三千万人の夜を背負った少女   作:日向夏 

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一人なら数えやすい

 朝の器計画を一言で説明すると、王国中の後片づけを一人へ押し込む方法だ。

 よい子は真似しないでください。悪い大人は、計算しやすいので採用したがる。

 

 公示板の人型へ、三千二百四十七本の黒い線が集まっていた。推定夜滓量九百八十万単位。大夜蝕まで五十六日。適合者生存率、式の直後までは六十八パーセント。

 

 その後七日間の生存率は表示されない。

 書き忘れではないだろう。空欄にも用途がある。

 

「一人なら数えやすい」

 

 エルネスト長官は、地図を見たまま言った。

 

「受容幅、封入速度、破損時刻。責任の所在も一つです。百人、千人へ分ければ個体差と離脱率が増える」

 

 ノルが冷却管の下から顔を出す。

 

「人を部品みたいに言うな」

「部品なら交換できます。適合者は交換できない。むしろ、より慎重に扱っています」

 

 長官の答えは丁寧だ。

 ノルは持っていた螺子回しを地面へ刺した。土に螺子はないので、それ以上回らない。

 

 即席の冷却槽は北側保管庫の古い洗浄桶で完成した。ノルが配管を直し、レオンが井戸水を運び、ティアさんとエマ医師が薬を薄める。セラさんは映像から拾った配合記号を照合し、ロウさんが結界で温度を一定にする。

 

 一時間と言っていた作業を三十二分。ノルの見積もりは七分余った。余った時間で弁を二重にしたので、実質ぴったりらしい。

 私は首まで冷却水へ入れられた。

 

 パンなら発酵を止める温度だ。人間にもよく効き、四十度近かった熱が三十八度二分まで下がった。代わりに歯が鳴る。声帯を使わず音を出せる新機能だけれど、ティアさんは喜ばなかった。

 

「震えが強くなったら上げる。指は動く?」

 

 親指と人差し指で輪を作る。

 

「その合図、信用度が低い」

 

 では何を使えばよいのか。指を全部広げたら、五段階評価のどれか分からないと言われた。

 

 エマ医師は王都の治療箱から薬を一本だけ出した。導入路抑制薬ではなく、冷却時の心臓保護剤。長官の許可を待たず、ティアさんへ渡した。

 

「これは一般処方です。私の権限で出せます」

 

 長官は止めなかった。ただ、医師の名札を一度見た。エマ医師は気づいていたはずだが、名札を隠さない。

 

 人にはそれぞれ得意な反抗がある。レオンは道を塞ぎ、ティアさんは薬を置き、医師は権限の端を使う。私は何が得意だろう。荷物を減らすこと、かな。

 

 公示板の前で、ロウさんが計画書を読む。

 

「式後生存率の資料を出せ」

「推定不能です」

「過去の導入例がある」

「最大受容量が桁違いです。比較できない」

 

「なら生存を計画目標に入れていないのと同じだ」

 

「第一目標は王国人口一千八百万人の生存。適合者一名の生存は第二目標です」

 

 優先順位としては正しい。

 一千八百万と一を同じ棚へ置けば、大きいほうから運ぶ。厨房が火事のとき、小麦袋一つより客席を先に出す。それを間違いと言う人はいない。

 

「その一名が同意していない」

 

 レオンが公示板の人型を手で隠した。

 

「本人の前で公開したのは、同意を求めるためです」

 

「断ったら」

「分灯式の再現研究を続けます。ただし現在の成功率は七割。大夜蝕規模へ換算した期待死者は五百四十万人」

 

 数字が出ると、室内が静かになる。

 

 五百四十万人。麦環市の朝食を何回焼けば届くか、見当もつかない。パン一個百グラムなら五百四十トン――違う、一人一個として五百四十万個。窯が先に壊れる。

 

「脅しを同意と呼ぶな」

 

 ティアさんは私の脈を取りながら言った。

 

「事実の提示です」

「他の案へ人も予算も出さずに、失敗率だけ提示するのは誘導」

 

「分灯式へ、鐘守庁研究費の二割を配分します。あなた方の実験も正式に継続承認する」

 

 長官が銀の書類を掲げた。

 

「朝の器は予備案です。共同式が大夜蝕の七日前までに九十九・九パーセントへ達すれば、使用しない」

 

 条件が追加された。

 未完成の方法を完成させる時間を買い、その間だけ確実な予備を用意する。悪くない。予備の中身が私という点を除けば、皆も賛成しやすいはずだ。

 

「適合者を拘束するのか」

 

 ロウさんが尋ねる。

 

「しません。研究継続にも本人の協力が必要です」

 

「契約は」

「共同式が期限に達しなかった場合のみ発効。仮契約への署名は本人の自由意思」

 

「署名させない」

 

 ロウさんの返事は早かった。

 私の自由意思について、隊長が先に決めた。

 

 妙だと思ったけれど、今は熱がある。判断能力が落ちている人の自由は、一時的に責任者へ預ける契約だった。荷物札と同じで、預かり証があれば問題ない。

 

「では、回復まで待ちます」

 

 エルネスト長官は書類を下げた。

 

「本日、私は白丘へ滞在します。分灯式資料の写しを取り、明朝、王都へ戻る。ミナさんの搬送は保留。医療官一名を残します」

 

 エマ医師がわずかに目を見開く。残されるのが誰か、聞かなくても分かったらしい。

 

「公示は出すのか」

「出します。国民には選択肢を知る権利がある」

 

 公示板の銀文字が固定された。

 

 朝の器計画。適合候補、ミナ・セル。分灯式研究と並行。

 私の名が、王国地図の真ん中に残る。

 選ばれている。

 その考えが胸へ入った瞬間、冷却水より先に身体が軽くなった。

 

 白麦院を出た朝、私は工具箱へ入れられた。移送名簿では廃棄。弟の記録は抜かれ、母の手紙は返された。どの名簿にも、次の場所がなかった。

 

 今は違う。五十六日後の欄に、私が必要だと書いてある。

 途中で役に立たなくなっても、声が出なくなっても、味がなくても、器としては使える。なら最後まで、置いていかれない。

 うれしい、に近かった。

 熱の症状だ。

 高熱では判断が変になるとティアさんも言った。体温が下がれば、この計算違いも戻る。三日――は使用禁止だった。二時間後に再測定しよう。

 私は歯の音を止めるため、口を閉じた。

 長官たちが去ったあと、五人は分灯式の作業表を広げた。

 

 ロウさんは百人規模から千人規模への試験計画。ティアさんは参加者の負担上限。セラさんは自発的な予定の採取手順。ノルは鐘の分配歯車。レオンは試験地までの避難路を作る。

 

 私の担当欄は空白だった。

 治療中だからだ。

 分かっている。空白にも用途がある。

 

「ミナは回復後、市民の予定収集」

 

 レオンが欄へ書き足した。

 

「中心には置かない」

 

 安心させるための言葉だと思う。

 中心に置かない。危険から離す。無事に返す。最近、皆がよく使う。

 私の役割を減らす言葉と形が似ているのは、偶然だ。

 親指を立てると、レオンはそれを受領の合図として採用しなかった。

 

「納得してない顔だ」

 

 そんな便利な顔があるなら、筆談板を売って表情一覧を買いたい。

 私は水面へ指で書く。波で消える前に、セラさんが読んだ。

 

『共同式調査を継続。私は予定収集。了解』

 

 事実だけなら通る。

 レオンはまだ私を見たが、最後に頷いた。

 セラさんは市民向けの説明文を作った。

 鐘守庁の公示には、朝の器が「単独受容方式」、分灯式が「補助研究」と書かれている。順番だけで、どちらが本命か分かる並びだ。

 

「修正案。分灯式を先に記載。七割成功と、参加百名全員が翌朝の予定を保持した事実。朝の器は生存予測不能を明記」

 

 ロウさんが頷く。

 

「候補者名は消せ」

「すでに全鐘路へ配信。消せば隠蔽になる」

 

「本人が望んでいない」

 

 全員が私を見た。

 望むかどうかの確認らしい。名前が出れば、アルノパン店へ人が行く。親方は候補者の育て親として質問され、店先が混む。朝の仕込みに見物客は役立たない。

 私は水面へ書く。

 

『店への取材、寄付、抗議を禁止。注文は通常価格で受けつけ』

 

「名前の話」

『旧姓と現在姓を併記。番号のみは禁止』

 

 セラさんが筆を止める。

 

「公示を受け入れる?」

 

 受け入れれば、名前を消す作業が減る。候補番号だけで呼ばれないなら、母が見ても私だと分かるかもしれない。弟にも――いや、知らない人の名前が増えるだけだ。

 

『誤情報より訂正可能です』

 

 また事実へ直す。

 ノルが公示板の人型を紙で覆った。小さな紙なので、頭と肩だけ隠れ、黒い線は足からはみ出す。

 

「これでいい」

「よくない。公文書損壊になる」

 

 セラさんが言う。

 

「剥がせる糊だよ」

「なら一時注記として扱う。紙へ理由を書いて」

 

 ノルは『本人がここにいるのに、絵にして勝手に使うな』と書いた。文字の最後が板からはみ出したので、矢印で戻している。

 ティアさんはその紙を剥がさなかった。

 

「計画の医学的危険も追記。全味覚消失、声帯夜晶、影分離、導入路再開通。この状態で九百八十万単位を入れるのは治療じゃない」

 

「処刑、と書く?」

 

 セラさんの問いに、誰もすぐ答えない。

 私は首を振った。

 処刑は罰だ。私は規則を破った分なら罰金を払うけれど、これは仕事として提示されている。呼び方を間違えると契約条件が作りにくい。

 

『消耗前提の任務』

 

 水へ書く。

 レオンが手を伸ばし、最後の二文字を指で消した。

 

「任務にするな」

 

 水面が揺れ、『消耗前提の』だけ残る。

 文章として未完成だ。けれどセラさんは、そのまま説明文の余白へ写した。

 

「未定義のまま記録。本人と周囲で名称が一致していない」

 

 名称が決まらなければ実行できないわけではない。パン屋では、焦げた丸い試作品にも値札をつけて売る。ただ、皆が呼び方でもめている間に、私は条件を整えられる。

 

 公示の下へ、私からの短い説明も必要になった。

 私はセラさんの板を借りる。

 

『分灯式の調査は続きます。予定を集める係として、明日から働きます。朝の器については医療確認中です。アルノパン店は通常営業ですので、心配より予約注文をお願いします』

 

 ロウさんが最後の一文へ線を引く。

 

「店の宣伝を入れるな」

『取材を注文へ変換できます』

「親方に怒られるぞ」

 

 それはそうだ。

 でも怒る親方は、窯の前にいる。店が続いていることを、市民にも、私にも確認できる。消す理由には足りない。

 

 結局、宣伝は残った。セラさんが『本人は計画への同意を表明していない』を加え、六人の共同名で掲示する。

 私は嘘をついていない。

 まだ署名していないのだから。

 

 冷却槽から出たのは日暮れだった。

 熱は三十七度九分。背中の導入路は閉じきらず、声帯夜晶も残る。ティアさんは二時間ごとの測定を決め、エマ医師と交代で寝ずの番を組もうとした。

 

『二人とも寝てください』

「患者は指示しない」

『薬師が倒れると患者全員の損失』

「私たちは交代する。あなたは交代要員じゃない」

 

 穴のない回答だ。

 

 夜、私は保管庫の奥の寝台へ移された。入口にレオン、窓側にティアさん。外へロウさん。セラさんとノルは隣室で記録整理。六人の位置を数えると、どこから起きても誰かに見つかる。

 

 逃げる予定はないので、ぜいたくな警備だ。

 喉が熱い。

 寝返りを打つだけで、声帯の夜晶が擦れる。息に混じって、細い音が出た。

 

「痛むか」

 

 レオンがすぐ振り向く。

 具体的に答える必要がある。指で八を示し、次に喉、呼吸、出血なし。ティアさんが決めた報告順。

 

「薬を」

 

 彼は窓側を呼ぶ。ティアさんは眠っていなかった。二人とも交代が下手だ。

 溶解薬を吸い、また横になる。

 

 外の鐘が二つ。全員の呼吸が遅くなるまで、かなり時間がかかった。

 

 影だけが起きていた。

 足元から離れ、保管庫の壁へ立つ。昼間の器形ではなく、私と同じ輪郭。その胸に、銀の文字が浮かんだ。

 

『仮契約閲覧』

 

 エルネスト長官の公示板から移された術式だ。影を導入路として、本人だけへ契約を表示する。白麦院の設計者は、私の影の使い方を私より知っている。

 起きればレオンが気づく。

 起きなくても読めた。

 第一条。大夜蝕七日前、分灯式成功率が規定未満の場合、朝の器計画を発効。

 第二条。適合者は王都中央鐘へ入り、全鐘路の夜滓を受容。

 第三条。途中離脱不可。

 生存保証なし。治療義務は「国家機能を損なわない範囲」。つまり、式のあとまで身体が動けば契約達成だ。

 条件追記欄があった。

 自由意思を示すため、本人が書ける。長官は私が何を書くか分かって用意している。

 私は影の上へ指を動かした。

 

『修繕隊五名および協力医療者を朝の器計画から除外。拘束、代替指名、処罰をしない』

 

 文字が銀に変わる。受理可能。

 

『アルノパン店へ終身営業補償。店主マルタ・アルノへの白麦院関係の訴追禁止』

 

 受理可能。

 

『候補者一~二十の番号記録を公文書から削除。本名、生死、家族関係、処置内容を公開。遺族への補償』

 

 一度、文字が赤くなった。公文書削除と公開が矛盾する。

 言い直す。

 

『人を番号のみで扱う候補登録を廃止。原記録は罪証として保存し、閲覧時は本名を併記』

 

 銀。

 

『ユリオ・セルの所在記録を開示。生存時は本人の意思を優先し、私との面会を強制しない』

 

 銀。

 これで、弟が私を必要としていなくても困らない。

 最後に、本人への対価欄。

 何を書けばよいのだろう。

 味覚の回復。声の治療。報酬。帰る場所。

 どれも式後に私が使えるか分からない。使えない品を注文すると倉庫代がかかる。

 

『なし』

 

 赤い文字。契約の公平性要件を満たさない。

 面倒な規則だ。では値段をつける。

 

『上記条件の履行を本人対価とする』

 

 銀へ変わった。

 署名欄に二つの名が出る。

 ミナ・セル。ミナ・アルノ。

 どちらで署名するか。

 母が呼んだ名と、親方がくれた名。選ぶと片方を置いていく気がしたので、二つとも書いた。文字は一本へ重なり、影の胸へ沈む。

 その瞬間、喉から空気が漏れた。

 

「――ぁ」

 

 自分の声なのに、遠い。

 レオンが起きる。

 

「ミナ?」

 

 私は咳を布へ押し込んだ。黒い血が一滴。布を畳み、出血欄を指で示す。隠せば契約違反だから、これは報告する。

 ティアさんが灯りをつけ、喉を診る。

 

「夜晶が広がってる。何をした?」

 

 何も。寝ていただけ。

 それでは本人説明と観察事実がずれる。

 

『影が動いた』

 

 正確に書く。

 

「どこへ」

『壁』

「何をした」

『文字が出た』

 

 ここまで書けば嘘ではない。契約の内容を尋ねられる前に、外で馬の鈴が鳴った。エルネスト長官の一行が白丘宿舎へ移動した音だ。

 影の文字は消えていた。

 ティアさんが壁を調べ、セラさんが呼ばれ、ロウさんも入ってくる。誰にも契約術式は見えない。

 私は報告書の整理を申し出た。却下された。

 代わりに、帰還名簿の確認だけを任された。六人の名、帰路、連絡先、緊急時の引受先。王都へ着く前に整える帳面だ。

 レオン。麦環市、北門経由。

 ティア。薬師組合宿舎。

 ロウ。修繕隊本部。

 セラ。王都記録院。

 ノル。修繕工房、保護責任者ロウ。

 ミナ。アルノパン店。

 最後の一行へ、指が止まる。

 仮契約が発効すれば帰れない。残しておくと、誰かが待つ。待つ人には、遅延連絡が必要になる。五十六日後まで予定を空けさせるのも悪い。

 私は自分の行だけ消した。

 紙面が少し広くなった。五人分なら数えやすい。

 影が足元へ戻る。

 胸の位置に、焼けた輪のような印があった。

 私以外の誰も、それを見なかった。

 

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