暁鐘が一拍遅れた朝、パンはきれいに焼けた。
世の中は、こういうところが困る。
鐘の音が欠けて、町を守る光が弱くなっても、生地はちゃんと膨らむ。窯の温度も昨日と同じ。焼き色だけ見れば、何も起きていない朝だ。
だったら人間も働いていいのでは、と思うでしょう?
私は思った。
「寝台へ戻れ」
レオンは思わなかった。
「八時間寝たよ」
「十二時間と言われた」
「四時間ぶんは今夜へ繰り越します」
「睡眠を借金みたいに扱うな」
厨房の入口に立ち、腕を組んでいる。市警の朝巡回はどうしたのか尋ねると、交代を頼んだらしい。
「私の見張りで仕事を休んだの?」
「鐘が遅れた。市場の警戒も二人一組になった」
「なるほど。半分は私じゃない」
「全部お前じゃない」
それならよかった。
私は焼き上がった丸パンを板へ移した。昨日より十個多い。市場が止まれば、家から出ない人が保存用を買いに来る。怖い朝ほどパンは売れるのだ。嬉しいような、商売人として喜ぶと罰が当たりそうな、少し複雑な話である。
「左手を使うな」
レオンが言う。
「右手だけで天板は持てないよ」
「俺が持つ」
「剣は?」
「腰にある」
「パン屋へ転職する準備がいいね」
レオンは黙って天板を取り上げた。
冗談ではなく、本当に働くつもりらしい。窯前へ運ぶ姿勢も悪くない。剣を振る人は重いものの持ち方が上手だ。
「そこで十秒待って。すぐ重ねると底が湿る」
言われたとおり止まる。
「上手、上手。初日にしては見込みがある」
「初日で辞める」
「残念」
バルトさんが石臼小屋から戻り、レオンの前掛け姿を見て吹き出した。イネスさんはもっと実務的で、空いた市警の手へ次の天板を渡す。
人の長所を見つける人が多い職場だ。私はうちの店を高く評価している。
親方は評価していない顔で、私の前へ椅子を置いた。
「座って袋詰め」
「配達は」
「ペトと私で行く」
「親方は店を空けないでしょう」
「今日は空ける」
また私のせいで順番が変わる。
反論すると、たぶん仕事そのものを取り上げられる。私は賢く椅子へ座り、紙袋を開いた。
座っていても手は動かせる。一袋へ二個ずつ。紐を一巻き。注文札を差す。二十三袋。こういう単純作業は、考え事をしなくて済むから助かる。
六つ目を結んだところで、左手の指がうまく曲がらなかった。
冷えているだけだ。指へ息を吹き、もう一度紐を取る。
十個目の袋で、鐘楼の方角から短い笛が鳴った。
一度、間を置いて二度。
影熱患者発生の合図だ。
レオンが前掛けを外す。さっきまでパン屋見習いだった人が、一瞬で市警の顔へ戻った。
「店を閉めろ。俺は鐘楼へ行く」
「私も」
「お前は店にいる」
「影熱なら、できることがある」
「だから駄目だ」
理由が逆ではないだろうか。
できない人を連れていかないのは分かる。できる人を置いていくと、現場の負担が増える。
「能力は使わない。配達路の案内だけ」
「昨日も、触らないと言って持った」
「言葉の使い方が悪かっただけです」
「今日は何と言い換える」
疑われている。
悲しいことだけれど、原因には心当たりがある。ここは信用を取り戻す場面だ。
「ロウさんの命令に従う。これなら?」
レオンが私を見る。
すぐには頷かなかった。
「嘘をついたら、店へ連れ戻す」
「了解」
交渉成立。
親方が止める前に、外套をつかんで外へ出た。
外の空は、夜明けから色が変わっていなかった。青いのに薄暗い。町中の影が、いつもより半歩ぶん長い。
笛は北の共同学校からだった。
市場を抜け、粉倉の角を曲がる。学校前には保護者が集まり、市警が入口を塞いでいた。泣き声が一つ、怒鳴り声が二つ。数が合わないのは、大人が子どものぶんまで騒いでいるからだ。
「うちの子を出して!」
青い肩掛けの女性が、市警の腕を押している。魚屋の向かいで豆を売るナナさんだ。教室にいるのは六歳の娘、フィオ。朝はいつも母親の店から豆を三粒失敬し、うちの窓辺へ並べていく。
「ナナさん、フィオは中で治療を受けてる」
声をかけると、こちらへ振り向いた。
「ミナ、見たの?」
「今から見る。でも修繕隊の薬師さんが入ってる。昨日、魚屋さんを十分で立たせた人」
間違ってはいない。魚屋さんは軽症だったので、十分後には自分で歩けた。
「私、何をすればいい」
人は何もすることがないと、悪い想像を始める。なら、仕事を一つ渡したほうがいい。
「フィオの上着を取ってきて。治療が終わると冷えるから。あと、お湯を一杯」
ナナさんは頷き、学校の外壁に掛かった鞄へ走った。
隣では、十歳の男の子の父親が市警へ鐘守庁を呼べと怒鳴っていた。この人は仕立屋のドムさん。針を持つと誰より細かな仕事をするのに、心配すると声だけ大きくなる。
「ドムさんは毛布を三枚。縫い目が粗いやつでいいから」
「なぜ粗いものを」
「細かいのは重いでしょう。運ぶのが早い」
説明すると、すぐ店へ向かった。仕事の理由が分かれば速い人なのだ。
ペトは門の脇で青ざめていた。弟のルカが中にいるのに、親方から預かったパン籠を両手で抱えたまま動けない。
「ペト、その籠を保護者へ配って。食べられない人には持たせるだけでいい」
「でもルカが」
「私は中へ行く。見たことをちゃんと伝える。ペトはここにいて、出てきたルカが腹ぺこでも困らないようにして」
唇を噛み、頷く。
セラさんがこちらを見ていた。記録板へ三人の仕事を書き、門前の市警へ見せる。市警も同じ内容を大声で案内し始めた。
人の流れが少し整う。
ほら。魔法がなくても、できることはある。
こういう仕事なら誰も怒らないし、私も減らない。できるなら、ずっとこちらだけを選べばいいのだろう。
でも、校舎の中から子どもの息を詰める声が聞こえた。
ロウさんが門前の石へ結界杖を打ち込んでいる。
「状況は」
レオンが聞く。
「鐘の遅延で教室の朝灯が消えた。夜滓を吸った子が三人。夜喰いはまだ出ていない」
ティアさんは廊下へ診察布を広げ、三人の子どもを横に寝かせていた。
六歳くらいの女の子。十歳くらいの男の子。それから、ペトの弟のルカ。昨日まで店の裏で木切れを剣にして遊んでいた子だ。
三人とも腕に黒いひびがある。
ルカが私を見つけた。
「ミナ姉」
声は細い。
「おはよう。学校で寝ていい日なんて、ちょっと得したね」
近くへしゃがむ。ティアさんが顔を上げた。
「能力使用は禁止」
「聞いてます。応援係です」
「応援なら、そこから二歩下がって」
床へ白い線が引いてある。治療区域の境らしい。
私は素直に下がった。
ルカの目が追ってくる。いつもなら、パンの端をねだるときくらいしか真っすぐ見ない子だ。
「痛い?」
聞くと、首を横に振った。
そのわりに、右手で左腕を握りつぶしそうなほどつかんでいる。痛くないのではなく、痛いと言いたくないのだろう。
気持ちは分かる。
「薬は足りる?」
ティアさんへ尋ねる。
「三人分あります。ただ、薄めるのに一人一時間。重い子から順番です」
銀の小瓶は三本。中で淡い光が揺れている。
最初は六歳の女の子だ。ひびがもう肩へ届いている。次に十歳の男の子。ルカは最後。
正しい順番だと思う。
助かる確率の低い人、悪化の速い人から手をつける。パンなら火に近い列から出す。全部を同時にできないなら、順番を決めるしかない。
ルカにも分かるよう説明した。
「まずあの子。次が向こうのお兄ちゃん。それからルカね」
「どれくらい?」
「二時間くらい」
ルカの指へ力が入る。
二時間。
大人には短い。仕込みを二回見れば終わる。でも痛い子どもにとっては、朝から昼までと同じ長さだ。
「僕、最後でいい」
ルカが言った。
偉い。
偉いけれど、そう言わせて喜んではいけない気がした。
六歳の女の子が治療を始める。ティアさんが銀の液を一滴ずつ黒いひびへ落とし、布で押さえる。女の子の背が弓なりになった。
「痛い、痛い!」
母親らしい女性が白線の外で口元を押さえる。そばへ行きたいのに、結界を乱すから動けない。
ティアさんは手を止めない。
「痛みます。今から十数えます。十で最初の波が終わる」
嘘をつかない人だ。
女の子は泣きながら十を数えた。八で一度詰まり、ティアさんが九を足す。十まで行くと、本当に肩の力が少し抜けた。
いい治療だと思う。
ちゃんと痛いと伝え、終わる場所を教える。
でも、あと二人いる。
校舎の床下から、黒い煙が糸のように上がっていた。ロウさんとセラさんが発生源を探し、ノルが朝灯を分解している。レオンは門の外で保護者を下がらせている。
皆、それぞれの持ち場にいる。
私だけ、白線の外で見ている。
見ているのも仕事だと、誰かは言うかもしれない。でもそれでルカの二時間は短くならない。
「ミナ姉」
呼ばれる。
「うん」
「これ、夜喰いになる?」
ならない、とすぐ言いかけた。
影熱が進めば生まれる。治療が間に合えば大丈夫。床下の夜滓が増えれば、間に合わない可能性もある。
正しい答えはいくつかある。
ルカが欲しい答えは一つだ。
「ならないよ。私がいるから」
レオンがこちらを見た。
遠くからでも、眉間が険しくなったのが分かる。
まだ何もしていない。約束は守っている。
でも、私がいるからと言ってしまった。
言葉には、言った人の仕事がついてくる。パンの注文と同じだ。受けたなら届けなくてはいけない。
十歳の男の子が急に咳き込んだ。
腕のひびが首へ跳ねる。
「ティア!」
ロウさんが叫ぶ。
ティアさんは六歳の子を治療中だ。ここで手を離せば、押さえた夜滓が戻る。
「二人目を先に!」
母親たちの誰かが叫ぶ。
順番が崩れた。
こういうとき、人は正しく慌てる。自分の子を先にと言い、今治療している子の母親は手を離すなと言う。誰も悪くない。だから余計に決まらない。
ロウさんが指示を出す前に、床下で何かが鳴った。
低い歯ぎしり。
夜喰いになる前の音だ。
残り時間が減った。
「レオン」
呼ぶと、彼は門から戻ってきた。
「駄目だ」
「まだ何も言ってない」
「顔で分かる」
「顔は便利だねえ」
「ミナ」
怒っている。
でも怒らせないために三人を待たせるのは、順番が違う。
「薬は三本。私なら三人を今すぐ軽くできる。そのあと一人ずつ薬で私から抜けばいい」
「患者が四人になる」
「動ける患者が一人増えるだけ」
「昨日、三日使うなと言われた」
「今日の予定は昨日には分からなかったでしょう?」
レオンの手が私の肩へ伸びる。
一歩下がった。
「約束した」
「ロウさんの命令に従うって約束した」
隊長を見る。
ずるい方法だとは分かっている。レオンとの約束を、別の人の判断へ預けている。
ロウさんは床下と三人を見た。
「許可しない」
答えは早かった。
「理由は?」
「お前の残量が測れない。ここで倒れれば、夜喰いが四体出る」
理屈は通っている。
残量が測れないなら、少しずつ試せばいい。
私は白線の中へ片足を入れた。
レオンに腕をつかまれる。
「命令に従うと言った」
「ごめん」
先に謝る。
それから、昨日ティアさんに巻かれた包帯をほどいた。黒い線が空気へ触れる。
床下の夜滓が、こちらを向いた。
黒い煙が私の腕へ吸い寄せられ、レオンの手が反射的に離れる。彼へ移さないためだ。そうすると思った。
空いた隙間から、ルカのそばへ滑り込む。
「ミナ!」
「三日寝れば戻るから」
誰に言ったのか、自分でも分からなかった。
ルカの手を握る。
ひびがこちらへ動く。二時間待つはずだった痛みが、まとめて腕へ入ってきた。
冷たい。
手首の奥で、細い骨が凍って割れる。
息を止めると苦しいので、喋る。
「ほら、朝から得したね。二時間ぶん、遊べるよ」
ルカのひびが消える。次に十歳の男の子。咳が止まり、首の黒が薄くなる。
ティアさんが治療中の女の子へ触れると、強い夜滓が一気に流れた。
視界が白くなる。
でも女の子は、十を数えなくて済んだ。
三人ぶんを受け取ったところで、床下の歯ぎしりが止まる。生まれかけていた夜喰いも、餌を失ったらしい。
よかった。
膝が床へついた。
これは予定外だ。格好がつかない。
「ミナ姉?」
ルカが不安そうに顔をのぞき込む。
「ちょっと足が痺れただけ」
「黒いの、増えてる」
「三日寝れば、きれいに戻るよ」
もう一度言う。
同じ言葉は、二回言うと少し本当らしく聞こえる。
ルカの肩から力が抜けた。
それでいい。
安心させるのも治療のうちだ。痛みを取る薬と、怖さを取る言葉。両方あったほうが早く元気になる。
「どいて」
ティアさんが私の前へ膝をついた。
眼鏡の奥は静かだった。怒鳴らない。そのほうが、少し怖い。
「三日で戻る根拠は」
「前もそれくらいだったから」
「いつの、何人分が」
「昔の」
「答えになってない」
手首へ二本の指が当たる。
ティアさんの顔から、さらに表情が消えた。
「脈、一分百四十八」
「走ったから」
「体温、三十五度一分」
「床が冷たいです」
「黒線、胸まで」
それは見えていないので、確認できない。
ティアさんはセラさんへ手を出した。記録板を受け取り、数字を大きく書く。
『脈拍一四八。体温三五・一。黒線、左胸へ到達。意識混濁あり』
板を、私の目の前へ置いた。
「読み上げて」
「意識混濁してる人に読ませるんですか」
「冗談を言えることと、正常であることは同じじゃない」
逃げ道がない。
数字は正直だ。私の説明より、ずっと行儀よく並んでいる。
「……脈拍一四八。体温三五・一。黒線、左胸へ到達」
「三日で戻る?」
ティアさんが聞く。
ルカたちが見ている。
レオンも、ロウさんも、親たちも。
本当のことを言えば、また怖がらせる。
「戻しますよ」
答えを少しだけ変えた。
戻る、ではなく、戻す。
そのほうが仕事らしくて、私にもできそうだった。
ティアさんは笑わなかった。
レオンは怒鳴らなかった。
誰も何も言わないまま、私は治療布の上へ寝かされた。
静かになった廊下で、三人の子どもだけが元気に息をしている。
なら、順番は間違っていない。
そう思うには、胸の黒い線が少しだけ痛すぎた。