三千万人の夜を背負った少女   作:日向夏 

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分ける練習

 人の明日の予定を集める仕事は、想像より面白い。

 

 朝の器と違って、書類の中央に私がいない。代わりに、魚を干す、靴を直す、孫へ会う、窓を洗う、といった小さな用事が並ぶ。

 王国を救う予定は一つもない。

 だから分灯式に使える。

 

 第三鐘で千人規模の実験をすることになった。硝子港の違法な声滓を除去したあと、鐘路の空き容量が最も大きい。百人で七割だった雨樋町の手順を、人数十倍、鐘力十二倍へ広げる。

 

 白丘療養院から硝子港までは、保守列車で六時間。

 

 私の乗車には条件が十八個ついた。発声禁止、影請け禁止、単独行動禁止、二時間ごとの診察、患者区域への接近禁止、第三鐘中心部への立入禁止。残りは細かいので、板の裏まで使う。

 

『荷物の重量制限三キロは、予定札を含みますか』

 

「含む」

 

 ティアさんが答える。

 

『千枚で四・二キロ』

「分けて持つ」

『収集係が持たないと照合が遅れます』

「私が持つ」

 

 セラさんが札箱を取った。

 

『記録器もあります』

「レオン」

 

 ダル医師が名前を呼ぶと、レオンが記録器を持つ。

 

『筆記具』

「僕」

 

 ノルが腰袋へ入れる。

 残ったのは赤い配達鞄だけ。真鍮のナイフ、母の手紙、弟の靴、予定帳が入って二・八キロ。持てる。

 

「それも置いていけば」

 

 レオンが言う。

 

『私物です』

「実験に使わない」

『帰還時に必要です』

 

 帰還、という語を使うと彼は反対しにくい。鞄は許可された。

 ノルとは昨日から、必要な話しかしていない。

 工具の手入れ、課題の提出、冷却管の弁。北病棟の排気弁を開ける話はしない。彼は断った。依頼を別の人へ回すのは、拒否を尊重することになる。

 別の人には頼まなかったけれど。

 

 列車の窓で、私の影は一拍遅れて流れた。契約印は服の上から見えない。胸の黒線も包帯の下。外見だけなら、予定札を集める普通の職員だ。

 

 硝子港へ着くと、第三鐘広場に机が百台並んでいた。

 

 参加者は事前募集の千人。辞退自由、途中退出自由、報酬は鐘守庁から一日分。予定は本人の言葉で書き、他人へ譲らない。雨樋町で決めた条件が、入口の大板へ刻まれている。

 

 エルネスト長官は研究費を本当に出した。受付、医療所、避難路、観測塔。予算の使い方だけなら、よい上司なのだろう。

 問題は、失敗した場合の予備を一人で用意していることだ。

 私は受付三番へ座る。

 最初の参加者は、港の綱職人だった。手が私の二倍ある。

 

『明日、必ずしたいことを一つ』

「綱を二百尋、撚る」

『今日でもよい仕事では』

「明日から新しい麻だ。海水に強い配合を試す」

 

 ただの作業ではなく、新しい試み。よい予定だ。

 

『成功したら最初に何へ使いますか』

「娘の船」

 

 職人の目尻が下がる。札に『娘の新船へ、最初の一本』と書く。本人が署名し、硝子筒へ入れた。

 二人目は菓子屋の女性。

 

「明日は休む」

『休む予定も有効です。具体的には』

「昼まで寝て、誰かの焼いた菓子を買う」

 

 作る人が買う側へ回る。よい休日だ。

 三人目。声を売ったあと、打楽器工房で働くオレンさん。

 手話で『新しい休符を教える』。

 

『休符を教える?』

 

 私が返すと、彼は卓上を二回、間を空けて一回叩く。音と音の間へ、手のひらを置いた。

 

『鳴らさない時間も、演奏』

 

 セラさんが訳す。

 何もしない時間にも名前をつける。昨日の昼食と同じだ。

 

『誰へ教えますか』

『声を失って、急いで手話を覚えようとしている七人へ』

 

 救出した患者たち。声の代わりを早く身につけないと役に立てない、と焦っているらしい。

 

 私と似ている、と言えばオレンさんは嫌がるかもしれない。彼が代用品を得るまでに失った時間を、私は前に軽く扱った。

 

『休符を覚えると、何がよいですか』

 

 オレンさんは、私の筆談板を指す。次に、裏返して机へ置く。

 

『話さなくてよい時間ができる』

 

 予定札には、『七人と、話さなくてよい練習』。

 署名のあと、オレンさんは私の分の小さな札も置いた。

 

『あなたも参加可』

『仕事があります』

『休符は仕事の間』

 

 うまい。断る理由を一つふさがれた。

 実験後の時刻を示されたので、予定帳へ仮記入する。今日、鐘後一時間、休符練習。これは一年後ではなく今日だから書ける。

 受付は続く。

 網を繕う。猫へ名前をつける。借りた本を返す。義足の革紐を一穴ゆるめる。喧嘩した兄へ鍋を返す。墓の周りの草を抜く。

 四百十二人目で、予定を書けない人が来た。

 灰色の帽子を握った男性。受付票には港湾倉庫員、六十歳。机へ座ってから、十分近く黙っている。

 

『辞退できます。報酬は受付時間分まで支給されます』

 

「明日が来ると思えない」

 

 理由を聞かない。予定は本人の言葉で、他人が作らない規則だ。

 

『今日、帰ったあとにすることは』

「帽子を干す」

 

 握った帽子は雨で濡れている。

 

『明日まで乾かなかった場合は』

「裏返す」

『それを明日の予定にしますか』

 

 男性は帽子を見た。やがて頷く。

 札へ『帽子が乾かなければ、裏返してもう一日干す』。明日を信じなくても、乾かなかった物を扱う手は残せる。

 

「こんなので鐘が動くのか」

『豪華な予定ほど強い規則はありません。具体的で、本人が取り消せることが条件です』

 

「取り消せる?」

『今からでも、式の途中でも』

 

 男性は札を一度引き寄せた。取り消すのかと思ったら、自分で署名を足す。

 

「なら、置いてく」

 

 同意は、やめられると分かったあとで形になる。ティアさんが作った条件だ。

 五百三十人目は、母親と来た十歳の子だった。募集年齢は十六歳以上なので、参加はできない。

 

「ぼくも予定ある」

『聞くことはできます。式には入れません』

 

「なんで」

『成長途中の身体へ夜滓が触れる可能性があるから』

 

「大人より元気」

 

 列で一番よく跳ねているので、見た目は正しい。

 

『元気を、明日の分まで使わせない規則です』

 

 母親が息を詰めた。子は予定だけを私の板へ書く。

 

『明日、母さんの靴を洗う』

 

 母親の靴は泥だらけ。港の荷運びをしている足だ。

 

『よい予定です。式へ使わず持ち帰ってください』

 

「使わないのに、書いた意味ある?」

『明日、靴がきれいになります』

 

 王国を救わなくても、予定は使える。

 子は紙を胸へ入れた。母親は参加札へ『明日、息子の洗った靴で働く』と書く。二枚で一組だけれど、鐘へ入れるのは大人の一枚だけ。

 白麦院なら、元気な子から使った。

 ここでは、使わないために線を引く。その線を作る仕事も、役に立つらしい。

 人の予定は、本人の長所が先に出る。

 網を繕う人は穴の形を覚えている。猫へ名をつける子は、尾の先の白い毛を見ている。本を返す人は、雨に濡らさない包み方を知っている。

 千人集めるのは大仕事だったが、嫌ではない。

 私が質問すると、相手の明日が一つ増える。予定札の束が厚くなるほど、広場の空気が軽くなる。

 

「楽しそうだな」

 

 レオンが言った。

 

『受付はパン販売に似ています』

「どこが」

『欲しい物を聞いて、持ち帰れる形にするところです』

 

「お前の予定は」

 

 質問がこちらへ戻る。

 

『収集係は参加対象外です』

「職員も参加できる」

 

 入口条件を確認する。本当だ。本人の自由意思、報酬辞退可。職員不可とは書いていない。

 

『今日、オレンさんの練習へ参加』

「明日は」

『実験結果の整理』

「式が成功したあと」

『次の規模試験』

「完成したあと」

 

 受付の列が進まない。私は次の参加者へ手を示す。

 

『お待たせしました。明日の予定を一つ』

 

 レオンは質問を続けなかった。

 手元の記録器へ、何か一行増やした。

 

 昼過ぎ、千枚の予定札がそろった。

 式の前に、停止条件を全員で確認した。

 参加者の一割が離脱。平均脈拍百三十。分配筒の温度五十度。夜滓逆流五百単位。どれか一つで中止。

 

『中止後の残留夜滓は』

 

 私は問い合わせ係の席から板を上げる。

 

「第三鐘の封印槽へ落とす」

『実効容量』

 

 ノルが図面をめくる。

 

「昨日交換した内壁なら、三千くらい」

『残留予測は四千八百です』

 

 机の周りが静かになった。

 

「成功率七割で止まる前提ならな」

 

 ロウさんが言う。

 

『雨樋町と同率です。下がる可能性もあります』

 

「その場合は千人を避難させる」

 

 レオンが避難図を広げた。東西二門、全員退避まで二分四十秒。夜滓が封印槽から広場へ届くのは推定三分。余裕二十秒。

 幼児、杖の人、声滓患者七人は先に外周へ配置。よくできた避難路だ。

 

『最後尾は』

「俺だ」

『指揮者と歯車担当は』

「ロウ、ノル、セラ、ティアは北側保守梯子。俺が確認する」

 

 五人全員の道がある。私の名前も問い合わせ机から西門の列に入っている。

 それでも二十秒は短い。転ぶ人が一人いれば消える。封印槽へ入らない二千単位を誰が処理するかは空欄。

 

『予備の吸着板を追加』

「輸送が間に合わない」

『朝の器用の試作槽は』

 

 質問した途端、ロウさんの目がこちらへ向く。

 

「使わない。今日は共同式の実験だ。失敗をお前で埋めれば、成功率が測れない」

 

『計測と安全は両立できます』

「お前を安全設備へ数えない」

 

 ノルが昨日と同じ言い方で頷いた。

 分かりました、と書く代わりに、停止後の作業順を確認する。参加者切離し、封印槽開放、避難。三つが同時に起きれば、全員の視線は塔と門へ向く。

 私の影は地面にある。

 予備は多いほうがよい。使わなければ、それが一番だ。

 

 第三鐘の周囲に、百本の分配硝子筒を接続する。一筒へ十人分。予定の内容を読み上げる代わりに、本人が札へ触れ、明日を思い浮かべる。

 

 中心操作はロウさん。医療上限はティアさんとエマ医師。記録はセラさん。分配歯車はノル。避難路はレオン。

 私は観測塔の外、参加者の問い合わせ係。

 鐘から百歩離れている。影請け禁止線の外側。安全な場所だ。

 開始鐘が鳴る。

 千人の札が光った。

 綱職人の麻、菓子屋の休日、七人の休符。ばらばらの明日が、硝子筒を通って第三鐘へ集まる。

 

 夜滓は黒い波になり、鐘の内側から押し返した。

 分灯式は、夜滓を人へ配る儀式ではない。明日へ向かう力で、夜滓を元の鐘路へ薄く返す。百の明日を百に返す。

 最初の三割が消える。

 次の二割。分配歯車が一段上がり、ノルが補助輪を入れる。

 

「第五筒、遅い!」

 

 塔から声。

 五十人分の札が暗くなる。参加者が恐怖で手を離したのではない。硝子筒の根元に声滓の古い傷が残っている。

 

 ロウさんが隣の筒へ迂回。セラさんが離脱者数を数え、ティアさんは脈拍上限を超えた三人を式から外す。外れても光は受け取れる。雨樋町で決めた条件だ。

 五割。

 六割。

 七割。

 そこで止まった。

 

 第三鐘の上部に、黒い雲が三割残る。推定四千八百単位。雨樋町の百人実験と、成功率が同じ。

 

「中止手順!」

 

 ロウさんの命令。

 無理に続けず、参加者を切り離す。千人の札は光を保ったまま返却される。失敗ではない。七割成功。規模を十倍にしても落ちなかった。

 広場から拍手が起きた。

 残った三割だけが、鐘の上で膨らむ。

 中止後の夜滓は封印槽へ落とす。だが第三鐘の槽は、違法声滓の傷で容量が足りない。計算では二千単位があふれる。

 避難線まで三分。

 参加者千人。医療所の患者。オレンさんと七人。

 私の影は、すでに百歩の禁止線を越えていた。

 身体は問い合わせ机に座ったまま。レオンは避難誘導で広場の反対側。ティアさんは塔内。ノルは歯車、ロウさんは封印槽、セラさんは収支計測。

 誰もこちらを見ていない。

 影を第三鐘の下へ滑らせる。

 一度に吸えば見つかる。二千単位を、封印槽の漏れに見える速度で少しずつ。

 百、二百。胸の黒線が一本増える。

 四百。喉の夜晶が擦れ、呼吸に音が混じる。

 八百。右手の感覚が薄くなる。

 残り千二百。

 ここで止めても封印槽は持つかもしれない。持たなければ避難路へ流れ、最後尾の患者へ届く。

 

 影が吸う。

 千四百。視界が白くなる。

 二千。

 黒い雲は封印槽へ収まった。

 

「収束!」

 

 塔から合図。

 参加者がもう一度拍手する。私は机へ額をつけないよう、両肘で支えた。問い合わせ係が具合を悪くすると、出口案内が止まる。

 レオンが戻ってくる前に、影を足元へ戻す。

 契約印の輪が濃くなった。胸痛六。右手の感覚三割低下。発声はしていないので、治療契約の一項は守った。

 

「顔色」

 

 戻ったレオンが言う。

 

『日陰です』

「手を見せろ」

 

 右手を出す。震えはない。感覚がないと、かえって安定する。よいのか悪いのか、医療判断は任せよう。

 彼が指先を押す。

 

「痛いか」

『押した場所は分かります』

 

 正確には、見ていたから。

 レオンは左手でもう一度、今度は私の視界の外で指を押した。

 

『二本目』

「一本しか触ってない」

 

 検査に工夫がある。長所だ。

 すぐティアさんが呼ばれた。右手の感覚低下、胸痛六、影の濃度上昇。私はすべて報告する。原因だけが未確定。

 

「吸った?」

『式の近くには入っていません』

「影は」

『動きました』

「どこまで」

『見ていません』

 

 また事実を薄く切る。

 ティアさんは叱らなかった。無言で胸の線を写し、薬を入れる。レオンは私と禁止線の距離を測り直す。

 

 式後の収支会議は、夕方に始まった。

 投入夜滓一万六千単位。分灯式で一万一千二百。封印槽へ四千八百。計算は合うはずだった。

 セラさんが計測器を机へ置く。

 

「合わない」

 

 全員が数字を見る。

 

「封印槽の実測、二千八百」

 

 ロウさんが確認する。

 

「漏出は」

「外部〇。鐘路〇。参加者への逆流〇」

「計測器の誤差」

「三台一致。二千単位が、記録上のどこにもない」

 

 セラさんは次に、私の影の記録紙を置いた。

 

「式の前と後。濃度差、推定二千四十」

 

 誤差四十。

 私の計算より、計測器のほうが正確だった。

 千人分の予定札は、全員の手元へ戻っている。

 行方不明なのは夜滓二千単位だけで、行き先は私の足元にある。つまり、見つけ物としては、とても簡単な部類だった。

 

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