朝一番で、解雇された。
正確には「影請けを伴う全任務から外す」だそうだ。世の中には、言い方を長くして角を丸める技術がある。パン屋で『昨日の残り』を『一晩寝かせた田舎パン』と呼ぶのと同じだ。
ロウさんは北側保管庫の机へ命令書を置いた。
署名欄の紙がへこんでいる。強く書いたらしい。
「治療契約違反への処罰ではない」
先にそう言った。
「朝の器への適合を理由に、能力使用を続けさせない。分灯式の研究にも影請けは不要だ。お前は治療を優先する」
処罰でないなら、業務整理だ。
私は筆談板へ確認事項を書く。
『臨時協力員の身分は』
「維持する」
『担当』
「回復後に市民の予定聞き取り。記録整理。危険区域へは入らない」
『報酬』
「減らさない」
条件は悪くない。能力が使えない人向けの席を、しばらく残してくれるらしい。報酬まで同じなのは少し困る。仕事量に合わない分は借りになる。
『能力が治療不能の場合』
ロウさんの口が止まった。
『味覚、声、影請けが戻らない場合の契約終了日』
「終了日は決めていない」
『引継ぎ準備のため必要です』
「引き継ぐな」
「隊長、質問への回答になってない」
セラさんが言った。
ロウさんは一度、命令書を見た。
「能力が戻らなくても、臨時協力員を終了する理由にはしない」
親切だ。
すぐ追い出すと言うと患者が無理をするから、回復までは在籍扱いにする。白丘療養院にも、長期患者の作業室があると聞いた。軽い袋詰めや布切りを任せ、退院後の職を探す。
安全な返却先まで面倒を見る制度だ。
胸の奥で、仮契約の印が熱くなった。
五十六日後まで役割はある。そこまでは、少なくとも捨てられない。なら今日の解雇は一部門だけだ。店で言えば、味見係から包装係へ移った程度。
私は親指を立てる。
「了解、でいいのか」
ロウさんが確認する。
『命令を受領しました』
納得したとは書かない。契約文は正確さが大事だ。
「もう一つ」
彼はレオンを見る。
「治療中の行動確認をレオンへ命じる。移動、食事、睡眠、服薬、接触した患者、影の状態。単独行動は禁止」
監視役までついた。
退職予定者が店の小麦を持ち逃げしないよう、棚卸しを二人でやるのと同じだろう。信用の問題ではない。手順の問題。たぶん。
レオンは返事をしなかった。
「不服か」
「監視という言葉なら」
「行動確認だ」
「本人に違いが分からない」
私は二人の間へ板を上げる。
『記録項目が明示されれば問題ありません』
「お前が決めるな」
レオンに板を下げられた。
「嫌なら嫌と言っていい」
嫌かどうか。
同行者が一人増えれば、荷物運びは助かる。服薬時刻を覚える手間も減る。単独作業ができない点は不便だが、見られて困る作業は――。
影が足元で縮んだ。
今夜の病棟巡回。予定表にはない。
『効率は上がります』
「嫌かどうかを聞いた」
『問題ありません』
「それも違う」
質問の採点が厳しい。
好き嫌いを業務命令の受付欄へ書く文化は、パン屋にはなかった。親方の指示が嫌でも窯は熱いし、朝は来る。
私は少し考え、正直な一部を選んだ。
『役割が残るなら構いません』
レオンの手が板から離れた。
ロウさんは命令書へ視線を落とす。ティアさんは脈を取り、セラさんは今の文を本人説明の欄へ写す。ノルだけが、命令書の角を爪で押していた。
「残らなかったら?」
ノルが尋ねる。
次の役割を探す。それだけだ。
答えを書く前に、ロウさんが命令書を回収した。
「その前提をなくすための命令だ」
意味は分からなかったけれど、会議は終了した。
白丘療養院へ移る荷造りを始める。
私の担当は記録整理。危険度が低く、座ったままできる。現在の身体にちょうどよい仕事だ。
まず引継書を作った。
『影請け発生時の初動』
一、対象者と夜滓の間へ影除け札。
二、受容量を検知灯で測定。
三、ティアさんへ連絡。
四、私を呼ばない。
最後は命令に合わせた。今後の担当者が迷わないよう、太字にする。
『配達鞄の内容』
真鍮のパン切りナイフ。林檎酵母。乾燥林檎。白麦院の名札。青い襟巻き。ユリオの靴。母の手紙。予定帳。
返却先も書く。
ナイフと酵母はアルノパン店。細工工具はノルへ譲渡。白麦院資料はセラさん。治療記録はティアさん。朝の器関係は――。
「何を書いてる」
レオンが背後から板を取った。
『引継書』
「命令したのは能力を使わないことだ。荷物を配ることじゃない」
『紛失時の返却先一覧です』
「本人が帰れば済む」
それでは一覧にならない。
レオンは『細工工具はノルへ譲渡』へ線を引いた。
「貸してるだけだろ」
『本人が使うので実質同じです』
「違う。返してもらう約束がある」
ノルも赤い糸を一年後に返すと工具箱へ刻んだ。覚えている。
一年後。
仮契約が発効すれば、その日は来ない。発効しなければ、私は工具を受け取れるかもしれない。どちらか決まっていない品物を、引継書ではどう扱うのだろう。
『保留品』
欄を作る。
レオンは板を返さなかった。
「予定帳を出せ」
赤い鞄から濃紺の帳面を出す。最初の頁に、彼の字。
『来年、麦環市で朝飯』
その下はまだ空白。
「これも返すのか」
『贈与品なので私物です』
「だったら返却先を書くな」
書いた覚えはない。引継書を見ると、予定帳の横に『レオン』とある。持ち主がいなくなった場合の返却先を自然に書いただけだ。
『退職祝いとして受領します』
今の配置換えに合う説明を選ぶ。
レオンは帳面を閉じた。
「退職じゃない」
『味見係は解雇です』
「影請けは職業じゃない」
『一番役に立っていた技術です』
「お前の一番を勝手に決めるな」
決めたのは周囲だ。白麦院も修繕隊も、夜滓が出たときに私を呼んだ。私もできることを出した。需要と供給が一致している。
そう書けば、彼はもっと怒る。
怒らせると荷造りが遅れるので、帳面を鞄へ戻した。
『退職祝いは冗談です。来年返答します』
仮契約が発効しなかった場合に限る、とは書かない。
レオンは長く私を見たあと、引継書を二つに折った。破らず、自分の外套へ入れる。
「預かる」
『業務妨害です』
「行動確認だ」
便利な言葉を覚えたらしい。
療養院は白麦院跡から馬車で半刻。私は歩けると数値で説明したが、ティアさんが馬車を選んだ。三十八度未満、脈拍百二十以下、呼吸数二十四以下。歩行許可の基準は三つとも満たす必要があり、私は脈だけ四つ超えていた。
四くらいなら誤差だと言った――書いたら、エマ医師までティアさん側についた。
「誤差を採用する権限は医療者にあります」
権限の端を使う人は手強い。
馬車にはレオンも乗った。向かいの席で、私の呼吸、手の震え、影の遅れを記録する。
『見られると増える症状もあります』
「何が増えた」
『窮屈さ』
正直に書いた。
彼の鉛筆が止まる。
「記録項目へ入れる」
本当に書いた。窮屈さ、本人申告三。
嫌だと言えばよい、というのはこういうことかもしれない。言った結果、相手の仕事が一行増えた。やはり頻繁に使うものではない。
白丘療養院では、ダル医師が入口で待っていた。丸い眼鏡、薄茶の上着。ティアさんの師で、患者の同意なしに一歩も進まない人だ。
「入院の目的を三つから選んでください。声帯夜晶の治療、影の分離の観察、休養。複数可」
私は板へ書く。
『記録整理のできる部屋』
「四つ目を作りましたね」
ダル医師は笑わず、選択票へ本当に四つ目を追加した。
「記録整理を行いながら、どの治療を受けるか決める。これで?」
頷く。
「治療を受けない選択もできます。ただし、起こりうる損失を説明したあとで決めてもらう」
ティアさんが口を挟む。
「発声禁止と影請け禁止は既存契約です」
「契約を守らせることと、治療を選ばせることは別です」
二人の方法は似ていて、少し違う。ティアさんは危険を数えて線を引く。ダル医師は線の前へ椅子を置き、患者がどちらへ行くか待つ。
待たせるのは苦手だ。
『全部受けます。最短の日程で』
「最短ではなく、失いたくないものから決めましょう」
失いたくないもの。
声はもうかなり使えない。味はない。影請けは任務から外された。残っているものを答える問題らしい。
『分灯式の期限』
「身体の話です」
『手と足』
「理由は」
『働けます』
ダル医師の鉛筆が止まった。
「ほかには」
心臓。肺。目。耳。どれも作業に使う。人間の部品はだいたい働くためにある。
『痛みが少ないこと』
レオンが横から言った。
「本人の代わりに答えないでください」
ダル医師は穏やかに止める。
レオンの顎が固くなる。監視役なのに回答権はない。窮屈さは彼のほうにもあるらしい。
私は選択票の余白へ書いた。
『周囲が予定を変えなくて済む程度の健康』
ダル医師は読んだあと、紙を裏返した。
「今日の回答は保留にしましょう」
また保留品が増えた。
診察は、同意欄を一つずつ埋めてから始まった。
上着を脱ぐ。背中の導入痕を見せる。影を照明板で三方向から測る。喉の夜晶は発声させず、呼気だけを硝子膜へ当てて振動を見る。
ダル医師は結果を、私へ先に見せた。
「声帯夜晶は昨日より外側へ〇・二ミリ。溶解薬は効いています。ただ、影を身体外へ動かすたび、背中の導入路から夜滓が上へ流れる。影請けをしなくても、影だけの移動で喉は悪化します」
新しい規則が増えた。
『影は勝手に動きます』
「完全に?」
『名前を示したり、資料庫を指したりします』
「あなたが行きたい場所と一致しますか」
北側保管庫は、知らなかった。けれど本名簿を見つける必要はあった。昨夜の壁の文字は、契約を読む気がなければ見えなかったかもしれない。
『一致する場合もあります』
「では、自動と意図の両方として記録します。片方へ決めると、あなたの責任を大きくしすぎるか、小さくしすぎる」
セラさんに似ている。事実を二つへ分ける人は、便利だけれど逃げ道が少ない。
レオンが診察票をのぞく。
「影が離れたら、どう止める」
「今は刺激しない。強制固定は本人の末梢循環を止める可能性があります」
「見ているだけか」
「見つけた時刻、距離、形、本人の症状を記録してください。止める判断は医療者がする」
監視役の仕事が具体的になった。
レオンは紙を受け取る。項目は十五。体温、脈、呼吸、出血、影距離、意識、手足の色。彼なら全部正確に埋める。
「本人にも同じ票を」
ダル医師が一枚を私へ渡した。
「彼の観察と、あなたの感覚を別々に書く。あとで差を見る」
『同じ項目なら二度手間です』
「違う答えが出る前提です」
失礼な前提だ。私は自分の身体を十七年使っている。レオンより使用歴が長い。
最初の体温。私、三十七度五分。レオン、三十七度八分。測熱板を置く位置が違った。
痛み。私、三。レオンは回答できないはずなのに、観察欄へ『寝返り時に呼吸停止、喉へ手。推定七』と書く。
『推定は禁止では』
「観察と推定を分けてある」
用紙を見る。本当だ。セラさん式が医療現場へ輸入されている。
ダル医師は二枚を並べた。
「どちらが正しいか、今は決めません。差が出た場所を、治療を選ぶ材料にする」
『痛みは仕事に影響する値で回答しました』
「三なら影響しない?」
『筆記はできます』
「眠ることには」
寝返りで息を止めるなら、少し影響する。けれど睡眠は今日の担当表にない。
『五』
訂正する。
レオンの鉛筆が動く。観察欄の七を消さず、その横へ『本人訂正三→五』。
「勝手に上げるな」
『三より五のほうが心配する人数が増えます』
「心配するために聞いてるんじゃない。薬を選ぶためだ」
『では七でも』
「値引きと競りを同時にするな」
珍しく長いツッコミだった。
ダル医師は会話を止めず、鎮痛薬を弱・中・強の三種類並べる。強い薬は眠気、中は胃痛、弱は効かない可能性。
私は弱を指した。
「理由」
『記録整理ができます』
「中を使って一時間休み、そのあと整理する選択もある」
一時間、何もしない。五人は働く。病棟の患者は夜を待っている。
『弱で』
ダル医師は一度だけ確認し、弱い薬を渡した。ティアさんなら中を契約条件へ入れたかもしれない。選べたことに安心するはずなのに、胃の下が落ち着かない。
自分で選んだなら、効かなくても周囲の責任にはならない。
そこは助かる。
診察の最後、レオンが確認票の下へ自分の名を書いた。
「夜も俺が見る」
「連続勤務は観察精度を落とします」
ダル医師が言う。
「交代要員が来るまで」
「誰を信用できますか」
レオンは答えない。
ティアさん、エマ医師、看護師。医療知識なら彼より上だ。それでも席を譲らないのは、能力ではなく、見ていなかった時間を作りたくないからだろう。
そう推測すると、私が眠れば彼も休める計算になる。
今夜は早く寝よう。予定が一つ増えた。
病室は二階の端。窓から北病棟の屋根が見える。影熱患者の長期棟で、夜になると黒い排気が煙突から出る。
私の仕事机も用意された。セラさんが回収記録を三箱運び、危険資料を一箱だけ持ち帰る。ノルは冷却管の補修へ戻り、ロウさんは鐘守庁との会議。ティアさんとエマ医師は薬剤分析。
全員に仕事がある。
私には本名簿の写し作成。安全な仕事だ。
夕方までに二十人分を三部。番号の横へ本名、呼び名、家族欄。ユリオ・セルの行で指が止まったが、紙詰まりと同じなので一度戻して書き直した。
レオンは窓際で見ている。
『暇ですか』
「仕事中だ」
『見ているだけで報酬が出るなら、よい配置です』
「よくない」
『私もそう思います』
初めて意見が合った。
夕食は六人分ではなく、患者用一人分。味は分からないので、色と温度で食べる。豆の煮物、白い粥、緑の葉。全部飲み込んだ。レオンは残量を記録し、薬を確認した。
消灯後、椅子を扉の横へ移す。
「夜中に起きたら声をかけろ」
『声は禁止です』
「板を鳴らせ」
板と石筆を枕元へ置く。
北病棟の煙突から黒い筋が上がる。今日は風が弱い。長期患者の影熱は夜に強まり、看護師が三交代で冷却札を替える。
予定表によれば、第三交代は鐘三つ後。
私は目を閉じた。
レオンの呼吸が遅くなるまで待つつもりはない。待っていない。眠ろうとしただけだ。
影が、寝台の下から出た。
身体を起こさなくても、薄い部分だけが床を渡る。扉の下、廊下、階段。私の胸は動かない。喉も使わない。影請けを伴う任務ではない。任務として命じられていないから。
北病棟の黒い煙が一本、細くなる。
患者のうめき声が止まった。
遠くで看護師が「熱が下がった」と呼ぶ。
私の右肩の黒線が、胸へ一筋伸びた。
レオンは椅子で眠ったままだった。
深夜、近隣病棟の影熱だけが消えた。