三千万人の夜を背負った少女   作:日向夏 

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影が先に帰る

 影が先に宿へ帰った。

 主人より気が利く。席取りまでしてくれるなら、次は夕食の注文も頼みたい。

 

 セラさんが第三鐘広場で夜滓収支を示した直後、私の影は足元から立ち上がった。薄い人型になり、全員の間を抜けて西門へ歩く。

 

「止めて」

 

 ティアさんに言われる。

 

『方法が分かりません』

「動かしたのは誰」

『式の残りを吸ったときは私です。今は違います』

 

 そこまで書くと、レオンが板を取った。

 

「吸ったと認めるんだな」

 

 計測器が三台一致している。ここで否定すると、嘘をついたうえに機械を侮辱することになる。

 

『二千単位。封印槽からあふれる予測分です』

 

「命令違反」

 

 ロウさんの声。

 

『身体は立入禁止線の外でした』

「影請けを伴う全任務から外した」

『任務指示は受けていません。自主対応です』

 

「言葉の穴を探すな」

 

 穴ではない。契約は書かれた範囲で働く。禁止の意味を後から広げると、守る側が困る。

 ノルは地面の影があった場所へしゃがんだ。指で輪郭をなぞる。何も残っていない。

 

「どこ行ったの」

『宿だと思います』

「どうして分かるの」

 

 胸の奥に、影が見ている廊下が重なる。硝子港の修繕隊宿舎。入口の青い敷物、二階への階段、六人部屋。影は誰にも止められず、私の寝台の横へ入った。

 

『道を覚えています』

「影が?」

『私が』

 

 どちらの答えでも同じ場所へ着く。

 ティアさんが私の上着を開き、胸の黒線を見る。昨日まで右肩から三本。今は鎖骨の下を横切り、心臓の形を半分囲んでいる。

 

「即時入院」

『白丘へ戻る列車は明朝です』

「硝子港治療所」

『声滓患者で満床』

「鐘守庁の臨時医療所」

『実験参加者が優先です』

「あなたも実験で悪化した患者」

『職員です』

「患者」

 

 分類で譲らない。

 私は広場を見る。千人分の予定札返却、参加者診察、分配筒の冷却、封印槽の補修。仕事は二日分残っている。収支の原因報告も必要だ。

 

『任務終了まで二日。宿で安静、二時間ごとに診察。終了後に白丘へ』

 

「交渉しない」

『臨時医療所へ入ると、軽症参加者の診察が遅れます』

 

「あなた用の寝台を一つ増やす」

『医療者の人数は増えません』

 

 ティアさんの目が細くなる。実務の穴を指摘したので、怒りにくいはずだ。

 

「エマを呼ぶ。私と交代」

『二人とも実験医療責任者です』

「ダル先生へ連絡」

『列車六時間』

「もういい」

 

 筆談板を取り上げられた。

 説明できなくなると、周囲が心配する。だから私は、残った道具を使った。

 西門を指し、自分の影が歩く真似を指二本で作る。次に寝台へ座る形。最後に親指。

 

 影が先に席を取っている。宿へ行けば休める。

 ノルが口を開きかけ、閉じた。

 セラさんは私の指を見ている。

 

「何の真似」

 

 ティアさんには通じなかった。

 レオンが低く答える。

 

「席取りだと」

 

 さすが幼なじみ。翻訳が速い。

 私は両手で丸を作る。

 誰も笑わなかった。

 おかしい。影が勝手に宿へ帰るなんて、普通なら面白い。荷物が先に届いた話と同じだ。怖い現象でも、使い道を見つければ扱いやすくなる。

 

『先に席取り。便利です』

 

 セラさんから小さな紙を借りて書く。

 レオンは紙を読まなかった。

 踵を返し、広場の外へ歩く。

 

「どこへ」

 

 ロウさんが呼ぶ。

 

「馬車を取る」

「宿まで歩ける距離だ」

「歩かせない」

「待て」

 

 レオンは止まらなかった。

 

 怒ったのかもしれない。けれど剣へ手を置かず、誰にも声を上げず、馬車を探すという作業へ変えた。彼も困った感情を仕事へ逃がす。似ていると言うと、もっと怒るだろう。

 

 笑ってほしかったわけではない。

 怖がらせたくなかっただけだ。

 その二つは同じだと思っていたけれど、違うらしい。

 

 馬車が来るまで、私は広場の椅子へ座った。ティアさんは脈、呼吸、手足の色を測る。エマ医師は導入路へ冷却札を貼る。ロウさんは命令違反報告を途中まで書き、紙を破らず伏せた。ノルは私から離れて、分配歯車を片づける。

 

 セラさんだけが、影の進んだ経路を地図へ引いた。

 

「直線ではない。西門から大通りを使い、宿舎の正面へ」

 

『礼儀正しい影です』

「冗談として記録しない」

『事実です』

「本人説明へは書く」

 

 いつも通り二つに分ける。

 

「観察事実。影の完全分離は十二分継続。本人は軽い用途へ翻訳。周囲が反応しないことを確認後、脈拍百四十八から百六十一へ上昇」

 

 反応がないほうが脈が上がった?

 身体は変な計算をする。

 

『馬車を待ったためです』

「本人説明へ追記」

 

 セラさんは否定しない。否定されないと、かえって置き場所がなくなる。

 

 レオンが連れてきた馬車は、荷台ではなく客車だった。座席へ毛布を三枚敷き、揺れ止めまでついている。影一つを迎えに行くには高級だ。

 

「乗れ」

『歩行可能です』

「窮屈さは記録する」

 

 第31話の本人申告を覚えている。

 私は馬車へ乗った。レオンは向かいでなく隣へ座る。逃げ道を塞ぐ位置だが、車輪が跳ねたとき身体を支えやすい。

 宿まで十分。

 窓の外で、港の人たちが予定札を持ち帰っている。帽子の男性もいた。濡れた帽子を頭へ戻さず、腕にかけている。明日、裏返して干す予定はまだ残っている。

 

『実験は成功です』

 

 小紙へ書く。

 

「七割だ」

『規模十倍でも維持。辞退者を除外し、逆流なし』

 

「三割をお前が埋めた」

『二千だけです。残留全体の一二・五パーセント』

 

「小さくするな」

 

 数字を正確にしただけだ。

 

「あれを吸わなければ、全員死んだと思ってるのか」

 

『避難余裕二十秒。封印槽超過二千。最後尾にレオン、塔に四人』

 

「聞いてる」

『危険でした』

「俺たちは、その危険を含めて実験を止めると決めた」

 

『参加者を危険へ残す決定はできません』

 

「お前一人ならできる?」

 

 質問ではない。声が平らだった。

 できる。私一人なら、影を動かすだけで済む。ほかの人の同意も、避難も要らない。

 書かずに紙を折る。

 

「答えないのも記録する」

 

 監視役はセラさんの方法まで覚え始めた。

 宿舎へ着く。

 入口の青い敷物。階段。六人部屋。影が見た通り。

 私の寝台の横に、影が立っていた。

 身体が入ると、影は手を上げる。おかえり、と言っているようにも見えるし、早く来いと急かしているようにも見える。

 

『席取り成功』

 

 また書いた。

 レオンは紙を見ず、部屋の窓を閉めた。外からの光を減らせば、影の輪郭が薄くなると思ったのかもしれない。

 けれど影は消えない。

 私が寝台へ座っても足元へ戻らず、隣に立つ。黒い線が胸の中で脈打つたび、影の胸にも輪が光った。

 レオンが灯りを一つ消す。

 影は薄くならない。もう一つ消す。部屋が暗くなっても、輪郭だけは壁より黒い。

 

「光でできた影じゃない」

 

 セラさんが記録する。

 

『自立しました』

 

 紙へ書く。

 

「喜ばしいことのように書かないで」

 

 ティアさんが上着の留め具を外しながら言う。

 

『手が二本増えれば便利です』

 

 影へ鞄を取るよう考える。

 影は動かない。

 

『まだ研修中』

 

 説明を直す。

 レオンは灯りへ伸ばしていた手を下ろした。こちらを見ない。

 

『掃除と席取りから教えます』

「やめろ」

 

 短い声。

 怖い物へ役割をつけると、扱いやすい。夜喰いの子どもへ配達札を持たせたときも、泣き声が止まった。影にも同じ方法が使えると思った。

 

『戻し方が分かるまでの仮担当です』

「やめろって言った」

 

 今度は、レオンが私を見る。

 怒っているなら眉が寄る。今は寄っていない。顔の筋肉が、何かを落とさないため全部固まっている。

 

「お前が先に帰ったみたいに言うな」

『影の話です』

「分かってる」

 

 彼は椅子を蹴らないよう、両手で静かにどけた。扉を開ける。

 

『行動確認は』

 

 声の代わりに紙を上げる。

 

「今はできない」

 

 レオンは部屋を出た。

 扉は閉めきらず、指一本分だけ開いている。完全に離れるつもりではないらしい。廊下の壁へ背をつけた音がした。

 

 笑えなかったから、怒ることもできなかったのだろうか。本人が冗談として出した品を、相手だけ深刻な顔で返品するのは難しい。

 私が言葉を選び損ねた。

 次は、もっと実務的に説明しよう。

 セラさんが紙を一枚、私の前へ置く。

 

「今の発言を訂正する?」

『影の自立は医学的異常。原因調査中』

「それを、廊下の人へ伝える?」

 

 事実としては正しい。けれどレオンはもう分かっている。必要なのは別の文らしい。

 

『心配させてすみません』

 

 書いた瞬間、セラさんの指が止まった。

 

「伝えない」

『なぜ』

「彼が傷ついたことを、彼の作業に変える文だから」

 

 謝ると、許すか許さないかを相手が処理する。謝らないと、傷を放置する。どちらが正解か。

 

『何と書けば』

「私が決めると、あなたの言葉にならない」

 

 記録係は不便だ。必要な箇所へ印をつけても、答えは代筆しない。

 私は紙を伏せた。

 

 影が同じように手を動かし、何もない空中で紙を伏せる。二秒遅れ。自立したのではなく、私の動作をあとから真似している。

 

「遅延模倣」

 

 セラさんが時刻を測る。

 私は右手を上げる。影も上げる。二秒。

 左手。二・三秒。首を傾げる。一・九秒。

 今度は動かず、窓を開けることだけ考える。

 

 影が窓へ向く。取っ手へ手を伸ばすが、触れられない。

 

「意図反応もある」

 

 セラさんは二つの欄を作った。

 

『便利な部分だけ訓練できます』

「今、レオンが出ていった理由を観察した?」

 

 話題が戻った。

 

『冗談が不適切でした』

「それだけ?」

 

 影が先に帰った。それを、私が先にいなくなる話として聞いた。

 

 仮説を作る。レオンは予定帳の返却先と帰還名簿の空欄を知っている。影まで身体を置いて帰れば、荷物の引継ぎと同じ形に見える。

 

『私が帰らない予定を立てているように聞こえた』

 

「本人説明ではなく、推測として記録」

『違いますか』

「私に聞かないで」

 

 本人へ聞けばよい。でも廊下へ出るには、ティアさんの診察を終えないといけない。

 

『先に診察を』

「結局、順番を作業にする」

『診察を遅らせるとレオンが戻れません』

 

 ティアさんは何か言いかけ、診察器具を机へ置いた。作業に翻訳したほうが、今は全員動ける。

 

 レオンが戻ったのは、エマ医師を呼びに行ったあとだった。廊下にいただけなのに、港の冷たい空気を外套へつけている。

 私は小紙を渡す。

 

『私が先に帰らない話ではありません』

 

 彼は読む。

 

「そう聞こえたって分かったのか」

 

 頷く。

 

「なら、次は言うな」

『善処します』

「約束しろ」

 

 影のことを冗談にしない約束ならできる。怖がらせない別の方法を探せばよい。

 

『影の分離を席取りとは呼びません』

 

 レオンは紙を折り、外套へ入れた。

 

「そこだけじゃない」

 

 残りは具体化されなかった。

 約束の範囲が曖昧だと困る。けれど今は、彼が部屋へ戻った。それで一つ仕事が減った。

 ティアさんたちが到着し、診察が始まる。

 

「体温三十五度一。低すぎる」

『冷却札の効果』

「外したあとも下がってる。二千単位が熱を食ってる」

 

 温めると夜滓が動く。冷やすと心臓が弱る。薬は声帯へ効くが導入路を刺激する。治療の三すくみ。

 エマ医師が選択肢を並べた。

 

「一、硝子港治療所へ移り、心臓を優先して加温。影の分離は進む可能性。二、ここで低温維持し、明朝白丘へ。心拍低下の危険。三、鐘守庁の朝の器用槽を借りる」

 

「三はない」

 

 ロウさんが即座に消す。

 

「本人へ説明する前に消さないでください」

 

 エマ医師が返す。

 

 朝の器用槽なら、影を戻せるかもしれない。ただし仮契約の進行に使われる。借りれば長官へ現在の適合状態が伝わる。

 

『二。明朝白丘へ』

 

 選ぶ。

 

「理由」

『治療所の寝台を使わない。計測継続。朝の保守列車に全員で乗れる』

 

「自分の損失は」

 

 エマ医師の問い。

 

『心拍は監視できます』

「影が戻らない可能性」

『すでに離れています』

 

 失う前と後で値段は違う。すでに棚から落ちた皿に、落下防止柵は買わない。

 

 ティアさんは反対したが、ダル医師へ遠話し、低温維持の条件を追加した。心拍四十八未満で治療所、意識低下で本人同意を待たず搬送、二人監視。

 

『二日後まで任務継続』

「してない。今夜移動、明朝白丘」

『記録整理と参加者追跡が』

「セラと私がやる」

『分配筒は』

「ノルと俺」

 

 ロウさん。

 

『避難報告』

「俺が出す」

 

 レオン。

 一つずつ仕事が取られていく。

 皆の手がふさがる。私が横になっているために、五人の作業が増える。

 

『せめて予定札の分類を』

「寝ろ」

 

 ロウさんの命令。

 私は寝台へ入った。

 影は隣に立ったまま。

 レオンが入口、ティアさんが窓側。セラさんは机で収支記録、ノルとロウさんは実験場へ戻る。エマ医師は一階で薬を調整。

 全員の位置が決まる。

 目を閉じても、影の視界だけが残った。

 部屋を外から見る。寝台に私、入口にレオン、窓にティアさん、机にセラさん。

 

 自分の寝顔を見るのは妙だ。顔色が白く、唇が青い。これなら席取りの冗談が受けなかった理由も少し分かる。商品写真が悪かった。

 影へ、戻れ、と考える。

 動かない。

 ミナ、と名前を呼ぶ。旧姓も現在姓も。母の言葉も、親方の窯も、予定帳の朝食も思い浮かべる。

 影は胸へ手を当てた。

 黒い輪が銀へ変わる。

 契約印。

 

 昼までは私にしか見えなかった文字が、影の表面へ浮かぶ。

 

『仮契約発効条件』

 

 セラさんの鉛筆が止まった。

 彼女は影へ近づき、補助銀具の焦点を合わせる。

 

「見える」

 

 レオンとティアさんが振り向く。

 影の胸に、私の署名が二つ重なっていた。

 ミナ・セル。

 ミナ・アルノ。

 母が残した名と、親方が食卓へ呼んだ名。二つを一緒に書けば、どちらも置いていかずに済むと思った。

 影の上では、重なった署名が一本の黒い傷に見えた。

 契約条件の銀文字が、その傷から枝のように広がる。五人の安全、店の補償、候補番号の廃止。私が誰にも見せず、整えたはずの明細だった。

 セラさんが、声に出して読んだ。

 

「朝の器、秘密仮契約」

 

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