は一つでよい」

 

 線の先に、人の輪郭。

 

「大夜蝕の全夜滓を、適合者一名へ封じる」

 

 輪郭の番号が表示される。

 候補者十九。ミナ・セル。

 

「これが、朝の器計画です」

 

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