三千万人の夜を背負った少女   作:日向夏 

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三日寝れば戻る

 暁鐘が一拍遅れた朝、パンはきれいに焼けた。

 

 世の中は、こういうところが困る。

 

 鐘の音が欠けて、町を守る光が弱くなっても、生地はちゃんと膨らむ。窯の温度も昨日と同じ。焼き色だけ見れば、何も起きていない朝だ。

 

 だったら人間も働いていいのでは、と思うでしょう?

 

 私は思った。

 

「寝台へ戻れ」

 

 レオンは思わなかった。

 

「八時間寝たよ」

「十二時間と言われた」

「四時間ぶんは今夜へ繰り越します」

「睡眠を借金みたいに扱うな」

 

 厨房の入口に立ち、腕を組んでいる。市警の朝巡回はどうしたのか尋ねると、交代を頼んだらしい。

 

「私の見張りで仕事を休んだの?」

「鐘が遅れた。市場の警戒も二人一組になった」

「なるほど。半分は私じゃない」

「全部お前じゃない」

 

 それならよかった。

 

 私は焼き上がった丸パンを板へ移した。昨日より十個多い。市場が止まれば、家から出ない人が保存用を買いに来る。怖い朝ほどパンは売れるのだ。嬉しいような、商売人として喜ぶと罰が当たりそうな、少し複雑な話である。

 

「左手を使うな」

 

 レオンが言う。

 

「右手だけで天板は持てないよ」

「俺が持つ」

「剣は?」

「腰にある」

「パン屋へ転職する準備がいいね」

 

 レオンは黙って天板を取り上げた。

 

 冗談ではなく、本当に働くつもりらしい。窯前へ運ぶ姿勢も悪くない。剣を振る人は重いものの持ち方が上手だ。

 

「そこで十秒待って。すぐ重ねると底が湿る」

 

 言われたとおり止まる。

 

「上手、上手。初日にしては見込みがある」

「初日で辞める」

「残念」

 

 バルトさんが石臼小屋から戻り、レオンの前掛け姿を見て吹き出した。イネスさんはもっと実務的で、空いた市警の手へ次の天板を渡す。

 

 人の長所を見つける人が多い職場だ。私はうちの店を高く評価している。

 

 親方は評価していない顔で、私の前へ椅子を置いた。

 

「座って袋詰め」

「配達は」

「ペトと私で行く」

「親方は店を空けないでしょう」

「今日は空ける」

 

 また私のせいで順番が変わる。

 

 反論すると、たぶん仕事そのものを取り上げられる。私は賢く椅子へ座り、紙袋を開いた。

 

 座っていても手は動かせる。一袋へ二個ずつ。紐を一巻き。注文札を差す。二十三袋。こういう単純作業は、考え事をしなくて済むから助かる。

 

 六つ目を結んだところで、左手の指がうまく曲がらなかった。

 

 冷えているだけだ。指へ息を吹き、もう一度紐を取る。

 

 十個目の袋で、鐘楼の方角から短い笛が鳴った。

 

 一度、間を置いて二度。

 

 影熱患者発生の合図だ。

 

 レオンが前掛けを外す。さっきまでパン屋見習いだった人が、一瞬で市警の顔へ戻った。

 

「店を閉めろ。俺は鐘楼へ行く」

「私も」

「お前は店にいる」

「影熱なら、できることがある」

「だから駄目だ」

 

 理由が逆ではないだろうか。

 

 できない人を連れていかないのは分かる。できる人を置いていくと、現場の負担が増える。

 

「能力は使わない。配達路の案内だけ」

「昨日も、触らないと言って持った」

「言葉の使い方が悪かっただけです」

「今日は何と言い換える」

 

 疑われている。

 

 悲しいことだけれど、原因には心当たりがある。ここは信用を取り戻す場面だ。

 

「ロウさんの命令に従う。これなら?」

 

 レオンが私を見る。

 

 すぐには頷かなかった。

 

「嘘をついたら、店へ連れ戻す」

「了解」

 

 交渉成立。

 

 親方が止める前に、外套をつかんで外へ出た。

 

 外の空は、夜明けから色が変わっていなかった。青いのに薄暗い。町中の影が、いつもより半歩ぶん長い。

 

 笛は北の共同学校からだった。

 

 市場を抜け、粉倉の角を曲がる。学校前には保護者が集まり、市警が入口を塞いでいた。泣き声が一つ、怒鳴り声が二つ。数が合わないのは、大人が子どものぶんまで騒いでいるからだ。

 

「うちの子を出して!」

 

 青い肩掛けの女性が、市警の腕を押している。魚屋の向かいで豆を売るナナさんだ。教室にいるのは六歳の娘、フィオ。朝はいつも母親の店から豆を三粒失敬し、うちの窓辺へ並べていく。

 

「ナナさん、フィオは中で治療を受けてる」

 

 声をかけると、こちらへ振り向いた。

 

「ミナ、見たの?」

「今から見る。でも修繕隊の薬師さんが入ってる。昨日、魚屋さんを十分で立たせた人」

 

 間違ってはいない。魚屋さんは軽症だったので、十分後には自分で歩けた。

 

「私、何をすればいい」

 

 人は何もすることがないと、悪い想像を始める。なら、仕事を一つ渡したほうがいい。

 

「フィオの上着を取ってきて。治療が終わると冷えるから。あと、お湯を一杯」

 

 ナナさんは頷き、学校の外壁に掛かった鞄へ走った。

 

 隣では、十歳の男の子の父親が市警へ鐘守庁を呼べと怒鳴っていた。この人は仕立屋のドムさん。針を持つと誰より細かな仕事をするのに、心配すると声だけ大きくなる。

 

「ドムさんは毛布を三枚。縫い目が粗いやつでいいから」

「なぜ粗いものを」

「細かいのは重いでしょう。運ぶのが早い」

 

 説明すると、すぐ店へ向かった。仕事の理由が分かれば速い人なのだ。

 

 ペトは門の脇で青ざめていた。弟のルカが中にいるのに、親方から預かったパン籠を両手で抱えたまま動けない。

 

「ペト、その籠を保護者へ配って。食べられない人には持たせるだけでいい」

「でもルカが」

「私は中へ行く。見たことをちゃんと伝える。ペトはここにいて、出てきたルカが腹ぺこでも困らないようにして」

 

 唇を噛み、頷く。

 

 セラさんがこちらを見ていた。記録板へ三人の仕事を書き、門前の市警へ見せる。市警も同じ内容を大声で案内し始めた。

 

 人の流れが少し整う。

 

 ほら。魔法がなくても、できることはある。

 

 こういう仕事なら誰も怒らないし、私も減らない。できるなら、ずっとこちらだけを選べばいいのだろう。

 

 でも、校舎の中から子どもの息を詰める声が聞こえた。

 

 ロウさんが門前の石へ結界杖を打ち込んでいる。

 

「状況は」

 

 レオンが聞く。

 

「鐘の遅延で教室の朝灯が消えた。夜滓を吸った子が三人。夜喰いはまだ出ていない」

 

 ティアさんは廊下へ診察布を広げ、三人の子どもを横に寝かせていた。

 

 六歳くらいの女の子。十歳くらいの男の子。それから、ペトの弟のルカ。昨日まで店の裏で木切れを剣にして遊んでいた子だ。

 

 三人とも腕に黒いひびがある。

 

 ルカが私を見つけた。

 

「ミナ姉」

 

 声は細い。

 

「おはよう。学校で寝ていい日なんて、ちょっと得したね」

 

 近くへしゃがむ。ティアさんが顔を上げた。

 

「能力使用は禁止」

「聞いてます。応援係です」

「応援なら、そこから二歩下がって」

 

 床へ白い線が引いてある。治療区域の境らしい。

 

 私は素直に下がった。

 

 ルカの目が追ってくる。いつもなら、パンの端をねだるときくらいしか真っすぐ見ない子だ。

 

「痛い?」

 

 聞くと、首を横に振った。

 

 そのわりに、右手で左腕を握りつぶしそうなほどつかんでいる。痛くないのではなく、痛いと言いたくないのだろう。

 

 気持ちは分かる。

 

「薬は足りる?」

 

 ティアさんへ尋ねる。

 

「三人分あります。ただ、薄めるのに一人一時間。重い子から順番です」

 

 銀の小瓶は三本。中で淡い光が揺れている。

 

 最初は六歳の女の子だ。ひびがもう肩へ届いている。次に十歳の男の子。ルカは最後。

 

 正しい順番だと思う。

 

 助かる確率の低い人、悪化の速い人から手をつける。パンなら火に近い列から出す。全部を同時にできないなら、順番を決めるしかない。

 

 ルカにも分かるよう説明した。

 

「まずあの子。次が向こうのお兄ちゃん。それからルカね」

「どれくらい?」

「二時間くらい」

 

 ルカの指へ力が入る。

 

 二時間。

 

 大人には短い。仕込みを二回見れば終わる。でも痛い子どもにとっては、朝から昼までと同じ長さだ。

 

「僕、最後でいい」

 

 ルカが言った。

 

 偉い。

 

 偉いけれど、そう言わせて喜んではいけない気がした。

 

 六歳の女の子が治療を始める。ティアさんが銀の液を一滴ずつ黒いひびへ落とし、布で押さえる。女の子の背が弓なりになった。

 

「痛い、痛い!」

 

 母親らしい女性が白線の外で口元を押さえる。そばへ行きたいのに、結界を乱すから動けない。

 

 ティアさんは手を止めない。

 

「痛みます。今から十数えます。十で最初の波が終わる」

 

 嘘をつかない人だ。

 

 女の子は泣きながら十を数えた。八で一度詰まり、ティアさんが九を足す。十まで行くと、本当に肩の力が少し抜けた。

 

 いい治療だと思う。

 

 ちゃんと痛いと伝え、終わる場所を教える。

 

 でも、あと二人いる。

 

 校舎の床下から、黒い煙が糸のように上がっていた。ロウさんとセラさんが発生源を探し、ノルが朝灯を分解している。レオンは門の外で保護者を下がらせている。

 

 皆、それぞれの持ち場にいる。

 

 私だけ、白線の外で見ている。

 

 見ているのも仕事だと、誰かは言うかもしれない。でもそれでルカの二時間は短くならない。

 

「ミナ姉」

 

 呼ばれる。

 

「うん」

「これ、夜喰いになる?」

 

 ならない、とすぐ言いかけた。

 

 影熱が進めば生まれる。治療が間に合えば大丈夫。床下の夜滓が増えれば、間に合わない可能性もある。

 

 正しい答えはいくつかある。

 

 ルカが欲しい答えは一つだ。

 

「ならないよ。私がいるから」

 

 レオンがこちらを見た。

 

 遠くからでも、眉間が険しくなったのが分かる。

 

 まだ何もしていない。約束は守っている。

 

 でも、私がいるからと言ってしまった。

 

 言葉には、言った人の仕事がついてくる。パンの注文と同じだ。受けたなら届けなくてはいけない。

 

 十歳の男の子が急に咳き込んだ。

 

 腕のひびが首へ跳ねる。

 

「ティア!」

 

 ロウさんが叫ぶ。

 

 ティアさんは六歳の子を治療中だ。ここで手を離せば、押さえた夜滓が戻る。

 

「二人目を先に!」

 

 母親たちの誰かが叫ぶ。

 

 順番が崩れた。

 

 こういうとき、人は正しく慌てる。自分の子を先にと言い、今治療している子の母親は手を離すなと言う。誰も悪くない。だから余計に決まらない。

 

 ロウさんが指示を出す前に、床下で何かが鳴った。

 

 低い歯ぎしり。

 

 夜喰いになる前の音だ。

 

 残り時間が減った。

 

「レオン」

 

 呼ぶと、彼は門から戻ってきた。

 

「駄目だ」

「まだ何も言ってない」

「顔で分かる」

「顔は便利だねえ」

「ミナ」

 

 怒っている。

 

 でも怒らせないために三人を待たせるのは、順番が違う。

 

「薬は三本。私なら三人を今すぐ軽くできる。そのあと一人ずつ薬で私から抜けばいい」

「患者が四人になる」

「動ける患者が一人増えるだけ」

「昨日、三日使うなと言われた」

「今日の予定は昨日には分からなかったでしょう?」

 

 レオンの手が私の肩へ伸びる。

 

 一歩下がった。

 

「約束した」

「ロウさんの命令に従うって約束した」

 

 隊長を見る。

 

 ずるい方法だとは分かっている。レオンとの約束を、別の人の判断へ預けている。

 

 ロウさんは床下と三人を見た。

 

「許可しない」

 

 答えは早かった。

 

「理由は?」

「お前の残量が測れない。ここで倒れれば、夜喰いが四体出る」

 

 理屈は通っている。

 

 残量が測れないなら、少しずつ試せばいい。

 

 私は白線の中へ片足を入れた。

 

 レオンに腕をつかまれる。

 

「命令に従うと言った」

「ごめん」

 

 先に謝る。

 

 それから、昨日ティアさんに巻かれた包帯をほどいた。黒い線が空気へ触れる。

 

 床下の夜滓が、こちらを向いた。

 

 黒い煙が私の腕へ吸い寄せられ、レオンの手が反射的に離れる。彼へ移さないためだ。そうすると思った。

 

 空いた隙間から、ルカのそばへ滑り込む。

 

「ミナ!」

 

「三日寝れば戻るから」

 

 誰に言ったのか、自分でも分からなかった。

 

 ルカの手を握る。

 

 ひびがこちらへ動く。二時間待つはずだった痛みが、まとめて腕へ入ってきた。

 

 冷たい。

 

 手首の奥で、細い骨が凍って割れる。

 

 息を止めると苦しいので、喋る。

 

「ほら、朝から得したね。二時間ぶん、遊べるよ」

 

 ルカのひびが消える。次に十歳の男の子。咳が止まり、首の黒が薄くなる。

 

 ティアさんが治療中の女の子へ触れると、強い夜滓が一気に流れた。

 

 視界が白くなる。

 

 でも女の子は、十を数えなくて済んだ。

 

 三人ぶんを受け取ったところで、床下の歯ぎしりが止まる。生まれかけていた夜喰いも、餌を失ったらしい。

 

 よかった。

 

 膝が床へついた。

 

 これは予定外だ。格好がつかない。

 

「ミナ姉?」

 

 ルカが不安そうに顔をのぞき込む。

 

「ちょっと足が痺れただけ」

「黒いの、増えてる」

「三日寝れば、きれいに戻るよ」

 

 もう一度言う。

 

 同じ言葉は、二回言うと少し本当らしく聞こえる。

 

 ルカの肩から力が抜けた。

 

 それでいい。

 

 安心させるのも治療のうちだ。痛みを取る薬と、怖さを取る言葉。両方あったほうが早く元気になる。

 

「どいて」

 

 ティアさんが私の前へ膝をついた。

 

 眼鏡の奥は静かだった。怒鳴らない。そのほうが、少し怖い。

 

「三日で戻る根拠は」

「前もそれくらいだったから」

「いつの、何人分が」

「昔の」

「答えになってない」

 

 手首へ二本の指が当たる。

 

 ティアさんの顔から、さらに表情が消えた。

 

「脈、一分百四十八」

「走ったから」

「体温、三十五度一分」

「床が冷たいです」

「黒線、胸まで」

 

 それは見えていないので、確認できない。

 

 ティアさんはセラさんへ手を出した。記録板を受け取り、数字を大きく書く。

 

『脈拍一四八。体温三五・一。黒線、左胸へ到達。意識混濁あり』

 

 板を、私の目の前へ置いた。

 

「読み上げて」

「意識混濁してる人に読ませるんですか」

「冗談を言えることと、正常であることは同じじゃない」

 

 逃げ道がない。

 

 数字は正直だ。私の説明より、ずっと行儀よく並んでいる。

 

「……脈拍一四八。体温三五・一。黒線、左胸へ到達」

「三日で戻る?」

 

 ティアさんが聞く。

 

 ルカたちが見ている。

 

 レオンも、ロウさんも、親たちも。

 

 本当のことを言えば、また怖がらせる。

 

「戻しますよ」

 

 答えを少しだけ変えた。

 

 戻る、ではなく、戻す。

 

 そのほうが仕事らしくて、私にもできそうだった。

 

 ティアさんは笑わなかった。

 

 レオンは怒鳴らなかった。

 

 誰も何も言わないまま、私は治療布の上へ寝かされた。

 

 静かになった廊下で、三人の子どもだけが元気に息をしている。

 

 なら、順番は間違っていない。

 

 そう思うには、胸の黒い線が少しだけ痛すぎた。

 

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