影熱をこっそり吸うとき、大切なのは一度に欲張らないことだ。
盗み食いと同じである。鍋を空にすれば見つかる。人参を一切れずつ減らせば、忙しい厨房では誤差になる。
もちろん、私は盗んでいない。
北病棟の患者から夜滓を預かり、処理費を請求していないだけだ。無料奉仕。パン屋なら親方に叱られるけれど、療養院の原価は別会計なので、たぶん問題ない。
朝、北病棟ではちょっとした騒ぎになっていた。
長期患者十二名のうち五名が、夜間だけ平熱へ戻った。冷却札の使用量は変わらず、薬も同じ。看護師は喜び、医師は原因不明を喜ばなかった。
「夜滓の総量が七十八単位減ってる」
ティアさんが検知灯を机へ置く。
「排気管にも、床の封印槽にも残ってない。消えたんじゃなく、移動した」
私の右肩へ視線が来る。
朝の診察では、黒線を上着で隠せない。胸へ伸びた一本は細く、昨日の照明記録と比べなければ分からない程度だった。
「増えてる」
比べられた。
『導入路再開通の影響』
筆談板へ書く。
「夜滓七十八単位分と一致する?」
『測定していません』
「影は夜、離れた?」
レオンが確認票を開く。影距離の欄は、消灯後ずっと〇。彼が寝ている間に戻したので、観察としては正しい。
『離れたと思います』
「時刻は」
『寝ていたので不明』
「行き先は」
『見ていません』
嘘はない。寝台からは見えなかったし、影に目はついていない。
セラさんがいれば、本人説明と事実を別の頁へ書いただろう。今日は白麦院資料を記録院へ送る作業で不在。質問する人が少ない日は、療養に向いている。
「影請けをした?」
ティアさんがまっすぐ尋ねる。
影請けを「自分の影へ夜滓を移す行為」と定義するなら、した。私は影を動かしただけで、吸い取る指示は出していない。けれど契約は意図より結果で判定する。
『意識的にはしていません』
正確さを優先した。
レオンの鉛筆が止まる。
「意識的でなければ、命令を守ったことになるのか」
『制御法を調べる必要があります』
「答えろ」
声が低い。
私は板を持ち直した。
『今後、影が離れたら報告します』
「昨夜の話だ」
昨夜の結果は、患者五人の熱が下がった。悪化したのは私の黒線が一本、少し長くなっただけ。損失と利益を並べれば、答えは出ている。
『患者の処置を先に。原因確認はその後』
ティアさんが測熱板を伏せた。
「もう処置してる。原因の一部があなたなら、あなたも患者」
『私は発熱なし』
「それ以外を小さく書くの、やめて」
昨日の言葉を使えないので、症状を数値化する。黒線延伸一・六センチ。胸痛二。喉痛五。影遅延二秒。作業能力、筆記・歩行・食事すべて可。
板いっぱいに書いたら、ティアさんは最後の一行へ赤線を引いた。
「作業能力で診断しない」
使えるかどうかは、設備点検で最も重要なのに。
ダル医師が診察室へ入ってきた。
「北病棟の患者五名に改善。ミナさんの影に変化。因果は未確定。今日は影の移動範囲を制限せず、三人の観察下で検査します」
「制限しない?」
レオンが聞く。
「強制固定の害が未評価です。隠れて動くなら、明るい場所で動かして記録したほうがいい」
本人が隠したとは言わない。医師は言葉の置き方がうまい。
検査場所は北病棟との渡り廊下。昼の光が長く入り、床の影が見やすい。
私、レオン、ティアさん、ダル医師。四人で歩く。単独行動ではない。
病棟の入口で、配膳車が止まっていた。車輪に布が巻きつき、動かない。看護師二人が食事盆を手で運んでいる。
ちょうど安全な仕事があった。
『配膳を手伝います』
「検査が先」
『渡り廊下の先です。同じ方向』
ダル医師が条件をつけた。
「軽い盆を一つ。影の動きを全員で観察する」
採用。
盆には粥、煮豆、薬。患者名はフラン・デロ、四十二歳。昨日の夜熱は八度、今朝は三度。私が吸った五人には入っていない。
病室へ入ると、フランさんは汗で濡れた毛布を自分で畳んでいた。看護師が来る前に片づけたいらしい。几帳面な人だ。
『配膳です。熱いので盆は私が置きます』
板を見せる。
「声、どうした」
『休暇中です』
「長い休暇か」
『福利厚生がよい職場なので』
フランさんの口元が少し動いた。笑うと胸が痛むのか、すぐ布団へ手を置く。
その足元へ、私の影が伸びた。
止めようと考える前に、黒い熱が髪の毛一本くらい流れてくる。検知灯は二単位。
「今」
ティアさんが言う。
影を戻す。
フランさんの呼吸が一つ深くなった。私の胸痛は二のまま。
「自動反応?」
ダル医師。
『近づくと起きます』
「止められる?」
『戻せました』
「吸う前に」
それは試していない。
『次で確認』
「次を患者で試さない」
ティアさんが板を取る。
フランさんが三人を見回した。
「あんた、何をした」
説明すると心配を増やす。夜熱が少し下がった事実と、医師が見ている安心を渡す。
『検査中です。ダル医師がいます。食事の温度はちょうどです』
「最後のは聞いてない」
『粥は待ってくれません』
患者が匙を取ったので、配膳は完了。
廊下へ出ると、レオンが私の前へ立つ。
「戻るぞ」
『残りの盆』
「看護師が運ぶ」
『二人で十一人分。薬が冷める』
「薬は冷めても効く」
『粥が固まります』
「お前の胸の線より重要か」
患者にとっては、今日の食事だ。療養院では具合が悪い日ほど、食べられる温度の時間が短い。私が一枚運べば、最後の人へ五分早く届く。
でも、その説明をすると、また役割と身体を同じ秤へ載せたと言われる。
『車輪を直せば看護師が運べます』
作業を変える。
「お前は直さない」
『ノルを呼びます』
これは通った。
ノルは白麦院の冷却管から半刻で来た。工具箱を抱え、食堂で昼食を食べる時間まで計算している。車輪の布を外し、軸の曲がりを見つけ、銅の薄板を挟む。
「誰が巻いたの、これ」
「洗濯袋が破れて絡んだ」
看護師が答える。
「袋の口、留め具が逆。縫うより金具にしたほうがいい」
原因から次の修理まで一度で見る。ノルの長所だ。
私は予備金具の保管場所を示し、工具箱の下段から厚み別の板を出す。ノルは一枚目で合うものを選んだ。
『覚えるのが速いですね』
「前もやった」
『では次は一人でできます』
「ミナがやらないの?」
『担当変更です』
ノルの手が止まる。
「いつまで」
『未定。戻らない場合に備えて、工具の用途一覧を作ります』
「戻らないって、影請けが?」
『味覚、声も含みます。使える人へ知識を移すのは普通です』
ノルは銅板を軸へ差し込み、車輪を回した。一周、二周。引っかかりなし。
「これ、僕にくれるって書いた?」
昨日の引継書を見たらしい。レオンが見せたのだろう。
『一年後に返す手間が省けます』
「省かない」
『道具は使う人の手元が一番です』
「ミナも使う」
『今は持てますが、細かい作業で指が震えます』
右手を見せる。導入路が開いてから、石筆を長く持つと震える。隠すと契約違反なので、これは報告済み。
ノルは私の手ではなく、床の影を見た。
「さっきより濃い」
気のせい、と書く前に比較対象を探す。車輪の横、昼光、私の靴。確かに濃い。フランさんの二単位だけではない。
「病室、何個入った?」
『一室』
「昨日の夜は」
『寝ていました』
「影は?」
十二歳は質問を一つずつ積む。大人のように理由を説明せず、部品を外す順番で逃げ道をなくす。
『北病棟へ行った可能性があります』
「ミナが行かせた?」
『患者五人の熱が下がりました』
「聞いたのはそこじゃない」
レオンと同じことを言う。近くにいると口調も移るらしい。
私は配膳車を指した。修理完了。看護師二人は食事を運べる。患者は待たなくて済む。
『病棟では、一晩待つと夜熱で肺が傷みます。私なら一人あたり十数単位。胸の黒線は少し延びるだけです』
「約束したよね」
『影請け任務をしない約束です』
「言い方変えた」
『命令書どおりです』
「ロウさんが言った意味、分かってるでしょ」
もちろん、危険な仕事から外すこと。けれど病室で影が勝手に動くなら、危険区域へ入ったわけでもない。患者を一晩待たせて悪化させるほうが、具体的な害がある。
『私が十ずつ引き受ければ、十二人が眠れます。私の治療は同じ場所でできます。合計の手間が減ります』
「ミナの手間は?」
『一人分です』
「一人分、増える」
『十二より少ないです』
「数の話じゃない」
『数にしないと比べられません』
ノルは口を閉じた。
理解できる説明を選んだつもりだ。患者十二、私一。夜熱で眠れない時間、看護師の冷却札、薬代。どれも子どもにも見える。
見える理屈なら、隠し事ではない。
「じゃあ僕が夜滓を吸えたら、僕がやっていい?」
『できません』
「できたら」
『十二歳は成長途中なので駄目です』
「ミナは八歳でやった」
『あれは規則違反でした』
「今も」
違う。今の私は十七歳で、使い方を知っている。医師も近い。契約条件も――少し外へ出ただけだ。
言い返す文を作っていると、ノルは工具箱を閉じた。
「分かった」
理解してくれたらしい。
「工具、全部教えて」
『もちろん』
よかった。引継ぎが進む。
午後、病室の机へ工具を並べた。
その前に昼食があった。
ノルは食堂へ戻らず、私の病室で固い丸パンをかじった。私は患者食の魚粥。味はしないけれど、白身魚が匙の上で崩れるので火の通りは分かる。
レオンは窓際の椅子。行動確認の記録中だ。ノルがいるので単独ではないが、監視役は交代しない。
『学校は』
「修繕隊の移動教室。今は歯車比の課題」
『提出期限』
「明後日」
『工具より先に課題を』
「教えるって言った」
『勉強を遅らせる技術継承は不良品です』
「じゃあ一緒にやる」
歯車比なら私にも分かる。大歯車一周で小歯車が何周するか。パンの分割数と似ている。
課題紙を開く。第一問、歯数四十八と十二。答え四。第二問、七十二と十八。これも四。
『同じ答えを続けて、規則を覚えさせる問題ですね』
「三問目は四十と十六」
二・五。規則を信じた子を落とす問題だった。教育には時々、性格の悪い大人が混ざる。
ノルは計算せず、歯車の絵を指で回した。
「大きいの一周で、小さいの二周と半分。途中で半分になった小歯車は、向きが逆になる」
『そこまで書けば加点です』
「途中の向きも数えないと、次の歯車につながらないから」
ノルは紙の端へ矢印を描く。最終結果だけでなく、途中で何がどちらを向くか見る。機械屋に向いている。
『朝の器と分灯式も同じです。一人へ九百八十万か、皆へ分けるか。最終的に夜滓が消えれば――』
「同じじゃない」
鉛筆が止まった。
「途中でミナが逆向きになる」
『私は歯車ではありません』
「さっき数で比べた。患者十二とミナ一」
『計算できる部分だけです』
「痛いのも、眠れないのも、声がなくなるのも、一の中へ入れた」
十二歳にしては、単位へうるさい。教える側としては喜ばしい。違う種類の量を一つの数字へまとめると誤差が出る。
『では患者の夜熱十二人分と、私の黒線一・六センチ。単位を分けます』
「数える人が、自分の分だけ小さくするのが嫌なの」
レオンの鉛筆が止まった。
ノルは彼を見ず、丸パンを割る。半分を私の盆へ置いた。
『食事量は足りています』
「半分ずつ」
『何の対価ですか』
「何もしてない対価」
そんな商品は帳簿へ載らない。
「朝の器の話をしないで、工具も教えないで、今は一緒に食べるだけ。その分」
何もしない時間にパン半分。ずいぶん高い。
ノルは先に自分の半分を食べ始めた。私が受け取らなくても、彼の分は減ったままだ。捨てると食品損失になる。
私はパンを魚粥へ浸した。柔らかくなれば喉にも引っかからない。
「味、分かる?」
首を振る。
「じゃあ、おいしいって言わなくていい」
言えないのは声だけではない。味のない物へ感想をつけると嘘になる。
『温かいです』
事実を書く。
ノルは頷いた。食べ終わるまで、工具の話はしなかった。朝の器も、患者の人数も。
窓際でレオンが記録票へ何かを書いたが、あとで見せてもらうと、その十五分だけ項目が空白だった。
『観察を忘れましたか』
「休憩として記録した」
何もしていない時間にも名前をつければ、仕事の一部になる。それなら少し扱いやすい。
平螺子回し三本。星型二本。細鑢。切り鋏。線挟み。鐘歯用の薄口鉗子。赤い糸のついた私の細工工具。
一つずつ用途、手入れ、壊れやすい箇所を説明する。筆談では遅いので、図を描いた。ノルは知っている項目にも口を挟まず、全部聞いた。
『この工具だけは力をかけない。欠けたら研ぎ直さず、布へ包む』
「どうして」
『白麦院の分灯器に合う古い規格です。代用品がありません』
「誰が使うの」
『ノル』
「ミナは」
『担当外です』
ノルは赤い糸を指へ巻いた。引っ張らず、結び目だけを見る。
「これ、全部教えたら、次は何をするの」
『予定収集です』
「それも終わったら」
『記録整理』
「終わったら」
分灯式が完成する。朝の器が不要になれば、帰る。完成しなければ、仮契約を履行する。
『その時に必要な作業』
便利な答えを使った。
ノルは工具を箱へ戻さなかった。
「お願いがあるんでしょ」
察しがよい。
『今夜、北病棟の排気弁を十分だけ開けてください。影の経路を固定できます。患者への負担を均等に――』
「やだ」
返事が途中で切った。
聞こえなかったわけではない。ノルは私の板を正面から見ている。
『看護師の作業も減ります』
「やらない」
『理由は』
「ミナが減るから」
患者の熱が減る、と訂正しようとした。
ノルは赤い糸の工具を机へ置く。
「僕、初めてミナの頼みを断る」
十二歳の手は震えていた。それでも工具から離れた。
「役に立てなくても、断る」